Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『ポル・ポト〈革命〉史』

20世紀は、共産主義の世紀であり、同時に大量殺戮の世紀でもあった。

とりわけひどかったのが、カンボジアだ。犠牲者数では中国のほうが多いものの、国の総人口に対する犠牲者の割合でいえば、カンボジアのほうがより悲惨であった。なにせ、国民の3分の1近くが死亡した、とされているのだ。殺されたのは、それも知識人層であった。

平和が回復して後も、この国は長く、虐殺による爪痕に苦しめられ続けた。

 

本日ご紹介する『ポル・ポト〈革命〉史』講談社は、20世紀カンボジアにおける悲劇を取り上げた書籍である。著者は、ジャーナリストの山田寛さん。

 

東南アジアの小国・カンボジアは、フランスから独立した後も、政情不安で揺れ続けた。そんな不安定な情勢に乗じて、一挙に棚ぼた式にこの国の実権を握ってしまったのが、独裁者ポル・ポト率いるポル・ポト派であった。

ポル・ポト派が断行したのは、都市の住民を強制的に農村に移住させ、そこで労働させるという政策。日本の農本主義に似ていなくもないが、しかしながらこれは、まったく農民を尊重しないという、奇妙な“農本主義”であった。

それもそのはず、農村のことなどまるで知らないポル・ポトはじめ都市部のインテリたちが、勝手に「ああしろ、こうしろ」と指図するというのだから、うまくいくはずがないのである。

彼らはやがて、国内に強制収容所を建設、反対派を次々と投獄していった。

いや、「反対派」と言っていいものかどうか。実際には、単に知識階級の人々が勝手に「反革命」などのレッテルを貼られ、投獄され、そして処刑されたのであった。

収容所の看守のなかには、まだ10代の少年たちもおり――中国の紅衛兵のようなもの――彼らは中央から命じられるままに、囚人たちを処刑していった。しかし、彼らにイソップ物語を語って聞かせてあげたインテリの男性もおり、彼は「面白い話を語って聞かせてくれたから」というので死刑執行を免除されたという。なんだか悪い冗談のような話だが、本当にあったことだ。

 

ポル・ポトは、他の独裁者たちがそうであったように、ナルシシストであった。

ベトナムと違い、ろくにアメリカと戦ったわけでもないくせに「我々は米帝をはねのけた!」と自画自賛、「共産カンボジアこそ世界最高の国だ!」と叫び続けた。

ところが、他の独裁者たちとは違っていた点もある。

普通、独裁者といえば、自らの肖像を学校・役場など公共の場に掲げさせ、また自らの銅像も国中いたるところに建設させるものだ。

ポル・ポトは、そうではなかった。著者の山田さんの言葉を借りれば、彼は国民に対し一種の「かくれんぼ」をしていたのである。

彼の銅像や肖像は、全くなかったわけでもないが、他の共産国と比べるとその数はとても少なかったのである。

彼は、たとえるならば、マジックミラーの向こう側に立って、「相手側からは全く見えないが、こちら側からはすべてを見通せる」という環境を好んだ。銅像・肖像などの個人崇拝はその逆、「相手側から自分の姿がすべて見える」状態に他ならない。彼は、そうした状態を嫌い、あくまで自らをマジックミラーの向こう側に位置づけ、「かくれんぼ」を続けたのである。この点、いささかユニークな独裁者であった。

 

終章。しかしながら独裁者ポル・ポトも、晩年になると、娘をかわいがるひとりの平凡な父親としての側面を見せていたことを、本著は指摘する。他のポル・ポト派幹部たちも同様に、晩年には意外と家族との絆を重んじたようだ。

山田さんはそこから、ポル・ポト派もまた普通の人間であったのでは、と指摘するのである。

そうした事実は、しかしポル・ポト派を免責するものではもちろんないだろう。むしろ逆だ。普通の人間があれほどの悪事を働いてしまったからこそ、話はより深刻なのだ、と見るべきだろう。それは、ユダヤ人を大量虐殺したアイヒマンを「凡庸な悪」だと指摘したハンナ・アーレントと同じ視点である。

ポル・ポト派は、遠い世界の人々ではない。我々もまた、条件次第ではいつでもポル・ポト派になりうるのである。

 

ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間 (講談社選書メチエ 305)

ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間 (講談社選書メチエ 305)

 

 

書評『愛国とノーサイド』

本ブログではこれまで、戦前の右翼団体玄洋社」、およびその総帥である頭山満に関する著作を多く取り上げてきた。

本日ご紹介する『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』講談社もまた、玄洋社頭山満に関連する書籍だ。

ところが、本著はそれだけではない。頭山家と、なんと、あの「ユーミン」こと松任谷由実の旦那の生家である松任谷家が婚姻関係で結ばれていた、というオドロキのお話なのである。

著者は、 延江浩さん。小説家、ラジオプロデューサーなど、多彩な活動で知られている。

 

先月取り上げた松岡正剛さんの『空海の夢』もそうだったが、本著は読了後、とても奇妙な感覚を味わわせてくれる本である。

本著は、はたしてノンフィクションなのか?

……ノンフィクションというよりかはむしろ、小説に近いように感じる。さまざまなエピソードが、時系列もバラバラに、断片的に描かれるのである。

メインとなるプロットはもちろん、頭山家と松任谷家のつながりの歴史である。だが、それだけではない。両家の歴史を木の幹に喩えるならば、いわば枝に当たるのが、同時に語られるさまざまなサブプロットだ。

本著は、ある箇所では、1960~70年代の音楽シーンについて詳述する。またある箇所では、戦前の右翼のテロ事件について詳述する。三島由紀夫が登場したかと思えば、坂本龍一が登場する。ユーミンが出てきたかと思えば、岸信介が出てくる。

玄洋社と邦楽とが、同じ本のなかで語られるのだ。

い、いったい何なんだ、この本は!(ww

 

本著のなかで無数のサブプロットが織りなすパズル模様を通じて、我々は、日本の近現代史を彩ってきた著名な人物たちが、血脈、婚姻関係などを通じて、意外な、そして密接なつながりを持っていたことを知らされる。そして、戦後日本においては、「日本とは何か」を考える想像力が、もっぱらサブカルチャーによって担われてきたことを知るのである。

頭山家は「政治」の世界の住民たちだが、松任谷家は「(サブ)カルチャー」の世界の住民たちだ。

サブカルチャーと聞くといまだにバカにする人たちが、とくに高齢者層を中心に、まだまだこの国には多い。だが、「日本とは何か」という問いに真摯に向き合おうとすれば、サブカルチャーを無視することなどできない。

サブカルチャーこそ、日本を知るための一番の素材にほかならないのだ。

 

サブカルチャーのほかに政治も語ると聞かされると、我々はつい身構えてしまいがちだが、著者である延江さんの筆致は、とてもニュートラルだ。

戦前の右翼団体玄洋社に対しても、そして、その対極にあると考えられがちな戦後の新左翼活動家の娘・重信メイ――実は重信家もまた、頭山家とは深いつながりがある――に対しても、彼の記述は実にニュートラルである。一般にはあまり人気のない岸信介についても、延江さんは、彼は彼なりの愛国心に基づいて行動していた、として描いている。

 

あらためて、本著のこの不思議な読了感は、いったい何なのだろう。

そういえば本著のなかで、ビートルズの"Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band"の話がちらりと出ていたっけ。なるほどたしかに、このアルバムと本著は、なんとなく似ている。あの、聞き終えた(読み終えた)ときに感じる、何とも言えない意味不明さが、である(w

あぁそうか、分かった。本著は、レコードをそのまま書籍にする、という試みだったのか。だから表紙も、レコードみたいになっていたのだ(w

 

愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家

愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家

 

 

書評『10万年の世界経済史』

産業革命は、まさしく“革命”であった。

これを境に世界全体のGDPは、それ以前とは比較にならないくらい、飛躍的に増大したのである。

では、“それ以前”の社会とは、いったいどのようなものだったのか。

本日ご紹介する『10万年の世界経済史』(日経BP社)のテーマは、まさにそれだ。

著者は、経済学者のグレゴリー・クラーク。

 

本著はまず、産業革命を境に世界全体のGDPがびよーん!と跳ね上がったことを示すグラフから始まる。てっきり著者は、近代を礼賛し、前近代をボロクソに貶したいのかと思いきや……さにあらず。

単純に「前近代は全然ダメ」というわけでもなく、前近代にも優れていた点はあった、というぐあいに著者は筆を進めるのである。

 

本著は、驚きがいっぱいだ。

たとえば、江戸時代の日本は同時期のイギリスよりも清潔であった。普通はそこで、昨今流行りの「日本SUGEEEEE!!!!!!」的な日本礼賛論へといくのだが、本著はそうではない。

むしろ、清潔だからこそ日本は同時代のイギリスよりも貧しかった、と著者は書いているのだ。彼は、日本の農民は有史以前の狩猟民よりも貧しかったとさえ述べている。かえって、ちょっとくらい汚れている国のほうが豊かだった、と言うのである。

この理屈は、正直僕にはイマイチよく分からなかったのだが(;^ω^)、ようするに、あんまり細かいことを気にしないおおらかな人々のほうが、物質的豊かさを手に入れやすいということなのだろう。確かに日本は、なにかと「清貧」を重んじる傾向があり、そのせいでたびたびデフレに苦しんできた。そう考えると、筆者の言うことにも一理あるな、と思えてくる。

今日の我々は、「豊かな国=先進国=衛生的」とつい考えてしまう。だがそれは、近代以降の発想である。近代以前においては、しばしば現在とは価値観が真逆であったという。今日の我々の価値観で前近代を見てはならない、と筆者は戒めている。

これは、僕にとってはけっこうな衝撃であった。

 

西暦1300年のイギリスと2000年の同国を比較する箇所も面白かった。我々は当然、現代のほうが進んでいるものと思ってしまう。ところが……

確かに、知的財産権の項目では2000年のほうが進んでいるものの、それ以外、たとえば労働市場の自由度などの項目では、意外や意外、1300年のほうがむしろ進んでいたのである。

う~む、これにも驚かされた。

 

10万年の世界経済史 上

10万年の世界経済史 上

 

 

続いて下巻。

世界史を振り返るとき、我々は「どうしてイギリスでいちはやく産業革命が起こったのだろう? どうして中国では、日本ではなかったのか」といつも不思議に思う。

ヘーゲルであれば、「それはヨーロッパが世界の最先端を行っているからさ! 中国?単に歴史が長いだけでずっと停滞してるでしょあの国www」と上から目線でドヤァ!と答えるところだろうが、さすがに21世紀の世界に暮らす著者は、もっと謙虚である。

あるいはマックス・ウェーバーであれば、「それは資本主義の精神ゆえだ」と答えるところだろうが、著者は別のアプローチを試みている。

当時の中国の長江デルタ地帯――今でいうと、上海のあるあたり――や日本も産業革命が勃興する一歩手前くらいのところまでは行っていた、と筆者も認めている。そしていずれはこれら両国とも自力で産業革命を成し遂げていただろう、とも。では、繰り返しになるが、どうしてイギリスで?

意外にもそれは、同国で上流階級の人口がどんどん増えたからだと言うのである。

上流階級の人口が増えすぎると、中流以下の階級へと落ちこぼれてしまう人たちが多数出てくる。それは、落ちこぼれてしまった当人たちにとっては悲劇だろうが、社会全体で見ると、必ずしもそうとは言えない。

よく教育を受けた上流階級の人々が落ちこぼれることによって、上流階級の知識・文化が下の階級へと伝えられ、社会全体がより知的になるからである。

筆者は、これこそがイギリスの産業革命の原動力となった、と言うのである。これは、あまりにも意外で、それゆえに面白い指摘であった。

 

10万年の世界経済史 下

10万年の世界経済史 下

 

 

さて、あらためて本著の感想を。

やはり冒頭の、産業革命を境に世界のGDPが跳ね上がっているグラフのイメージが、あまりに強烈すぎた。

社会学者のアンソニー・ギデンズは自著のなかで、我々の住む近代という時代は、それ以前の時代とはまるで異なるものだ、と強調している。本著は、そのことを経済学の立場から裏付けてくれた。

あらためて、近代という時代の凄さというか、おそろしさに、思わず身震いしてしまった。

書評『イスラエル全史』

相次ぐパレスチナ人殺害。頻発する自爆テロ

イスラエル」と聞くと、我々はどうしてもきな臭いイメージを抱いてしまう。

本日ご紹介する『イスラエル全史』朝日新聞出版)は、そんなイスラエルの歴史を詳述してくれる書籍である。上下巻。どちらも、ずっしりと分厚い本だ。

ユダヤ民族の歴史は長いが、イスラエル国家の歴史は近代に入ってからのことである。本著ではイスラエルの実質100年間の歴史が描かれているのだが、その100年間のなんと密度の濃いこと! 同国の歴史はまさに「激動の100年」と呼ぶにふさわしい。

そんな100年が濃縮されているのが、本著である。

 

ユダヤ人の間で「パレスチナに帰ろう」との声が高まったのは、19世紀末のこと。実際にかの地にユダヤ人たちが入植してきたのは、19世紀の終わりから20世紀に入ってからのことであった。当時のパレスチナオスマン帝国の領土であり、アラブ系住民が多く暮らしていた。

そんななかに、いわば「割って入ってきた」のがユダヤ人であったのだ。当初でこそアラブ人の数分の一の人口を占めるにすぎなかったユダヤ人だが、20世紀前半には入植が進んだこともあり、次第にその数を増やしていった。それにともない、元々住んでいたアラブ人との対立は激化していったのだ。

今日において顕著な「ユダヤvsアラブ」という対立図式は、このころからすでに存在したのである。

第一次大戦後、オスマン帝国にかわってパレスチナの支配者となったのが、イギリスであった。イギリスは、ユダヤ人の入植によってアラブ人との対立が激化しつつあるのを問題視、彼らの入植を制限しようとした。

おりしもドイツにてナチスが台頭しつつあった時期である。つまりこの時期、ユダヤ人は欧州の二つの大国から迫害を受けていたのだ。ひとつはナチス・ドイツからホロコーストというかたちで。もうひとつはイギリスから入植制限というかたちで。

第二次大戦が終結して後、パレスチナ情勢はますます混迷の度を深めた。難民となったホロコースト生存者を受け入れるため、そして二度とホロコーストなどという悲劇に遭遇しないため、ユダヤ人の間ではやはり、自前の国家が必要、との意見が高まった。

ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人と、それに反対するアラブ人との対立は、いっそう激化した。これにパレスチナ宗主国、イギリスの動きも加わって、事態はいよいよ泥沼化の様相を呈してきた。

この箇所では、ページをめくるたびに「〇月×日、△△にて戦闘、□人死亡」といった記述ばかりが続く。正直、気が滅入ってくる。

1948年、ユダヤ人による新国家「イスラエル」の建国が宣言された。当時、新国家の名称として、いくつかの候補が挙がっていたようだ。だが新国名が「イスラエル」に決まったと聞き、当時のユダヤ人たちは皆「これしかない」と納得したのだという。古代に栄えたユダヤ人の王国が、この名前だったからだ。

イスラエルの建国は、しかしながら新たな対立の幕開けに他ならなかった。イスラエルの建国“と同時に”他のアラブ諸国が同国に宣戦布告してきたからである。かくしてイスラエルは、他の周辺諸国“すべて”を敵に回し、戦わねばならなくなった。

 

イスラエル全史 上

イスラエル全史 上

 

 

本著を読んでいてとにかく圧倒されるのは、イスラエルの歴史は、本当に戦争の連続だということである。1948年に建国されて以来、この国はひたすら戦争をやっている。この下巻でも、ページをめくるたび「〇〇にて×人死亡」といった記述ばかりで、ウンザリするほどだ。

同国が置かれた困難は、我々日本人の想像を超えている。わが日本とて、隣国との関係はあまりうまくはいっていないが、それでも中国、韓国は「日本の生存権を否定せよ」とまでは(今のところ)さすがに言わない。ところがアラブ諸国は公然と、イスラエル国家の生存権を否定したのである。イスラエルは、そうした隣国たちと戦わねばならなかったのだ。ユダヤ人が「日本人は水と安全はタダだと思っている」と愚痴った、という話をどこかで聞いたことがあるが、それもむべなるかな、という気がする。

そんな困難のなかにも、英雄たちはいた。それはたとえば、男勝りの女性首相ゴルダ・メイアであり、パレスチナアラファト議長と歴史的な握手を交わした首相イツハク・ラビンである。本著は、そのラビン首相による1993年のオスロ合意を、クライマックスとして描く。その後に彼がたどった悲劇的な最期は、エンディングといったところか。

上述のとおり、イスラエルと聞くと我々はどうしても「怖い」という印象を抱くかもしれない。だが終章にて、本著の著者は、イスラエルが現代的な国造りに邁進し、かなりの程度それに成功しつつあることを強調しているのだ。

著者はまた、パレスチナとの和解にも前向きである。彼は以下のように書き、この大著を締めくくっている。

≪もしもこの一帯に平和と繁栄と調和を求めるとすれば――そしてあまりにも長い間ぶつかり合ってきた人びとにすればそれほどふさわしいものはない――イスラエルと接して平和に生きるパレスチナ国家がどうしても必要だ。地中海とヨルダン川にはさまれた東西九十哩の幅しかない細長い区域全体に平和が実現すれば――二つの民族の夢が生かされる祖国、そして理性と英知が力をもち、豊かで躍動感にあふれ満ち足りた二つの民族の祖国が実現すれば――イスラエル国家の未来はさらに明るいものになるだろう。≫(下巻580頁)

イスラエルに偏見を持っている方にこそ、僕は本著を読むことをおすすめしたい。

 

イスラエル全史 下

イスラエル全史 下

 

 

※余談ながら。19世紀にユダヤ人国家建設が議論された際、問題になったのが、言葉であったという。

それまでユダヤ人は、自らの住む国の言葉を話していた。当時のユダヤ人のあいだではドイツ語ないしイディッシュ語が主流であり、その次がロシア語、ついでフランス語であったらしい。

しかしユダヤ人は、こうした現状を良しとはせず、祖先の言葉であるヘブライ語を話そうとしたのである。

これは、大変なことだ。ヘブライ語は古代の言語であり、19世紀当時では死語となっていたからである。これを復活させるには、まず発音をしっかりと確定しなければならないし、「電気」「民主主義」など近代特有の語彙も新たに作り出す必要がある。

気の遠くなるような作業だが、これを地道にこつこつと続けたのが、ユダヤ人という民族なのである。そして彼らはついに、ヘブライ語を復活させることに成功したのであった。

民族概念の核は、言語である。自らの父祖たちの言語を蘇生させたユダヤ人に、僕は心から敬意を表する。

最近見た映画の感想(第241回)

・『フェリーニのアマルコルド

イタリア映画界の巨匠、フェデリコ・フェリーニの名画『フェリーニのアマルコルド』が、近年、デジタル技術によって修復、再版された。巨匠の過去の名作をこうして高画質で見られるのは、とても幸福なことだ。

本作は、ファシスト時代のイタリアの地方都市が舞台。街に暮らす名も無き人々の一年を描く。

ファシスト時代」というとどうしても、暗いイメージがつきまとう。たしかに本作でも、ファシスト党の軍事パレードの様子や、かの悪名高いひまし油による拷問シーンなどが描かれる。だがそれはあくまで、作中におけるひとつのエピソードに過ぎない。

本作を通じて描かれるのは、市井の人々の温かみのある日常だ。あの時代にあっても、人々の暮らしにはささやかな幸せが満ちていた。これを単に「暗い時代」と総括してしまうと、彼らのささやかな幸せは歴史のなかに忘れられてしまう。1920年生まれでファシスト時代に少年期を過ごしたフェリーニ監督は、そうしたささやかな幸せを忘れさせまいと、本作のメガホンを取ったに違いない。

フェリーニという映像作家は、まぁぶっちゃけ意味不明な演出も多いけれど(w)、本作を見ていると、「あ、この人は本質的に、“人情”の人だったんだな」ということがよく分かる。

ひさびさに、あぁ終わらないでほしい、このままずっと続いてほしい――そう思わせてくれる作品に出会えた。

 

 

・『ヤコペッティの大残酷』

本ブログでは以前、18世紀フランスの思想家・ヴォルテール『カンディード』を取り上げたことがある。本作は、その『カンディード』の映像化作品。

監督は、グァルティエロ・ヤコペッティ。先ほどのフェリーニがイタリア映画界の「巨匠」だとするなら、こちらは「鬼才」といったところか。

近世ヨーロッパ。主人公・カンディードは平和に暮らしていたが、あるとき彼の国は外敵の侵略を受ける。カンディードは、世界を放浪する羽目になる。

舞台は近世のはずなのだが、ここがヤコペッティの鬼才たるゆえん。戦闘シーンで突如、現代の迷彩色の軍服をまとった兵士が現れて機銃掃射したり、宮廷音楽家が王侯貴族の館で演奏するのがなぜかエレキギターだったり、ともうメチャクチャである(w

挙句、カンディード一行が新大陸に赴く場面――この場面自体は原作にもある――になると、急に舞台が20世紀のNYへと変わってしまう(w)。さらにはカンディードイスラエルの軍事基地に行ったり、とこれまたメチャクチャである(ww

ヤコペッティは、どうしてまた、こんな奇妙な演出をしたのだろう。原作のシニカルな雰囲気を再現したかった、というのもあるだろうが、やはり「現代社会もまた地獄」であることを伝えたかったからではないか。

近世と比べると、文明は飛躍的に進歩した。それでもなお、この世には苦と理不尽があふれている。ヤコペッティは、『カンディード』のテーマの普遍性を観客に訴えかけたかったに違いない。

……もっとも、単に「現代を舞台にしたほうが面白そうな絵が撮れるから」なのかもしれないけれど(;^_^A

 

ヤコペッティの大残酷 特別版

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・『世界女族物語』

これまたヤコペッティ監督による、こちらはドキュメンタリー作品である――というか、そもそもヤコペッティはドキュメンタリー出身なのであった

タイトルに「女族」などと奇妙な語句があるので、いったいどこの部族のお話だよと思ってしまうが(w)、本作は世界各国の女性たちを描いた作品である。

ヨーロッパなど先進国社会のほか、第三世界の原始的な部族も多く描かれる。

世界には、奇妙な風習がいっぱいだ。たとえば、女が労働をする社会がある。男は何をするかというと、顔にお化粧をしているのだ。我々とは逆である(w)。マレーシアの多夫一婦制の社会も面白い。そこでは妻が出産する間、いわば「第一夫人」的な位置づけの夫も横になり、一緒になって苦悶の表情を浮かべるのだ。

我らが日本も登場。ただしそこで中国っぽいBGMが流れるあたりは、いかにも欧米人の仕事といえようか(w)。それにしても、当時(1962年)の日本の光景がまるで途上国のようであることには、驚くほかない。

 

世界残酷物語 [DVD]

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・『ヤコペッティの残酷大陸』

これまたヤコペッティの手による本作は、先ほど紹介した『フェリーニのアマルコルド』とは対照的。一刻もはやく終わってほしいと思わせる作品だ。ただしクソ映画なのではない。逆だ。本作は「名画であるがゆえに観客を鬱にさせる」のである。

タイトルの「残酷大陸」とは、さてどこのことだろう。中国? アフリカ?

……意外なことに、それはアメリカであった。

本作は、アメリカにおける黒人奴隷の境遇を描いた――あるいは、告発した――作品である。

冒頭に登場するのが、奴隷船。実に不潔である。本作を見ていると、その不潔さが“生理的に”伝わってくる。映画ならでは、と言えよう。

船でアメリカへと到着した奴隷たちは、そこで白人たちにこき使われる。彼らはあるいは性のはけ口としても使われ、白人男性による黒人女性のレイプが後を絶たない。そして白人女性たちは、それを“獣姦”と呼んで忌み嫌うのである。

ヤコペッティが巧いのは、単純に「黒人=被害者=反体制=正義、白人=加害者=体制側=悪」としなかったことだ。

黒人のなかにも、たとえばメガネをかけていて教養のある者がいる。彼は奴隷としての自らの地位に満足しきっており、自由労働者と比べて奴隷の境遇が必ずしも悪いとはいえないことなどを、嬉々として語る。

あるいは、黒人がいかに低能であるかを力説する白人の学者。主人公――イタリア系のカメラマンという設定。おそらくは監督の分身的存在なのだろう――が「あなたはユダヤ系ですよね?」と質問すると、彼は顔をしかめつつ、しぶしぶ「そうだ」と答える。彼もまた、民族的マイノリティーだったのだ。

さて、最後に皆さんにひとつ“宿題”を。先ほどの奴隷船の話に戻るが、その中には男の奴隷のほか、女の奴隷もいた。彼女たちの多くは、妊娠していた。我々日本人は「へぇー、妊娠してたのか」で素通りしがちだが、よく考えてみてほしい。

どうして女の奴隷の、それも多くが妊娠していたのか。

ヒントは、奴隷船は「約3か月間、密室状態になる」ということ。ここまでの話を聞いた読者ならば、すぐにピンとくるはずだ。

 

ヤコペッティの残酷大陸 [DVD]

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・『46億年の恋

ジャパニーズ・ホラーの代表格、三池崇史監督によるサスペンス兼“恋愛”映画である。

監獄内にて、ひとりの受刑者が同じ部屋のもうひとりの受刑者を絞殺、取り押さえられる。犯行動機は何か。さっそく捜査が開始される。

ストーリーが進むにつれ、犯人と被害者は意外にも、同性愛の関係にあったことが明らかになる。さては「46億年の恋」とはBLのことだったか(;^ω^)

本作は、とても不思議な映画だ。一貫して、リアリティよりも芸術性を重んじているため、映画というよりかはむしろ、演劇を見ているかのような感覚になる。監獄内も、なんともモダンで洒落ている。おまけにその外には謎のロケットやピラミッドまであるというのだから、あっけにとられてしまう。

う~む三池監督、この映画、難しいよぉ……(涙

 

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書評『日本の保守思想』

本日取り上げるのは、先日の『保守論壇亡国論』のなかで山崎行太郎さんにケチョンケチョンに批判されていた(w)、評論家・西部邁さん(1939-2018)の著作『日本の保守思想』角川春樹事務所)である。

 

本著はタイトルの通り、近代日本の保守思想家を何人かピックアップするというもの。さぁ、取り上げられる思想家は、誰だろう。

保守思想家というくらいだから、やっぱり小林秀雄福田恆存江藤淳などが出るのかな、と思った。

たしかに小林、福田は取り上げられているが、江藤の名は本著にはない。

……あぁそうか、本著の(文庫版でなく)初版が世に出たのは、1991年。その当時、江藤さんはまだご存命だった。存命の思想家は、あえて外したのだろう。

そう思ったのだが、アレ? よく見ると吉本隆明の名前もあるぞ。当時、吉本さんは当然ご存命だったはずなのに……。う~む、よくわからない選考基準であるw(;^ω^)

そう、小林、福田は当然だとしても、本著で登場するのはなんとも意外な顔ぶれなのだ。

冒頭からして、福沢諭吉夏目漱石とくるのだから、「……え?」と困惑してしまうw

なかには北一輝のように、保守というよりかは右翼と言った方が適切なのでは、と思わせる人選もある。

このほか、政治家の伊藤博文吉田茂や、風土学者の和辻哲郎、作家の坂口安吾など、実に多種多彩な顔触れである。上述のとおり、吉本隆明まで入っているのがなんとも興味深い。普通、安保闘争に影響を与えた吉本は、したがって左翼界の大御所、と見なされることが多いからだ。もちろん、西部さんは吉本を全肯定するのではない。たとえば、大衆を重んじた吉本に対し、「大衆にそこまで信頼置くのって、ぶっちゃけどうなのよ」(意訳)とグチっていたりするw

 

僕は以前、西部さんを、福田、江藤ら「文学の人」とは異なる、「科学の人」に分類した。

本著を読んで、ますますその確信を深めた。

西部さんは、たとえば和辻哲郎が分からないと言う。

≪仮に物質や風土のような実体世界が決定的なのだとしても、その世界の構造が人間の精神の構造(つまり理性と感性の双方が結節する場としての言語の構造)といかに映し合うか、という点がきちんと説明されなければ、そうした決定論は説得的なものではありえないのである。受容性とか忍従性とかいった和辻の概念――仮にそれらが概念といえるとして――は哲学としては未熟であるし、文学としては凡庸である。≫(114頁)

僕も、西部さんに同感である。僕は以前、和辻の影響を受けた評論家・松本健一の「泥の文明」論に、内心呆れてしまった経験がある。僕には、西部さんの主張のほうが説得力があると感じられる。

西部さんは、北一輝については、このように述べている。

≪変な人間一輝を私が徹底的に嫌いになれない理由は、その抽象癖が私のものでもあるからである。たとえば、日本の国家を論じるに当たって、農本主義者たちにみられるような情念のほとばしりは一輝にあってみじんもみられない。田圃の香りも森林の匂いも神社の気配も一輝からは感じられないのである。(中略)一輝にとって日本は情念や情緒の対象ではなかったのだ。佐渡以外の日本にあって、いやおそらくは佐渡を含めこの日本のすべての場所において、上海や武昌にあってはいうにおよばずとして、一輝は異邦人でありつづけたのである。≫(73頁)

ここは、読んでいて「なるほどなぁ」と思わず唸った箇所だ。確かに、北の思想はパトリオティズム(郷土愛)というよりかはナショナリズム国家主義といったほうがいいように思う。

なるほど。これが、僕が北や西部さんに惹かれる理由なのかもしれない。実のところ僕にも、西部さんの言うような「異邦人」的な感受性はあるのだ。

というか、僕の世代はみんなそうなのかもしれない。僕たち1980年代生まれの世代は、田圃の香りも森林の匂いも神社の気配とも無縁である。コンクリートの建物、アスファルトで舗装された道路、クルマ社会、徒歩10分圏内にあるコンビニが当たり前という環境のもとで、僕らは育ったのだ。

もちろん、我々世代とて故郷への愛着はある。僕がアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』にハマったのも、僕の出身地・静岡県沼津市が舞台だからだ。

しかしそうした“郷土愛”は、かつての人々、たとえば和辻が抱いていたような民俗学的な感性とは、また別モノなのではないか――そういう考えが、僕には強くあるのだ。

 

本著の最後にて登場するのが、文芸評論家・福田恆存である。

先日の『保守論壇亡国論』にて山崎さんは、西部さんは論壇デビュー当初、保守論壇の大御所であった福田さんに取り入った、と批判していた。

保守論壇亡国論』を読んだ後で、本著の福田恆存の章を読むと、いろいろと、興味深いものがある。

 

日本の保守思想 (ハルキ文庫 に 1-6)

日本の保守思想 (ハルキ文庫 に 1-6)

 

 

書評『保守論壇亡国論』

保守論壇亡国論』

一見するとなにやら物騒なタイトルであるが、文芸評論家の山崎行太郎さんが、現下の保守論壇に対する違和感、もっと言えば、嫌悪感を表明した、怒りの著作である。

 

僕は以前、保守の論客たちを「文学の人」と「科学の人」に分けたことがある福田恆存さん、三島由紀夫さん、江藤淳さんらが「文学の人」、西部邁さん、小室直樹さんなどが「科学の人」だ。

著者の山崎さん自身はというと、あきらかに文学の人である――まぁ文芸評論家だから当然ともいえるがw。だから彼は、江藤淳さんを高く評価する一方、西部さん、あるいは社会学者であった清水幾多郎(1907-1988)さんなど、科学の人たちにはかなり辛辣である。

ちと辛すぎるんじゃないかな、と僕は思った。僕はきっと、科学の人なのだろう。

 

山崎さんは、容赦のない人だ。本著にて、多くの保守の大物たちが俎上に載せられ、仮借なく批判される。上述の西部さんのほか、櫻井よしこさん、渡部昇一さん、西尾幹二さんといった超大物たちがガンガン批判されていくのだ。このように大御所を相手にしても容赦なく論難するところに、文芸評論家・山崎行太郎の気概を強く感じる。

 

終章にて、トリを飾ると同時にこれまた容赦なく批判されるのが、元外交官の孫崎享さんである。

「へ!?」と皆さん意外に思われることだろう。「孫崎さんって、そもそも保守なの?」と。

そう、ここからがポイントなのだ。山崎さんは、一般には保守と見なされることの少ない論客である。そんな孫崎さんのなかにも、本著にてさんざん批判された櫻井さん、西尾さんらと通底する姿勢を、山崎さんは見出すのだ。

それは、安直な二元論で物を見るという姿勢である。たとえば、「親米保守vs反米保守」という対立図式を掲げて、前者はニセモノ、後者こそ本物の保守である……といった具合に。

だが、事はそう簡単ではないだろう。そもそも、本当に親米保守、反米保守などとくっきりと色分けできるものなのか。

たとえば僕は、親米保守のつもりでいる。日米同盟がさらに深化(進化)することを願っている。それだけではない。日本は将来的にイギリスやオーストラリアとも同盟を結ぶべきだとすら思っている。

だが同時に、8月6日の朝8時15分にはちゃんと黙祷をささげるし――これだけは毎年欠かしたことがない――アメリカをはじめとする英語圏の国々による「地球人なら全員英語を話せて当然!」的な文化帝国主義も、実に苦々しく思っている。

それでもなお、僕はアメリカおよび他のアングロサクソン諸国との同盟が日本にとって重要だと考えている。ゆえに僕は親米保守なのである。

親米保守アメリカに魂を売り渡したポチ、似非保守」などというレッテル貼りは、実に不毛だ。

 

僕が山崎さんを凄いと思うのは、あえて本著終章にて孫崎批判を持ってきたことだ。

これがなくて、単に櫻井よしこ批判、西尾幹二批判だけで終わってしまうと、「そうだそうだ! 今の保守はどいつもこいつもアメリカのポチばかりだ!」、と反米保守(自称「真の保守」)の留飲を下げさせるだけで終わってしまう。

だが、終章にてあえて、そうした反米保守にとってのアイドル的存在である孫崎享さんをも批判することによって、山崎さんは「親米か反米かなんて関係ない。分かりやすい二項対立図式を掲げて噴き上げる輩は全員、俺の敵だ」と高らかに宣言したのであった。

か、カッコイイ……(〃▽〃)

 

文芸評論家・山崎行太郎さんの気骨を強く感じさせる、渾身の一作であった。

 

※本著巻末には、いわば付録という位置づけなのか、山崎さんと生前の江藤淳さんとの対談が掲載されている。文芸評論好きの読者の方はぜひこの対談を読んでみるといい。とても興味深い内容のはずだ。

 

保守論壇亡国論

保守論壇亡国論