Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『太平記<よみ>の可能性』

いつの時代にも、既存の社会秩序からこぼれ落ちてしまった、言うなればアウトサイダーの人間たちがいるものだ。

日本史を学んでいて面白いと感じるのは、日本のアウトサイダーたちは必ずしも反天皇ではないということだ。むしろ「天皇は俺たちの味方だー!!」と自らを鼓舞することのほうが多いのである。

 

そんなアウトサイダーたちのエートス(行動パターン)に影響を与えたと思われるのが、南北朝時代の動乱を描いた古典『太平記』だ。

本日ご紹介する『太平記<よみ>の可能性』講談社は、『太平記』がどのように後世に影響を与えたか、をテーマとする著作である。著者は、中世文学者の兵藤裕己さん。

本著はまず中世にさかのぼって、『太平記』成り立ちの経緯を見ていく。そしてそれが、江戸時代の由比正雪の乱赤穂浪士の討ち入り、そして幕末の尊王の志士たちにどのような影響を与えたのかについて、考察していくのである。

 

天皇に忠孝を尽くすことは、必ずしも体制に迎合することを意味しない。むしろその反対だ。たとえば幕末の尊王の志士たちは、次々と脱藩し、倒幕運動に加わっていったのである。

≪脱藩をとおして、既存のヒエラルキー・序列をこえて勝手に天皇に「忠孝」をつくす連中が出てきてしまう。幕藩体制の外、いわば制外・「非人」の位相にあることで、天皇に直結する論理を手にいれるのだが、そのようなアナーキー天皇制の回路が、「忠臣」正成のメタファーによってひらかれてゆく。≫(152‐153頁)

南北朝期の武将・楠正正成もまた、低い身分の出自であり、本来ならば天皇と同席することすらかなわぬ身のはずであった。にもかかわらず彼は献身的に後醍醐天皇に仕え、「忠臣」として『太平記』にその名を遺した。後世のアウトサイダーたちも、そんな正成に続けと、天皇に忠孝を尽くし、既成秩序幕藩体制に立ち向かっていったのである。

 

「へぇー、それは面白い話ですね。でも、それって前近代の話でしょう? 21世紀の現代では、もう関係のない話ですよね」

皆さんは、こう思われるかもしれない。

だが、案外そうでもないのだ。

現代において、前近代のアウトサイダーたちのエートスを反復しているのが、哲学者の内田樹さんである。

彼は保守系雑誌『月刊日本』のインタビュー記事にて、なんと自らは天皇主義者であると宣言したのである。(「内田樹 私が天皇主義者になったわけ」『月刊日本』2017年5月号)。内田さんは左派の論客として知られていたから、この唐突な天皇主義者宣言は世の人々を唖然とさせたのだった――twitter上ではほとんど嘲笑に近かった、とすら言っていい。

はたして内田さんは転向したのか。

そうではないだろう。上に見てきたように、日本のアウトサイダーたちは天皇制廃止を唱えるのではなく、むしろ「天皇は俺たちの味方だー!!」と言って自らを鼓舞してきたのであるから、彼は日本の伝統へと回帰したにすぎないのである。

むしろ、マルクス主義にもとづいて天皇制廃止を訴え続けてきた戦後左翼のあり方のほうこそ、日本の長~い歴史のなかでは例外に属するのだろう。

……誤解のないよう付け加えておくが、 僕は内田さんの思想の信奉者ではない。彼の最近のふるまいに前近代のアウトサイダーたちと共通する部分を見出して、それが興味深いと言っているに過ぎない。

 

さて、内田さんの天皇主義者宣言のおかげでもうひとつクリアーに見えてきたのが、安倍政権が皇室典範改正に消極的である理由だ。

天皇の譲位についても結局、一代限りということにしてしまったし、当初は「上皇」という呼称を用いることすら嫌がった。どうしてか。

天皇アウトサイダーたちによってシンボルとして担ぎ上げられる可能性がある。そのうえ上皇まで加わるとなれば、ますます彼らに担がれやすくなるからだ。

これは、現代でも決してありえないことではない。現に、内田さんのように安倍政権に批判的な人が天皇主義者を名乗っているではないか!

それだから安倍政権は――というか現代の日本政府は、天皇宮内庁という、言うなれば「ファイアウォール」のなかに入れてしまい、外部からのアクセスを遮断しているというわけなのである。

 

 

……おっと、いけないいけない、どんどん話がそれてしまった(w)。最後に大急ぎで話を本著に戻すとしよう。なんてったって、これは書評なんだからね(w

本著終章のタイトルは「歴史という物語」。 このあたり、先日取り上げた井尻千男さんの意見とも通ずるものがあるのではないか。

≪歴史とは収集された史料のなかに確固とした客観的事実として存在するのだろうか。またそれは、私意や作為を排した透明な文体(そのような文体が可能かどうかはともかく)によって記述できるのだろうか。(中略)

書法や文体上の作為をはなれて客観的に存在する歴史などありえない。歴史が過去を認識する一定の方法である以上、ことばの問題をたなあげにしたあらゆる歴史論は、事実か虚構かといった二項対立的な議論に終始するしかないだろう。≫(240頁)

≪まず事実があって、つぎにその名称(ことば)がつくられるのではない。ことばと対象(事実)との関係は、歴史叙述の現場にあってしばしば逆転するのだが、そのような歴史のことばに十分自覚的でありえたのは、むしろ(中略)水戸の史学者たちだったろう。

 対象を自由に記述できる(そうした考えじたいが近代の幻想でしかないのだが)言文一致の文体が存在しない時代にあって、ことばは現実記述の道具である以前に、あらたな現実をつくりだす方法であったはずだ。≫(247頁)

太平記』には、おそらくフィクションもあろう。全編にわたって、かなりの脚色がなされているはずだ。

だが問題はそこではない。そうして成立した“フィクションとしての太平記”が、後世のアウトサイダーたちに現に大きな影響を与え、行動を鼓舞すらしてきたという事実こそが重要なのだ。

 

太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫)

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最近見た映画の感想(第206回)

・『ザ・インターネット』

サンドラ・ブロック演じるコンピューター技師の女性がメキシコでの休暇中、謎の男に命を狙われる。

命からがら逃れた彼女だったが、帰国すると、彼女の個人データはすべて消去されてしまっていた。途方に暮れる彼女の前に、またもや謎の男が迫る……。

本作が公開されたのは、1995年。そう、ちょうどwindows95が発売された年にあたる。まさにインターネットの黎明期だ。

本作はなかなかに手に汗握る展開で面白いが、もうひとつの面白ポイントが、黎明期のインターネット環境を見られるということ。

「そうそう、昔のパソコンって、こんなだったよなぁ」

「あぁ~、ダイヤルアップ接続ってこんな『ピーヒョロロロロ~』みたいな音だったよな~www」

アラサー以上の諸君ならば、懐かしい思いに浸れること請け合いだ。

なんてったってフロッピーなる死語が、劇中ではごく普通に会話にのぼるほどですからね(;^_^A

 

 

・『ザ・メッセージ 砂漠の旋風』

イスラーム教の開祖・ムハンマドの生涯を描いた宗教映画である。タイトルの定冠詞つき「メッセージ」とは無論、聖典クルアーンコーランのことだろう。

7世紀初頭のアラビア。商業都市メッカの一商人にすぎなかったムハンマドは、しかしながら既存の多神教を否定する新しい宗教を開き、人々の注目を集めていた。彼はメッカの支配者層から迫害を受けるが、その教えは意識の高い若者たちの心をつかみ、しだいに広まっていく。

今日、イスラーム教にはどうしても「危険」というイメージがついてまわるが、本作はイスラーム教が本来、社会的弱者や平和を尊重する宗教であることを訴えている。

7世紀当時のメッカには奴隷制があったが、ムハンマドは神の前での人間の平等を訴えた。そんな彼の教団には、解放された元奴隷の黒人の姿もあった。

彼らはまた、女性も尊重した。当時のメッカでは女児殺しの蛮習があったが、ムハンマドはそれをやめさせたのである。

彼らはさらに、平和を尊重した。神からの許しを得て初めて、彼らはメッカの支配者たちと戦うことを決意するのだ。

本作を見れば、イスラームに対する皆さんのイメージが、きっと変わるに違いない。

さて、ムハンマドの生涯を描くにあたって、ひとつ、大変に大きな問題があった。イスラーム教では預言者であるムハンマドを絵で描いたり映像で表現することは禁じられているのである。したがって、通常の伝記映画の手法では、彼の生涯を映像化することができない。

そこで、本作のスタッフたちはいったいどうしたか。ここが本作の一番の見どころなのだ(w

詳しくは実際に見て確かめてほしいが、カメラを、第三者の視点(神の視点?)ムハンマド本人の視点のふたつに使い分けているのだ。たとえばムハンマドと町の有力者たちが話をする場面では、俳優たちがカメラのほうを向きながら演技をしている。

こうした大胆な手法を採用することで、本作はムハンマドの顔を映すことなく彼の生涯を映像化することに成功したのであった。なるほど、そんな手があったのか!

 

ザ・メッセージ -砂漠の旋風- [DVD]

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・『魚が出てきた日』

高レベル放射性物質を載せた爆撃機が、エーゲ海に不時着。放射性物質は墜落直前、付近の寒村へとパラシュートで投下された。さっそく軍関係者が観光客に化けて極秘裏に放射性物質を回収しようとするが、彼らより先に地元の農民が物質の入った金属製容器を発見、中に金目の物が入っていると早とちりし、自宅に持ち帰ってしまう……

という内容のコミカルなSF映画である。とはいえ、話の中核をなすのは高レベル放射性物質なのだから、決してのんきな話ではない。深刻なはずの問題を、にもかかわらずシニカルに描いているのが本作の最大の特徴だ。

終盤、農民は特殊な薬品を入手して、なんとか金属製容器をこじ開けようとする。金銭欲という人間の醜い部分がカリカチュア的に描かれているように感じられ、コミカルな映画だというのに僕はなんだか憂鬱な気持ちになってしまった。

 

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・『未来惑星ザルドス

ショーン・コネリー主演のSF映画である。

23世紀末の地球。人類は、石器時代同然の暮らしを営む「獣人」と、不老不死の文明人「エターナル」に二分されていた。彼らはそれぞれ別のエリアに住み、両者の間を「ザルドス」と呼ばれる奇妙な石像が行き来していた。

ショーン演じる主人公・ゼッドはそんなザルドスのなかへと潜りこみ、エターナルの住まう土地・ボルテックスへと向かう……。

不老不死であるはずのエターナルだったが、本作終盤、彼らはゼッドとその仲間たちの手で次々と虐殺されてしまう。ところが面白いことに、彼らは皆一様に恍惚とした表情を浮かべながら死んでいくのである。

「不死」は人間にとって、必ずしも救済とはならない。死はある意味ではむしろ福音ですらあるという、そんなお話でした。

 

未来惑星ザルドス [DVD]

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・『スリーウイメン』

日本ではあまりピンとこないが、アメリカでは「人工中絶を認めるか否か」というのは、人々を保守/リベラルに分断する大問題なのである。

本作は、そんな人工中絶の問題をテーマにした、オムニバス形式の映画である。1952年、1974年、そして1996年に生きる三人の女性たちが主人公となり、それぞれ、産むか堕ろすかの選択を迫られる。

1952年の時点ではまだ人工中絶は合法化されておらず、堕胎の際はヤミ医者に頼らなければならなかった。当然それは、危険を伴った。一方、1996年の時点ではもう人工中絶は認められており、中絶医療施設にて衛生的な環境のもと、中絶手術を受けることができる。

同じ中絶シーンとはいえ、1952年と1996年の落差には驚くほかない。もっとも、1996年の中絶医療施設とて、決して安全な場所ではない。そこはつねに、人工中絶に反対する保守派によるデモに直面しており、場合によっては施設職員の身に危害が及ぶことすらあるからだ。

本作は、プロチョイス(女性の選択する権利を重視する考え)の立場からつくられている。当然、人工中絶に反対する保守派が悪玉として描かれるわけだが、僕としてはこの反対、つまりプロライフ(胎児の生命を重視する考え)の立場から撮られた映画も見てみたいところだ。

 

スリーウイメン [DVD]

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書評『竹内好「日本のアジア主義」精読』

評論家の松本健一さん(1946‐2014)の著作は、本ブログでもいくつか取り上げてきた。

本日ご紹介する『竹内好「日本のアジア主義」精読』岩波書店は、まさにタイトルからも分かるとおり、松本さんが中国文学者・竹内好(1910‐1977)の著作『日本のアジア主義』について解説していく、という内容の本である。

 

松本さんは、竹内好アジア主義の思想を分析していく。論点がわりと多くあるため、本著の内容をまとめるのは、意外と難しい。

だがあえて一言でまとめるとするなら、昔と今とではアジアの置かれている環境は全く異なるという、考えてもみれば当たり前の結論となる。

かつて、アジアは欧米列強によって蹂躙されていた。だが、今はもう違う。

松本さんが本著を書いた2000年の時点でもそうだったし、中国インドなど新興国の勃興が著しい2018年の現在では、なおのことそうだ。

戦前のアジア主義者たちの主張は、したがって21世紀の今日では、少なくともそのままのかたちでは通用しない、ということになる。

だが、「アジア主義はそのままのかたちでは通用しない」というのと「アジア主義は終わった」というのとでは、月とすっぽんほどの大きな違いがある。

僕は、ある意味ではアジア主義は今日でもなお有効だと思っている。その点、松本さん(と竹内好とは意見を同じくする。だが、その主張の中身は、実のところだいぶ異なるようなのだ。

松本さんは、竹内好が遺した言葉をもとに、おそらく彼が言いたかっただろうことを忖度しつつ、こう述べている。

 ≪わたしなどは、「西洋的な優れた価値」を、「愛」によって東洋が「包み直す」とき、そこに「共生(symbiosis)」というアジア的価値が浮きでてくるような気がするのである。≫(190頁)

う~む。言っちゃ悪いが、松本さんのこの議論はなんとも抽象的にすぎるのではないか。「愛によって包み直すゥ? 共生というアジア的価値ィ? ハァ??」といった感じだ(w

「愛」だとか「アジア的価値」だとかいった言葉は、抽象的であるがゆえに、どんな対象をも指し示すことができる。僕にはこの議論は、ポルポト政権をアジア的優しさに満ちているとした、朝日新聞と同じ類のトンデモ話のように思えてならない。

……でもまぁ、松本さんの言いたいことも分からなくはない。要するに、「欧米ほど力をむき出しにしないリベラルデモクラシーがアジアに生まれる、それこそが現代のアジア主義だ」というようなことを言いたかったのだと思う。

 

先に僕は、ある意味ではアジア主義は今日でもなお有効だと思っている、と書いた。

僕の考えでは、アジア主義は「アジアを屠る帝国主義に抵抗するための思想的バックボーン」としての存在価値がある。

だが、気をつけてほしい。21世紀の今日、アジアを屠る帝国主義とは、もはや欧米のことではない。

それは、中国である。

中国こそ、現代における帝国主義国であり、その中国にどう抗うかを考えるのにアジア主義が役に立つ、と僕は考えているのだ。

かつて毛沢東は、「東風が西風を圧倒する」と言った。東風すなわち共産主義が西風すなわち帝国主義を圧倒するという意味だ。

中国が大国として勃興しつつある今日、はたして東風は西風を圧倒したのか?

違う。現状は単に「西風が東から吹いている」にすぎない。

このような時代だからこそ、アジア主義はなおもその輝きを失っていないのである。

 

竹内好「日本のアジア主義」精読 (岩波現代文庫)

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書評『日蓮「立正安国論」 全訳註』

正直に白状してしまうと、日蓮には、これまであまりいい印象を持っていなかった。

まず、鎌倉仏教のなかで一番“DQN”だったのが日蓮宗、というイメージがある。そのうえ、その日蓮宗から分かれて生まれたのが、例の某新興宗教、ときている。

こうしたことから、今までどうしても、日蓮および日蓮宗には、あまりいい印象を持てなかったのだ。

とはいえ、日蓮(宗)について正確な知識を持ち合わせているわけでもない。やっぱり、「食わず嫌い」はよくないだろう。

それに、石原莞爾はじめ戦前の右翼の人たちの多くが熱心な日蓮主義者であったことを思えば、やはり一度は日蓮に向き合わないとだめだな、と思った。

 

というわけで、本日取り上げるのは『日蓮立正安国論」 全訳註』講談社である。

日蓮の書いたテキスト『立正安国論』を歴史学者佐藤弘夫さんが現代語訳し、解説も付したものだ。

立正安国論』は、時の権力者・北条氏がモデルとおぼしき「客」と、日蓮がモデルと思しき「主人」の僧侶との問答、という形式をとっている。

客は、念仏宗の熱心な信者であるが、主人は空気を読まずに――あるいは読み切ったうえであえて?――その客の目の前で、念仏宗の祖・法然をdisってしまう。当然客はブチ切れるが、主人は落ち着いた態度で自らの考えを語って聞かせる。客も次第に態度を軟化させていき、しまいにはついに日蓮の支持者となるのであった。めでたく折伏完了!というわけだ(w

 

さて、本著を読んで、僕は日蓮についてある重大な誤解をしていたことに気づいた。

てっきり、日蓮法華経だけを信仰せよと言っているのだと、僕は思っていた。まぁ、最終的にはそういう境地に至るらしいのだが、実は『立正安国論』を執筆した時点では、日蓮はまだそこまでには達していなかった。当時の彼は、法華経以外の他の経典、他の修行法も尊重したうえで、念仏“だけ”を重視する法然を批判していたのだ。

つまり、念仏“だけ”にこだわる法然は偏狭であり、自分日蓮こそが伝統仏教の守護者なのだ、と彼は言っているのである。

これは、意外だった。

上述の通り、僕には「日蓮は偏狭」というイメージがどうしてもあったからだ。ところが、すくなくとも出発点においては、彼はむしろ寛容を重んじる立場から、偏狭な(とすくなくとも彼が考えていた)念仏宗を批判していたのである。

 

いや~、日蓮の印象が変わりました。やっぱり、読んでみるもんだね。

 

日蓮「立正安国論」全訳注  (講談社学術文庫 1880)

日蓮「立正安国論」全訳注 (講談社学術文庫 1880)

 

 

書評『死では終わらない物語について書こうと思う』

小学生のころ、僕は伝記を読むのが好きだった。

僕の伝記の読み方は、少しばかり変わっていた。

まず伝記の最後、つまりその人が死ぬ場面から読みはじめ、それから冒頭を読んでいたのだ。

どうしてまた、そんなへんちくりんな読み方をしていたのか。人の死に興味があったから、としか言いようがない。

 

人間は、死んだらそれで終わり、とよく言われる。はたしてそうなのか。

本著『死では終わらない物語について書こうと思う』文藝春秋は、まさにタイトルの通り、死によっては終わることのない<物語>について考察した本である。著者は、本ブログではおなじみ、浄土真宗僧侶にして宗教学者でもある、釈徹宗さん。

 

釈さんはまず、『日本往生極楽記』や『続本朝往生伝』といった古典のなかから、人間の臨終を描いた場面を数多く取り上げていく。私たち日本人が死にまつわる物語を語りつづけてきたことを明らかにするためだ。

とりわけ、本著の59頁から60頁にかけて引用されている、『拾遺往生伝』(『日本思想体系 7』所収)第二十八番の逸話は、静かではあるが、僕の心に強い印象を残した。

これらの古典からうかがえる中世の日本人の死生観は、神道や仏教、そして儒教道教など、様々な教えが混然一体となったものだ。複数の宗教が混ざって一種のアマルガムを形成しているのであり、それはひとつの「小宇宙」とすら思える。

このような神仏分離以前の中世の世界観を、僕はとても豊穣なものだと感じる。生命豊富な熱帯雨林にもたとえられると思う。

 

釈さんはつづいて、一般の人びとではなく仏教者たちの死――すなわち法然親鸞の浄土往生や、一休、良寛の臨終の話などをしていく。

曹洞宗に興味のある僕は、やっぱり禅僧の最期のほうに関心がむかう。

とんち話でおなじみの一休禅師は、当時としてはかなりの長寿である88歳まで生きたというのに――そしてあれほど高名な禅僧であるというのに――それでもなお、「死にとうない」と言い残して死んでいったのだという。釈さんによれば残念ながらこの話の真偽は不明なのだそうだが、僕はこの言葉が大好きだ。

 

そうして釈さんの話はいよいよ、僕たちの住むこの現代へと及ぶ。

科学技術全盛の今日では、前近代とは異なり、そう簡単に死の物語を語ることはできそうにない。

それでもなお、我々は死の物語を取り戻す必要がある――そう釈さんは言う。

≪我々は物語の中に生きています。「私」という存在も、この世も、あの世も、会いも宗教も、すべて物語であり、虚構であり、共同幻想です。少なくとも仏教では「私」や「世界」をそのようにとらえようとします。しかし、虚構だから無意味だとか無価値だとか、というわけではありません。物語はみんなで手を添えてつないでいかねば、簡単に崩壊するのです。≫(201頁)

つくづく、僕たちには物語が必要なのだ、と思う。

物語なくして、人は生きていけない。

 

死では終わらない物語について書こうと思う

死では終わらない物語について書こうと思う

 

 

最近見た映画の感想(第205回)

・『コレクター』

男が若い女性を監禁するという内容の映画として、日本では『完全なる飼育』を挙げることができる。

その元ネタとなった……かどうかは不明だが、本作もまた、ストーカー気質の薄気味悪い男が若い女性を拉致・監禁するという内容の映画である。1965年公開の米英合作映画。監督は、あのウィリアム・ワイラーである。

男が若い女子大生を拉致し、古城に監禁する。彼女はなんとかして逃れようとするも、そのたびに男に阻止されてしまう。

男は、必ずしも性行為目的で監禁しているのではない。その証拠に、意識を失った女性をベッドに置くとき、ちゃんとスカートの乱れた裾を直してやるのである。

男は、蝶のコレクターであった。まるで蝶を採集するのと同じような感覚で、彼は女性を“採集”しているのだ。

男を演じているテレンス・スタンプが実に気持ち悪く、見ていてゾッとさせられる。これは、貶しているのではない。逆だ。それだけ彼の演技力が優れているということである。

はっきり言って、昨今のCG満載のホラー映画なんぞより、よほど怖い。監督のワイラーはかの有名な『ローマの休日』の監督として知られるが、全く印象が違う。あるいはこちらこそ、ワイラー監督の真骨頂だったのかもしれない。

 

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・『THX-1138

コンピューターによって監視される、未来のディストピア社会を描いたSF映画である。監督はあのジョージ・ルーカス。彼の記念すべきデビュー作となった映画だ。

時は25世紀。人類はコンピューターによって監視されている。そんななか、禁止されている性行為によって自我に目覚めた主人公は、なんとかして監視社会から逃れようと試みる。主人公は、迫りくるコンピューターの追っ手を振り切りながら、監視社会の<外>を目指す。

<内>から<外>へ。

<内>にいれば、監視されるけれども、少なくとも生命の危険はない。一方、<外>に出れば死が待ちうけているかもしれない。それでもなお、安楽な<内>での暮らしを捨て、<外>を目指すのか?

……あぁ、僕も<外>を目指すだろうな、と思った。

主人公を演じるのは、ロバート・デュヴァル。『ゴッドファーザー』に登場する、ファミリーお抱えの弁護士である。

……それにしても、ディストピア系SFに出てくる食事って、どうしていつも錠剤やカ○リーメイトみたいな固形食ばかりなんでしょうねぇ。

 

 

・『僕の大事なコレクション』

イライジャ・ウッド演じるユダヤ系アメリカ人の青年が、祖父を救ってくれたアウグスチーネなる女性を探しに、ウクライナへとやってきた。そこで、ある程度英語のできる現地の青年・アレックスをガイドに、彼の祖父をドライバーに、旅を始める。やがて彼らは、ユダヤ人の悲しい歴史を知ることとなる。

……こう書くとなにやら暗い映画かと思われるかもしれないが、前半部分は意外にもギャグ盛りだくさん(w)。とくに、レストランにてベジタリアンの主人公に配慮し、肉料理の代わりに茹でたジャガイモ丸まる一個がボン!と出されるシーンは、思わず声を出して笑ってしまったほどだ(w

終盤に向けてシリアスになっていくが、そこでも、アレックスのシャツが表裏逆、というさりげないギャグが挟まれていて、しっとりとした雰囲気のなかにも、クスリとさせられるユーモアがある。この点、我らが三谷幸喜と似ているかも知れない。

ギャグのセンスといい色彩感覚といい、リーヴ・シュライバー監督の独特の感性が光る一作だ。

映画の本筋からは離れてしまうが、面白かった点もうひとつ。アレックスが「ニグロ」という言葉を使い、主人公に「それは差別語だから」とたしなめられる。ところがアレックスの話によると、どうやらウクライナでは「ニグロ」という言葉に差別的なニュアンスはなく、むしろアメリカ黒人への憧憬の念すら込められているようなのだ。これは、大晦日の『ガキ使』笑ってはいけないスペシャルにおける、顔の黒塗り問題にも通じる話だと思った。

 

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・『夏休みのレモネード』

さすがにナチスほどではないにせよ、アメリカにもユダヤ人差別はあった。それを告発した映画が1947年公開の『紳士協定』だが、現代でもそこまでひどくないとはいえ、一般のキリスト教徒とユダヤ教徒との間には、心理的な障壁があるものらしい。

本作は、アイルランド系のカトリックの少年とユダヤ系の少年との友情を描いた映画である。

主人公の少年はユダヤ教のラビ(司祭)のおじさんと仲良くなり、彼の息子で同世代の少年とも親しくなる。だが少年の身体は、白血病に侵されつつあった。

主人公の父は敬虔なカトリック信徒であり、それゆえにユダヤ人に対し偏見を持っている。そんな父が、息子のおかげで次第に心境を変化させていくところが、本作の見どころだ。

 

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・『コン・エアー

ニコラス・ケイジ演じる元レンジャー隊員の主人公。絡んできた不良を殴って死なせてしまったことから、殺人罪で逮捕され、刑務所に収監されてしまう。

やがて仮釈放が認められ、めでたく出所するはこびとなったが、彼を乗せた囚人輸送機「コン・エアー」が凶悪犯たちによってハイジャックされてしまう。

主人公は、ジョン・マルコビッチ演じる凶悪犯たちの親玉に、単身立ち向かう。

冒頭、輸送機に乗せられる凶悪犯たちが次々紹介されるが、まるで動物園の猛獣のような扱いで笑ってしまう。

ラストでは、輸送機がラスベガスの街中へと不時着、そこでど派手なアクションを繰り広げる。この一大スペクタクルが本作最大の見どころだ。

2時間があっという間。いやぁ、ひさびさに娯楽映画らしい娯楽映画を見たなぁ、と思った。

 

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書評『「世間」とは何か』

僕にとっていまいちピンとこない日本語のひとつに、「社会人」という言葉がある。

社会人。

いったい何のこっちゃ。

「社会と繋がりのある人」というのなら、山奥で霞を喰って生きている仙人でもないかぎり、人間はみな社会と繋がりを持って生きているのではないのか。

世間一般でいう「社会人」とは実のところ、「会社人」――それも正社員――のことではないのか。

いやそもそも、「社会」って何なんだ。というか、日本に「社会」って本当にあるのか。日本にあるのは社会でなく、先ほどチラリと出た「世間」ではないのか。

 

本日ご紹介する本は、タイトルもずばり『「世間」とは何か』講談社である。著者は、歴史学者阿部謹也さん(1935‐2006)

さて、本著でいう「世間」とは、いったい何か。

簡単にいえば、社会が独立した個人によって構成されるのに対し、世間は未分化であやふやな「個人」によって構成されるのである。

社会をご飯にたとえるとするなら、世間はお粥といったところだろうか。なにやらヘンな喩えで恐縮だが(;^_^A

もうひとつ、ポイントがある。世間はひとつではないということだ。

お父さんにはお父さんなりの世間があり、お母さんにはお母さんなりの、子供には子供なりの、世間があるのである。

日本は社会ではなく、世間の集合体ではないか、というのが阿部さんのアイデアなのだ。

≪政治家や財界人などが何らかの嫌疑をかけられたとき、しばしば「自分は無実だが、世間を騒がせたことについては謝罪したい」と語ることがある。この言葉を英語やドイツ語などに訳すことは不可能である。西欧人なら、自分が無実であるならば人々が自分の無実を納得するまで闘うということになるであろう。(中略)このようなことは、世間を社会と考えている限り理解できない。世間は社会ではなく、自分が加わっている比較的小さな人間関係の環なのである。自分は無罪であるが、自分が疑われたというだけで、自分が一員である環としての自分の世間の人々に迷惑がかかることを恐れて、謝罪するのである。≫(20‐21頁)

 

世間は、いったいどのように誕生し、発展してきたのだろうか。

この問題を追求すべく、阿部さんは古代にまでさかのぼり、世間の誕生とその後の経緯を見ていくのである。阿部さんの旅は古代から始まり、中世、近世と経て、最後に近代へと至る。

この長い旅のなかでクローズアップされる個人が、『徒然草』の作者・吉田兼好、そして江戸期の人形浄瑠璃作者・井原西鶴である。

近代的な意味での個人が確立していない日本にあって、彼らは例外的に個人であった、と阿部さんは言う。日本人の全員が全員、世間にどっぷり漬かって生きてきたわけでもなかったのだ。

たとえば、井原が八百屋お七などの女性たちを描いた『好色五人女』のなかに、阿部さんは世間を超えた個人の姿を見出す。それらがみな女性である、という点もまた興味深い。もちろん、文学のなかで個人を描き出していった井原自身もまた、個人だったのである。

しかしながら、吉田兼好にしろ井原西鶴にしろ、彼らはどうしても「隠者」という形でしか暮らすことができなかった。ここに、阿部さんは日本社会における個人の悲劇を見るのである。

こうした悲劇は、あるいは21世紀の現代でもあいかわらず反復されているのかもしれない。たとえば僕自身、世間を鬱陶しいと感じるタイプの人間であり、できれば隠遁して過ごしたいとつねづね思っている。

 

吉田兼好はともかくとして、井原西鶴というのは、率直に言って僕がこれまで関心を傾けてこなかった人物である。恥ずかしながら「井原西鶴? なんか江戸時代の浄瑠璃の人だよね?」程度の認識しかなかった。

今度、彼の作品を読んでみよう、と思った。僕は昔から古典がニガテだったから、読むとしたら現代語訳になると思うけど……(^▽^;)

 

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)