Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『血盟団事件』

本ブログではこれまで、戦前右翼に対して外在的ならぬ“内在的”なアプローチを試みた評論家として、松本健一さん(1946‐2014)橋川文三さん(1922‐1983)渡辺京二さん(1930‐)片山杜秀さん(1963‐)らを取り上げてきた。

彼らよりもう少し下の世代となると、注目すべきはやはり、政治学者の中島岳志さん(1975‐)の仕事となるだろう。

今回ご紹介する本は、中島さんが戦前の血盟団事件について扱ったノンフィクション。タイトルもずばり『血盟団事件文藝春秋である。

 

1930年代、日本社会は混乱の極みにあった。

長引く不景気、疲弊する農村、広がる格差、終わる見通しのない戦争……

そんな乱世にあって、世直しをすべく立ち上がったのが、憂国至情を持った青年たちで構成されたテロリスト集団「血盟団」であった。

彼らは政府要人を次々と暗殺してゆき、時の権力者たちを大いに震撼させたのである。

一方、国民たちは意外にも、そんな彼らに共感を寄せていたようである。彼らが、単なる私利私欲ではなく、己の正義感によって行動したことに感銘を受けたため、だろうか。

  

血盟団のリーダーは、井上日昭(1886‐1967)である。

1886年生まれの彼は、戦前右翼最大の知識人として知られる大川周明(1886‐1957)と同世代にあたる。

この井上、若い頃は悶々とした暗い青春時代を送っており、多くの挫折を経験したようだ。

だが、山にこもって修行を重ねているうちに、神秘体験をし、ついには霊感を会得するに至るのである。

このあたりの展開は、なかなかに興味深いものがある。

同じく戦前右翼の大物として知られる北一輝(1883‐1937)もまた強い霊感の持ち主であったが、井上にも霊感はあったのだ。しかもどうやら彼の場合、霊感は修行によって後天的に身に着いたものであるらしい。

霊感って、後天的に身に着くものだったのか(;^ω^)

さらに興味深いことには、本著を読み進めていくと、茨城・大洗(後述)の若者たちもまた、井上に感化され、修行を重ねるうちにやはり同様に神秘体験をし、霊感が身に着いたというのである。

霊感というのは、伝染するものなのだろうか。このあたり、なかなかに気になるところである。

 

さて、そんな井上が活動の拠点としていたのが、茨城の大洗である。

今でこそガルパンの町」として奇妙な形で世間の注目の的となってしまった感のある茨城県大洗町であるが(w)、この町はもうひとつ、血盟団の町」という顔も有していたのだ。

 

井上が撒いた運動の芽は、どんどん大きくなっていった。

はじめのうちは、地元・大洗の若者たちがその主な担い手だったが、次第に東大や京大の学生たち、海軍の青年将校や、農本主義の思想家・活動家たちまで合流。

かくして、日本を震撼させることとなる「血盟団」が、ここに誕生したのである。

 

本著『血盟団事件』では、井上日昭を筆頭に、北一輝大川周明安岡正篤(1898‐1983)権藤成卿(1868‐1937)橘孝三郎(1893‐1974)西田税(1901‐1937)など、戦前右翼の大物たちが綺羅星のごとく登場する。さながら「戦前右翼オールスター」といった趣きで、読んでいて実にワクワクさせられた。

 

※もっとも、本著においてあまり肯定的には描かれていないのが、陽明学者の安岡正篤である。

博識ではあったが、知識をひけらかしてばかりで実際に行動に移ろうとしない(ように見える)安岡を、血盟団の若者たちはかなり冷ややかな目で見ていた。だが、彼らの安岡評は、本当に正しかったのだろうか。

片山杜秀さんの『戦前日本の右翼思想』(講談社)では、安岡の「錦旗革命論」が俎上に載せられ、片山さんはそのラディカルさに注目している。

実は安岡もまた、血盟団の青年たちと同様、あるいはそれ以上に、「アツい人」だったのだ。

 

……さきほど、僕は血盟団のことを「テロリスト集団」と紹介した。

たしかに、客観的に見れば、政府要人を暗殺しまくった彼らは、テロリストというよりほかないだろう。

だが本著を読んでいると、不思議なことに、血盟団の青年たちに共感せずにはいられなくなるのである。

思えば、小林よしのりさんの『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇』(小学館)を読んだときにもやはり同様に、来島恒喜に共感を覚えたのだった。

おそらくは、血盟団事件にひそかに共感を覚えた当時の日本人たちも同じような心境だったのだろう。

本著を読んでいると、現代の価値観――「テロに屈するな!」――でもって先人たちの行動の善悪を判定することに、違和感を覚えてしまう。

 

本著読了後、「あぁ、僕はやっぱり、戦前右翼の人たちが好きなんだなぁ」とあらためて思った。

 

血盟団事件 (文春文庫)

血盟団事件 (文春文庫)

 

 

書評『禅と福音』

本ブログではここ最近、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの著作をやや集中的に取り上げている。

 

今回ご紹介するのは、南さんの単著ではなく対談本。タイトルからも分かるとおり、キリスト者との対話である。

対談相手の来住英俊(きし・ひでとし)さんは、カトリック教会の司祭。南さんと同様に、これまで多数の著作を世に出している。

 

さて、この来住さん、なかなかに面白い表現をする人である。

本著を読んでいて思わず笑ってしまったのが、神による世界の創造について語るくだりでの、来住さんの≪人間なんかいなくても、(註:三位一体なので)神は淋しくない≫(117‐118頁)という発言。

神「この世界にもし人間がいなくて神様ひとりだけだったら、さすがの神様も淋しくなるだろう、って? …フン! 人間なんていなくたって淋しくなんかないもん! ウチら、父と子と聖霊でいつも3人一緒なんだから淋しくなんてないもん!」

…というわけで、どこの幼稚園児ですか(w)、とツッコミを入れたくなるような話だが(^▽^;)、118頁の下にある註によると、≪これは冗談ではなくて、三位一体という教理の根本的な洞察のひとつである≫のだという。

キリスト教神学って、なんだか面白いなぁw

 

南さんと来住さんは、おたがいに、相手方の宗教にシンパシーを抱いている。

南さんは、仏教と出会う以前はキリスト教の牧師と親交があり、一時はキリスト教に入信しようとすら思ったが、その牧師に制止されたのだという。

一方の来住さんのほうも、仏教には前々から関心があったようだ。

意外にも来住さんは、人類が完全に滅却することに対して、ちょっとした魅力を感じているようである。≪人類全体が仏教者になって悟ってニルヴァーナに入れば、人類全体が後腐れなく完全に滅する。これはちょっと魅力です。≫(233頁)

キリスト者が「完全に滅する」ことに「ちょっと魅力です」と言ってしまうというのは驚きで、実際南さんもキリスト者がそんなことに魅力を感じたらダメなのではないですか。≫(233頁)とやや困惑気味のご様子である。

来住さん、なかなかに面白い人だ。

 

本著終盤の第3章では、いよいよアクチュアルな政治の話が俎上に載せられる。

南さんは、死刑廃止論者。戦争についても、≪不服従で死ぬことを選ぶべきだろう≫(293頁)と発言している。わりとサヨクな人なのだ。

対して来住さんのほうは意外にも右寄りのようで、以下のように述べている。

 ≪私は旧社会党が主張していた「非武装中立論」には我慢できない。無責任な議論だと思っています。村山首相のとき、旧社会党非武装中立の看板を恥ずかしげもなく降ろしましたね。彼らが非武装を本気で主張していたのではないことが明らかになりました。政局がらみの方便としてのラジカルな主張にすぎなかった≫(293頁)

≪私が死刑廃止論者に不信感を持つのは、彼らからこの怒りを感じないということです。「こんなやつは殺してしまうべきだ!」という怒りが一方にあり、しかし「殺してはいけないんだ!」という思いがもう一方にあるならわかる。しかし彼らには感じない。「死刑廃止、文明国なら当然でしょう」とでも言いたげな、涼しげな印象しかない。それが私には耐えられない。死刑問題はふたつの価値の相克であって、文明対野蛮の対決ではないのです。≫(320‐321頁)

もちろん、この場合の「右翼的、左翼的」というのはあくまで、表面的なものに過ぎない。

彼らは宗教者であって、政治評論家ではないのだ。

くれぐれも、彼らの表面的な政治スタンスだけでもって、「なんだ、南はサヨクなのか」とか「この来住というヤツはとんでもない右翼反動野郎だ!」などと判断しないように。

 

本著読了後、「あぁ、来住英俊さん、面白い人だな。もっと著作を読んでみたいな」と思った。

 

禅と福音: 仏教とキリスト教の対話

禅と福音: 仏教とキリスト教の対話

 

 

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書評『老師と少年』

本ブログではここ最近、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの著作をやや集中的に取り上げてきた。

今日ご紹介する『老師と少年』(新潮社)もまた、南さんの著作のひとつである。が、これまでとはかなり毛色の異なる作品だ。

これまでの著作はみな、論書であった。本著は違う。物語なのである。

 

ある少年が、ひとりの老師と知り合った。

少年はひどく死を恐れており、周囲からは変わり者とみなされ、疎んじられてきた。

少年は、経済的には不自由のない生活をしているのに、いったい何が不満なのか、と周囲から問われてきた。だが老師は、「生きる上での苦しみ」と「生きる苦しみ」は違う、と述べ、少年に理解を示す。

少年は、ようやく良き理解者を得たのである。

 

少年と老師との問答は7つの章にまとめられており、それぞれ「第○夜」とタイトルがつけられている。

 

第四夜から、老師は少年に、自らの過去を語りはじめる。

老師もまた、かつては少年と同じく、死をひどく恐れる子供だったのだ。

少年時代の老師は、自らの師を求めつづけた。

彼が最初に出会った聖者は、狂信的なキリスト者を思わせる人物であった。聖者は<神>にすべてを委ねることを求めたが、少年時代の老師にはどうしてもこの<神>を信じることができなかった。

次に彼は、ニヒリスティックな仏教徒を思わせる隠者と出会う。が、この世のすべては虚無だと語る隠者に、少年時代の老師はこれまたどうしても、ついていくことができなかったのである。

 

そんな彼にも、ついに人生の師と出会うときが訪れた。

ある日、彼の前に<道の人>(=道元?)なる人物が現れる。

<道の人>は言う。

 

「自分を脱落せよ。ならば問いは消滅する」

 

この言葉で彼は救われた。そして長じて老師となり、主人公の少年と出会ったのである。

 

最後の問答(第七夜)に至ってついに、ふたりの対話は核心へと迫る。そして、その問答を最後に、老師は少年のもとを去り、旅に出るのである。

 

老師はおそらく、著者・南さんの分身であろう。では、少年は…?

おそらくは、本著を手に取った青少年の読者たちの分身なのだろう。

本著は、したがって南さんから、人生に悩み苦しむ青少年たちへと宛てられた、メッセージなのである。

 

老師と少年 (新潮文庫)

老師と少年 (新潮文庫)

 

 

書評『語る禅僧』

本ブログではここ最近、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの著書をやや集中的に取り上げている。

今日ご紹介するのは、そんな南さんのデビュー作『語る禅僧』筑摩書房だ。本著刊行当時、南さんはまだ曹洞宗の総本山・永平寺の修行僧の身分であったという。

 

本著序盤ではまず、南さんのこれまでの半生が振り返られる。

少年のころから人一倍「死」への関心が強かったという南さん、「死」を間近で見てみたいがために、なんと猫を殺してしまったことすらあったという。

そのこと自体はもちろん非難に値しよう。だが、成人して以降に、こうして書籍という形で過去の悪行を公言するというのは、かなり勇気の要ることだと思う。

かつて生き物を殺めてしまった南さんは、したがってオウム真理教酒鬼薔薇聖斗に対しても、もちろん批判はしただろうが、「自分とはまったく無縁の存在」と斬って捨てることはできなかったのではないか。

 

さて、本著後半は前半とはうってかわって、南さんがアメリカで禅の普及に携わったときの体験談を面白おかしく綴っている。

アメリカは、当然ながら日本とは気候的、精神的風土がまったく異なる。座禅をやるにしても、日本の通りというわけにはいかない。

そもそもの問題として、ふだん椅子にしか座らないアメリカ人には、座禅が出来ない

無理もないだろう。日本人の僕だって、体が硬いせいでヒーヒー言いながら座禅の練習をしているくらいなのだから(w

アメリカの禅修行者たちは、したがって様々なやり方を試行錯誤することとなる。この箇所は面白いので、ぜひ皆さまも本著を手にとって読んでみてほしい。

※ここからは僕の勝手な想像だが、アメリカの禅道場は、アメリカ人特有の陽気な気質のせいで、きっと日本では想像もつかないくらいの、ノリノリの空間になっていたのではないだろうか。

“Oh! Japanese Zen! Buddha! Buddha! Dogen! Oh Yeaaaaaahhhh!!!!”みたいな感じで(w

 

南さん、とても頭脳明晰な方だが、あいにく語学のほうはニガテなようで、アメリカ滞在の際も英語には結構苦労したらしい。

だが言葉の壁など、案外なんとかなるものだ。

≪外国人とのコミュニケーションの最終的な秘訣は、相手を理解し、自分を理解してもらおうという、必死の熱意であろう。それに較べれば、語学の問題は仕様にすぎない。(中略)

とにもかくにも、一生懸命に聞き、一生懸命に話し、何が何でもお互いを理解し合いたいという熱意を示すこと――そうすれば、相手はまず、その気持ちを理解してくれる。この時点で既に、お互いのコミュニケーションの土台は出来上ってしまう。≫(290頁)

これは、本当にそうだ。

僕は以前、ある保守系の政治団体にコミットしていたことがあるが、その団体の代表も、かなりのブロークン・イングリッシュではあったが、ちゃんと海外の人々と意思疎通できていた。

語学の奥義は、文法でもなければ発音でもない。熱意なのである。

 

…さて、今回僕が読んだのは、ちくま文庫から出ている文庫版。

そこでは、南さん本人によるあとがきの後に、お茶の間でもおなじみ、評論家の宮崎哲弥さんが解説文を寄せてくれている。そこにはこうある。

≪南師に直に接するようになったが、あるとき彼が「仏教に出会っていなかったら、自殺していたと思います」と語ったことがある。間髪をいれず「ああ、私もそうです」と呼応したように記憶している。≫(367頁)

…ふたりとも、仏教に出会えて本当に、よかったですね(涙)。

合掌。

 

語る禅僧 (ちくま文庫)

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最近見た映画の感想(第187回)

・『ヤング・ヤング・パレード』

1962年は、シアトル万博が開催された年であった。

今やシアトルの街のランドマークとなっている「スペースニードル」は、何を隠そう、このシアトル万博の際に建設されたものなのだ。

そんなシアトル万博と、我らがエルヴィスを組み合わせてみたら面白いんじゃないか――そういう、なにやらわけの分からない発想でつくられたと思しき映画が、本作である。

エルヴィス演じる主人公は、職探しのためシアトルへと赴く。そこでアジア系の少女と仲良くなり、一緒に万博を見てまわる、という他愛のない内容のお話である(まぁ、エルヴィスの映画はたいてい他愛のない話ですが)

そんな映画なので、基本的には「シアトル万博の記録映画」という感じ。率直に言って、さほど面白い作品ではなかった(;^_^A

ただ、実を言うと僕は10年ほど前、シアトルへと旅行した経験があるので、レーニア山をはじめとするワシントン州の風景が、懐かしく感じられた。

 

ヤング・ヤング・パレード [DVD]

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・『陽気な街』

まさにタイトルのとおり、陽気な内容のコメディ作品であった。

ブロードウェイのスター、大金持ちの娘さん、そして歌手からなる3人の恋愛模様を描いた、ミュージカル映画である。1937年公開。

本作の音楽を手掛けているのは、『アニーよ銃をとれ』などで知られる、アメリカを代表する作曲家、アーヴィング・バーリンだ。

お話といい音楽といい、まさしく「古き良きアメリカ~」といった感じ。たっぷり堪能させていただきました。

 

 

・『夜の豹』

我らがフランク・シナトラ主演のミュージカル映画である。こちらは1957年の公開。

1950年代のサンフランシスコの街を舞台に、シナトラがふたりの美女とロマンスを経験する、というお話だ。

どちらの美女とも、必ずしも若いわけではなく、適度に年齢を重ねた熟女である。そういう意味で、いわゆる「熟女萌え」の男性諸氏にはたまらない映画かもしれませんねw(^▽^;)

それにしてもタイトルに「夜の~」がつくと途端にエロっぽく感じられるのは、どうしてでしょうね。

 

夜の豹 [DVD]

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・『ラストコンサート』

1976年公開のイタリア映画。ただし舞台はフランスでセリフは英語。しかも資本的には日伊合作という、なにやらよく分からない映画である(;^ω^)

人生に挫折したオッサン作曲家が、フランスはモン・サン=ミシェルにて、ひょんなことからひとりの少女と知り合う。が、少女の体は人知れず病魔に毒されており、余命いくばくもなかった……。

どうしてこんな冴えないオッサンが、よりにもよってこんな美少女と……と男性観客は思わず首をかしげたくなってしまう作品であるが(w)モン・サン=ミシェルから始まりパリへと至る本作は、観光映画としてもすぐれており、一見の価値がある。

それにしても、余命いくばくもない美少女と音楽家の男、というのは古今東西ウケるテーマなのでしょうかね。僕は、以前本ブログで取り上げた香港映画『つきせぬ想い』を思い出します。

 

ラストコンサート [Blu-ray]

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・『夜も昼も』

20世紀アメリカで活躍した実在の作曲家コール・ポーター(1891‐1964)の半生を描いた伝記映画。

1946年に公開された映画だが、当時としては珍しく、カラー映画である。タイトルの『夜も昼も』(Night and Day)は、彼の代表曲の題名にちなむ。

主人公・コールは米東海岸の名門校・イェール大学を卒業したほどの秀才であったが、自分に一番向いているのは音楽だと悟り、一転、作曲家としての道を選ぶ。

やがて、ブロードウェイ・ミュージカルに楽曲を提供するようになった彼は、美しい恋人リンダと結婚する。が、コールが仕事一筋なのが災いし、ふたりの夫婦仲は危機を迎えてしまう……。

という内容のお話である。まぁ、このテの音楽家の伝記映画としては、ありがちな展開ですよねw

ストーリー自体よりもむしろ、劇中で流れる数々のコール作曲の音楽にこそ耳を傾けるべき作品だろう。

 

夜も昼も [DVD]

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書評『教養としての10年代アニメ』

21世紀も17年目に突入した昨今、アニメはもはや、一部のマニアックな人々向けの特殊な趣味などでは、断じてなくなった。

今や、アニメがきっかけで中心街に活気が戻った!と喜んでいる地方自治体すら存在するほどなのである(例:我が郷土、静岡県沼津市

したがって、本日ご紹介する書籍『教養としての10年代アニメ』ポプラ社のタイトルを見ても、アニメが「教養」とされていることに疑問を覚える人は、もはや少ないであろう。

 

著者は、文芸評論家の町口哲生さん。

近畿大学の講師でもあり、本著は彼の大学での講義をまとめて一冊の書籍にしたものである。

特筆すべきは、この講義の受講条件。なんと「週20本以上アニメを見ること」だったというからお笑い…じゃなかった(w)、驚きである。

「え!? 週20本もアニメを見る人なんているの!?」と愕然とする非ヲタの方もいらっしゃることだろう。ごもっともだが(w)、本当に熱心にアニメを見る層は、週20本くらい平気で見ているものなのだ。

僕自身、かつてはそれくらい見ていた。最近では時間の無駄になるので、やむを得ず週10本程度にとどめてはいるけれど。

 

本著の内容は意外にも、なかなかに高度である。

「単なるアニメの入門書でしょ」と侮って本著を紐解くと、結構痛い目に遭うだろう。

 

本著は、3つの章で構成される。

第1章「自己と他者」では、『魔法少女まどか☆マギカ』を嚆矢とするいわゆる「絶望少女モノ」のほか、「中二病キャラ」や「残念キャラ」などが登場するアニメ作品が俎上に載せられる。

これらは総じて、若者の自意識の問題、とまとめることができる。

続く第2章は、「ゲームの世界」。『ソードアート・オンライン』など、ゲームの世界を舞台にしたアニメが取り上げられ、ゲームにおける想像力がいかに昨今のアニメ、そして社会に影響を及ぼしているかが説明される。

最後の第3章は「未来社会の行方」。『とある科学の超電磁砲』の舞台として登場する架空の未来都市「学園都市」が、いい意味でも悪い意味でも、来たるべき未来社会のモデルとして語られるのである。

 

本著を読んでいてつくづく思い知らされたのは、まさにタイトル通り、これからの未来社会について考える上で、アニメは極めて重要な教養のひとつだということである。

「しょせんサブカルチャーなんて…」と馬鹿にする人は、少なくなったとはいえ、まだこの国にはいる。「若者はアニメなんぞにうつつを抜かしておるからけしからん。若者はもっと政治について考えなければ…」と勝手にお説教を始める年配者も、まぁ昔に比べれば減ったものの、まだいることはいる。

…ちがうのだ。政治について、社会について考えようというのであればなおのこと、サブカルチャーを、アニメを、見なければダメなのである。

この国において、サブカルチャーはつねに、来たるベき未来を先取りしてきた。

先日、本ブログにてハリウッド実写版をご紹介した攻殻機動隊』などは、その典型と言っていいだろう。

同作において描かれている義体化技術は、今日、トランスヒューマニズムと呼ばれ、AI人工知能とならんで、21世紀の世界を大きく変革する技術として熱い注目を浴びているのだ。

 

アニメから学べることは、多いのである。

もっとも、さすがに週20本まで見る必要はないけれど(w

 

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

 

 

この本もオススメ! BOOK GUIDE

・『一〇年代文化論』講談社

10年代サブカルチャーの本質は「残念」にあり、と見たユニークな論考。『教養としての10年代アニメ』のなかでも本著が参照されており、『教養~』と合わせて本著を読むと、とりわけ若者の自意識の問題について、より理解が深まることだろう。

著者の名前に注意。「さわやか」じゃないよ。

 

一〇年代文化論 (星海社新書)

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書評『ドストエフスキイの政治思想』

19世紀ロシアが生んだ文豪・ドストエフスキー

彼の文学は、驚くべきことにこの21世紀の現代になってもなお、色あせていない。

 

彼の長編小説のひとつ『悪霊』を読んだとき、僕はたいそう驚いた。

そこでは政治サークルの様子が描かれており、なにかと「女性は~女性は~」と繰り返すフェミニスト活動家、やたらと背伸びしたがる高校生、そして電波発言を繰り返すイタイおっさんなどが描かれていた。現代日本の政治サークルそのまんまだ。

1860年代のロシアのはずなのに、2010年代の日本が描かれている――そう感じた。

 

本日取り上げるのは、先日著作を紹介した評論家・渡辺京二さん(1930‐ )によるドストエフスキー論『ドストエフスキイの政治思想』洋泉社である。

ドストエフスキーは、左翼から右翼に転じた作家、とされる。

彼の晩年の著作『作家の日記』には、この文豪のかなりナショナリスティックな一面があらわれており、批判する論者も多い。だが渡辺さんは本著のなかで、この『作家の日記』を肯定的に読み解いていくのである。

 

渡辺さん曰く、ドストエフスキーは民衆の味方たらんとしている。

だがそれを言うなら、他の多くの左翼知識人だって同じだったのではないか。だが、渡辺さんによれば、ドストエフスキーの民衆像は他の左翼知識人たちのそれとは違っていたのである。

ドストエフスキーの民衆像――それは、「誰の目にも入らぬ生活をして誰の目にも入らぬように死んで行くもの」、「この地球上に誰ひとり覚えているものもなく、覚えている必要もないもの」であった。

そうして彼ら「歴史の淵に音もなく消えて行くこれら『小さきもの』たちへの感受性」が、ドストエフスキーの政治思想の中核だった。

渡辺さんは、そう言うのである。

 

この「小さきもの」たちは、しかしながらつねに平和を愛するものではない。露土戦争が始まるやいなや、彼らは熱狂的にロシアを支持したからである(まぁ、この点はどこの国の民衆も同じだろうけれど)

しかしそれを、偏狭なナショナリズムなどではなく、「全人類への利益と愛と奉仕」を目的とする自己犠牲の心からのものであり、それが民衆というものなのだ、と断じて支持するのが、ドストエフスキーなのだ(と渡辺さんは言う)

 

…正直、このあたりの記述はあまりに抽象的すぎて、頭のよろしくない僕にはイマイチよく分からない。

ナショナリズム、それも戦争を煽る類のそれを「全人類への利益と愛と奉仕」などと決めつけても良いものなのか、弊害はないのか、と当然ながら疑問が生じてしまう。

もちろん、渡辺さんも決して手放しでドストエフスキーを肯定しているわけではない。

渡辺さんは、ドストエフスキーの政治思想を、単なる反動思想あるいはボケた文豪の妄言などと斬って捨てるのではなく、そのなかから今日の我々にとって検討に値する問題提起を汲み取ろうとしているのだ。

それは、あまりに非合理的に見える神風連の言動から、彼らの「内在論理」を汲み取ろうとした『神風連とその時代』でのアプローチと、とてもよく似ている。

とりわけ本著の第八章は、本ブログ読者の皆さまにはぜひ一度、読んでもらいたいと思う。

 

本著巻末、「渡辺京二小論」と題された評論家・勢古浩爾さんによるあとがきも、また実によろしい。