Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『嘘だらけの日露近現代史』

憲政史家・倉山満さんの代表作、『嘘だらけシリーズ』。

先日は『嘘だらけの日英近現代史』を取り上げた。

本日取り上げるのは、『嘘だらけの日露近現代史(扶桑社)である。イギリスから、ロシアへ。

といっても、実はこの『日露』のほうが『日英』よりも先に出版されたらしい。(^▽^;)

 

本著も、まずロシアの歴史を古代中世から振り返っていき、近世あたりから記述のボリュームを増して、近現代で日本史と絡めながら解説する、というスタイルをとっている。

そんなロシアの歴史において貫徹されているのが、「ロシアの法則」である。倉山さん曰く

一、何があっても外交で生き残る

二、とにかく自分を強く大きく見せる

三、絶対に(大国相手の)二正面作戦はしない

四、戦争の財源はどうにかしてひねりだす

五、弱いヤツはつぶす

六、受けた恩は必ず仇で返す

七、約束を破ったときこそ自己正当化する

八、どうにもならなくなったらキレイごとでごまかす

なんとも壮絶なルールだが(;^ω^)、ロシアはこのルールに則って弱肉強食の近現代をサヴァイヴしてきたのだという。

このほか、中国は国際法をそもそも守らないが、ロシアは国際法を徹底的に読んで読んで読み込んだうえで、その穴を突いてくる、という倉山さんの指摘も面白い。

ロシアは、「おそろしや」の国なのだ。

 

もっとも、ロシアは単に恐ろしいだけではなく、我々日本にとっては手本ともなる国である。

作家・佐藤優さんの『甦るロシア帝国』を読んだときにも思ったことだが、ロシアの復活は我々にとっては脅威であると同時に福音でもある。

我が国のすぐ北方に――それも領土紛争を抱えている――厄介な隣人がよみがえったという意味では脅威であるが、一方で、一時はあれほどまでに傾いた国であっても、国力を回復し国際社会に復権することができるのだ、という希望を我々日本人に与えてくれるからである。

「失われた20年」と称される長いデフレ時代のあいだに、我が国のGDPは中国に抜かれ、国内では少子高齢化、地方都市の衰退、若年世代の貧困などの社会問題が深刻化した。だが、ソ連崩壊直後のロシアは、これよりもっとひどかったのだ。それでも、かの国は立ち直った。日本にだってできるはずである。

 

我々はもっと、ロシアの粘り強さ、したたかさに学ぶべきなのではないか。

……さすがに、上の「ロシアの法則」全八カ条をそっくりそのまま取り入れろ、とは言わないけれど(;^_^A

 

嘘だらけの日露近現代史 (扶桑社新書)

嘘だらけの日露近現代史 (扶桑社新書)

 

 

書評『嘘だらけの日英近現代史』

憲政史家・倉山満さんの著作は、本ブログでもしばしば取り上げている。

本日ご紹介するのは、倉山さんの『嘘だらけの日英近現代史(扶桑社)だ。

 

タイトルからもお分かりいただけるように、本著で取り上げられるのは、英国の歴史。

古代中世は駆け足気味に、議会政治が本格化する近世からは本格的に、英国の歩みを解説していく。

といっても、“日”英と銘打っているくらいだから、終盤から日本の近現代史と絡めてくるところが、本著のポイントである。

 

本著は一般の人々向けに、分かりやすく、かつ“面白おかしい”記述を心掛けているようで、倉山さんの筆致にはいちいち笑わせられる。

たとえば、こんな具合に。

≪今でもイギリス貴族は英語の発音で瞬時に相手の階級を見抜くと言われます。もちろん、それでランク付け(つまり差別)をするわけですが。日本の関西地方では、「京都>神戸>大阪>そのほか兵庫>奈良>和歌山」のヒエラルキーがあり、京都人は関西弁の発音で即座に相手の出身地(つまり階級)を見抜きランク付けするようなものと考えてください。≫(37‐38頁)

 

倉山さんのこうした“話術”に触れていると、やはりどうしても、社会学者・小室直樹さん(1932-2010)の影がちらついてしまう。

小室さんもまた、社会科学を一般の読者向けに、分かりやすくかつ面白おかしく語ることのできる天才であった。

倉山さんは小室さんからかなり大きな影響を受けたようだから、本作の文体もおそらくは意図したものなのだろう。

 

実を言うと、倉山さんの著作には本著のほかに、『嘘だらけの日露近現代史』『嘘だらけの日米近現代史』などがあり、これらはまとめて『嘘だらけシリーズ』と呼ばれているそうである。

僕が思うに、倉山さんはこの『嘘だらけシリーズ』を、小室さんの代表作である『原論シリーズ』に相当する名シリーズへと育てたいのではあるまいか。

 

もっとも、これは倉山さんに限った話ではないのだが、小室さんのようなひと昔前の論客が得意としていた「落語家のような語り」ができる書き手が、最近はめっきり減ってしまったように思えてならない。

1970年代以降の生まれの、今どきの論客が一般人向けの入門書を書こうとするとどうしても、「オタク男子が自らの得意分野を嬉々として早口でまくしたてている」感じが否めないのである――それが悪いというわけではない

物書きに限らず、今日の日本社会では、1950年代までの生まれが(言っちゃ悪いが)「ひと昔前の日本人」、1960年代生まれが過渡期、そして1970年代以降の生まれが「今どきの日本人」といった具合に、世代間の断絶があるような気がする。

 

……おっといけない、話がずいぶんとそれてしまった。英国に戻そう(w

メディアの報じるところによれば、日本と英国は空対空ミサイルを共同開発することで合意したのだそうである。

 

www.sankei.com

日英同盟の復活も、案外近いのかもしれない。

 

嘘だらけの日英近現代史 (扶桑社新書)

嘘だらけの日英近現代史 (扶桑社新書)

 

 

書評『ふしぎな君が代』

先日は、作家・近現代史研究者の辻田真佐憲さんの『愛国とレコード』(えにし書房)を取り上げた。

本日ご紹介するのも、これまた辻田さんの著作『ふしぎな君が代幻冬舎である。

軍歌の次は、君が代というわけだ(w

 

本著は、前近代にまでさかのぼって、君が代の歴史を振り返っていく。

君が代は、歌詞自体は古くから存在し、知識人層の間で親しまれていたという。

それがこの国の国歌となったのは、近代に入ってからのこと。近代国家には当然国歌が必要だというので、かなりの急ごしらえで国歌に決められたらしい。

「国歌・君が代」の歴史がこうしてスタートしたわけだが、その歩みは必ずしも順風満帆というわけでもなかったようだ。

≪現代の我々は、戦前社会では明治からずっとこのように「君が代」が教えられていたと思いがちだ。ところが、全国の教育現場でここまで明確に「君が代」が位置づけられたのは、なんと一九三七年になってからのことだったのである。それまでは儀式で歌うことはあっても、意味については必ずしも説明されたわけではなかった。≫(175頁)

君が代が戦前の日本社会において国歌としての地位を盤石なものとするまでには、意外にも長い時間がかかっており、敗戦からわずか8年前の1937年になってようやく、国歌として明確に位置づけられるようになったというのだ。

さらに意外なことには、戦前において君が代が批判されることもしばしばあったという点。

君が代は皇室の歌であって、国家の歌ではない、というのが当時おもになされた批判だという。

かつて、サッカーの中田英寿選手が「君が代はダサイ」と発言したと報じられて問題になったことがあったが――中田選手本人は発言の真意が伝わっていないと反発――辻田さんに言わせると、このテの君が代批判も実は戦前からなされていたものだという。

先日の『愛国とレコード』のレビューでも書いたことだが、我々日本人は進歩などまったくしておらず、単に戦前を反復しているだけなのかもしれない。

 

さて、辻田さんは、現在における君が代の扱いについては、どのように考えているのだろう。

本著終盤にて、辻田さんは、君が代が上述のとおり批判を乗り越えながら今日まで至っている「百戦錬磨の国歌」(249頁)である点を重視し、君が代を国歌とすることに賛成しつつも、マイノリティーに配慮して、その強制は良くない、というしごく常識的な――言い方を変えれば、退屈な――結論を下している。

 

それにしても、辻田さんの仕事を見ていると、右翼というほどでもないけれど戦前の日本社会に詳しく、またいくらかのシンパシーも抱いているらしいところ、音楽に造詣があるところ、などの理由から、どうしても評論家の片山杜秀さんを連想してしまう。

言うなれば「二代目・片山杜秀といったところか(w)。奇しくも、ふたりとも慶應義塾大学の出身である。

ヘンな喩えかもしれないが、江藤淳さんのポジションを福田和也さんが継承したように、片山さんのポジションを辻田さんがこれから継承していくのかもしれない。

辻田さんの、今後の活躍が楽しみだ。

 

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

 

 

最近見た映画の感想(第197回)

・『仁義の墓場

僕は、70年代の東映映画が大好きだ。あの、いい意味で下品な感じがたまらなく好きなのである。

本作は、そんな東映による1975年公開のヤクザ映画。実在のヤクザ・石川力夫(1926‐1956)の生涯を描いた作品である。監督・深作欣二、主演・渡哲也。

こういう、実話を基にしたヤクザ映画のことを、高倉健らが主演の従来の任侠映画とは区別して、実録映画と呼ぶ。

実録映画の特徴は、登場人物の誰もが、がめついこと。本作にしてもそうで、石川力夫のやることなすこと、どれも滅茶苦茶なのだが、渡哲也が演じるとどうにも様になってしまうのだからニクいものである(;^ω^)

圧巻は、石川が奥さんの遺骨を食べるシーン。そういえばドキュメンタリー映画ゆきゆきて、神軍』でも主人公・奥崎謙三がやはり同様に奥さんの遺骨を食べていたのを思い出す(※)。究極のエロティシズムだ。

※ごめんなさい、もしかしたら『神様の愛い奴』のほうだったかもしれません。記憶があいまい(^▽^;)

全編にわたって、荒々しいまでの、昭和のエネルギーを感じさせてくれる一作だ。

 

仁義の墓場 [DVD]

仁義の墓場 [DVD]

 

 

・『めがね』

どういうわけだか主要人物全員がめがねをかけているという、まさにタイトルの通りの日本映画である。2007年公開。

小林聡美演じる主人公が、南の島へ行く。そこは皆がボーッと過ごしている、なんともフシギな島であった……。

全編にわたって、脱力感満載の映画。同じ日本映画とはいえ、先ほどの『仁義の墓場』の後に本作を見ると、あまりの落差に驚く(w 

いかにも「デフレ時代」といった感じの作品である。『仁義~』が<動の昭和>なら、こちらは<静の平成>といったところか。

「なにもしないこと」の大切さを教えてくれる、そんな作品だ。

 

めがね(3枚組) [DVD]

めがね(3枚組) [DVD]

 

 

・『キートンの大列車追跡』

サイレント時代の喜劇王といえば、かの有名なチャップリンだが、この人も忘れちゃいけない。

バスター・キートン(1895‐1966)である。

本作はまさにタイトルのとおり、主演にして監督のキートンが機関車の上でアクションを繰り広げるというコメディ映画である。

サイレント映画なので、会話よりもアクションが主体。頭をからっぽにしても、楽しく見ることができる。

とはいえクライマックスは、壊れた鉄橋から機関車がまるごと落ちるという、なかなかに大掛かりなもの。当時の観客にとっては一大スペクタクルだったろう。

チャップリン映画にアクションの要素を加えたような感じの作品だ。

 

キートンの大列車追跡 [DVD]

キートンの大列車追跡 [DVD]

 

 

・『ガス燈』

主人公の女性は、最近物忘れがひどい。自分はおかしくなったのかと思い詰め、不安にさいなまれる彼女。

さて、彼女は本当に精神を病んでしまったのか。それとも……。

「と最初に書くくらいだから、実は病んでなんかいなかったんでしょう?(w」と勘のいい読者の方には見抜かれてしまうかもしれないが(w)、では彼女の“物忘れ”の原因は何だったのか、というのが本作の見どころ。

気になる方は本作を見てみてね。

 

 

・『キャット・ピープル

主人公のセルビア系の女。なんと猫族(cat people)の末裔であり、キスをするだけでたちまち豹に変身、男性を殺してしまうという。

夫はまるで信じようとしないが、自らを猫族だと確信している彼女は、そのせいで夫との愛情を深めることができない。やがて彼女の前に精神科医の男が言い寄ってくるが……

豹なのだから、正確には猫族じゃなくて豹族panther people)だろ、というツッコミはさておくとして、本作のポイントは、彼女が豹に変身するシーンが省かれていること。

この演出のおかげで、「そもそも彼女は本当に猫族なのか」「ただの妄想じゃないのか」という見方も成り立つのである。

そう考えてみると、本作は意外と深~い映画なのだ。もっとも、僕としてはもっとB級色の強いパニック映画を期待していたのだけれど。

 

キャット・ピープル [DVD]

キャット・ピープル [DVD]

 

 

書評『愛国とレコード』

僕は以前、とある右派団体にコミットしていたことがあるので、右派の政治文化のことなら、ある程度までは理解しているつもりだ。

そんな僕でも、しかしながら最後まで馴染めなかったのが、軍歌であった。

彼らは酔っぱらって二次会のカラオケ店へ行くとたいてい、軍歌を歌う。

ところが僕は音楽といえばビートルズとアニソンくらいしか知らないものだから(w)、「おい、お前も軍歌を歌え!」などと言われようものなら途方に暮れてしまう。

やむをえず、二次会には行かず、居酒屋からそのままアパートへと帰る、というのが定番になっていた。

ある大物保守論客が、「右翼といえば軍歌、軍歌といえば右翼だ!」と豪語していたと記憶している。ならばアニソンしか知らない僕は、このさい「ネトウヨ」でもいいや、と思ったものである。

 

今回は、軍歌をテーマにした本である。

『愛国とレコード』(えにし書房)

著者は、作家・近現代史研究者の辻田真佐憲さん。1984年生まれだというから、なんと僕とまったくの同世代ということになる。

辻田さんは、大の軍歌好き。好きが高じて、こうして本まで出してしまったのだという。

「えっ、俺と同世代で軍歌好き!? …ウソでしょ?」と驚いたが(w)、まぁ世の中にはそういう人もいるんですね――もっとも、僕もソ連国歌が好きなので、あまり人のことは言えないのかもしれないけれど。

 

本著では、戦前に発売された軍歌のレコードが多数、解説されている。

驚くべきは、レコード会社の商売センス。明治時代の軍歌の歌詞をほぼそのまま踏襲――パクリとも言う――して発売するなどというアコギな商売が公然と行われていたのだという。

本著で紹介される軍歌のなかには『満蒙新国家建設の歌』なるタイトルのものがあるが、これは満州国の建国を待たずに、フライング的に制作された軍歌なのだという。

まさに「売れれば正義」「ゼニや! 世の中しょせんゼニや!」という、実に単純明快な原則で動く業界だったのだ。

 

辻田さんの話で興味深いのは、歌人気を支えたのはむしろ一般市民の側だったということ。政府は、むしろ五・一五事件青年将校を称賛する内容の軍歌を検閲・規制したほどなのである。

軍歌は、決して軍部から、つまり上から無理やり押しつけられたものではなかった。軍歌は、逆に下からの人気こそに支えられて、戦前日本社会の華となったのだ。

 

このように<戦争>に便乗した、当時の愛国ビジネス――軍歌。

これはなにも、戦前に限った話ではないのだ。平成の御代の今日でも、<嫌韓>に便乗した、いわゆる「嫌韓本」が量産されたことは、まだ皆さんの記憶にも新しいことだろう。

そう考えると、日本人という生き物は昔も今も、これっぽちも進歩していない、ということになるのだろうか。

ちょっぴり鬱になる話である。

 

今世紀の末頃には、『愛国と嫌韓』みたいなタイトルで平成の嫌韓本を解説する書籍が刊行されているかもしれない。

 

愛国とレコード: 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会 (ぐらもくらぶシリーズ)

愛国とレコード: 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会 (ぐらもくらぶシリーズ)

 

 

書評『英語の早期教育・社内公用語は百害あって一利なし』

渡部昇一さん。

と聞くと、どうしても「右翼の人」というイメージを持たれる方が多いかもしれない。

保守系の論壇誌に多く寄稿していたからだが、そんな渡部さんの本業は、英語学者であった。

本日ご紹介する『英語の早期教育・社内公用語は百害あって一利なし』李白社)は、渡部さんの英語学者としての顔がよく見える一冊だ。

 

最近の学校での英語教育に関して、僕は前々から不満を抱いていた。

文法よりも会話を重視するというその姿勢に、どうしても納得できなかったのだ。

「いいや、会話よりも大事なのは文法だ!」と明確に答えてくれた本著は、したがって僕を大いに勇気づけてくれたのである。

 

これはたしか、福田和也さんの本に書いてあったと記憶しているが、明治時代の日本人は、英語が得意だった。夏目漱石しかり。新渡戸稲造しかり。

どうして彼らはあんなにも英語ができたのか。

漢文をやっていたからだろう、というのが福田さんの答えであった。

渡部さんも同様に、明治の日本人が英語ができたのは漢文のおかげだと書いている。

「あぁ、そうか。漢文(古典中国語)と英語はともにSVO文型だし孤立語だものな」と僕は思った。たしかにそれもあるだろうが、それだけではないようだ。

渡部さんは、以下のようなことを書いている。

漢文というのは、実は日本語である。

中国語の文章を日本語として読んでいるわけだから、漢文の学習とは実は日本語の学習にほかならなかった。

明治の人たちは、したがって漢文の学習によって“日本語力”――中国語力でなく――を培っていたのだ。

そうして日本語力を鍛えていたからこそ、英語を深く理解することができたのである。

……渡部さんの説明を読んで、「なるほど!」と唸ってしまった。

僕はつねづね、国語力というのは、コンピューターでいうところのOS、外国語力というのはアプリケーションだと思っている。アプリケーションをたくさんインストールしたところで、肝心のOSが不安定ではどうにもならない、というわけだ。

逆に言えば、明治の人たちは、漢文教育を通じて日本語というOSをしっかりインストールしていたからこそ、英語というアプリケーションをスムーズにインストールすることができたのである。

 

さて、本著後半の第5章では「私の外国語体験」と題し、渡部さんのこれまでの半生とその外国語勉強法が語られている。

渡部さんは、天才である。

彼は上智大学で英語学を学んだのち、ドイツへと留学し――どういうわけだか英語学の本場は英国ではなくドイツであるらしい。なぜ!?――そこでドイツ語もたちまちのうちにマスターしてしまった。

そして完璧な文法のドイツ語で博士論文を提出し、現地の教授たちをして「あなたはまことに天才(ジェニー)である」と言わしめたのである。

渡部さんの、驚異的なまでの語学力は、どのようにして培われたか。

もちろん、上述のとおり「OSとしての国語力」がしっかりしていたから、というのが大きいのだろうが、もうひとつ、渡部さんが重視するのは、ボキャブラリーである。これが大事なのだと言う。

短期間でドイツ語を習得できたのも、ドイツ語の会話文をどんどん暗記していったからだと彼は言う。

それからもうひとつ、「失敗を恐れないこと」、コレである。

渡部さんは、専門が英語学なものだから、専門外のドイツ語は多少間違ったってしょうがない、という軽い気持ちでドイツ語会話に臨んだのだという。結果的に、これが良かった。

失敗を恐れなかったことで、渡部さんのドイツ語力はどんどん上達していったのである。

 

渡部さんは、年齢を重ねても記憶力が老化することのないようにと、ラテン語の文章の暗記に努めたことがあるのだという。

僕は現在32歳である(もうじき33になる)。最近では10代のときとくらべてすっかり記憶力が衰えてしまい、それを実感するたびに、ため息をついてしまう。

人間、30を過ぎるともう語学は駄目だな、と諦めかけていたが、そうではなかった。

逆なのだ。

30を過ぎたからこそ、記憶力をこれ以上減退させることのないよう、語学に取り組む必要があったのだ。

これは、僕にとっては、ちょっとした発想の逆転であった。

そうか、これからもういちど、語学に真剣に取り組んでみるとしよう。

 

僕にとって、渡部さんは「右翼の人」などではない。

渡部さんは、僕の英語の先生だ。

 

 

余談ながら。

"We are a sailor short." ←さて、皆さんなら左の英文をどう訳すだろう。

答えがど~しても気になるという人は、ぜひ本著を読んでみてね♪

 

 

書評『日本の危機管理は、ここが甘い』

なにかと「ネトウヨ評論家」と叩かれる(w)、経済評論家の上念司さんによる著作である。

 

本著前半部分では、政治と経済における「素朴理論」の批判に、多くのページが割かれている。

「素朴理論」とは何ぞや。

例えば「円高は、世界から円の価値が認められているという証左なのだから、日本にとっては誇るべきことであり、良いことなのだ!」といったような、一見すると正しいように思えるが実は大間違い、という考え方のことである。

こうした素朴理論として上念さんは、

・設計主義

・エリート無謬説

農本主義

重商主義

・技術立国主義

・資本収支幻想

財政均衡主義

・通貨高=国力幻想

の8つを挙げている。上3つは政治に関する、下5つは経済に関する素朴理論だ。先に挙げた「円高は~」は、一番下の「通貨高=国力幻想」に分類される。

ここで、「設計主義」と「農本主義」のふたつが素朴理論として挙げられている点に留意してもらいたい。

これは実は、上念さんによる戦前右翼批判なのである。

 

設計主義とは、「誰か頭のいい人たちが社会を設計してくれれば社会はよくなる」という発想のことで、そのわかりやすい例が共産主義である。この場合、「誰か頭のいい人たち」は「前衛党」と称されることが多い。

だが実は、共産主義だけではない。戦前の「右翼」と呼ばれた人たちのなかにもまた、こうした設計主義の発想にとらわれていた人たちがいたのだ。

超国家主義者」と呼ばれる人たちがそれである。

上念さんは本著のなかで、共産主義者のみならず、こうした超国家主義者もまた批判の対象としているのである。

 

もうひとつの農本主義については、以前、本ブログにて取り上げた『血盟団事件』でも出てきた。

ごく簡単に言ってしまえば「農業が大事! 農業ファースト!」という思想のことだが、これが行き過ぎると「農業こそ本当の産業であって、それ以外は仮の産業にすぎない!」という、資本主義否定の発想へと行き着く。

上念さんは、この農本主義も素朴理論だとして否定しているのだ。

戦前の日本では、これら農本主義者と超国家主義者とが合流した、という点も見逃してはならない。これについても、上述の『血盟団事件』を参照のこと。

 

では、設計主義の対極にある概念は、何か。

上念さんは、保守主義だという。

と言われても、おそらく多くの人々にとっては、そもそも保守と右翼の違いからしてよく分かりません、という話だろう。

一般の人々が抱いているイメージは、黒塗りの街宣車に乗って軍歌を大音量で流すはた迷惑な人たちが右翼で、それをもうちょっと穏健な感じにしたのが保守、といったものであろう。

だが、両者の間には質的な違いがある。「絶対に正しい理念」など無い、と言うのが保守なのである。

保守は、絶対に正しい理念などあるはずがない以上、社会的な問題の解決策は自由な議論を通じてこそ決定されるべき、と考える。

上念さんは、いわゆる「ネトウヨ」でもなければ、戦前におけるような意味での右翼でもない。

上念さんは、保守の人なのである。

 

本著後半部分では「騙しのテクニック」として、現代日本において増税キャンペーンを展開している人々が、具体的にどのような手法で自らの訴えを日本社会に広めているか、その手口が解説されている。

とても勉強になる。

僕はもちろん増税キャンペーンに反対の立場だが、だからこそ彼らの手口を学ぶ必要があるのである。

敵を倒すには、まず敵を知ることから、だ。

 

さて、本著を読んで、個人的に面白いと感じたのは、以下の箇所である。

素朴理論を信奉する人を説得するにはどうすればいいか。上念さん曰く、

≪例えば、「弱い者いじめはいけない」といった素朴理論を逆用して、「増税は弱い者いじめだ。特に今のように景気の悪い時に増税する首相は悪代官だ」といった新たな素朴理論を構築してみるなどの工夫が必要でしょう。こういったテクニックを使い、「つかみ」のところで笑わせたり、共感を得たりしながら、最後に彼らの間違いに気づかせることで、少しずつ素朴理論の洗脳は解けていきます。≫(131頁)

この言葉は、深い。

素朴理論を批判することは簡単だ。が、実際に素朴理論の“信者”になってしまっている人には、残念ながら、そうした批判の声が届くことはない。

彼らに批判の声をちゃんと届けるためには、こちらもあえて素朴理論をぶつける必要がある――上念さんはそう言うのである。

ここから先は僕の個人的な意見であることをあらかじめ断わっておくが、上念さんが、少なくとも表面上は、いわゆる「ネトウヨ」っぽいことを言うのも、実はこれが理由なのではあるまいか。

ネトウヨを批判したところで、彼らからは「なんだと、この朝鮮人め!」とレッテルを貼られて終了である。批判の声が彼らの耳に届くことはない。

上念さんは、そんな彼らを善導すべく、あえて「ネトウヨ」的な言説を採り入れているのではないか――僕にはときおり、そう思えるのである。