Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『禅の教え 生きるヒント33』

ここ最近、仏教に関する本を読んでこなかった。

そろそろ、体が水分を欲するように、心が仏教を欲するようになった。とりわけ、日本仏教のなかで最も原始仏教に近いとされる、禅の教えがほしくなってきた。

 

というわけで、本日取り上げる本は、ネルケ無方さんの『ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント33』朝日新聞出版)である。

「ネ、ネルケ無方? 芸名? てか、いったい何者!?」

と驚いた方は本著のタイトルをしっかり見てくださいね(w)。そう、ネルケさんはドイツ人の曹洞宗僧侶である。南直哉さんといい、このネルケさんといい、曹洞宗にはユニークな禅僧さんが多いね(w

本ブログでは以前にも、ネルケさんの著作『禅が教える「大人」になるための8つの修行』を取り上げたことがある。

 

本著はタイトルのとおり、ネルケさんが禅の経典などから33の人生訓を取り上げ、それに関連する自身の日常での出来事を書き綴った、エッセイに近い性格の書物である。

驚くのがネルケさんの日本語力の高さ。ドイツ人なのに、難しい日本語を実によく知っている。かえって日本人の僕のほうが「え、乳水和合って、何?」と焦ってしまったほどだ(w

一方で、ネルケさんの話はめっぽう面白いのである(w)。彼は、実は大阪出身の日本人女性と結婚しており、ちゃんと家庭をもっている。どうやらネルケさん、家ではごくフツーの「関西のおっちゃん」のようである。禅僧なのだからもっとストイックな毎日を送っているのかと思いきや……意外な一面を見た思いがした。

南さんもそうだが、禅僧には意外と、話が面白い人が多い。

 

ネルケさんのように、僧侶が妻帯して普通に家庭を営んでいるのは、日本仏教だけである。僕は以前は「日本仏教、これでホントにいいの?」と疑問に思っていたのだが、今日では「これはこれで、アリかな」と思っている。

カトリック教会のような、聖職者による性的虐待事件が起こりにくいからだ。どうしてカトリック性的虐待が多発するのかといえば、それは同教会が聖職者の妻帯を認めていないからである――プロテスタントの牧師は普通に結婚できる。人間、教義によって性欲を抑圧されると、どうしてもそれが歪んだかたちで噴き出てしまう。その被害を受けるのは、少年など弱い立場の存在である。それならば、最初から妻帯を認めてしまったほうが、性的虐待などの痛ましい犯罪を抑制できるのではないか。

そう考え、僕は妻帯を認める日本仏教を肯定的に見るようになったのである。

 

本著を読んで、ますます僧侶の妻帯に肯定的になった。

ネルケさんは、以下のように書いている。

≪家庭生活が修行の邪魔というより、むしろ家庭生活から修行がスタートしなければならないと私は思います。家庭と「一切衆生」は対立するものではなく、一切衆生の中核を家庭がなさなければならない、と私は考えています。≫(71頁)

そうだろうな、と僕は納得した。いきなり一切衆生、つまりすべての人間を愛するというのは、あまりにも抽象的すぎて、無理な相談である。すべての人間を愛するなどと平気で言う人間は、むしろ人間を愛することができないのではないか。

僕の理解によれば、連合赤軍がそういう連中だった。彼らは、もちろん一切衆生を救うために――彼らの言葉によれば、世界革命を完遂するために――運動を始めたのだろう。だが結果として、彼らは人を救うどころかむしろ、人を殺めてしまったのである。彼らは人を愛することができなかったのだ。

いきなり抽象的なことは言わず、まずは身近な人々、それも自分と血のつながった人々、すなわち家族を愛するところから始めていこう。そのほうが、現に多くの人を愛せるようになるはずである。

 

家庭を持つと、いろいろと大変である。夫婦喧嘩なんて日常茶飯事だし――この描写がまた実に笑えるww――家族にもしものことが起きたら大変である。

本著でも、奥さんが出産を目前にして倒れ、帝王切開の手術を受けた話がでてくる。

しかも奥さんが入院している間、ネルケさんが子供の世話のため、山奥にある禅寺から下山すると、今度はその禅寺にてフランス人の弟子が発狂(!)、精神病院に担ぎ込まれるというアクシデントまであったのだという。つくづく、煩悩は絶えることがない。

だが、それもまた修行なのだ、とネルケさん。

そうなのだろうなぁ。僕はいま独身で、おかげで気楽な毎日を送っているけれど、いつまでもそういう暮らしをしていては良くないのかもしれない。

 

ネルケさんが住職をつとめる禅寺は、実に国際色豊かだ。前述の発狂したフランス人の弟子のほかにも、アメリカやロシアなど世界各国から禅を求めて人がやってくる。寺のなかでは様々な言語が飛び交うのだという。

禅寺は日本海沿いの山奥にあるため、冬ともなると周囲は完全に雪で閉ざされてしまう。ネルケさんたちは、普段は寺のまわりで農作業にいそしんでいるが、冬のあいだはその農作業ができなくなる。では、何をするのか。

寺のなかにこもって、ひたすら経典や哲学、あるいは農法などの研究をするのだという。研究は冬が終わるまでの3ヶ月間続き、そのあいだに修行僧たちは自らの研究テーマについて50ページのレポートを書き、提出しなければならない。

それと並行して、「輪講」も行われる。これは、毎日当番制で曹洞宗の開祖・道元禅師のテキストを読んでいき、それを現代日本語と英語に訳して、自らの日ごろの暮らしに照らし合わせて発表する、というものらしい。

ここまでくると、もはや禅寺というよりかは大学である(w

このほかにも、ネルケさんはインターネット上のウィキペディアなどのサイトを活用しながら調べものをするのだという。ネルケさん自身、自らの寺のことをまるで大学図書館のようだ、と書いている。

ネルケさんが住職をつとめる禅寺・安泰寺。どうやら想像以上にアカデミックな空間のようである。インターナショナルで、アカデミック。う~む、実に面白そうなお寺だ(w)。なんだか僕も行ってみたくなってきた。

だが待てよ、お寺というのはそもそも、そういう場所ではなかったか。中世の比叡山――道元禅師も実はココの出身――も、寺院というよりかはむしろ、今日でいうところの「総合大学」に近い施設であり、全国から優秀な青年たちが集まってきた。

ネルケさんは、かつてこの国に存在した「大学としてのお寺」を復活させようと考えているのかもしれないな、と僕は思った。

 

本著での33の話はどれもこれも実に面白く、僕はおそらく2時間もかからないうちに本著を読み切ってしまった。

ネルケ和尚の“法話”を、もっと聞いてみたくなった。

 

 

書評『「新自由主義」の妖怪』

今日でもそうだが、ひと昔前にはとりわけ広く使われた言葉に「新自由主義(Neoliberalism)というものがある。

僕が政治運動にコミットしていた00年代後半では、「とりあえず最初に『新自由主義ハンターイ!』とさえ叫んでおけば、あとは何を言っても大丈夫」という風潮すらあった。

そんな「新自由主義」、しかしながらいったい、どのような思想なのだろう?

 

本日ご紹介する本は、『「新自由主義」の妖怪 資本主義史論の試み』亜紀書房である。

著者は、社会学者の稲葉振一郎さん。専門は社会学であるが、経済学への言及も多く、リフレ派の論客のひとりとして知られている。

本ブログでは以前にも、稲葉さんの著作『経済学という教養』を取り上げたことがある。

その『経済学という教養』、わりと難しめの本だったが、本著もまた残念ながら(w)難易度はやや高めである。本著のほうが文体がより平易になっているのでその点はありがたいが、内容はやはり高度である。

ただし、『経済学~』が各章の末尾にてそれまでの議論の内容を要約してくれていたのと同様、本著も各章の終わりに「これまでのまとめ」なるページが設けられている。

いや~、これはありがたい(w)。おまけに本文中でも、重要な箇所は太字で表記されているし、図表も充実している。

忙しい人は、太字部分と図表、そして「これまでのまとめ」に目を通すだけで、本著の議論のアウトラインが分かるようになっているのだ。なんと親切な本だろう!(w

もちろん時間のたっぷりある人は、ちゃんと本文を全部読みましょうね(w

 

本著第一章は、マルクス主義の話からはじまる。マルクス主義が、戦後のケインズ主義的な福祉国家をどう捉えていたか、という話だ。

興味深いのは、ケインズ主義的福祉国家批判という点で、マルクス主義と「新自由主義」が軌を一にしているという点。

えっ、「新自由主義」がケインズ主義を批判するのはなんとなく分かるけど、どうしてマルクス主義まで?

ものすごーく乱暴に言ってしまえば、それは、マルクス主義にとっては資本主義がさっさと破綻してくれないと困るからである。ケインズ主義によって温存されては困るのだ。かくして、「ケインズ主義? ぶっ潰しちまえ!」という点でマルクス主義と「新自由主義」が奇妙なかたちで“共闘”するというわけなのである。

 

第二章ではいよいよ、それらの共通の敵(w)ケインズ主義について解説される。

一般に、ケインズ主義は第二次大戦後の西側先進国を驚異的な経済成長へと導いたが、1970年代にスタグフレーション(不況なのにインフレになること)を引き起こしてしまい、そのせいで権威失墜、「新自由主義」に取って代わられた、というふうに理解されている。ケインズ主義は、したがって「もう終わった思想」と見なされがちである。

ところがところが。稲葉さんによれば、ケインズは「死んだと思ったらまた甦る」というまことに稀有な思想家であり、リーマン・ショック後の今日、ケインズ主義は完全にリバイバルを果たした、というのである。

その思想的経緯については結構専門的な話になるので、正直まだ十分には理解しきれていないのだが、稲葉さんによると、従来の経済学の議論では、ケインズ主義は「価格の硬直性」(特に賃金の下方硬直性)を重視する立場として理解されていた。ところが今日ではそうではなく、貨幣供給を重視する立場としてケインズ主義が理解し直されたというのだ。

これまでケインズ主義のせいとされてきた70年代のスタグフレーションについても、今日では、石油価格の上昇が原因であってケインズ主義それ自体は間違ってはいなかったのではないか、というふうに議論されているのだという。

間違っていたのは、ケインズ主義を誤解してしまった当時の経済学者たちのほうだった、というわけだ。

 

第三章では、ケインズ主義とともに福祉国家の思想的基盤となった「産業経済論」なる思想が解説される。

産業社会論とは何ぞや。ケインズ主義とは何が違うのだろう?

僕もまだはっきりと理解できたわけではないのだが、産業経済論とは、マルクス主義からの挑戦に対して、西側諸国の自由市場体制、資本主義と議会制民主主義を守ろうとし、西側の保守主義にきちんとした社会科学的な裏付けを与えようとした人々の思想であるらしい。

この産業社会論にコミットした論客として、高校野球の女子マネージャーでおなじみ(w)ピーター・ドラッカーが挙げられる。日本では、村上泰亮という経済学者が産業社会論の担い手となった。

本著にて稲葉さんは、この村上の思想にスポットライトを当てつつ、それがいかにして社会的影響力を失い、思想界から消えていったのかを詳述している。

僕はこれまで、村上泰亮という名前はもちろん聞いたことがあったが、恥ずかしながら彼の思想的業績についてはほとんど知らなかった。ドラッカーにしても、「あぁ、『もしドラ』のアノ人ね」程度の認識しかなかった。

自らの不勉強ぶりを恥じるしかない。これからはちゃんと村上やドラッカーの本、読みます……。

 

ケインズ主義と産業経済論。これらを否定することで「新自由主義」の世が到来したわけであるが、稲葉さんは、リーマン・ショック後の今日、「新自由主義」の時代はもはや終わった、とみている。

これからはやはり、上述のリバイバルしたケインズ主義の時代、ということなのだろう。我々は、世界史の大きな転換点に立たされているのである。

 

さて皆さん、そろそろ不思議に思われるころではないか? どうして「新自由主義」とわざわざカギカッコつきで表記するのか、と。

それは、新自由主義」なる思想には実体がないからである。

 えええええええーーーーーーっ!!!

どうだ、この衝撃のオチ(w

どうやら、これまで我々はただ漠然と「政府による介入ハンターイ! 市場経済バンザーイ!」という思想をまとめて「新自由主義」と呼んでいただけらしいのだ。

実際には、たとえば「新自由主義者」と目されるハイエクフリードマンとでは、金融政策を肯定するか否か、という点で意見が180度異なっていたにもかかわらず、である。

こうした事情は、「ファシズム」と似ている。「ファシズム」という言葉もまた、左翼が政敵を罵倒するさいに「このファシスト!」という言い回しを多用したせいで、あまりにも意味が拡大しすぎ、結果的にただの無意味な言葉と化してしまった。

新自由主義」も、「ファシズム」と似た顛末をたどった、かわいそうな用語なのだろう。

我々はもういいかげん、「新自由主義」なるマジックワードの使用を控えたほうがいいのかもしれない。

 

僕はこれまでに、リフレ派の論客たちの経済書を多数読み、本ブログにて紹介してきた。

本著は、それらの経済書とはいささか趣きを異にしていて、面白かった。

というのも稲葉さん、上述のとおり、経済学者ではなく社会学なのである。そのため本著では、社会学の観点からも戦後の資本主義の歩みが分析されており、その点において他のリフレ派の経済学者たちの著作とは異なるのである。

特に、経済学者が「人間が社会をつくる」というふうに考えるのに対し、社会学者は「人間が社会をつくり、同時に社会もまた人間をつくる」というふうに考える、という話はとても興味深かった。

稲葉さんの著作を、もっと読もうと思っている。難解そうだけどね(w)。まぁ、他の本にも「これまでのまとめ」があるだろうから、それを頼りに読んでいくとしますかね(w

 

「新自由主義」の妖怪――資本主義史論の試み

「新自由主義」の妖怪――資本主義史論の試み

 

 

書評『「おネエことば」論』

「~だわ」とか、「~かしら」みたいな、世間一般でいう「女ことば」が、当の女性たちの口から聞かれなくなってから、もうずいぶんと経つわね。

いまどき、こういう純粋な女ことばで話をするのは、アニメのキャラクターか、「おネエ」といわれるLGBTの人々くらいのものじゃないかしら。

 

本日ご紹介する本は、そんな「おネエ」の言葉に焦点を当てた『「おネエことば」論』青土社よ。

著者は、ジェンダー研究者のクレア・マリィさん。

この本は、タイトルだけ読むと、てっきり去年の秋に紹介した『女装する女』みたいな軽いノリのエッセイなのかと思っちゃうでしょ?(w) ところが、「~論」とついているとおり、本当に論文みたいなおカタい文体でビックリしちゃったわ(w

それでもこの本では、民放のバラエティー番組でのおネエタレントたちの発言とかが、かなり細かく掲載されているの。

こういうふうに、一見ふざけた内容であっても、学問の対象として大真面目に扱うのが、カルチュラル・スタディーズ(文化研究)の手法なのよ。

 

この本のなかで、著者のマリィさんは、おネエことばがこれまでたどってきた歴史について解説しているわ。

おネエことばのそもそもの起源は、不明なんですって。終戦直後に上野の男娼の人たちが使っていた言葉じゃないかっていう説もあるけど、詳しくは分からないみたい。

ハッキリしているのは、戦後になって、いわゆる「オカマ」の人たちが使う言葉として社会的に認知されるようになったってこと。

それが00年代に入ったあたりから、メディア上でおネエキャラのタレントさんたちが使う言葉として、日本社会で一気に“市民権”を獲得したというわけなの。

この時期からおネエキャラの人たちが起用されるようになったのは、どうしてかしら?

マリィさんによれば、このころから、人間を抜本的に生まれ変わらせる「メイクオーバー」という手法が人気になり、そのインストラクターとしておネエタレントは最適だったから、なんだとか。

もともとおネエ自身、「男から女へ」という意味で抜本的な生まれ変わりを経験した人たちだし、女性的な優しさと男性的な厳しさの両方を併せ持つ存在だからインストラクターに向いている、ということみたい。

 

さぁ、話変わって。おネエ言葉は、もともとは女性が話していた女ことばをLGBTの人たちが使うようになって、そこから独自の進化を遂げた言葉なんだけど、じゃあそもそもの女ことばって、いったいどこきたのかしら?

実は、女ことばはメディアによってつくられたものだったんですって。ここ、この本のなかで一番面白いと思ったとこ。

マリィさんによると、女ことばとは≪標準語が制定して促進され、異性愛規範に基づいたメディア表象とともに広がったもの≫であって、日本の場合、≪それは、明治維新以降、新しいメディアであった新聞において批評家によって議論された結果である。当時の「女学生のことば」は「てよ」「のよ」「だわ」を多用することにより「てよだわことば」とも呼ばれ「耳障り」という評価を受けていた≫んだとか(引用箇所いずれも36頁)

今でこそ、女性の話し言葉が男性のそれに近くなって、「女性の言葉づかいが乱れている!」「女ことばを守れ!」なんて言われるけど、もともとはその女ことばが耳障りだと非難されてたんですって。なんか皮肉な話ね。

 マリィさん曰く、≪新聞記事や小説において再現される「女ことば」は、たえず「女はこう話す」ことの例とみなされ、その言語イデオロギー(再)生産の領域に位置付けられてしまう。つまり、「女ことば」が新聞や小説という空間以外に、たとえば家庭のなかや職場において実際に使われているか否かではなく、新聞や小説空間において認識されている「女ことば」が女性の話し方を評価するための基準となっていくのである。幻想でしかない純粋な「女ことば」が現実に存在することのないまま、このスタイルにあてはまる要素は、日本語話者の知識として保たれる≫(37頁)

ちょっと長くなっちゃったけど、女ことばはメディアによってつくられたものだったってこと。ビックリしちゃうわね(w

そんな人工的な女ことばをLGBTの人たちが模倣しておネエことばが生まれ、それが独自の進化を遂げて、今日、おネエタレントの言葉としてメディア上で流通してるってわけ。どこまでもメディアが絡んでるのね(w

 

それにしても、この本を最初から最後まで読んで、あらためて思ったこと。それは、日本語ってなんて豊かな言葉なんでしょう、っていうことだわ。

もともと言葉づかいが多様であったうえに、さらにおネエことばという新しいバリエーションが加わったことで、ますます豊かになったっていうわけ。

日本語が亡びるとき』とかいうタイトルの本が刊行されたこともあるけど、とんでもないわ。日本語はこれからも、新しい言葉づかいを獲得しつづけていって、その世界はますます豊かなものとなっていくことでしょうね。

 

「おネエことば」論

「おネエことば」論

 

 

最近見た映画の感想(第291回)

・『カメラを止めるな!

とある廃工場。どうやらゾンビ映画の撮影が行われているようだ。

監督からの厳しいダメ出しで主演女優がすっかり凹んでしまったため、撮影はいったん休止。その間、廃工場内では不思議な物音が相次ぐ。やがて工場内に、なんと、本物のゾンビが侵入してきた。

泣きながら工場中を逃げ回る主演女優。……と、このあたりで、我々観客はある事実に気づく。

「……あれ、この映画、カットが途切れてなくない?」

そうなのだ。本作、冒頭からずっとワンカットで撮影されているのである。これじゃあまるで野外演劇だ。そうか、これがタイトルの由来だったのか。

いやぁ、凄いスゴイ(w)。ワンカットということは、途中ちょっとでもNGを出したら最初からやり直しということである。俳優陣はさぞ緊張したことだろう。

そんなこんなで、あっという間に30分経ってしまう。だが本作は1時間半あるはず。あと1時間、いったいどうやって尺を稼ぐつもりなのだろう? と気になっていたら……

……え? 「1ヶ月前」? 何ソレ、どういうこと?? え?? えええ?????

もはや完全に我々観客の予想の斜め上を行く展開で、気づけばあっという間に1時間半が経過してしまったのだった(ww

本作は、絶対にネタバレを見ないほうが楽しめるので、本当はもう内容を語りたくて語りたくてウズウズしているのだが(w)、断腸の思いでお口にチャック(死語)することとしよう。

ただ一点、これだけはハッキリ言わせてもらう。本作は近年まれにみる、本当の意味での娯楽映画だということだ。

「娯楽映画」という言葉には、高尚な芸術映画と比べると通俗的な、大衆向けの映画という、やや侮蔑的なニュアンスがつきまとうが、本作に限っては「娯楽映画」という言葉がストレートに誉め言葉として通用するのである。

低予算でつくられた映画だそうだが、限られた予算でもこんなに満足度の高いエンターテインメント作品をつくることだってできるのだ。

日本映画の将来に明るい光を投げかけてくれる、娯楽大作ならぬ娯楽“傑作”であった。

 

カメラを止めるな!

カメラを止めるな!

 

 

・『夜明け告げるルーのうた

四畳半神話大系』『ピンポン THE ANIMATION』などでおなじみ、湯浅政明監督によるアニメ映画である。

人魚伝説のある、小さな港町。主人公の少年のもとに、ひょんなことから人魚の少女「ルー」が現れた。少年はただちにルーと仲良くなるが、「人魚出現」というニュースはネット全盛の今日、たちまち日本中を駆け巡り、静かな港町は“人魚騒動”に巻き込まれる。

全編にわたって、いかにも湯浅監督らしい、独特の色彩と作画、そしてキャラクターデザインが魅力的。とりわけ、「お陰様のたたり」によって町が緑色の水で溢れ、虚実が綯い交ぜとなる終盤は、カーニバル的な陶酔すら感じさせる。湯浅監督の真骨頂だ。

 

夜明け告げるルーのうた
 

 

・『アルゴ』

1979年に発生した在イラン・アメリカ大使館人質事件に材をとったサスペンス映画である。

イラン革命の余波で、アメリカ大使館が反米のデモ隊によって占拠される。が、このとき、6人の大使館員がひそかに大使館を脱出、カナダの大使公邸にかくまわれていた。イランの革命政府はまだこの事実に気づいていない。

6人を救出すべく、CIAが採ったアイデアは、なんと、「6人に映画の撮影スタッフのふりをさせてイランから脱出させる」という奇想天外なものであった。

ベン・アフレック演じる主人公のCIAエージェントは、6人の救出作戦を現場で指揮すべく、さっそく単身、イランへと潜入する。

救出作戦は、ハリウッドの映画会社とも口裏を合わせるという、かなり手の込んだものだった。これが史実だというのだから、いやはや恐れ入る。やっぱりアメリカ人の考えることは違うね。

革命直後の混乱したイラン社会が描かれている点も――路上での絞首刑が当たり前!――なんとも興味深い。

 

アルゴ (字幕版)

アルゴ (字幕版)

 

 

・『オートマタ』

人類の大半が死滅した近未来。生き残った人類は荒廃した都市のなかでロボットに囲まれて生活していた。

ロボットには、①生命体に危害を加えてはならない、②自他のロボットの改造を行ってはならない、という2つのプロトコル(規定)が課せられていたが――アシモフ「ロボット工学三原則」のようなもの――保険調査員の主人公は、そのプロトコルに反し、自己改造を行うロボットを発見、ここから物語が進行していく。

終盤、ロボットは自らの手で新たにロボットを作り出すことに成功する。そしてついに人間の命令を拒否し、さりとて反旗を翻すわけでもなく、人間から自立する道を選ぶ。

彼らロボットはこれから先、人間には作れないような高性能のロボットを次々生み出していくのだろう。まさしく、シンギュラリティーの時代の到来である。

それにしても、舞台となる近未来都市の光景があからさまに『ブレードランナー』の丸パクリで、笑ってしまった(w

 

オートマタ(字幕版)

オートマタ(字幕版)

 

 

・『二重生活』

文系の大学院に通う、主人公の女。彼女の修論のテーマはなんと、「尾行」。それも、単にこれまでの文学作品における尾行の描写をまとめるというのではなく、彼女自身が実際に任意の取材対象を尾行するというのである。あまりにもリスキーすぎる「研究」内容だが、指導教官はGOサインを出す。かくして彼女は、近所に住む編集者の男の尾行を開始するのだが……

いやいや、ソレ、素人目に見ても明らかにバレバレだろw ホントに大丈夫なのかソレで……(;^ω^)

と冷や冷やしながら見ていたら案の定(w)、彼女は修羅場に巻き込まれることとなる。

詳しいネタバレは避けるが、ようするに本作は、メンドクサ~イ性格の女が人様の人生を神の視点から俯瞰してるつもりでいたけど、結局はお釈迦様の掌の上で踊らされているだけだった、というお話である。

見るからに「自意識拗らせちゃった文化系女子」といった感じの主人公の、まぁメンドクサイことメンドクサイこと(w)。俺の身近にこんな女がいたらグーパン食らわしちゃうからね(w

リリー・フランキーが主人公の指導教官の役を好演。『美しい星』もそうだったが、やっぱりリリーさんはこういう、世間擦れしていないインテリの役がよく似合う。

冒頭、女子学生である主人公がリリー教授と一対一で面談をする際、教授がドアを開けたままにしておくという描写がリアル。今どき、そうでもしないと周囲からセクハラと誤解されてしまうおそれがあるためだ。

 

二重生活

二重生活

 

 

書評『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』

日本を代表する歴史作家・司馬遼太郎(1923-1996)

 

そんな司馬は、しかしながら僕のまわりではどうにも評判がよろしくない。僕の友人たち曰く

「あの司馬とかいうオッサン、なんでロクな史料も無しにあんなテキトーなことベラベラ書けるんや?」

「実際はただの武器商人にすぎなかった坂本龍馬を、さも日本の偉人のように描きやがって。許せん!」

……人間は、どれほど我の強い人であっても、必ず周囲の意見から影響を受けるものだ。僕もこれまで彼らの影響で、司馬作品を嫌い……とまではいかなくても、なんとなく敬遠してきたように思う。

 

だが、「食わず嫌い」はやはり良くないだろう。

と思って今回手に取ったのが、本著『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版)であった。

著者は、歴史学者磯田道史さん。

 

本著での磯田さんの主張をごく簡潔にまとめると、以下のようになる。

司馬遼太郎は歴史家ではなく歴史「作家」であるため、彼の作品にはどうしてもフィクションの部分が伴う。一方、彼には当然ながら、歴史に対する鋭い観察眼、批判精神があった。

我々読者に求められる態度は、彼の作品の創作部分を鵜呑みにすることではなく、彼からの問題提起を真摯に受け止めることなのである。

 

彼からの問題提起とは何か。その話の前に、まずは本著にて磯田さんの言う「司馬リテラシー」について簡単に説明するとしよう。

司馬は、合理的な思考の持ち主であった織田信長秋山真之大村益次郎――彼については下の箇所でまた触れる――などの人物を肯定的に描いた。反対に、非合理主義的な部分を多く備えた乃木希典には批判的であった。司馬の「乃木大将無能論」は有名だが、今日では批判もある。だが磯田さんは、司馬の乃木批判はあくまで日露戦争における役割という限定された意味であることを理解して読むべき≫(135頁)であると強調している。

これだけでは分かりにくいかもしれないので、本著の別の箇所も引用しよう。

≪もしかしたら軍事式や政治で「二流」と書かれた人物が、じつは手芸や書では一流だったかもしれませんが、そうした多様性は取り敢えず置いておき、社会に与えた影響という面で大雑把に人物を切り取るところが司馬作品のひとつの特徴なのです。≫(34頁)

お分かりいただけただろうか。こうした読み方が、彼の言う「司馬リテラシー」なのだ。

僕が見るに、司馬の歴史の見方は、結構自然科学に近い。つまりは「モデル」の発想を応用しているのである。

モデルとは何か。スタイルのいい女性のことではない(w)。モデルとは、物事のなかにある雑多な要素を取り払い、シンプルにしたものである。自然科学者はこの複雑な自然界をモデル化することで思考していく。

司馬もまた、歴史上の人物たちを、たとえば織田信長=独特の美意識を持った人、豊臣秀吉=上昇志向の人、徳川家康=現実主義者、そして乃木希典精神主義的な無能な指揮官、というふうにモデル化していくのである。

こうしたモデル化という思考方法が、ときに「史実と違う!」として彼が批判される原因となっているのだろう。つまり彼が叩かれる原因は、上に書いたような①歴史家と歴史「作家」との混同、のほかにもうひとつ、②モデル化という思考に対する読者の無知・誤解、があるということだ。

 

それでは司馬の問題提起へと話を戻そう。それは「どうして戦前の昭和の日本は失敗してしまったのか」という問題であった。

丸山眞男がそうだったように、司馬も昔、軍隊生活でひどい目にあわされたらしい。そのときのつらい経験が、彼を精神主義批判ないしは合理主義肯定へと向かわせたのだという。なるほど、そうだったのか……。

司馬は、非合理的、精神主義的な思考が日本社会に蔓延し、そのような考え方をする集団が暴走したせいで、昭和前期(戦前)の日本はダメになった、とみている。

実は今日の日本も、かなりの程度、戦前の日本と共通している。司馬は、生前彼が予言したとおり、21世紀を見ることなく1996年に亡くなったが、彼が今日まで生きていたら、あるいは「日本は戦前と同じ道を歩みつつある」と警鐘を鳴らしたかもしれない。

……と書くと、おそらく多くの人が「独裁者・アベのせいで日本は“かつて来た道”を再び歩もうとしている!」と危機感を持つかもしれない。あるいは司馬自身、もしかしたら同じことを言ったかもしれない。

だが僕に言わせれば、それはちょっと、いや、かなり違う。今日の日本が戦前と似ているのは、首相ではなく官僚が暴走しているという点である。

かつて、日本は軍部という名の官僚たちの非合理的な暴走によって、終わりなき戦争を招き、そして破滅した。それから数十年後、今度は日銀・財務省という官僚組織のこれまた非合理的な暴走によって、日本は終わりなきデフレを招き、再び破滅への道を歩みつつあるのである。

磯田さんは戦前の軍部の暴走の一例として、ロンドン海軍軍縮会議のさいに、帝国海軍が軍縮に反対したことを挙げている。これも、「軍人だから軍艦を減らされるのに反対した」というよりかはむしろ、「官僚が自らの既得権益を奪われるのに抵抗した」とみるほうがより適切だろう。軍艦が減れば、艦長=中将のポストが減ってしまうからである。もちろんそれは大局的に見れば、日本の国益を無視した非合理的な判断にほかならない。

今日の日本もかつてと同様、官僚の暴走に苦しめられている。むしろ、安倍首相のおかげでかろうじて滅亡の淵で踏みとどまっているとみるべきだろう。

彼のおかげで日本経済はかろうじてデフレから脱却しつつあるし、自由貿易も推進され、国際社会との連携も強化されている。今もし安倍政権が倒れれば、この国では官僚による支配がますます強まり、そのときこそ我々は“かつて来た道”を再び歩むこととなるだろう。

 

あるいは今日では、野党もまた戦前の旧日本軍に近い組織だと言えるかもしれない。闇雲にモリカケ問題を蒸し返して支持率を失う野党は、闇雲にバンザイ突撃を繰り返して玉砕した旧日本軍と組織論的に酷似しているからである。

 

昔の日本を知ることは、今の日本を知ることでもある。その意味で、司馬作品にはやはり、読む価値が大いにある、ということになる。

やっぱり、食わず嫌いは良くなかった。司馬遼太郎さんの作品、近いうちに読んでみることにします。

 

 

本論からは逸れるが、本著ではこの他にも面白い箇所がたくさんある。

たとえば磯田さんによると、日本型組織では「常識人の上司×異能の部下」という組み合わせが理想的なのだという(94頁)。その例として彼が挙げるのが、長州の桂小五郎大村益次郎だ。大村は非常に合理的な思考のできる有能な人材であったが、反面、KYなところがあり、周囲の人たちと摩擦を起こしやすかったという。そんな有能だけれども危うい大村を、常識人たる桂がうまく活用することによって、高いパフォーマンスが発揮されたというわけなのだ。

この話を読んで、僕はアップル社の「ふたりのスティーブ」を思い出した。スティーブ・ジョブズと、「ウォズ」ことスティーブ・ウォズニアックである。この場合、異能の人・ジョブズが上司で、彼に比べれば常識人であったウォズが部下にあたる。常人離れしたアイデアを次々生み出すがKYなジョブズを、ウォズがうまくサポートすることで、アップル社は巨大企業へと成長を遂げたのだ。

磯田さんは「日本型組織では~」と限定しているが、おそらくこの組み合わせが理想的なのは万国共通なのではないか、と僕は思っている。

 

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

 

 

書評『Bライフ』

僕は、『方丈記』鴨長明にしばしば憧れる。彼は京を離れ、山のなかに小さな庵を編んで、そこで遁世生活を営んだのだった。

僕も、可能であれば彼のように暮らしたい。でも、中世ならいざ知らず、この現代で、はたして庵を編んで暮らすなんてことができるのだろうか?

 

できる。ということを、僕はネットを通じて知った。実践しているのは、高村友也さんという人物だ。

高村さんは、山奥にて土地を買い、そこになんと自力で小屋を建ててしまった。彼は、小屋での生活を文章にまとめてウェブ上などに公開しており、これまでに著作も何冊か刊行している。

本ブログでも以前、高村さんの『スモールハウス』という著作を取り上げたことがある。へぇー、山小屋の作り方でも解説してあるのかな、と思いワクワクしながらページをめくってみたのだが、そうではなくて、欧米諸国にて「スモールハウス」と呼ばれる超小型の家屋で生活している人々を紹介した本であった。

まぁ、これはこれでたしかに興味深い内容ではあったのだが、個人的にはやはり、山小屋の作り方や、山奥でのサバイバル術などについて知りたかったので、すこしばかり期待外れだった。

 

さて、本日ご紹介する『Bライフ 10万円で家を建てて生活する』秀和システムは、これまた高村さんの著作。彼が、山奥にて土地を購入するまでや、自力で小屋を建てるまでの経緯が書かれた本である。

そうそう、こういう本が読みたかったんだよっ!(w

 

高村さんは、社会人として普通に働き、普通に家に帰って普通に家族を養うという「普通」の人生に疑問を抱いたらしく――phaさんみたいな方だ――最初は都内にてホームレス生活をしていたのだという。

ところがお役所に職務質問されるなど、あまり快適な生活ではなかったため、高村さんは1年ほどでホームレス生活を終了。そのかわりになんと、山奥にて土地を購入し、そこで小屋を自作して生活することを思い立ったのだという。

この思考のぶっ飛び具合が、なんとも凄まじい(ww

 

本著はまず、山奥での土地の買い方から懇切丁寧に解説してくれる。そうして土地を購入したら、次はいよいよ家を手作りする段階へと入る。

「い、家を手作りィ!?」、と日本人は驚いてしまうが、欧米では必ずしも珍しくない話だ。僕の従姉の旦那はアメリカ人だが、彼の父――大学で建築を専攻していたらしい――も家を手作りしたという。

高村さんは、建築を学んだわけではなさそうだし、DIYもやったことがなかったという。それでも、木材などを購入して実際に小屋を建ててしまったというのだから、大したものだ。「あ、それなら俺にもできるのかな」という気にもさせてくれる(w

 

本著では、家の作り方が詳しく解説されている。

僕はあいにく建築にはあまり詳しくないので、「ポリカ」とか「プラダン」とか素材名を言われてもいまいちピンとこないのだが、「OSB合板」は写真が掲載されているので、「あぁ、コレのことかぁ!」とよく分かった。木のパルプをまとめて固め、ひとつの板に仕上げたものだ。

本著ではこのほか、電気の使いかた、トイレの設置方法などについても比較的詳しく書かれている。

高村さんは敷地内にソーラーパネルを設置し、その電力で生活しているらしい。だがその電力は、まぁパソコンを動かすくらいならなんとかなるものの、さすがに冷蔵庫をずっと動かすのは無理なようだ。せいぜい小型の冷蔵庫を短時間動かすくらいしかできないらしい。う~む、そう考えると、日頃はなかなか実感できない電気のありがたみがよく分かるなぁ。

トイレは、さすがに水洗ではない(w)。いわゆる「ぽっとん便所」のようなもので、下に落ち葉を敷いて、排泄物の上に米糠を撒くと、臭いも消えるうえに排泄物の分解がはやく進むのだそうだ。へぇー、勉強になるなぁ。

無線LANを使えば、インターネットだってできる。本著にて掲載されている高村さんの1ヶ月あたりの家計簿を見ると、インターネット使用料が比較的大きい割合を占めていることがわかる。このご時世、ネットがなければ生きていけないといっても過言ではないから、これはやむを得ない出費だろう。phaさんも、ニートにはネットとパソコンが不可欠、と強調していたっけ。

 

山奥での生活なので、動物に出くわすことも多いという。本著では実際にアナグマの写真も掲載されている。結構かわいい♪

だが、たんに目の保養になるだけではない。動物が現れるということは、その動物を殺して食料にすることができるということをも意味する。

さすがに高村さんはそこまではやらないようだが――普通に付近の人里に下りて食料を購入しているようだ。彼はそのため、あまりにも人里から離れすぎた土地は購入するな、と本著にて忠告している――以前、本ブログにて著作を取り上げた猟師の千松信也さんならば、あるいは動物を殺してその肉を食べ、生活できるのかもしれない。

そうなればますます社会に頼ることなく、自給自足できることになる。

 

ここまで、高村さんの意見におおむね賛同してきたが、本著を読んでいて唯一、「あれ? これは……違うんじゃない?」と思ったのが、睡眠に関する話だ。

高村さんは、睡眠時間なんて自由でいい。いつ眠り、いつ起きるかなんて、その日次第で構わない、と書いている。

実をいうと、僕は昔、それでひどい目に遭ったのだ。若いころ、僕はニート生活にかなり近い自堕落な日々を過ごしていたことがあるのだが、そのときは本当に、いつ寝るかもいつ起きるかも自由だった。その結果、どうなったか。なかなか寝つけない睡眠障害になり、起きているあいだも頭がボーッとした状態が続くようになったのだ。

今では、目覚まし時計を使って、平日だろうが休日だろうが関係なく、必ず朝7時に起床することにしている。冬場でもそうだ。夏場ならば日が差し込むのが早いので、6時台に目が覚めることもある。

僕の場合、そのようにきっちりと睡眠時間を規定したほうが、かえって体の調子が良くなった。この点だけは、高村さんに反論したいところだ。

では、どうして高村さんは睡眠時間が不規則でも大丈夫なのだろう。僕の推測によれば、それは高村さんが小屋のなかの、天窓のあるロフト部分にて寝ており、必ず「日の光を浴びて」起床する、というところがポイントなのだろう。

 

本著終盤では、実際に山奥にてひとり暮らしをするにあたって、必要なコストや考慮しなければならない法的規制などが列挙される。

高村さんはよく勉強しているな、と感心する。phaさんもそうだが、こういう「社会からリタイア」系の人は結構頭がいい場合が多い。むしろ頭が良すぎるせいで社会不適合になってしまったとみるべきか。僕もなんとなくそれに近いから、彼らの心境が分かる気がする。

それにしてもこの箇所を読むと、我々現代人がいかに法律という見えない鎖によってがんじがらめにされているか、よく分かる。

僕は焚火が好きで、以前、焚火ができる場所はないものかと思い調べてみたのだが、キャンプ場などを除けば、野焼きは法的規制が厳しくなっており、出来ないということがわかった。なんだ、今の我々には焚火する自由すらないのか、と悲しく思ったものだ。

我々は近代社会のコンビニエンス(便利さ)と引き換えに、自由を失ってしまったのかもしれない。

 

そうそう、大切なことを言い忘れていた。そのままズバリ本著のタイトルになっている「Bライフ」とは、まさに高村さんが実践しているようなライフスタイルを指す、彼の造語である。ようするに普通の生活「Aライフ」とは違う、オルタナティブなライフスタイルという意味である。

僕のように「Aライフ」がかったるいと感じる人間にとっては、これは心の励みになる。僕も可能なかぎり、Bライフを実践してみたいものだ。

 

……と一度は思ったけど、ごめん、俺やっぱ無理っス(w)。やっぱり都市部での機械文明のほうが、なんだかんだでやっぱり過ごしやすいっス(w

電気サイコー! 原発再稼働万歳!!(ww

 

Bライフ10万円で家を建てて生活する

Bライフ10万円で家を建てて生活する

 

 

最近見た映画の感想(第290回)

・『陽なたのアオシグレ

本ブログでは先日、『屍者の帝国』『ハーモニー』というふたつのアニメ映画をご紹介した

本作もまたアニメ映画である。といっても、上映時間わずか18分(!)という短編映画ではあるが(w

主人公の少年・陽向くんは、クラスメートの時雨ちゃんという女の子のことが大好き。ところがこの時雨ちゃん、引っ越すことになってしまう。陽向くんは、自らの想いを伝えるべく、時雨ちゃんの後を追う。

この場面が面白い。電車が空を飛ぶなど、なんとも幻想的な光景が描かれる。おそらくは陽向くんの心象風景を映像化したものなのだろう。

子供ならではのファンタジックな空想が描かれていると思うが、やはり新海誠監督のあの色鮮やかな背景描写と比較すると、さすがに見劣りしてしまうのが本作の限界か。

ヒロイン・時雨ちゃんが、「世界名作劇場」的というべきか(w)、なんとも無印良品的な素朴な感じの女の子で、ロリコンの気のある“大きいお友達”諸君にはたまらないだろう(w

 

陽なたのアオシグレ DVD通常版

陽なたのアオシグレ DVD通常版

 

 

・『LUCY』

人間の脳は、わずか10%ほどしか使われていない……らしい。それでは、それを100%まで使えるようにしたら、いったい人間はどうなるのだろうか?

……というテーマの、SF映画である。監督はおなじみ、リュック・ベッソン

スカーレット・ヨハンソン演じる、主人公の女。台湾にて謎の韓国系マフィアに拉致され、謎のクスリを投与されてしまう。結果、脳を100%まで使用できるようになった彼女は、なんと超能力(!)を発揮できるようになり、マフィアを次々と撃退、ついにはコンピューターと一体化し、人間を超越した存在にまでなってしまう。

人間から非人間へと進化する……という点では、先月取り上げた『トランセンデンス』と雰囲気が似た映画だ。ただし、『トランセンデンス』と比べると科学的考証に欠けるきらいがある。

そもそも、「脳は10%しか使われていない」という話自体が実は都市伝説であるし、かりに脳を100%使えるようになったとして、それでどうして超能力が使えるようになるのかが、まったくもって意味不明である。

とはいえ、そこはさすがベッソン監督(w)香港ノワールを模倣したと思しきアクションシーンやケレン味のある演出は健在だから、娯楽映画としてはまぁ、合格点でありましょう。

 

LUCY/ルーシー (字幕版)

LUCY/ルーシー (字幕版)

 

 

・『栄光のランナー/1936ベルリン』

1936年のオリンピック大会は、ナチスの支配するベルリンにて開催された。

この大会にて史上初の四冠を達成、大活躍したのが、アメリカのジェシー・オーエンス(1913‐1980)という黒人アスリートだ。

本作は、彼を主人公とする伝記映画である。

本作にて描かれる様々なディテールが、実に興味深い。

当時のアメリカでは、ナチスによるユダヤ人差別などの理由から、ベルリン五輪をボイコットすべきか否かで大いに揉めていたことが、本作からは分かる。これとちょうど同じ光景を、我々も2008年のオリンピック大会で目撃した。「政治とスポーツは分けて考えるべきだ!」という“冷静な”意見が出てくるところも、これまた2008年とまったく同じ。人間って、変わらないんですねぇ。

ナチスを描いた映画ではどうしても、「ナチス・ドイツ=悪、連合国=善」というふうに単純化して描かれがちであるが、本作はドイツのなかにも、ルッツ・ロング(1913‐1943)のようなスポーツマン精神を備えた偉大な選手がいた一方、アメリカ社会が大会後も、英雄であるはずのジェシーに差別的待遇を続けたことを描いている。

物事を決して単純化せず、アメリカ社会のなかにも「ナチス的」な部分があったことを率直に描き出しているのが、本作の最大の魅力といえるだろう。

映画監督レニ・リーフェンシュタールゲッベルスの不仲が描かれている点も良い。そのゲッベルスがV6岡田くん似で無駄にイケメンである点さえ除けば(w)、とても満足度の高い歴史映画であった。

 

 

・『志乃ちゃんは自分の名前が言えない

極度の吃音ゆえ、まさしくタイトルどおり自分の名前すら満足に発声できない主人公の女子高生が、これまた極度のオンチというハンデを抱えたクラスメートと意気投合、一緒にバンドを結成するという内容の青春映画である。

まぁぶっちゃけ、お話自体はわりとフツーなのだが、本作の一番のポイント、それは舞台が某アニメでおなじみ(w)静岡県沼津市だということだ。ちなみに僕の地元でもある(w

本作では、『ラブライブ!サンシャイン!!』――あ、しまったタイトル言っちゃったw――でも描かれた、ややグリーンを帯びた内浦の海や、駅周辺の仲見世商店街、そして狩野川にかかるあゆみ橋など、沼津市内の名所が次々登場。ラブライバーはじめ、沼津にゆかりのある人々ならば、本作を見ているだけで「あっ、あそこが映ってる!(w」と楽しめることだろう。

映像が、どことなく岩井俊二作品と似ているのも、個人的には好印象。

 

 

・『スターリンの葬送狂騒曲

1953年、ソ連の最高権力者・スターリンがこの世を去った。彼の側近たちはさっそく葬儀の準備にとりかかる。と同時に、ドロドロした権力闘争の火ぶたが切って落とされる。

……といっても本作はサスペンスではなく、政治を風刺したコメディ映画であるので、最後まで意外と楽しく見ていられる。

人が、それも自国の指導者が亡くなったというのに、表面上悲しむ素振りを見せるだけで、さっそく権力闘争に明け暮れる側近たち。まるで芥川の『枯野抄』を見ているかのようだ。

本作はコメディであるゆえ、もはやなんでもかんでもギャグのように思えてしまう。たとえば英仏合作映画であるため、登場人物が全員ロシア人のはずなのに普通に英語を話すところとか、つい“Oh, Jesus Christ!”と言ってしまうところとか――ソ連なんだから無神論だろっ!(w

フルシチョフ役の俳優が、フルシチョフというよりかはむしろプーチンに似ているところとか、肝心のスターリン役の俳優がちっともスターリンに似ていない――これなら岡田真澄のほうが似ている!(w)――というのも、狙った上でのギャグなのかもしれない。

全体主義という暴力に真に対峙できるのは、「怒り」ではなく「笑い」の感情である。僕は、同じくソ連を風刺した映画『ニノチカ』を思い出しながら本作を見ていた。