Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『スルタンガリエフの夢』

本ブログでは先月、『イブラヒム、日本への旅』という書籍を取り上げた。ロシア出身のタタール人活動家、アブデュルレシト・イブラヒムの評伝である。

 

彼は19世紀のロシア帝国に生まれたが、イスラーム教を圧迫するキリスト教国・ロシアに反発して故郷を飛び出し、世界中を旅しながらムスリム同胞の連帯を訴えた活動家であった。

一方、ロシア帝国内にあって、ムスリムにして共産主義者という特異な立場から革命を訴えた活動家がいた。ミールサイト・スルタンガリエフ(1892‐1940)である。

本日取り上げる本は、そんな彼の評伝『スルタンガリエフの夢 イスラム世界とロシア革命岩波書店だ。

著者は、中央アジア史が専門の、山内昌之さん。

 

本著は、基本的にはスルタンガリエフの評伝なのだが、「評伝」というよりかはむしろ「思想書」と呼んだほうが適切かもしれない。内容はとても専門的で、中央アジア史にもマルクス主義にも明るくない読者の方は、本著を投げ出したくなるかもしれない(w)。僕自身、読んでいてかなり骨が折れた(;^_^A

本著はまず、スルタンガリエフの思想の背景をなすタタール人の歴史について、序章にて詳しく説明している。

ここから分かるのは、ロシア国家におけるタタール人の存在感だ。タタール人にとっての文化的中心地が、カザンという都市であるが、これはウラル山脈の西側にある。ウラル山脈といえばヨーロッパとアジアとを分かつ言わば「分水嶺」であり、その西側はヨーロッパのはずなのだが、その地にムスリムタタール人は生活しているのだ。

カザンだけではない。2014年、ロシアがウクライナクリミア半島を自国領へと「編入」、国際社会から強い非難を浴びたことはいまだ記憶に新しいが、本著を読むと、クリミアは元来ウクライナのものでもなければロシアのものでもない、それはタタール人のものだということが分かるのである。

ロシア帝国にとっての、言うなれば「獅子身中の虫」――それが、タタール人だったのだ。

 

話をスルタンガリエフに戻そう。彼は、ムスリム共産主義者であった。

「え? 共産主義って、無神論じゃなかったっけ?」

と皆さん驚かれるかもしれない。たしかに共産主義無神論だし、スルタンガリエフも基本的には自らを無神論共産主義者と位置づけていたようだが、同時に彼は、共産主義と自らのバックボーンであるイスラーム文化とを融合――より正確に言えば、共産主義の思想をベースとして、それと矛盾しない範囲内でイスラームの伝統を尊重しようとしたのである。

ここに、思想家・スルタンガリエフの特異性があったのだ。

 

スルタンガリエフはまた、「プロレタリア民族」なるアイデアも提唱している。タタール人を民族まるごとプロレタリアだとみなしたのだ。どういうことだろう。

これは、マルクス主義を読み替えたレーニン主義をさらに読み替えたのである。

そもそもマルクス主義では、共産革命が最初に起こるとしたら、それは資本主義の発達したイギリスかドイツであって、あんなクソ田舎のロシアなんぞで共産革命なんか起こるわけがない、と考えられていた。

ところがレーニンは、いやそうではない、いまや資本主義のシステムは世界全体に広がっているのであり、そのなかでロシアは搾取される側にある。つまりロシアという国自体がプロレタリアのようなものであるからして、最初の共産革命はむしろロシアでこそ起こるのだ、というふうにマルクス主義を読み替えたのである。

スルタンガリエフはこれをさらに読み替える。つまりそのロシアのなかでも、タタール人はロシア人から差別されているわけだから、タタール人という民族自体がプロレタリアのようなものなのである。彼は、したがってプロレタリア民族としてのタタール人こそ革命の主体である、としたのだ。

 

スルタンガリエフは、中世のイスラーム文明を誇りとしていた。この点、文明とはこれすなわち近代ヨーロッパのことだと決めつけていた、当時の共産主義者たちとはまったく違っていた。

彼は自らの政治活動を通じて、「革命家」を自称する当時の共産主義者たちのなかに、根強いヨーロッパ中心主義が存在することを暴き出していったのである。

 

繰り返しになるが、スルタンガリエフ共産主義者であった。だが彼は、もし運命の歯車がすこしだけ狂ったならば、日本のアジア主義者たちと交流を持ったかもしれない。現に、彼と似た境遇のタタール人、イブラヒムは日本を訪れ、アジア主義者たちと交流を持った、というのは『イブラヒム、日本への旅』で書かれているとおりである――実を言うと、この本のなかにもスルタンガリエフはちらりと登場している

同じことを、ベトナムファン・ボイ・チャウホー・チ・ミンにも感じる。かたや日本、かたやコミンテルンについたふたりだが、どちらも民族主義者という点では実は共通していたのである。

我々は、民族主義者と共産主義者というのは、水と油、まったく異なる人種だとつい思ってしまう。

だが、そうではないのだ。

誤解されがちだが、共産主義民族主義は必ずしも矛盾しない。むしろアジアにおいては民族解放のための思想としてマルクス主義が注目されたという側面が見過ごせないのだ。そこを見落としてはならない。

スルタンガリエフもまた、共産主義者であると同時に、民族主義者であったのである。

 

スルタンガリエフの夢―イスラム世界とロシア革命 (岩波現代文庫)

スルタンガリエフの夢―イスラム世界とロシア革命 (岩波現代文庫)

 

 

書評『楊貴妃になりたかった男たち』

いまや日本では、女装は完全に市民権を獲得した観がある。

アニメでは女装した男の子、すなわち「男の娘」が普通にヒロインのひとりとして登場するようになったし、コスプレイベントでも男性コスプレイヤーが女性キャラのコスプレをすることが珍しくなくなった。

では、お隣の中国では、どうなのだろう?

 

というわけで本日取り上げる本は、中国文学者・武田雅哉さんの『楊貴妃になりたかった男たち <衣服の妖怪>の文化誌』講談社である。 もうタイトルからして良いではないか(w

本著は、中国における異性装者たちの歴史を描いている。

先日取り上げた『「女装と男装」の文化史』は、サブカルチャーからひろく材を取りつつも文体自体はわりと硬質だったが、本著は武田さんのユーモラスな語り口がなんとも特徴的。読んでいて、とても楽しい。

 

本著を読むまで、僕は、中国にはアメリカと似たマッチョ崇拝、つまり<男らしさ>を尊ぶ風潮があるのだと思っていた。

日本では、源義経などむしろ中性的なヒーローを尊ぶ傾向がある。対して、『三国志』に登場する武将たちは、たいていマッチョである――諸葛孔明は数少ない例外だろうか、でも彼は武将じゃないしなぁ

本著によると、女の子の身体に異変が生じて、男の子になっちゃったという話――今でいう半陰陽と思われるケース――が歴史書にいくつか書かれており、しかもそれが肯定的に言及されていることから、やはり男を尊ぶ文化はあったと思われる。

ところがそんな中国でも、女装男性、つまり「楊貴妃になりたかった男たち」は、たしかに存在したのである。

武田さんは例えば、三国時代の魏の政治家・何晏の例を取り上げる。彼はつねに白粉を顔に塗っており、女物の服を着ることを好んだという。「元祖・男の娘」というわけだ(w

時代が下っても、女装男性たちはしばしば歴史書のなかにその姿を現す。もっとも、彼らの存在は“真っ当な”知識人たちの間では不吉な出来事の前触れと見なされ、さげすまれていたようである。

反対に、女性が男性になるというケースは、先ほどの例からも分かるとおり、わりと大目に見られていたらしい。こういうところに、女装と男装の差異を感じざるをえない。

本著のテーマは基本的に女装男性であるが、男装女性の話も取り上げられている。『「女装と男装」の文化史』同様、本著でも女性の男装の主な理由は、社会に進出するため、あるいは学問を修めるため、とされている。

 

さて、中国における悪名高い伝統のひとつに、「纏足」(てんそく)が挙げられる。

これは、女児の足を布で巻くことによって、足が大きくならないようにするという風習である。こうすると足が変形し、大人になってもまるで子供のように小さな足のままとなる。かつての中国では、これが美人の条件のひとつとされていたのだ。

となると、女装男性にとってはこの纏足が、女性を装ううえでの高いハードルとなる。さぁ、彼らはどうしたか。

中国では「京劇」という伝統的な戯曲がある。この京劇は日本の歌舞伎と同じで、男性の役者のみによって演じられる――現代ではそうでもないらしい。女性を演じる「女形」の京劇俳優たちは、纏足をどう表現したか。

なんと、纏足を疑似的に再現できる道具があったというのだ。

「蹺」(きょう)と呼ばれる道具がそれである。

本著のなかにそのの写真が載っているので、詳しく知りたい方はそちらをご覧いただきたい。興味深いのは、京劇俳優だけでなく、女装男性たちもこのを愛用していたということである。彼らはを使って纏足を疑似的に再現することで、男だとバレないようにしていた――業界用語で言うと、「パス率」を上げていた――のである。

だが、彼らがを愛用した理由は、それだけだろうか。単に男だとバレにくくするという実用上の問題だけでは、なかったのではないか。

いささか不適切な物言いかもしれないが、彼らがを愛用した理由、それは纏足へのあこがれではなかったか。

現代における女性の靴のひとつに、ハイヒールがある。ハイヒールは、それを鑑賞する側の男性たちからはわりと好まれるが、当の女性たちからは、「痛い」「動きにくい」というので、意外と嫌われている靴でもある。女装男性は、しかしながらこの不人気なハイヒールを好んで履きたがることが多い。

それは、ハイヒールがジェンダー記号として通用するからだ。

ジェンダー記号」というのは、この場合、女性であることを表す記号のことで、女性しか身につけない衣服――スカート、ストッキングなど――や装飾品、顔のメイク、長い髪、豊かな胸などがこれにあたる。女性しか履かないハイヒールもまた、ジェンダー記号として通用する。

女装男性は、このジェンダー記号をなるべく多めに身に着けようとする傾向がある――そのせいで、彼らは時に女性たちから「私たちよりも女性らしい!」と驚かれる。そうすることによって、彼らは自らの内にある女性化願望を満たしているのである。

では、纏足はどうだろう。この時代の中国では纏足は女性の風習として広く行われていたため、纏足もジェンダー記号として通用したのである。したがって、ジェンダー記号を多く身にまとって女性化することを望む女装男性たちが、たとえ動きにくくなってもあえてを使うことで、自らの女性化願望を満たして悦に入っていた可能性は十分考えられる、と僕は思っている。

 

中国における女装の歴史を描いてきた本著。終章では、現代中国における女装文化が取り上げられる。

近年では、日本同様、中国でも女装に憧れる若い男性が増えているらしい。日本ですっかり定着した「男の娘」も、今後中国で急速に広まっていくことだろう――最近は、日本で流行ったサブカルチャーは、たいていすぐに中国にも伝播していくものである。「腐女子」がその好例

楊貴妃になりたい男たち」は、今後ますます増えていくに違いない。

 

楊貴妃になりたかった男たち <衣服の妖怪>の文化誌 (講談社選書メチエ)

楊貴妃になりたかった男たち <衣服の妖怪>の文化誌 (講談社選書メチエ)

 

 

最近見た映画の感想(第230回)

・『カルテル・ランド』

メキシコ社会を蝕む犯罪組織「カルテル」をテーマに描いた、ドキュメンタリー映画である。

カルテルは、自らに逆らう地域住民を次々と殺害していく。その手口は残忍そのもの。斬首して生首を晒すというのだから、もはやISあたりと大差ない。

かように残虐なカルテルに立ち向かうべく、地域住民たちは結束して「自警団」を結成した。もはや政府などあてにならないので、この自警団が直接カルテルと戦うのである。彼らは勇敢で、着々と“戦績”を挙げていく。

メキシコ各地に雨後の筍のように次々出現した自警団は、しかしながら次第に、政府の傘下に入って警察組織として再出発するグループと、あくまで独立組織としてカルテルと戦うグループとに分裂していく。さらには自警団自体が、新たな犯罪組織へと変貌を遂げていくのである。なんとも皮肉な話ではないか(;^_^A

本作では、メキシコの隣国・アメリカも描かれる。カルテルは国境を超えてアメリカにまで進出しており、彼らに立ち向かうべく、これまた地域住民たちが自警団を結成、彼らと戦っているのだ。本作は2015年公開の映画だが、自警団のメンバーたちが2016年の大統領選においてトランプを支持しただろうことは、容易に推察できる。

 

 

・『美しい星』

桐島、部活やめるってよ』でおなじみ吉田大八監督が新たに手掛けたのはなんと、かの三島由紀夫の唯一のSF小説『美しい星』の映画化であった。

吉田監督は大胆にも、舞台を(原作が書かれた)20世紀半ばから21世紀の現代へと移し、テーマも核戦争から地球温暖化へと改めている。

主人公である“火星人”の父親を演じるのは、リリー・フランキー。あまりに絶妙のキャスティングに、思わず舌を巻いてしまう(w)。原作では、父親はあまり働かずに資産を切り崩しながら生活しており、そのせいであまり世間擦れしていない、という設定になっていた。独特の存在感のあるリリーには、まさにうってつけの役だ。

“金星人”の娘役の橋本愛も良い。Venus(ヴィーナス)の英名を持つ金星の出身ゆえに、原作では娘は絶世の美女という設定であった。橋本ならピッタリだ。

本作は、巷では難解な映画と評されているようだが、終盤における“異星人”黒木と主人公との論戦シーンは、原作と比べると短く、かつ分かりやすい内容になっている。原作では極めて難解な思想的問答が延々と続くのだ。

かといって、けっして物足りないというわけでもない。本作において最も評価されるべき点、それは笑えるということだ。リリーが火星人としてひととおり喋った後に必ず見せるキメポーズなんか毎回笑えるし(w)、橋本がUFOを召喚するときに見せるナゾの手の動きも笑える。

「えっ、あの三島由紀夫原作の映画なのに、笑っちゃっていいの?」

と皆さん戸惑われるかもしれない。笑っていいのだと僕は思っている。

原作も、意外とコミカルな部分も多いのに、三島が例によってあの格調高い文体で書くものだから、内容と文体とにギャップが生まれ、それが読者を笑わせるのである。本作も、リリーや橋本の仕草はどうみてもただのギャグなのに、それを吉田監督が美しい映像とキレのある演出で撮るものだから、原作同様にギャップが生まれ、笑えてしまうのである。

そう、『美しい星』はギャップで笑う作品なのだ。吉田監督は、それをよく理解している。

 

美しい星 通常版 [DVD]

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・『ローマ法王になる日まで』

ローマ法王・フランシスコの半生を描いた伝記映画である。

後の法王となる主人公・ベルゴリオ神父は、アルゼンチン出身。若い頃は化学を専攻する理系学生であったが、やがて神の道を志し、イエズス会へと入会する。当初は意外にも日本への赴任を希望していたが、結局アルゼンチン本国で聖職者として働くこととなる。

当時のアルゼンチンは、軍事独裁の時代であった。軍部の手口は粗暴にして陰湿であり、拷問は当たり前、反逆者の遺体は飛行機から投げ捨てられ、僻地へと投下される。まるでアジアの開発独裁の国のようだ。こんなことがアルゼンチンでもあったのか、と我々日本の観客は驚かされる。

そんな野蛮な時代にあって、ベルゴリオ神父は教会内の改革派として、貧しい人々のために日々尽力するのである。

ラスト、前法王ベネディクト16世の予想外の退位により、ヴァチカンにて急遽コンクラーヴェ(法王選出会議)が開催。ベルゴリオ神父はそこで多数の票を獲得し、新法王へと選出された。映画は、法王が近いうちに(当初の赴任希望地であった)日本を訪れる日が来ることだろうとのナレーションを流し、終幕する。

法王は、どうやら知日家のようだ。だが我々日本人は、ローマ・カトリック教会についてあまりに無知、無関心すぎはしないか。とりあえずコンクラーヴェを根比べとかけるダジャレは、大概にしたほうがいいだろう。

 

ローマ法王になる日まで [DVD]

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・『さざなみ』

もはや老境に達した主人公夫婦。そろそろ結婚45周年を迎えるが、そんなある日、夫のかつての恋人で遭難事故にあった女性の遺体が発見されたとの知らせが届く。

一見平静を装うも、明らかに動揺を隠しきれない夫。妻はやがて、屋根裏部屋に夫のかつての恋人の写真が今でも保管されていることに気づく。しかも彼女は、どうやら妊娠していたようなのだ……。

妻は疑心暗鬼に陥る。夫は本当に自分を愛していたのか。自分にかつての恋人の姿を投影し、彼女をこそ愛していたのではなかったか、と。

本ブログで何回も述べてきたように、死人に口無しなんて嘘、死者はときに生者以上に生者のふるまいを強く規定する。死んだはずの元恋人は、長年連れ添った夫婦のあいだに、まさに“さざなみ”を起こしたのである。

 

さざなみ [DVD]

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・『LOVE』

過激な性描写で知られるギャスパー・ノエ監督による作品。

とにかくセックス、セックス、またセックスのオンパレード(w)。上映時間の実に半分以上がベッドシーンなんじゃないかというくらいだ(w

おまけに本作、劇場ではなんと3D上映されたというのだから笑ってしまう。きっと観客たちはさぞかし臨場感あふれるセックス場面を目撃、アソコがおっきしたことだろう(;^ω^)

劇中、セックス三昧の日々を送る主人公だが、彼の佇まいはとても満足しているようには見えない。童貞諸君は「セックス三昧」などと聞くとうらやましがることだろうが、どうやらその実態はさほど楽しいわけでもなさそうだ。

 

 

書評『人はなぜ、宗教にハマるのか?』

本ブログではこれまで、認知科学者の苫米地英人さんの著作をいくつか取り上げてきた。一歩間違えればトンデモすれすれの(w)ユニークな仏教観が彼の魅力だ。

本日ご紹介する『人はなぜ、宗教にハマるのか?』フォレスト出版もまた、良くも悪くも、いかにも苫米地さんらしい著作である。

 

本著はタイトルのとおり、人類と宗教との関係がテーマだが、重点が置かれているのは、やはり仏教だ。

興味深いのは、釈迦の教えは宗教としては圧倒的に弱かったはずだが、思想としては圧倒的に強力だった、という苫米地さんの指摘。

確かに、彼の言うとおりなのだ。仏教は、非暴力主義を採る。布教にも熱心ではない。そのため、歴史上、他の宗教に駆逐されることがほとんどだった。

たとえば、中央アジア。かつては仏教がさかんだった地域だが――かの三蔵法師がここを旅したことからもわかる――今ではイスラーム圏になっている。仏教は、イスラーム教に負けてしまったのだ。

そんな弱々しい仏教は、しかしながら苫米地さんに言わせれば「あらゆる宗教に内在する本質的な矛盾がない」とのこと。どういうことだろう。

 

仏教は、神を否定する、ということだ。

キリスト教イスラーム教は全知全能、完全無欠の神の存在を前提とするが、そのような意味での神は、20世紀におけるゲーデルの不完全性定理によって否定されてしまった(※)、ゆえに神は死んだのだ、と苫米地さんは(まるでニーチェのようなことを)言っている。

ところが、(本来の)仏教は、そのような神概念を否定する。ゆえに、宗教としては最弱のはずの仏教が、神なき21世紀の今日まで生き残れた、というわけだ。なるほど、面白い指摘だな、と思った。

 

ゲーデルさんは、要するに「この世に完全無欠の論理体系なんてない」ことを証明したわけだが、苫米地さんによれば、当のご本人は熱心なキリスト教徒であり、自らの発見を終生悔やんだというから皮肉な話である。

 

さて、終章にて苫米地さんは、現代社会が危機に陥っていることを指摘する。

この危機を解決する手立ては、彼に言わせれば、ふたつある。

ひとつは、宗教と政治が一致した昔ながらの状態、すなわち政教一致へと戻るというもの。こう聞くと驚いてしまうが、実はこれ、イスラーム法学者・中田考さんのカリフ制復活論と通ずる発想である。

だが苫米地さんは、もうひとつ、道があるとしている。彼自身は、こちらを支持しているようだ。

それは、宗教からも政治からも自由になるということである。

ここから先、苫米地さんの大胆なアイデアが披露される。彼は、飢餓のない社会、税金の存在しない社会、義務のない社会、そして国家のない社会を空想するのである。

ずいぶんと、荒唐無稽な話に聞こえるかもしれない。だが、大胆な社会思想というのは、同時代の人間には荒唐無稽に思えるものなのだ。江戸時代に万人の平等を唱えた思想家・安藤昌益だって、当時は狂人扱いされたのである。今や人類の平等など当然の発想だというのに!

苫米地さんの奇抜なアイデアが実現する日だって、案外そう遠くはないのかもしれないのだ。

 

本著には、「さすがにこの議論はちょっと、暴走気味なのでは……?」と困惑してしまう箇所も、なきにしもあらずである。

たとえば苫米地さんが日ユ同祖論を唱えるあたりは「ぶっちゃけ、どうなの、コレ……?(;^ω^)」と読んでいてハラハラしてしまうほどだ(w

彼の視点は、良くも悪くも、とても斬新だ。それがときとして日ユ同祖論などのややオカルティックな方面に走ってしまうのは玉に瑕だろうが(w)、それでも、上述した彼の未来社会のビジョンなどは、興味深いと感じる。

 

優れたアイデアとは、つねに奇抜なものだ。今後も苫米地さんの著作を読み、本ブログにて紹介していきたいと思っている。

 

人はなぜ、宗教にハマるのか?

人はなぜ、宗教にハマるのか?

 

 

書評『僧侶が語る死の正体』

「ねぇ、死んだらどうなるの?」

子供の頃、僕はよく母にそう質問したものである。そういうとき、母の答えはきまって

「さぁ、死んでみなきゃわかりません♪」

というものだった。なんだかおちょくられたようで、子供心に少しムッとしたのをよく覚えている。

だが世の中には、絶対に答えが出ない問い、というものもあるのだ。たとえ頭のいいお坊さんであっても、絶対に答えが出せない問い――それこそ、この「死んだらどうなるの?」という問いに他ならない。

 

今回ご紹介する本は、『僧侶が語る死の正体 死と向き合い、不死の門を開く、五つの法話(サンガ)である。これまでに多くの著作を世に出してきた五人の僧侶の、死に関する論考をまとめて一冊の書籍としたものだ。

 

トップバッターは、曹洞宗僧侶・ネルケ無方さん。

「ネ、ネルケ!? 何その芸名みたいな名前? 本当にお坊さん? てか、日本人??」

と皆さん不思議に思われるかもしれない(w

ネルケ無方さんは、ドイツ人の禅僧である。牧師の家に生まれた彼は、キリスト教系の高校にて禅と出会い、大学時代には日本の道元について研究したという。今日では曹洞宗僧侶として、兵庫県の寺院の住職をつとめるかたわら、多くの著作も世に出している。

へぇー、こんな人材までいるのか。スゴイぞ、曹洞宗(w

そんなネルケさんは、道元『正法眼蔵』をたびたび引用しながら解説をしている。『正法眼蔵』といえば、ちょうど先日、現代語訳を読んだばかりだ(w)。「うんうん、そういえばありましたよね~(w)、そんな箇所」とうなずきながら、ネルケさんの“法話”に耳を傾けたのだった。楽しかった(w

 

お次は、プラユキ・ナラテボーさん。彼は、タイの仏教僧である。

「そうか、ドイツの次はタイの人なのかw」と思っていたら、違った(w)。プラユキさんは意外にも日本人であり、日本からタイへと移住、出家して上座部仏教の僧侶となったのであった。つまり先ほどのネルケさんとは逆で、海外→日本ではなく、日本→海外という流れなのだ。

プラユキさんは、自らの師であったタイの高僧の死について語っている。いかにも高僧らしい、自らの死期を完全に悟ったうえでの、実に穏やかな最期であったようだ。彼の死は我々に、人間にとって理想的な死に方とはどのようなものかを教えてくれる。

 

三番手は、本ブログではすっかりおなじみ(w)浄土真宗の僧侶・釈徹宗さんだ。

本著の論考のうち四つは、サブタイトルに「法話」とあるとおり、親しみやすい話し言葉で書かれている。ところがこの釈さんの論考だけは、硬質の文体で書かれている。意外だった。釈さんの文章の特徴といえば、あのトークライヴのように滑らかな、話し言葉の文体だというのに。

この論考で釈さんが強調しているのは、「死では終わらない物語」の重要性だ。人間は物語無しでは生きられない。しかも今求められているのは、ただの物語ではなく、「死では終わらない物語」だ。科学が発展し、情報があふれかえるこの現代社会において、物語は容易に相対化されてしまう。それでもなお、「死では終わらない物語」は求められているのだ――釈さんはそう書き綴っている。

 

四番バッターは……ハイ、待ってました!(w) 本ブログではこれまたおなじみ、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんだ。

南さんが語るのは、「死者の実存」の話。

「えっ、死者が……実存?」

我々は首を傾げざるをえない。南さんには、こういう引っかかる言葉づかいがとても多い。おそらくは、意図的にやっているのだろう。思えば、道元もまた独特の言葉の使い方をする人であった。南さんは、そんな道元を意識しながら文章を書いているのかもしれない。

南さんに言わせると、遺体が火葬されて墓に収められたときから、死者としての実存が開始されるのだという。遺体と死者は異なる。遺体はただのモノだが、死者は実存として、生きる人々に影響を及ぼすのである。

僕にはとても納得できる話だ。本ブログでたびたび書いてきたことだが、死人に口なし(=影響力がない)なんてウソだ。死者はときに生者以上に、生者の振る舞いを強く規定するのである。

 

本著のトリを飾るのは、アルボムッレ・スマナサーラさん。スリランカ上座部仏教のお坊さんだ。彼は、大乗仏教の国である日本に上座部仏教の教えを広めるべく、来日、今日に至るまで精力的に執筆活動を続けている。

そんなスマナサーラさんの言葉は、意外にも自然科学の喩えを用いたものが多い。

……はて、この記述のスタイル、どこかで見たことがあるなぁ、誰かに似てるなぁ、誰だろう、と頭をひねっていたら、分かった。認知科学者の苫米地英人さんの文章に似ているのだ。実際、このふたりは対談したこともあるらしい。

スマナサーラさんが説くのは、人間は細胞レベルで常に生き死にを繰り返しているということ。生きているとは、死んでいるということでもあるのだ。

それからもうひとつ、執着から離れること。スマナサーラさんは、かつて視力が2.0もあったらしい(うらやましい!)。ところが今ではすっかり視力が落ち、左目には乱視まで入ってしまったらしい――実をいうと僕も近視には悩まされており、なおかつ左目には乱視があるスマナサーラさんは、それでも視力に執着しないという。視力に限らず、執着から離れることによって、人間は安らかな最期を迎えることができる、と彼は言うのだ。

なるほど、それが仏道なのか、と思った。僕は執着がありまくりで、ダメだなぁ(w

 

さて、本著の五つの論考を並べて見ると、浄土真宗(釈さん)だけ異質だと感じる。本著を読む前は、浄土真宗曹洞宗は同じ大乗仏教だから近くて、上座部仏教はそれらとはやや離れている感じかな、と思っていた。

そしたら、違った。浄土真宗だけが異質で、曹洞宗上座部仏教のほうがむしろ近いと感じられた。やはり、浄土真宗は仏教というよりかはむしろ、キリスト教と言ったほうが良いのかもしれない。

その曹洞宗上座部仏教のお坊さんたちがたびたび言及するのが、道元の名だ。曹洞宗ネルケさん、南さんはまぁ当然だとしても、上座部仏教スマナサーラさんも道元について肯定的に言及しているのは、やや意外の感があった。

道元って、やっぱりすごい人だったんだなぁ、と再認識w(^▽^;)

 

 

……思えば、僕がこれまで読んできた仏教書は、大乗仏教サイドの人たちが書いたものばかりだった。今回、こうしてはじめて上座部仏教の人たちの文章に触れることができた。

上座部仏教について、もっと知りたいな、スマナサーラさんたちの本をもっと読んでみたいな。そう強く思っている。

 

僧侶が語る死の正体: 死と向き合い、不死の門を開く、五つの法話

僧侶が語る死の正体: 死と向き合い、不死の門を開く、五つの法話

 

 

最近見た映画の感想(第229回)

・『リコシェ 炎の銃弾』

黒人の名優デンゼル・ワシントンは、社会派作品に好んで出演することで知られている。本作もまた、一見するとただのアクション映画だが、その背景には「黒人社会の紐帯」という社会的テーマがあるのである。

ワシントン演じる主人公の黒人警官。型破りで行動力のある彼はどんどん出世街道を登っていくが、かつて彼によって逮捕され、強い怨みをもっている凶悪犯の男が脱獄、彼に無実の罪を着せようと画策する。

終盤、冤罪で(白人)社会から放逐されかけた主人公に救いの手を差し伸べてくれるのが、彼の旧友である黒人の麻薬密売グループであった。たとえワルであっても、いざというときに助けてくれるのはやっぱり、黒人の仲間たちであったのだ。

かくして本作は黒人たちの絆の強さを謳いあげる。決して、ただのB級アクション映画などではない。

 

リコシェ 炎の銃弾 [DVD]

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・『グアンタナモ、僕達が見た真実』

2001年9月、パキスタン系イギリス人の青年たちが、アフガニスタンを旅行で訪れる。ところが時は米軍のアフガン侵攻真っ只中。彼らは不運にもテロリストと間違えられ、身柄を拘束されてしまう。

彼らにとってのさらなる災いは、イギリス人であるため英語を流暢に話せたこと。そのせいで彼らは国際テロリストと誤認され、かの悪名高きグアンタナモ米軍基地へと収監されてしまうのだ。

グアンタナモでの毎日は、まさに生き地獄。厳しい尋問のほか、大音量の音楽を流して夜も寝かせないなどの拷問は当たり前、独房にはトイレもなく、まるで『収容所群島』の世界である。まさか21世紀のアメリカがこんなナチスソ連みたいなことをやるなんて、と観客は言葉を失うことだろう。

本作は実話に基づいており、インタビュー映像に登場するのはなんと本人たち(!)だという。まさしくタイトル通り、これは「真実」なのだ。

 

グアンタナモ、僕達が見た真実 [DVD]

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・『サウルの息子

ナチス強制収容所では、ユダヤ人の遺体の処理などを、同じユダヤ人が担当していた。「ゾンダーコマンド」と呼ばれる彼らは、この仕事を担当するかわりに、自らの処刑を延期――免除ではない――されていたのである。

本作の主人公もまた、そんなゾンダーコマンドのひとり。ある日、彼はユダヤ人少年の遺体を見つけて、それが自分の息子だと思い込む。彼はなんとかして“息子”を弔おうとし、ついに反乱に乗じて収容所を脱走、少年の遺体を埋葬しようとする。

どうして、弔いがそこまで大事なのだろう。それは弔いこそが、モノ(死体)を人間として扱うという意味で、最も人間的な行為だからだ。

以前にも書いたようにアウシュビッツの本質は処刑場ではなく工場であった。それは死体という製品を生産する工場であり、ユダヤ人はその原材料に過ぎなかった。そこでは、人間がモノとして扱われた。実際、本作のなかでもユダヤ人の遺体は「部品」と呼ばれる。当然、弔いという行為はそこにはなく、ユダヤ人の遺灰は近くの川に投げ捨てられるのである。

この「工場としてのアウシュビッツ」に対するもっとも根源的な次元でのプロテストこそが、「弔い」に他ならなかったのだ。

 

 

・『悪い種子』

主人公の、10歳の少女。まだ小学生だというのにこの子はなんとサイコパス(!)で、本当に躊躇なく、次々と周囲の人間たちを殺していく。この少女を演じている子役の女の子がとにかく迫真の演技で、ただもうコワイこわい(;^_^A

ラスト。それまでの陰鬱とした本編とはうってかわって、まるで舞台のように役者さんたちが笑顔で“カーテンコール”に登場するのは、「皆さん、ご安心ください。これはフィクションですからねw」と観客を安心させるための演出なのだろう(w

 

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・『私は殺される』

今ではさすがにそんなことはないだろうが、昔は電話が混線するということはよくあったらしい。

心臓病のため寝たきりの日々を送る、主人公の女性。ある日、夫のいる職場に電話しようとしたところ、その電話が混線、「今夜11時15分に例の女を殺そう」という物騒な内容の通話を耳にする。驚いた彼女はさっそく警察はじめ周囲の人々に電話をかけるが、まともに取り合ってもらえない。

やがて彼女は理解するのである。電話の「例の女」とは、ほかならぬ自分自身であることを。

途中、回想シーンが多くてややダレるが、ラストはなかなかの緊迫感。まさに「私は殺される」という主人公の心の叫びが聞こえてきそうだった。

 

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書評『現代文訳 正法眼蔵』

本ブログではこれまで、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの著作をさかんに取り上げてきた。

だが、その曹洞宗において聖典としてあがめられている道元禅師の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)については、まだ読んだことがなかった。

僕は高校生のころから古典の科目が一番のニガテで、読むとしたら現代語訳しかない。でも『正法眼蔵』の現代語訳なんて、はたしてあるのだろうか。

……と思っていたら、あった(w)。現代思潮新社の創業者として知られる石井恭二さん(1928-2011)による『現代文訳 正法眼蔵』なる本があるではないか! よし、読もう!

 ……ところがここで、心のなかにためらいが生じてしまうのである(;^ω^)

正法眼蔵』は、日本の古典のなかでも最も難解な内容だと聞く。果たして僕のような凡夫に、その深遠な内容が理解できるのだろうか。

とはいえ、そんなことを気にしていたら、いつまでたっても読むことなどできないだろう。大事なのは、ある種の決断主義的な態度ではないのか。 

 

というわけで、今回、『現代文訳 正法眼蔵河出書房新社全5巻を読んでみた次第である。

 

まずは第1巻から見ていこう。

最初の章「現成公案」は『正法眼蔵』のなかでも最も有名な箇所で、広く知られている道元禅師の言葉「自己をならふといふは、自己をわするるなり」もこの章に出てくる。次の「摩訶般若波羅蜜」は、明らかに『般若心経』を意識した章だ。『般若心経』が曹洞宗にとって重要な経典だということが、ここからも分かる。

……とまぁこんな感じで、各々の章をひとつずつじっくりと吟味できれば一番良いのであるが、いかんせん道元禅師の言うことは難しくて、我々凡夫にはよく分からない。

分からない箇所は、そのまま読み飛ばしても良いのだと思う。上述のとおり、日本の古典のなかでも指折りの難解な著作とされている本なのだ。一回読んだだけで全部分かるほうが、むしろおかしいのである。さぁ皆さん、安心して『正法眼蔵』を読み飛ばしていこう(←オイ)

第16章「行持」は長いので上下に分かれている。このうち上のほうで、道元禅師は以下のように書いている。

≪出家し学道する者が、どうして立派な建物に住むことがあろう。もし豊かな建物を手に入れる者があれば、その者たちで邪道に堕ちない者はなく、清浄な暮らしをする者は稀である。立派な建物がもとからなるなら別であるが、改めてそのようなものを営んではならないのだ。草庵や白木の家屋は、古来の聖人の住むものである、古来の聖人が愛するところである。≫(第1巻288頁)

アレ? 今の曹洞宗宗務庁って、都内の結構立派なビルじゃなかったっけ?(w

 

現代文訳 正法眼蔵 1 (河出文庫)

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続いて第2巻。

有名な「有時」の章は、本巻に収められている。「有時」は、ハイデガーベルグソンなど、近代の哲学者とよく比較される個所である。20世紀の実存主義の哲学者とも通じる言葉を、13世紀の日本の仏教僧が言っているのだから、考えてもみれば、すごい話だ。『正法眼蔵』は、日本仏教というよりかはむしろ、日本の“思想”にとっての最高峰といえるのかもしれない。

個人的には、 「礼拝得髄」の章も良いな、と思った。前近代の日本仏教では女性を穢れと見なす風潮が強かったのだが、道元禅師はこの章のなかで男女平等を説いているのだ。

どうやら禅師の思想は、実存主義だけでなくフェミニズムにも通じるようである。

 

現代文訳 正法眼蔵 2 (河出文庫)

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第3巻へ。

道元禅師の言葉はあいかわらず抽象的で難しいが、なかには具体的な記述もある。

「洗面」という章がそれで、まさしくタイトル通り、洗面の仕方について細かく指示した章である。

道元禅師の注文は実に細部にまでわたっており、たとえば顔を洗うだけでなく楊枝を使って歯も掃除しろ、とまぁとにかくうるさい(w

どうして楊枝を使うのか。これを使わないと口臭がひどくなるからだ。実際、楊枝を使う習慣のない中国人は口臭がキツかった、と禅師は書いている。

≪天下の出家人も在家人も、みなその口の息は非常に臭い。二三尺を隔ててものを云うときでも、口臭が押し寄せてくる。その臭いを嗅ぐ者にとっては耐えがたい。≫(第3巻265頁)

なにもそこまで言わなくても……と我々は思ってしまうが(;^ω^)、道元禅師はこのように結構キツいことも、ときには言っている。

この後の「洗浄」の章でも、禅師はトイレの使い方などを実に事細かに指示している。道元禅師の潔癖症的な性格がよく現れている箇所だ。

 

現代文訳 正法眼蔵 3 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵 3 (河出文庫)

 

 

まだまだ続くよ第4巻。

この箇所を執筆するころから、道元禅師は永平寺の建設に着手したらしい。本巻では、たとえば「発菩提心」の章などに、禅師の寺院建設に向けた心構えを見て取ることができる。 

なお、『正法眼蔵』の序文とされている「弁道話」は本巻に収められており、こちらのほうが本編よりやや分かりやすい。本編を一通り読んだら、この「弁道話」を読み、それから再度本編を読むと、理解が深まるかもしれない。

「弁道話」では、仏教の修行において座禅がいかに大事であるかが述べられている(まさに只管打坐!)

さて、本巻の巻末にある「七十五巻本 正法眼蔵への後記」というあとがきにて、訳者の石井さんは、江戸時代の曹洞宗僧侶・良寛(1758‐1831)の詩を取り上げている。とても興味深い。「一句一言、皆、珠玉たり」――つまり、『正法眼蔵』の一字一句が光って見えた、と良寛は書いている。そういえば、『ブッダとそのダンマ』のあとがきで佐々井秀嶺さんも同じようなことを言っていたっけ。

 

現代文訳 正法眼蔵 4 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵 4 (河出文庫)

 

 

ようやくラスト第5巻。

本巻に収められている箇所は、「12巻本」と呼ばれるものだ。

道元禅師は『正法眼蔵』を75章まで書いたのだが、その後さらに追加して書いたのが、この12章である。本来ならば25章まで書いて全100巻にしたかったらしいのだが、禅師が病没してしまったため、12章までで打ち止めとなってしまった。

この箇所は禅師の晩年に書かれたためか、自らの思想を明らかにしたものというよりかは、自らの死後残されることになる弟子や信者たちに宛てた禅師のメッセージ、という印象が強いように感じられる。

 

現代文訳 正法眼蔵 5 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵 5 (河出文庫)

 

 

さて、駆け足で全5巻を見てきたが、やっぱりよく分からないというのが僕の率直な感想である(;^_^A

「うーん、難しいなぁ。せめて現代語訳してくださいよ(※現代語訳です)」とグチを言いたくなるほどだが(w)、まぁ、最初のうちは分からなくてもいいのだろう。

僕は、イスラーム法学者・中田考さんの言葉を思い出す。紙幅の関係上、以前の書評では書けなかったのだが、社会学者・橋爪大三郎さんとの対談本『クルアーンを読む』のなかで、中田さんは「分かりやすさ」を過剰なまでに求める昨今の風潮を批判していた。

古典というのは、一読しただけではよく分からないもの。それでいいのだ。何回も何十回も読み返していくうちに、少しずつ分かってくる――それが本当の古典なのだ、と。

正法眼蔵』は、僕にとってはまさに、そうした意味での古典である。