Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『バカでもわかる思想入門』

あれは『週刊新潮』だったろうか。

コンビニで何気なく週刊誌を立ち読みしていたら、面白い連載を見つけた。

それは文芸評論家・福田和也さんによる連載で、福田さんがなにやら口の悪い関西弁のオバサンと対談しているのである。オバサンの名前は記されておらず、単に「オバはん」とのみ表記されている。

一体全体、これはどういう対談なのだろう???

 

そんなナゾ対談が、一冊の書物にまとめられた。

本著『バカでもわかる思想入門』(新潮社)である。

前書きを読んでみてようやく、どういう対談なのかが分かった。

オバはんの正体は、『新潮45』という雑誌の女性編集長のことだったのだ(あれ、ということは僕が見たのは『週刊新潮』じゃなくて『新潮45』だったのか…?)

まださほど歳というわけでもないのだが、あまりの恰幅の良さ&態度のデカさから「オバはん」の通称で通ってしまっているという、哀れな(?)女性編集者であるらしい。

この「オバはん」、編集者としてはヤリ手なのだが、いかんせん教養がない。そこで彼女にも分かるように福田さんが思想についてあれこれ解説してあげる、というのが本著の趣旨なのである。

 

本著は、複数の対談をまとめたもの。それぞれの回で、マルクスフロイトニーチェなどの思想家が取り上げられる。

福田さん、オバはんに加えて、どの回にも必ず、いわばゲストキャラ的な第3の対談者が登場、この3人によって対談が行われる。

ゲストキャラは、それぞれの回で取り上げられる思想家の思想内容とよくマッチした人物が選ばれており、例えば同性愛者として知られるプラトンの回では、「ホモ」(※)の編集者が第3の対談者として登場するのである。

※「ホモ」という言葉は現代では差別語ということになっているのだが、本著ではごくフツーに「ホモ」と表記されている。

 

なんとも突飛な企画のように思えてしまうが、考えてもみれば、これは福澤諭吉がやっていたのと同じことなのだ。

福澤は文章を書くにあたって、女中さんにも分かるレベルで書くよう心掛けていた、と伝えられている。

 

本著における福田さんの解説は、本当に分かりやすい。個々の思想家たちのエッセンスが、実に手際よくまとめられている。

福田さんという人は、カメレオンのような人だ。

いろいろな文体を使い分けられる。

文藝春秋』あたりでは、彼はものすごく高尚な文体で、ものを書く。それは確かに格調高いのであるが、一方で、抽象的すぎて分かりづらい、というのもまた事実である。

その点、本著は実に分かりやすい。僕も「あぁ! 福田さんがあの本で書いていたアレって、こういう意味だったのかぁ~」と思わず膝を打つことが何度もあった。とても勉強になる。

 

それにしても、福田さんの博識には驚かされる。

過去には、『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』という本まで著したことのある、福田さん。さすが、尋常ならざる読書量を誇る知識人だけのことはある(読書量で彼に比肩できるのは、評論家の宮崎哲弥さんくらいのものだろうか)

思えば、先日著作を取り上げたイスラーム法学者・中田考さんも、やはり博識であった。奇遇にも、ふたりはともに、1960年の生まれである。

 

それぞれの対談の末尾には、ご丁寧にブックガイドまでついている。

どれもこれも、読書家の福田さんが厳選してくれたものだ。きっと良い本に違いない。さっそく読んでみたくなった。

 

まさにタイトルに偽りなし、優れた入門書であった。

 

バカでもわかる思想入門

バカでもわかる思想入門

 

 

書評『クルアーンを読む』

先日は仏教の本を取り上げたので、今日はイスラームの本を取り上げることにしようか。

…という理由で選んだわけでもないのだが(w)、本日ご紹介するのは、イスラーム法学者・中田考さんと社会学者・橋爪大三郎さんによる対談本『クルアーンを読む』太田出版である。

対談本と言っても、実際には橋爪さんがインタビュワーとなってイスラームについてあれこれ質問し、それに対して中田さんが答えていく、というかたちになっている。

 

中田さんの著書を読むたびに、感心することがある。

それは、中田さんがたいへん博識であり、かつ高い論理的思考能力を備えた知識人だということである。

本著でも、中田さんは実に聡明だ。橋爪さんがなにか質問するたびに、打てば響くようにポンと明快な答えを出す。

 

中田さんの明晰な説明に触れて、僕が長い間抱いていた疑問がひとつ、解けた。

ムスリムは、聖典クルアーンコーランを燃やされたり破られたりすると猛烈に怒り、抗議デモを起こすこともある。

僕はこれに、前々から疑問を抱いてきた。

 

クルアーンを燃やされて怒るというのは、イスラームの禁じる偶像崇拝ではないのか?

 

中田さんの説明によると、クルアーンを構成する紙自体ー「ムスハフ」というらしいーはただの被造物なのだが、そこに書かれている言葉は神の属性、すなわち神の一部であると考えられるのだそうだ。

ムスリムクルアーンを燃やされて怒るのは、紙そのものに価値があるのではなく、そこに書かれている神の言葉(=神の一部)が毀損されたから、というのがその理由のようだ。

 

賢人同士の対話を聞いていると、それまで抱いてきた世界観が相対化されていく。

本著を通じて中田さんが繰り返し強調しているのが、シーア派の危うさ。中田さんはスンニ派の人なので、スンニ派の立場からシーア派の教義についてあれこれと批判していくのだ。

ではスンニ派はマトモなのか。一概にそうともいえない。ISーいわゆる「イスラーム国」ースンニ派だからだ。

だが中田さんや橋爪さんの話を聞いていると、たしかにISにもかなり問題はあるのだが、同時にシーア派のイランやスンニ派の湾岸諸国のほうにもいろいろと問題があることが分かってくる。

特に湾岸諸国の腐敗した独裁体制に対しては、橋爪さんはインテリとしてはやや珍しく、「寄生虫」とかなり厳しい言葉で非難している(132頁)。橋爪さんの意外な「アツさ」が垣間見える一幕だ。

 

上述のとおり、本著は対談本というよりかは、インタビュワー・橋爪さんによる中田考インタビュー、といった趣きである。

だが、そんな印象がやや変わるのが、最終章だ。

ここに至って中田さんはついに、持論であるカリフ制度再興を主張するのである。

カリフとは、ムハンマドの後継者としてイスラーム世界全体を率いる宗教指導者のこと。1924年オスマン帝国崩壊に伴いこのカリフ制が廃止されて以降、イスラーム世界にはカリフが存在しないという(中田さんに言わせれば異常)事態になっている。

中田さんの夢は、そのカリフ制を現代に再興することなのだ。

だが橋爪さんは、中田さんの考えるカリフ制は空想的に過ぎるのでは、と詰め寄るのである。橋爪さんは言う。あなたの言うカリフ制はコミンテルンの世界革命論と似ている。だがソ連だって最終的には滅んだではないか、と。

第三者の僕の目から見ても、率直に言って、中田さんのほうが旗色が悪い。

中田さんは、相変わらず論理的ではある。だが、「論理的である」ことと「現実的である」こととは、全くの別問題なのだ。

中田さんのカリフ制再興論は、確かに思想としては興味深い。そこから汲み取るべきものもあるだろう。が、やはり現実味は乏しいように僕には思えるのだ。僕は中田さんを知識人として尊敬しているが、この勝負、僕は橋爪さんのほうに軍配を上げたい。

 

やや話はそれるが、これは改憲派憲法無効論者の対立にも通じる問題である。

改憲派が現行憲法を前提としてその改正を訴えるのに対し、憲法無効論者はそもそも現行憲法は無効なのであり、その改正を訴えるのは現行憲法を暗黙のうちに承認することに他ならないとして、改憲派を批判する。

僕は、改憲派である。だが改憲派の僕から見ても、憲法無効論者のほうが論理的だと感じる。現行憲法の成立過程は、確かにかなり強引なものだったからだ。だが現実問題として、すでに70年以上も運用されている現行憲法を無効とすることなど、果たしてできるだろうか。

憲法無効論は論理的ではあるが、現実的ではないのである。

 

イスラーム世界三大宗教のひとつであり、今世紀中にはその信者人口はキリスト教のそれを超えて世界一の座に躍り出る、と予測されている。

イスラームに対する知識が求められる今、イスラーム法学者・中田考の存在感はますます高くなる一方である。

 

クルアーンを読む (atプラス叢書13)

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最近見た映画の感想(第181回)

・『みんな~やってるか!』

とても愉快な映画だ。

見るからに低年収&非モテといった感じの中年主人公。彼の性的な妄想が徐々に現実と入り混じっていくさまを描いた、とてもシュールなコメディ映画である。

監督はビートたけし。本作では本名の「北野武」ではなく芸名が用いられている。

主演は、「ダンカンこの野郎!」でおなじみ(?)のダンカン。見るからにAV男優然とした佇まいからして既に可笑しい。

本作を貫いているのは、下ネタ盛りだくさんのシュールなギャグである。

おそらく本作から影響を受けたーあるいは意識したーと思しき、松本人志監督『大日本人』は、本作に比べれば陳腐だ。「アメリカの影響下に置かれた無力な日本」など、中途半端にまじめなテーマを盛り込んでいるせいである。

 

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・『祝祭』

「韓国版『おくりびと』」といった印象の韓国映画。もっとも、『おくりびと』よりこっちのほうが古い作品なんだけどね(w

韓国南部のある農村。ひとりのおばあさんが亡くなった。彼女の葬儀を執り行うため、親戚縁者たちが一同に集う。人々は、故人との思い出を語る。

群像劇としての性格が強い本作。そのなかでも主人公格なのは、おばあさんの息子である作家だ。

作中、彼の書いた童話が劇中劇というかたちで描かれる。この童話のなかで、老人がなぜボケてしまうのかが語られる。

老人は、自らの知恵と歳を子供に分け与えてしまう、それ故に老人は次第に赤ん坊へと退行してしまう(=ボケてしまう)。すべての知恵と歳を完全に分け与えてしまうと、老人は誕生以前へと還る(=死んでしまう)のである。人間の世代交代は、このサイクルとして説明される。

私事で恐縮だが、僕にも現在90歳になる祖母がおり、徐々に痴呆の症状が進んでいる。僕にとっては、なんとも身につまされる内容の童話であった。

本作で細部まで描かれる韓国流の葬儀のやり方もとても興味深く、民俗学的観点からも楽しめる作品だ。

 

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・『ラブストーリー』

主人公の女子大生は、ある日、母親の若い頃の日記を発見する。そこには母とその恋人(父ではない)のロマンスが綴られていた…。

父母というのは、最も身近なようでいて、実は最も未知の部分の多い存在である。なにせ、彼らには私たち子供が生まれる前の約30年近い時間がある。そして彼らが過ごしたその時間のことを、私たち子供は知らないのだ。

父母には、彼らだけが知る物語がある。

本作は、基本的にはラブストーリーであるが、その背景には韓国近現代史も描かれる。朴正熙独裁時代や学生デモ、(日本では否定的に言及されることの多い)韓国軍のベトナム派兵などの歴史的事件が、主人公の母の物語と並行して描かれる。

「母の恋人はかつてベトナムで戦った」という筋書きは、まさに韓国ならでは、だ。

主人公が、それまで知らなかった母の過去を知る話ということで、僕は大林宣彦監督『さびしんぼう』を思い出しながら本作を見ていた。

 

ラブストーリー [DVD]

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・『フェーム』

NYの芸大生たちの4年間の学生生活を描く。

群像劇であり、特定の主人公はおらず、人種、性別、様々な学生たちの人間模様を描いているのがポイントだ。

日本でもそうだが、芸大生というのは本当に個性の塊である。こういう連中を相手にする教員の人たちはさぞや疲れることだろうな、と心底同情してしまう。

…そう、実を言うと僕、このテの青春映画を見ても、「自由奔放に青春を謳歌する若者たち」に憧れることが皆無なのだ。むしろ、彼らに振り回される大人たちのほうにこそ感情移入してしまう人間である(;^ω^)

 

 

・『フットライト・パレード』

映画がサイレントからトーキーの時代へと移ると、ミュージカル演劇界にとっては映画がかなりの脅威となったらしい。映画がついに音楽を手に入れたことで、手ごわい競争相手となってしまったからだ。

で、本作の主人公もそんな映画のトーキー化のあおりを受けて苦しむミュージカル演出家のひとりである。なんとか生き残るべく、彼はまるでスティーブ・ジョブズのように衝突した従業員をどんどんクビにしながら、新しいアイデアを次々と思いついていく……

本作の見どころは、やはりなんといっても、終盤の水中レビューだろう。

水中レビューについては以前簡単に説明したことがある。まるでシンクロナイズドスイミングのように、踊り手たちがプールのなかを泳ぎまわるのだ。カメラは実際に水のなかに入り、彼女たちを追う。

大恐慌真っ只中の1933年に撮られたというのが信じられないくらいのゴージャスぶり。

はぁ~、これをカラー映像で見られないのが、本当に残念…。

 

フットライト・パレード [DVD]

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最近見た映画の感想(第180回)

・『伴奏者』

第二次大戦中のパリ。主人公の若い女性が、ソプラノ歌手の伴奏者を務めることになる。

歌手とその夫とともに欧州各地を転々とするなか、主人公は滞在先のロンドンにて、歌手が若いイケメンと不倫していることに気づいてしまう…

本作にBGMはない。暗めの映像で、主人公と歌手、その夫、不倫相手との関係性をしっとりと描く。

いかにもヨーロッパ映画らしいヨーロッパ映画で、僕は見ていてとても感銘を受けた。

 

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・『フィニアンの虹』

アメリカ映画を見ていると、1960年代の公民権運動はやはりデカかったのだなぁ、と痛感させられる。

それ以前の映画では、黒人はせいぜいお手伝いさんなどの役で出演する程度だが、60年代からそうした状況が変化していき、70年代にもなると普通に黒人が一般市民役で登場するようになるのだ。

本作は、1968年公開。フレッド・アステア主演のファンタジー・ミュージカル映画だが、同時に政治色の強い作品ともなっている。

舞台となるのは、白人も黒人も仲良く暮らす、ある村。ところがここにはひとり、レイシストの悪徳政治家がいた。

彼は、主人公が持ちこんだ魔法の壺の力によって、黒人の姿へと変えられる。

かくして肌の色が変わったレイシスト政治家は、ゴスペルなど黒人社会の魅力に触れるうち、それまでの態度を改めていくのである。

主演のアステアは、本作公開時69歳。すっかりシワシワの爺さんになってしまっていて、彼の若い頃の映画から見ている僕にとっては、なんとも寂しかった。

 

フィニアンの虹 特別版 [DVD]

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・『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』

ここのところ、アメリカのミュージカル映画ばかり見てきたものだから、そろそろ日本映画が恋しくなってきた。

というわけで、次にご紹介するのは、言わずと知れた日本の良心・寅さんである。

本作『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』は、我らが寅さんがなんと音楽の都・ウィーン(!)へ旅立っちゃうよという、『寅さん』シリーズのなかではやや異色の作品だ。『心の旅路』というサブタイトルはやはり、同名のアメリカ映画から拝借したものだろう。

『寅さん』シリーズといえば、マドンナである。

本作のマドンナは、竹下景子。日本の企業風土、とりわけその女性差別的な体質になじめず、単身ウィーンへと渡ったという設定だ。例によってヒロインは寅さんに惹かれるが…

今日でもそうであるが本作公開当時(1989年)はなおのこと、「日本人=会社人間」であった。なにからなにまで会社にがんじがらめにされている日本人にとって、そんなしがらみのない自由な寅さんは、憧れの的であった。

一般に、人々から好まれるキャラクターは、その人々と似ているか、まったくそうでないかのどちらかである。

寅さんは後者。ほとんどの日本人が彼のようには生きられないからこそ、日本人は彼に強い愛着を示したのだ。

本作ラストでは、なんとあの『ラブライブ!サンシャイン!!』でおなじみ、静岡県沼津市の内浦がロケ地として登場する。ラブライバーは要注目!

 

 

・『禅 ZEN』

最近、曹洞宗に関心を持っている。

次にご紹介するのは、曹洞宗の開祖・道元禅師の生涯を描いた伝記映画だ。

冒頭からして良い。幼くして母を亡くした道元少年は、当時流行していた浄土思想に反発、この世こそが浄土でなければならぬと考え、出家して宋に修行の旅に出る。

主演は、歌舞伎役者の中村勘九郎道元の晩年を描く終盤になるにつれて、次第に声がドスの効いたものになっていく。さすがは、歌舞伎役者。

道元の中国留学の場面では、実際に中国語でセリフを流暢にしゃべっており、なかなかの役者魂である。

…まぁぶっちゃけ、映画としての完成度はお世辞にも高いとはいいがたいのだが――だってCGを使った演出がことごとく陳腐なんだもんw――伝記映画としてはよくまとまっており、道元入門としては最適の作品と言っていいだろう。

あ、ヒロインの内田有紀が可愛かったです♪

 

禅 ZEN [DVD]

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・『ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金』

脳筋という言葉をご存知か。

「脳みそが筋肉」の略語であり、全身の筋肉をすこぶる鍛えているわりには、肝心の頭脳のほうはサッパリ…という筋肉バカを揶揄したネットスラングである。

本作は、そんな脳筋三人組による後先考えない「史上最低の一攫千金」を描いた犯罪映画。驚くべきことに実話である!

筋トレだけが生きがいの主人公。自らの所得、社会的地位にまったく満足していない。一攫千金を夢見た彼は、同じく脳筋の仲間たちを誘い、ある富豪を誘拐するという計画を立案、実行に移すが…

まぁ、そこはしょせん脳筋である。たとえば、誘拐した富豪を交通事故を装って殺害しようとするが…

富豪は車内に装備されたエアバッグと、ご丁寧に主人公の相棒が着けてくれたシートベルトのおかげで事なきを得る。

「なんでシートベルトなんか着けるんだ!」と怒鳴る主人公に対し、相棒曰く

「だって着けないと法律違反になるし…」

一事が万事、こんな具合である。

それでも、本事件の捜査や裁判は意外と難航したようだ。

無理もない。警察・司法は、犯人がある程度合理的にふるまうことを想定して動くので、非合理的な犯人が非合理的なふるまいをすることを想定していないのだ。

脳筋、おそるべし…。

本作の舞台・フロリダのなんとも刹那的、退廃的、物質主義的な雰囲気が強く印象に残る。こういう末法の世こそ、道元禅師の出番ですなっ

 

 

書評『ブッダとそのダンマ』

本ブログではこれまで、20世紀インドの政治家ビームラーオ・アンベードカルの伝記や、その後継者である日本人僧侶・佐々井秀嶺の評伝を取り上げてきた。

今回取り上げるのは、前々からずっと、読みたい、読みたいと思っていた本だ。

 

アンベードカル著『ブッダとそのダンマ』(光文社)

アンベードカルが、亡くなる直前に不可触民の仏教徒たちのために著した、仏教の解説書である。

 

読みはじめてまもなく、ページをめくる手が止まってしまった。

これはもはや、普通の本ではない。これは、「経典」である。

たとえるならば、これはキリスト教徒にとっての聖書のような書物なのだ。実際、インドの不可触民の仏教徒たちは、本著を経典として朗誦すらしているという。

本著を読むうえで絶対にやってはいけないのは、斜め読みである。さらに、一回読んだだけでも、駄目である。

「経典」である以上、つねに座右に置き、何度も何度も読み返さなければならない。

 

ここで、本著の構成について少しだけ解説するとしよう。まず、ブッダの生誕から悟りに至るまでの半生が述べられ、次に彼の教えの内容について著者(アンベードカル)が解説していく。

本著において重きをなしているのは、この解説の部分である。

そして終盤ではブッダの生涯の話へと戻り、彼の晩年から臨終までが描かれる。

最初から読まなければいけないのか、と皆さん思われるかもしれないが、そんなことはない。

どこから読んでも構わない。

今日はこの箇所を読んでみたいな、と思ったら、そこから読めばよい。

そういう読み方ができるのも、本著が「経典」だからだ。

聖書を考えると分かりやすい。聖書を最初から最後まで通して読むということはない。ミサのときなどに、聖職者が「今日は○○書の○章○節を読みましょう」と言って読み上げる。

これと同じ読み方で良いのである。

 

本著は比較的、著者アンベードカルのオリジナリティーが強く出ている。

たとえば、ブッダの出家の経緯。一般的な経典では、ブッダは居城の門の外にて老人、病人、死者、修行者と出会い、彼らのなかに人生の苦しみを見て、出家を決意したとされる。四門出遊の逸話である。

ところが本著では、ブッダの出家は政治的事情によるもの、とされているのだ。本著解説によれば、この箇所は、四門出遊の逸話では現代人を説得するのに弱いと考えたアンベードカルによる創作、とされている。ここから、アンベードカルの宗教家というよりかはむしろ政治家としての一面を窺うことができる。

 

一般に、仏教は輪廻転生を説く宗教として理解されているが、本著では輪廻転生はきっぱりと否定されている。

神もない。霊魂もない。輪廻転生もない。仏教は、極めて合理的な宗教である。

そう説くアンベードカルの筆致もまた、実に理知的である。彼はときに自然科学やマルクス主義の喩えを用いて、仏法を解説していく。

たとえば、仏教一切皆苦と説くので厭世的と誤解されがちだが、それをいうなら『資本論』だって労働者の悲惨な現実をこれでもか、と描写しているではないか。それではマルクス主義は厭世的と言えるのか? …といった具合に。

このあたり、いかにもインテリのアンベードカルらしい。

本著は、しかしながらそのラディカルな内容ゆえに、東南アジアはじめ既存の仏教国からは批判されたようだ。「これは『ブッダとそのダンマ』ではない。『アンベードカルとそのダンマ』だ」といった具合である。

だが、それを言うなら、日本の仏教の開祖たちだって同じではないのか。親鸞しかり。道元しかり。日蓮しかり。

彼らもまた、仏典を自分なりに読み込み、「これこそ本物の仏教だ!」との確信に至って、自らの教えを広め、宗派をおこしていったのである。

アンベードカルもそれと同じ、と考えればよいではないか。彼によって「仏教アンベードカル宗」が打ち立てられたのである。

 

巻末に、佐々井秀嶺さんによる解説文が収められている。

いや、解説というよりかはもはや「演説」と呼んだ方が適切だろう。非常に力強い。いかにも佐々井さんが書きそうな文章である。

そのなかに、こんな一節がある。

≪『ブッダとそのダンマ』は、その一文一句無上の大光明を放ち、白蓮華の清く美しく咲く無限の大道をアンベードカルと共にブッダと共に我々は歩んでいる。≫(425頁)

さぁ、我々も歩みだそうではないか。アンベードカルとともに。ブッダとともに。

 

ブッダとそのダンマ (光文社新書)

ブッダとそのダンマ (光文社新書)

 

 

書評『シン・ゴジラ論』

昨夏、新海誠監督の『君の名は。』と並んで大ヒットを記録、社会現象となったのが、庵野秀明監督『シン・ゴジラ』だ。

 

本著『シン・ゴジラ論』作品社は、まさにタイトルのとおり、この『シン・ゴジラ』を正面から論じた評論である。

著者は、批評家の藤田直哉さん。

批評の世界にある程度の関心を持っている方なら、彼が08年、「東浩紀ゼロアカ道場」に参加し、第五回関門まで進出したことを記憶にとどめているはずである。

 

本著において藤田さんは、映画『ゴジラ』シリーズに関する過去の膨大な先行研究を逐一踏まえつつ、『シン・ゴジラ』と3.11について、また天皇との関係について、論を進めていく。

ゴジラは、実のところかなり政治性を帯びた表象である。したがって、ゴジラについて論じようとすると、どうしても政治から逃れることができなくなる。

さて、著者の藤田さんは、右翼だろうか。左翼だろうか。

≪ぼくは、戦後に教育を受けた者として、「大東亜戦争」は侵略戦争であり、天皇イデオロギーなどがファッショ、全体主義化を促したと考えている。≫(86頁)

この記述ー特に「大東亜戦争」とわざわざ鍵カッコつきで表記するあたりーを見るかぎりでは、藤田さんは左翼のように見える。

だが、以下の記述はどうだろう。

≪三島の発言に、イデオロギーとしては全く同意しない。だがしかし、心情部分においては胸を打つ、と率直に言わなくてはならない。たとえ日本が間違った戦争を行い、たくさんの残虐行為を行い、天皇イデオロギーが為政者たちによって「洗脳」されたものだったとしても、純粋にそれを信じて、死んだり、負傷したり、身内を失ったものの悲しみ、苦しみ、幾あまたの無念が、なくなるわけではないし、それは事実して直面しなくてはならないものである。≫(86‐87頁)

 

本著を読んで分かったのは、藤田さんがつねにアンビバレンス(両義性)を抱えている人だということだ。

彼は、矛盾するふたつの価値観の間で宙づりになりながらも、それに耐えている。

≪ぼくは、無神論者である。しかし、社会構造や人の心理における「神」や「宗教」の有用性・必然性を受け入れる者である。同時に、無神論者でありながらも、霊的な感覚(宗教的な建築物や美術を観た時に脳が痺れる感じ)を覚えるタイプの人間である。≫(198頁)

僭越ながら、僕も藤田さんと同じタイプの人間である。

僕も、ぶっちゃけ「八百万の神」なんてものがいるのかどうか、イマイチ疑問に思っている。にもかかわらず、同時に全国津々浦々の神社を巡るのが大好きな人間でもあるw

特に、藤田さんが引用箇所で述べている、「宗教的な建築物や美術を観た時に脳が痺れる感じ」というのは、僕にも「ああアレね」と皮膚感覚でピンとくるのである。

 

そんな藤田さん、どうやらゴジラ天皇制のメタファーと捉えているようだ。

≪なんとでも解釈できるが故に「美」であると同時に、解釈を受けて動じないが故に「美」である<ゴジラ>。解釈を衣のように纏い続けて膨れ上がるが、それでも動かない中心の空虚としての<ゴジラ>。むろん、これは、ロラン・バルトが『表徴の帝国』で論じた、東京の中心にある空虚としての皇居という論を踏まえている。≫(132頁)

彼はもっと露骨に、こうも述べている。なんだか今日の記事は引用ばかりで恐縮であるが(;^ω^)、以下に引用する。

≪ところで、かつて、日本で、芸術や文化の頂点にいるとされた者がいた。

 神として、聖なるものとして扱われていた者がいた。

 天皇である。

 空虚で、融通無碍な中心であるが故に、国家を一丸とさせるための装置として利用されもした天皇が、神ではなく人間となった。そのとき、社会は急には変われない。機能的等価物をどこかに求めてしまう。その無意識的願望を掬い上げたのが、『ゴジラ』だった。≫(155頁)

ゴジラは、天皇であり、神であった。

シン・ゴジラ』のタイトルにあるカタカナ表記の「シン」とは、「新」と「真」をかけたダブルミーニングであることを見抜くのは容易い。が、藤田さんはさらに、「神」をもかけたトリプルミーニングだと見る。

慧眼だろう。

 

無神論者を名乗りながらも霊的な感覚が強く(※)三島由紀夫天皇制に関心を示す藤田さん。

こう言うと、もしかしたらご本人は気分を害するかもしれないが(;^_^A、僕は藤田さんには潜在的に右翼ないしファシストの素質あり、と見ている。

※本ブログの読者の皆さまならば、戦前右翼の大物・北一輝が、国家社会主義的な考えの持ち主であったのと同時に、強い霊感の持ち主でもあったことを覚えておられるに違いない。

ちょうど、エヴァンゲリオンが装甲ーその実態は拘束具ーによって暴走を抑えられているように、藤田さんは自らの内にある右翼的ないしファシスト的な情念を、リベラルという装甲=拘束具をまとうことで抑えつけているように、僕にはどうしても見えてしまうのである。

  

シン・ゴジラ論

シン・ゴジラ論

 

 

書評『日本共産党と中韓』

本日ご紹介する本は、筆坂秀世さん著『日本共産党中韓 左から右へ大転換してわかったこと』ワニブックスだ。

 

サブタイトルからも分かるとおり、著者の筆坂さん、実をいうと左派から右派への“鞍替え組”である。

もともと、共産党のナンバー4」と目されるほどの実力者だったのだが、まぁ色々あって(w)共産党から離党したのである(※)

※離党の経緯については、彼の著作『日本共産党』(新潮社)などを参照されたし。

 

日本共産党』では、かの政党の実態を赤裸々に暴露してみせた、筆坂さん。

本著では、タイトルのとおり、日本共産党ー以下、日共と略すーと中国・韓国とのこれまでの関わりについて、詳細に語ってくれている。

 

昔も今も、中国共産党にとってのカリスマは、毛沢東である。

意外にも、日共はこの毛沢東を嫌っていたのだという。毛沢東は日共に武力闘争路線を押しつけようとした迷惑千万な相手だった、というのが日共側の言い分である。

中国側もまた、宮本顕治率いる当時の日共を修正主義だと批判したというから、両者は相思相愛ならぬ相思相“憎”だったというわけだ。

それでいて、毛の没後、両党の関係が改善されると、日共は一転、南シナ海チベットなどでの中国の横暴について、見て見ぬふりをするようになった。

そうした日共の節操のなさを、筆坂さんは厳しく糾弾するのである。

 

はてさて、もうひとつの(厄介な)隣人・韓国のほうはというと。

日共は冷戦時代、韓国という国を認めてすらいなかった。

「韓国」という国名すら使いたくなかったらしく、当時の『しんぶん赤旗』では、かの国は「韓」という具合に、つねに鍵カッコつきで表記されるという始末であった――ちょうど、左翼が満州国を鍵カッコつきで表記したがるのと同じことである

しかし冷戦の終結とともにこの構図は変化し、今日ではいわゆる「従軍慰安婦」の問題で、日共は韓国の肩をもつようになった。

ここにも、上述の「節操のなさ」がよく出ていると言っていいだろう。

 

本著終盤では、日共が東京裁判を無批判に受け入れていることを、筆坂さんは強く批判している。

筆坂さんは、日本無罪論を唱えたパール判事の主張を取り上げ、東京裁判国際法に違反する不当な裁判であったことを訴えるのである。

彼はさらに、終戦直後の日共が原爆投下を肯定していたことまでも暴いていく(180‐182頁)。これは、僕にとっては驚きであった。

 

靖国問題もまた、俎上に載せられる。

筆坂さんは、靖国神社が国民を戦争に動員していくうえで象徴として機能したことを認めつつ、“だからこそ”参拝をして慰霊する必要がある、という考えである。

そしてこの章においても、日共がかつて中国からの靖国参拝批判を内政干渉だとして批判していた過去が暴露されるのである(206‐211頁)

 

本当に、日共は言うことがコロコロ変わる。

終章にいたっては、日共がかつて現行憲法を批判する「改憲政党」であったことまでが、筆坂さんによって容赦なく暴露されるのである(222‐226頁)

まったく、なんという変節政党だろう!

 

筆坂さんは、上述のとおり、左から右へと「転向」した論者のひとりである。

しかしながら、筋金入りの国粋主義者になったわけでは無論ない。

≪私は何も日本の過去のすべてを美化せよと言っているのではない。悪いところも、良いところもたくさんあったはずだ。これらを正直に振り返ることが今、最も必要とされる。≫(9頁)

≪もちろん、他民族を支配下に置くという行為が、その民族の誇りを著しく傷つけるものであることは明らかであり、それを肯定することは誤りである。それは併合であれ、植民地支配であれ、変わりはない。≫(136頁)

これらの記述から、筆坂さんのバランス感覚を窺うことができる。

 

一般論として、ずっと右だった人よりも、左から右に転じた人のほうが、アドバンテージを持っていると言えよう。

かつては自らも左だったので、「左がどのように考え、どのようにふるまうか」が手に取るように分かるからだ。

やっぱり、一度転向を経験した人は、強いね。