Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『不干斎ハビアン』

本ブログではこれまで、宗教学者にして浄土真宗の僧侶でもある、釈徹宗さんの著作をたびたび取り上げてきた。とても平易でユーモラスな話し言葉の文体が、彼の一番の持ち味だ。

本日取り上げる釈さんの著作『不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者』(新潮社)は、しかしながら釈さんのいつもの文体とはガラリと変わって、硬質な書き言葉の文体で書かれた本である。釈さんの、これまでとは違った一面が見られる著作だ。

 

さて、タイトルともなっている「不干斎ハビアン」とは、一体何者なのだろう。正直、あまり聞き慣れない名前だ。

ハビアン(1565‐1621)は、安土桃山期から江戸初期にかけて活躍した、キリシタンにして“元”キリシタンでもある人物である。どういうことか。

彼はもともとは臨済宗の修行僧であったが、南蛮渡来のキリスト教に魅了され、入信、イエズス会の修道士として活躍するようになった。ところが後に修道女と駆け落ち同然で教会を去り、棄教。以降はむしろ幕府に協力してキリシタンを弾圧する側に回った。ゆえに、キリシタンであり元キリシタンでもあるという、なんとも奇妙な人物なのである。

 

ハビアンは、頭が良く、弁も立つ人物だったようだ。キリスト教に入信した彼は、たちまちのうちに頭角を現し、日本のイエズス会において重要な人材と見なされるようになった。

そんな彼がキリスト教擁護のために著した書物が、『妙貞問答』である。

これは、当時の日本の宗教である仏教、神道儒教などについて解説し、その問題点を洗い出したうえで、最後にキリスト教の優位性を説く、という内容の本である。釈さんは本著の前半部分を、この『妙貞問答』の解説にあてている。

 

『妙貞問答』の素晴らしい点は、論理的であることに加え、著者であるハビアンが仏教、神道などについて極めてよく理解したうえで、その急所を批判しているということである。

上述のとおり、ハビアンはもともとは臨済宗の修行僧であった。そんなハビアンだからこそ、既成仏教、とりわけ禅宗に関しては極めてよく理解していたのだ。元僧侶だからこそ、僧侶の考えることが手に取るように分かるのである。釈さんは、これに加えて、物事を相対化したがる禅宗の性格も彼の人格形成に影響を及ぼしたのだろう、と見ている。

ハビアンは、神道についてもその重要文献をきちんと読みこんだうえで批判を展開している。ちょうど、先日、本ブログにて取り上げたガザーリーが、哲学を徹底的に勉強したうえで哲学批判を展開したのと同じことである。

ハビアンのこうした態度を、宗教学者である釈さんはとても高く評価しているのだ。

 

ハビアンは、仏教はじめ既成の宗教の、どこが嫌だったのだろう?

それは、それらの宗教に絶対的な存在がなかったからである。仏も元々は人間であった。日本の神々だって、どこかからひょっこりと生まれてきた存在である。

対して、キリスト教の神は、絶対的な存在だ。人間ではむろんなく、世界が創造される前から存在していた。ハビアンは、そうした「絶対」という概念に魅せられ、キリスト教に入信したのだった。『妙貞問答』では、キリスト教の神の絶対性が解説されている。

しかし、である。上述の通り、ハビアンは最終的にはそのキリスト教を棄教してしまうのだ。皆さん、不思議に思わないか?

「え、『妙貞問答』でこんなに自信満々に他宗教をdisっていた人が、一体どうして?」と。

その謎を知りたくて、読者はワクワクしながらページをめくることだろう。

 

さて、そんなハビアンの前に現れたのが、当時新進気鋭の儒学者であった、林羅山(1583‐1657)である。

林の名前が本ブログで登場するのは、これが二回目となる。一回目の登場は、石川丈山の評伝『艶隠者』であった。この本のなかで、林は石川の親友として登場する。隠遁生活を送っていて今風に言うならニート(w)であった石川とは異なり、幕府の御用学者であった林はこれまた今風に言えば内閣補佐官、れっきとした体制側エリートであった。

そんな林が、一度ハビアンの家を訪れ、彼と論戦したことがあったのだ。本著中盤では、その論戦について語られている。

論戦は、一般的には林の勝利とされている。ハビアンはコテンパンに論破されてしまった、とされているのだ。

ところがこれは、あくまで林が残した文書にはそう書かれているというだけの話であって(※)、実際のところは分からない。釈さんは、この論戦はどちらが勝った負けたというのではなく、ふたりが用いていたテクニカルタームがあまりに違い過ぎたがゆえに、そもそも議論が噛みあわなかったのではないか、とみている。

※こういうあたり、ネットスラングでいうところの「勝利宣言」と似ている。林は、今風に言うと「論破厨」っぽいところがあったのかもしれない。

実際にどのような議論が交わされたかは、残念ながら定かではない。はっきり分かっているのは、その数年後、ハビアンはキリスト教を棄教してしまう、という事実だけである。

 

棄教したハビアンは、今度は一転、キリシタンを取り締まる幕府の側に協力するようになった。そうして彼が著したキリスト教批判の書物が、『破提宇子』である。提宇子とは、デウス、つまり神のこと。ハビアンは、今度はキリスト教の神に挑戦したのだ。

先程の『妙貞問答』同様、今回も、かつて所属していた宗教集団への批判なのだから、その批判は実に的を射ている。どうやらこれが、ハビアンの“お家芸”だったようだ(w

『破提宇子』のなかで、ハビアンは『妙貞問答』での自身の見解を修正し、仏だって必ずしも元が人間とは限らないし三身説、日本の神が別の神から生まれることをもって絶対的存在ではないというのであれば、イエスだって神から生まれた「神の子」なのだから日本の神と同じではないか、と指摘している。こうした教義面での批判に加えて、ハビアンは、キリスト教会の西洋人の神父が日本人を見下す、などの実務面での批判も展開している。これは、実際にキリスト教会に身を置いていたハビアンだからこそできた批判と言えよう。

こうしてついにはキリスト教までをも相対化してしまったハビアン。釈さんはこれをもって、ハビアンを、(当時の日本の)宗教すべてを相対化した、比較宗教論の先駆けとして評価するのである。

 

ハビアンは、最後はどうなったのか。本著によれば、晩年の彼は、特定の宗教に全面的にコミットするのではなく、既成宗教の教義をパッチワーク状につなぎ合わせて己の思想を語るようになったらしい。こうした彼の態度を、評論家の山本七平さんは「日本教」の典型だと指摘したのだという。

本著終章にて、既成宗教を「つまみ食い」するハビアンは、意外にも今日のスピリチュアルブームにも通じる、と釈さんは指摘している。

400年前の人物であるはずの、ハビアン。彼は案外、極めて現代的な感性の持ち主だったのかもしれない。よし、本ブログではこれから彼を「早く生まれすぎた21世紀人」と呼ぶこととしよう(w

 

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)

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書評『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』

評論家・宇野常寛さんのことを、僕はわりと評価している。

「えー? どうして宇野なんか褒めるんですかぁ。あいつ、サヨクじゃないですかぁ!」

とよく言われる。

確かに、彼の見解に同意できることはそんなに多くない。だが重要なのは、同意できるか否かではなく、ちゃんと主張内容を理解できるかどうかなのだ。宇野さんは、自らの考えをとても明晰かつ論理的に、語ることができる。僕は、だから宇野さんの言論活動には注目することにしているのだ。

 

今回ご紹介するのは、宇野さんの『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』朝日新聞出版)である。

タイトルに「講義録」とあるように、本著は宇野さんが京都精華大にて行った講義を活字化し、書籍にまとめたものである。したがって終始話し言葉で書かれており、とても読みやすい。加えて宇野さんの語り口は、上述の通りとても論理的で明晰ときているから、読んでいて「あぁ、そういうことだったのか!」と頭の中がスッキリと整理されるのだ。とても良い読書体験である。

 

本著では、大体1970~80年代以降の、わが国のサブカルチャーの歴史が概観される。宇野さんの視野はとても広く、特撮からアニメ、さらにはアイドルまで多岐にわたっている。

実はこれが、宇野さんの評論の特徴なのだ。本著のなかで宇野さんも指摘している通り、アニメファンはたいていアイドルを貶すことが多い。「ケッ! 俺は3次元なんて興味ねーよ!」と(僕もそうだw)

だからアニメについて語る評論家は、アイドルについてはあまり語りたがらないものなのだ。ところが宇野さんは、どちらとも語る。そして、どちらにも現代日本を読み解くための鍵がある、と見るのだ。

 

 

宇野さんの評論のポイントは、このようにサブカルチャーを分析することで日本社会を読み解くというスタイルにこそある、とこれまで僕は思ってきた。

ところが。

本著を読むと、宇野さんは意外にも、サブカルチャーの時代はもう終わりつつあるというではないか!

えっ、どういうこと?

 

宇野さんは本著にて、20世紀後半の歴史を振り返っている。

1960年代末は、世界的に革命の機運が高まった時期である。日本においては、それは全共闘というかたちで表れた。そうした革命の機運は、しかしながら1970年代に入ると急速にしぼんでしまった。「どうせ革命では世界は変えられない」というあきらめが、その原因であった――日本においては、革命の挫折は、連合赤軍事件に象徴される内ゲバという陰惨なかたちで表れた。

それでは、若者たちは一体どうしたか。

「世界を変えられないなら、自分自身を変えてしまえばいいんだ」と考えたのだ。

かくして誕生したのが、ヒッピーカルチャーである。知的な若者たちがつくる都市文化の中心は、政治運動からサブカルチャーへと移行した。かくして、20世紀後半はサブカルチャーの時代となり、サブカルチャーを分析すれば現代社会が読みとけるようになったのだ。ところが。

そうしたヒッピーカルチャーが、やがてカリフォルニアン・イデオロギーを生むこととなる。

カリフォルニアン・イデオロギーとは何か。

要するに、「applefacebookgoogleなどのIT企業の力によって世界を変えてしまおう!」というイデオロギーのことである。実際、googleなどはネット検閲の問題をめぐって、一主権国家である中華人民共和国とサシでやり合えるくらいの存在なのだから、IT企業が世界を変えるという発想は、決して誇大妄想などではない。

かのスティーブ・ジョブズが元ヒッピーであることからも分かる通り、カリフォルニアン・イデオロギーはヒッピーが生んだものである。

……アレ? おかしくないか?

もともとは「どうせ世界は変えられない。それならば……」ということで始まったヒッピー文化なのに、それがIT企業を生んだことで「あれ、世界って……やっぱり変えられるじゃん!(w」という話になってしまったのであるw(;^_^A

かくして、サブカルチャーに“逃げ”なくても、IT企業に入社すれば現に世界を変えられるようになったのだ。サブカルチャーの時代はこうして終わった、というのが宇野さんの見立てなのである。なるほど、と彼の分かりやすい解説に感心させられた。

 

宇野さんは、しかしながらそれでもなお、サブカルチャーにこだわるつもりだという。

どうしてか。それは、上述のような「IT企業に入って世界を変えてやるぞ!」と息巻くカリフォルニアン・イデオロギーの若き信奉者たちが、宇野さんに言わせれば「話が壊滅的に面白くない」からである。

彼らは≪ブロックを右から左に移動するのはものすごく得意で効率的なのだけど、そのブロックを面白い形に並べて人を楽しませることが苦手な人がとても多い。≫ (41頁)

宇野さんは、そこでサブカルチャーの世界から創造性を汲み取り、カリフォルニアン・イデオロギーと、今日におけるサブカルチャーの担い手たる文化左翼――こちらは現実政治に影響力がない――との「いいとこどり」をしようと考えているのだ。

すでに「古きもの」と化したサブカルチャーの世界にあえて戻って、そこから汲み取れるものを探す。

僕には、これは保守主義的な発想に思える。保守主義者は、なにか新しい事態に直面すると、古の賢人たちの書物に立ち戻り、そこから知恵を汲み取ろうとするからだ。

サヨクっぽくて、サブカルチャーについてがんがん語る宇野さんには、意外にも、保守主義的な一面があったのだ。

 

※最後に、本著にひとつ批判……というか、指摘をw

本著のなかの『Zガンダム』評にて、宇野さんは≪主人公は「カミーユ」という名前ですが、これはフランス人の女性の名前ですね。だから彼は「女の名前をつけられた」ということにコンプレックスを感じています。≫(182頁)と解説している。

これは、実を言うと正確ではない。カミーユというのは必ずしも女性の名前とはかぎらず、「男にも女にもどちらにも使える名前」であるからだ。日本でたとえるならば、「ヒカルちゃん」とか「アキラちゃん」みたいな感覚なのである。

もっとも、男らしくない名前だというのは間違いないだろう。

 

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

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最近見た映画の感想(第254回)

・『ハムレット

本ブログでは以前にも『ハムレット』の映画化作品を取り上げたことがある。そちらは舞台演劇的な演出をあえて映画に取り入れた作品となっていたが、本作のほうは、普通に“映画らしい映画”に仕上がっている。歴史モノのドラマを見ているかのようだ。

メル・ギブソン演じる、中世デンマークの王族・ハムレット。父王の急死にショックを受け塞ぎこんでいたが、ある時、その亡き父の亡霊が現れ、自分は実は弟によって殺されたのだ、と衝撃的な真実を告げる。ハムレットは、叔父である新王の前にて、兄殺しを主題とする演劇を上演させる。新王が動揺するのを見て、父の亡霊の言葉は真実だと確信、復讐を誓う。

この物語の凄まじいところは、主人公をはじめ、ヒロインのオフィーリアなど、周囲の人々が次々と理性を失い、命を落としていくことである。「そして誰もいなくなった」的な結末は、まさしく悲劇と呼ぶにふさわしい。

本作は、シェイクスピア悲劇の映画化だというのでスタッフの気合が入っているのか(w)、実際に古城を使って撮影されており、大道具なども凝っている。中世をリアルに再現できているほか、原作の持つ陰鬱な雰囲気がより一層際立っている。

 

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・『ミッション』

18世紀ブラジルにて実際に起こった先住民虐殺事件を描いた作品である。

ロバート・デニーロ演じる主人公の宣教師。アマゾンの奥地に住む先住民の村へとたどり着き、彼らにキリスト教を布教する。布教活動を通じて彼は、先住民がとても人間的で平和な社会を築いていることを知る。

一方そのころ、彼らの居住区域の帰属をめぐって、スペインとポルトガルが争っていた。同地のポルトガルへの編入が決まり、スペイン人である主人公には退去命令が下される。だが当時のポルトガルではまだ奴隷制が合法とされており、このままでは先住民たちが奴隷化されるおそれがある。

主人公はかくして、白人であるにもかかわらず、あえて先住民の側につき、白人たちと戦う決心をかためる。

……という、なんとも『ラストサムライ』的なお話であった。

本作を見ると、キリスト教が残念ながら(というべきだろう)帝国主義の尖兵として機能してしまったことがよく分かる。と同時に、そんなキリスト教のなかにあっても、先住民たちを想い、彼らとともに戦った人々がいたことも、また事実なのである――そう本作は教えてくれているのだ。

 

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・『ルーキー』

主演、監督、ともにクリント・イーストウッドという本作は、まさしく彼らしいと言える映画であった。

イーストウッド演じるロス市警の型破りな主人公刑事のもとに、チャーリー・シーン演じるお坊ちゃん育ちの新米刑事が配属される。ところがこの新米、さっそくヘマをやらかしてしまったせいで、主人公は敵に人質に取られてしまう。新米は雪辱を誓う。

……という内容の本作。この新米刑事というのが、いかにもお坊ちゃん育ちの自分にコンプレックスを抱えているのが見え見え(w)。彼はロス市警に入ることで一生懸命背伸びして不良刑事ぶるわけだが、傍目にはどうしてもイタく映ってしまう(w)。それでも彼は少しずつ“成長”していく。

イーストウッドは、先の大統領選にて共和党のトランプ候補を支持し、そのせいでリベラル派からはずいぶんと失望されたものだ。それはここ最近、彼が文芸的な映画を多く撮るようになり、なんとなく文化人っぽい扱いになったことによる。リベラル派連中から勝手に「保守の良心」として期待され、そして勝手に失望されたのだ(w)。もともとのイーストウッドは、トランプ的な不良キャラだったというのに。

本作は、ある意味民主党的とも言えるお坊ちゃんが、トランプ共和党的な不良刑事へと“成長”するまでを描いた物語、と見ることもできるだろう。

 

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・『ナビィの恋

若い女性が、沖縄の離島にある実家へと帰省してきた。祖母のナビィは温かく彼女を迎えるが、このとき島には彼女と同時に、ある謎の老人も訪れていた。やがて、ナビィばあちゃんとこの老人とのただならぬ関係が明らかになる。

本作の最大の特色は、折々で交わされる琉球語のセリフだ。日本語の一方言とも、独立した言語ともみなされるこの琉球語を、島の老人たちは日常的に話すのである。

これがスゴイ。全然分からないw(;^ω^) あまりに分からないのでちゃんと下に日本語字幕が出るほどである(w)。ところどころ分かる箇所もあるが、分からない箇所は本当に全然分からない(w)。「なんだこりゃ、韓国語か?」という感じだ(w

琉球語が実際に話されているのを聞けるだけでも、本作は一見の価値ありである。

主人公格のナビィばあちゃんを演じるのは、平良とみ(1928‐2015)。彼女は本作公開(1999年)から二年後にNHK朝の連ドラ『ちゅらさん』にて主人公の祖母「おばぁ」役で出演、たちまち全国区の知名度となった。『ちゅらさん』は僕も見ていたので、本作にて久しぶりにおばぁと“再会”でき、とても嬉しかった(w

 

 

・『コーザ・ノストラ

アメリカのマフィア――いわゆる“ファミリー”は、絆を重んじる。なんだ、彼らも彼らなりに仁義に厚いのか、と思ってしまうが、どうやらその実態はもっとずっと、ドロドロしたもののようだ。

本作は、そんな“ドロドロ”を描いたマフィア映画である。実話に基づく。製作総指揮は、なんとあのロバート・デニーロ(w

主人公・サミーはマフィアとしてめきめき頭角を現し、“ファミリー”内にてのし上がっていく。ところが最後の最後になってボスの裏切りに遭い、自分だけ刑務所にぶちこまれてしまう。サミーは復讐として司法取引に応じ、過去の悪行を洗いざらい白状。これによりボスを終身刑へと追いやることに成功する。が、自らもまた、裏切り者として復讐におびえる日々を送る羽目になる。

劇中の主人公のセリフが印象的だ。

「殺人は6人までならまだ大丈夫だが、7人目以降は遺族からの復讐におびえなければならなくなる」

因果応報。悪行には、必ず報いがやってくる。マフィアたちにまとわりつく“カルマ”を強く感じさせる作品だ。

 

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書評『イタリア合理主義』

2003年、僕はイタリアを旅行した。

ローマの空港に降り立った際、なんだかカリフォルニアと似ているな、と感じた。ともに地中海性気候だからだろう。ところがローマの中心部に至ると、さすがにその考えを改めざるをえなかった。

なにせ、古代ローマ時代につくられたと思しき水道橋がいまだにそびえ立っており、その下をごく普通に自動車が通過していくのだ! さすがは“永遠の都”だ、と驚嘆した。

そんな永遠の都と、一見不釣り合いに思われたのが、ローマの中央駅・テルミニ駅である。歴史の重みを感じさせる古代ローマの建築物や、壮麗なヴァチカンの建物とは対照的に、ここだけがシンプルなモダン建築なのだ。

「アレ? これは一体どういうことだろう?」と当時は違和感を覚えたものだった。

後になって、この駅はファシズム時代に建設されたことを知るに至った。

 

本日取り上げる本は、『イタリア合理主義 ファシズム/アンチファシズムの思想・人・運動』鹿島出版会である。

ファシズム期におけるイタリアの建築をテーマとした書籍だ。著者は、イタリア建築の研究者である、北川佳子さん。北川景子ではない

本ブログではこれまで、イタリアン・ファシズムに関する著作を多く取り上げてきた。本著もそのひとつといえようが、ファシズム期のイタリア建築に関するかなり専門的な内容の著作なので、たとえば先日取り上げた佐藤優さん『ファシズムの正体』のような入門書か、と期待して読むと、面食らうかもしれない(w

ある程度、イタリアン・ファシズムや建築史、美術史について基礎教養を踏まえたうえで、本著を読むことをおすすめしたい――と偉そうなことを言っているけど、僕も建築にはさほど明るくないので本著は正直難しかったw(;^_^A

ただし幸いにも、というべきか、本著は写真がとても充実しているので、建築好きな人ならば、写真を眺めているだけでも楽しめるかもしれない。

 

本著では、おもに1920年代から30年代にかけて活躍したイタリアの建築家たちが数多く登場する。

以前紹介した『建築家ムッソリーニ』でも登場したピアチェンティーニもそのひとりだが、本著では意外にも、アントニオ・グラムシの建築に関する考え方が紹介されていて興味深い。

グラムシといえば、ムッソリーニと同時代の、マルクス主義の思想家である。ムッソリーニやイタリアン・ファシズムに関する書籍では、必ずと言っていいほど登場する、イタリア左翼きっての理論家である。

そんなグラムシは、しかしながらファシストにとっては、「敵」というよりかはむしろ「ライバル」と呼んだ方が適切なのかもしれない。単に敵対しているだけなのではなく、説明が難しいのだが、“ほぼ同じゴール”へと向かってファシストとは別のルートを走っている「競争相手」のように、僕には思えるからだ。

そんなグラムシは、≪建築作品の芸術性を扱うのではなく、建築の計画から完成までの過程で行われる建築家とその他の職業の人々との共同作業について、その社会的意義を考察≫(47頁)したのだという。つまり建物そのものではなく、皆で建物をつくっていく、そのプロセスこそが大事だと考えたわけだ。

なるほど、グラムシはやっぱり面白いことを言うな、と僕は思った。周知のようにグラムシは、ヘゲモニー――強制や恐怖による権力支配とは異なる、人々の自発的な合意にもとづく権力掌握――という概念を提唱した論者として、一般に知られている。彼の建築に関する上のような見方にも、そうしたヘゲモニー概念が影を落としている、と思うのは僕だけだろうか。

 

この他にも、本著では興味深い話がいくつもある。以下に、僕が個人的に面白いと思った箇所をひとつ挙げるとしよう。

当時のイタリアの建築家たちの間では、「イタリア性」、つまり「イタリアらしさ」とは何か、という議論が常々交わされていたらしい。これについて、カッターネオという建築家はこう考えたのだという。

≪カッターネオは、建築における‘イタリア性’という議論に関しては、まず過去の偉大な建築は、イタリアにおいて普遍性を追求することでイタリア的たりえたことを述べる。≫(152頁)

我々日本人にはいまいちピンとこない箇所だが、文中の「イタリア性」を「日本らしさ」と置き換えると、にわかに分かりやすくなるのではないか。

「日本らしさ」とは何か。サムライとかゲイシャとかニンジャとか? いや、ここでは建築の話、たとえば五重塔を「日本らしい」建築物だとしよう。だが、五重塔を建てた人は「日本らしい建物をつくろう!」と思って五重塔を建てたのだろうか?

そうではないだろう。彼はあくまで普遍性を追求した結果、五重塔を建設するに至ったのである。

「イタリア性」とか「日本らしさ」というのは、意識してつくりだすものではない。そういうのを考えずに普遍性を追求してつくった建物が“結果的に”イタリア性、日本らしさを帯びるのである。

ここでカッターネオという人が言わんとしているのは、要するにそういうことだろう(違ってたらごめんなさいねw)。それは僕には、とても納得できる議論である。

 

ファシズム時代の建築家というと、皆体制に従順だったのかと思ってしまう。だが本著を読むと、彼らは意外にも個性の強い人たちばかりで、必ずしも全員がファシズムを熱心に支持していたわけではない、ということに気づかされる。

彼らは表向きはファシストであるかのように振る舞い、ファシスト政権の文化、芸術政策のもとで活動をつづけたものの、心の奥底では彼らの活動を制限する政府の政策に少なからず反撥をもっていたはずだ――そう著者の北川さんは書いている。

ファシズム期の建築とは、そんな体制と芸術家たちとの、水面下の葛藤の時代でもあったのである。

どうだろう、皆さんのイタリアン・ファシズムのイメージが、また少し変わったのではあるまいか?

 

イタリア合理主義―ファシズム/アンチファシズムの思想・人・運動

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最近見た映画の感想(第253回)

・『爆裂都市 BURST CITY』

いかにも「80年代~」という雰囲気が漂う(w)、SFアクション映画だ。

近未来の荒廃した都市を舞台に、これまた荒廃したヒャッハー!な若者たちが暴れまわる。

主演は陣内孝則。今でこそオッサン俳優になってしまったが(w)、当時の彼はバリバリのロッカーであった。本作では顔にメイクまでして、ガンガン歌って暴れまくっている。

本作には泉谷しげるも出演しており、こちらもメイクしているものだから笑ってしまう(w)。今日の大御所芸能人たちのイタい過去が見られるという意味で、本作はとても笑える映画だ(w

余談ながら。本作のプロデューサーは、秋田光彦。彼はその後、実家のお寺を継いで、なんとお坊さん(!)になってしまった。本ブログでは昨年、彼の対談本『仏教シネマ』を取り上げたことがある。いやぁ、人間の将来って、分からないもんだねぇ……w

 

爆裂都市 BURST CITY [DVD]

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・『少林寺三十六房

明末清初の中国。清王朝への復讐に燃える漢民族の主人公は、満州族撃退のため、少林寺に入り武道の修行を始める。

少林寺には、全部で三十五の房(修行部屋)があった。数字が小さいほどレベルが上がるため、まず入門者は第三十五番目の房から修行を開始する。そこからひとつずつレベルアップしていき、最後に最高峰の第一房をクリアすると、めでたく修行完了とみなされる。主人公は、持ち前の武術の才能を生かし、目覚ましいスピードでステップアップを遂げていく。

かくして少林寺始まって以来のスピードで第一房までクリアした主人公であったが、彼は在家の人向けに新たに「第三十六房」を創設すると宣言――タイトルの由来だ――寺の首脳部からの猛反発を招き、下山を命じられる。里へと下った主人公は、そこで意識の高い青年たちを集め、武道を教える。かくして彼らは少林寺拳法を武器に、清の高官たちに立ちむかうのであった。

……という内容のお話。主人公がどんどんレベルアップしていく過程がとてもゲーム的で、ゲーム世代である僕にはとても楽しめました(w

 

少林寺三十六房 [DVD]

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・『シェイプ・オブ・ウォーター

本ブログでは以前、『大アマゾンの半魚人』というB級映画を取り上げたことがある。それから60年以上経ち、半魚人の社会的地位(?)も大いに向上したようだ。なんと、半魚人を主人公にしたラブロマンス映画の登場である(w

1960年代のアメリカ。発話障害のある主人公の女が働く研究所に、アマゾンからオスの半魚人が送られてきた。冷酷な科学者によって虐待される半魚人。主人公は、協力的な男性研究員――実はソ連のスパイ――と連携して半魚人を救出、自宅にて保護する。やがてふたり(ひとりと一匹?)の間に、奇妙なロマンスが芽生え始める。

……とまぁ大体こういうお話なのだが、主人公の女が、言っちゃ悪いが頭が弱そうに見えるのでイラついてくる(;^ω^)。半魚人のほうも、なかなかにリアルな造形ではあるが、これで人間の女とロマンスをやるというのは、ちょ~っと……無理があるんじゃないか?(w

 

 

・『WOOD JOB!~神去なあなあ日常~』

あまり知られていないが、林業というのはかなりブラックな職場だと聞く。

本作は、そんな厳しい林業の世界を描いた日本映画である。もちろん、厳しいなかにもやりがいのある職場として、肯定的に描いた作品だ。

大学受験に失敗した主人公。林業のチラシに写っていた美女に夢中になり、その場の勢いで林業の村へとやってくる。ところがそこで彼を待ち受けていたのは、予想以上にハードな毎日であった。主人公は、それでも仕事を続けるうちに、次第に林業の持つやりがいと、村の人々の心の温かさに魅了されるようになる。

本作を見ていると、現代の林業というものを垣間見ることができる。自宅にパソコンを置き、森林をコンピューターで管理するなど、その仕事ぶりは意外にも現代的だ。

と思えばその一方、仕事を始める前に山の神様にちゃんとお参りをするなど、古風な一面もある。本作中盤では、その“山の神様”が一瞬現れるという、ファンタジックなシークエンスもある。

キャスト陣のなかでは、ヒロイン役の長澤まさみもいいが、個人的には村の青年役の伊藤英明が良かった。『海猿』の時とはだいぶ印象の違う、田舎に特有の「荒っぽいけど人情味のある兄ちゃん」の役を好演していた。

青年のイニシエーション通過儀礼をコミカルに描いた作品ということで、僕は周防正行監督『ファンシイダンス』を思い出しながら本作を見ていた。

 

 

・『女性上位時代』

「えっ、女性上位? なにやらイヤラシイ映画なのかしら……」とワクワクしつつ見ていたら……うん、やっぱりイヤラシイ映画であった♪(はぁと

夫を亡くした未亡人が、実は亡き夫がSM愛好家であったことを発見、SMプレイについて勉強していくうちに自らもSM趣味に目覚める……という内容のイタリア映画である。

同じくSMをテーマにした映画として、本ブログでは以前、フランス映画『昼顔』を取り上げたことがある。そちらでも変態ばかりが出てきて、「なんだ、フランスという国には変態しかいないのか」と唖然としたものだが(w)、そちらと比べると本作は、同じSM映画とはいえ、コメディータッチで、雰囲気が明るい。やはりフランスとイタリアの違いか。

喩えるならば、『昼顔』がむっつりスケベだとするなら、本作は快活で爽やかなスケベ、といったところか。……うむ、我ながら実に意味の分からない喩えだ(w

主人公の部屋の内装もオシャレだし、BGMもこれまたオシャレ。ひさびさに、ヨーロッパ映画を堪能したなぁ、と感じた。

 

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書評『ガザーリー』

本ブログでは昨秋、イスラーム学者・井筒俊彦さんの『イスラーム思想史』という本を取り上げた。

この本のなかでひときわ僕の印象に残ったのが、ガザーリーという中世の神学者であった。

このガザーリー、哲学批判を展開することによって「東方イスラーム哲学」なる当時の哲学の一派を終焉へと導いたのだという。では反知性主義者だったのかというと、どうやらそういうわけでもなかったようで、むしろ徹底的に哲学を勉強したうえで哲学批判を展開した人なのだ、と『イスラーム思想史』には書かれていた。

う~む、ガザーリー。いったい、いかなる人物だったのだろう。

僕はこの人のことが、妙に気にかかっていた。

 

というわけで、本日取り上げる本は『ガザーリー 古典スンナ派思想の完成者』山川出版社である。

本著は、歴史教科書で有名な山川出版社の出している「世界史リブレット」シリーズのなかの一冊。このほかに「日本史リブレット」なるシリーズもあり、以前取り上げた『岡倉天心と大川周明』がこのシリーズの本であった。

ページ数が少ないわりには、意外と中身が充実しているのが特徴だ。

 

本著の主人公・ガザーリーは、1058年生まれの、イスラーム神学者である。

とても聡明な人物だったようで、33歳のときに、バグダードにあるニザーミーヤ学院という教育機関の教授に任命されたという。……まいったなぁ、僕と同年齢でもう教授かよ……w(;^ω^)

もっとも、彼の生涯は決して順風満帆だったわけではない。彼は青年期に、ある深刻な精神的危機を経験したのだという。

本著によると、≪彼は、感覚より上位の判定者として理性があるように、理性よりも上位の判定者が存在するのではないかと考え、理性に対して懐疑的になった≫(6-7頁)というのが、その精神的危機の原因である。お、おう……。なんというか、悩みの内容からして、もはや我々常人とは次元が違う、といった印象だ(^▽^;)

 

さて、ニザーミーヤ学院にて、彼は300人もの学生を相手に、法学や神学の講義をしていたという。ところが彼は同時に、講義や著述活動などの合間を縫って、哲学の研究も開始したのだ。

哲学が好きだったから? 

違う。むしろ逆だ。彼は、哲学を批判する必要性を感じ、そのために独学で哲学を勉強したのである。そうして、哲学批判の書『哲学者の自己矛盾』を著したのだ。

実を言うと彼はその前に、まず哲学の概説書『哲学者の意図』を著しており、そのうえで今度は哲学の批判書『~自己矛盾』を書いたのだ。このうち、ヨーロッパでは後者は伝わらず、哲学を解説する前者だけが紹介された。そのせいで、ヨーロッパではガザーリーはむしろ哲学者だと誤解されたのだという。

なんとも皮肉な話だが、それだけ彼の哲学理解が深いものだった、ということだ。

ある思想を批判するにあたって、それをろくに理解することなく、批判、というか罵倒してしまうことは、現代でもとても多い。ガザーリーは、しかしながらそうではなかったのだ。彼はまず、問題となっている思想を徹底的に理解し、そのうえで批判を展開した。今日の我々も見習うべき、フェアな態度と言えるだろう。

 

ガザーリーは、アシュアリー学派と呼ばれる神学の一派を学んだ。このアシュアリー学派が採用していたのが、原子論である。

と言っても、今日の科学でいうところの原子論とはまた異なるようだ。この時代の原子論とは、≪世界は、目に見える物体であろうと、不可視界や人間霊魂といった目に見えない霊的なものであろうと、すべて原子から成っている。原子は一瞬しか持続できないため、瞬間ごとに神によって創造される。したがって、原因と結果の関係もなくなってしまい、因果関係があるかのように見える現象も、実際は神によってばらばらに想像されている≫(36頁)と考える思想であった。

このように因果論を否定すると、何に都合が良いか。

クルアーンに記されている奇蹟を説明するのに都合が良いのである。

この世はつねに神によって創造されつづけている以上、神が望めば奇蹟なんて簡単に起こせる、というわけなのだ。「なるほど、こういう考え方があったのか」と目からウロコが落ちる思いがした。

僕の記憶が確かならば、曹洞宗の開祖・道元禅師も、たしか『正法眼蔵』にて同じようなアイデア、つまり世界は絶えず再創造されている、という話をしていたはずである(違ってたらごめんなさいねw)

 

さて、上述のとおり若くして、今でいうところの大学教員のポストをめでたくゲットしたガザーリーであったが、37歳のとき、彼はなんと学院での仕事を辞し、家族すら棄てて(!)、突如放浪の旅に出てしまったというのだ。

えええええええええ!!!???

本著によると≪当時のガザーリーは、一点の疑念も残らないほどの「確実な知識」つまり信仰の確信を求めて、神学・哲学・シーア派を検討していったが、いずれも満足できなかった≫(48頁)

そこで彼が着目したのが、スーフィズムであった。

スーフィズムとは何か。『イスラーム思想史』評でも簡単に解説したが、たとえばスカートみたいな衣装を着て、くるくる回りつづけることによってトランス状態に達し、「神との合一」(Unio Mystica)を果たす、というイスラームの一派のことである――どこか、禅の修行に似ていなくもない

ガザーリーは、放浪の旅を通じてこのスーフィズムの修行や実践を行い、スーフィズムを採り入れた著作を残したのであった。

当時のスーフィースーフィズムを実践する人のこと)のなかにはイスラームの戒律を無視した、日本風に言えば破戒僧っぽい人が多く、そのせいでスーフィズムは主にウラマーイスラーム法学者)たちの間で白眼視されていたという。

ガザーリーは、スーフィズムの考えを採り入れつつも、同時に従来のイスラームの戒律も尊重し、中庸の道を確立したのであった。

ガザーリーの後期の代表作『宗教諸学の再興』では、まずイスラームの戒律について語られ、次に日常生活のあるべき過ごし方、そして心を浄化して神に近づいていく方法――これがつまりスーフィズムの考えを採り入れた部分なのだろう――について語られている。

本著でもこの『~再興』の一部分が引用されている。それを読むと、スーフィズムの修行のやり方について、彼がかなり細かいところまで指示していることが分かる。

なんとなく、道元禅師の『正法眼蔵』に似ているな、と僕は思った。道元禅師もきわめて几帳面な性格であり、洗顔の仕方、食事のとり方まで実に細かく指示しているからである。

……最近、曹洞宗の人たちの本を多く読んでいるせいかどうかは分からないが、僕にはどうしてもスーフィズムと禅がだぶって見えるのである。

 

本著終章では、11世紀人であるガザーリーの思想が、千年経った今日でもなお、イスラーム世界にて強い影響力を及ぼしていることが述べられている。

僕も本著を読んで、ガザーリーはとても魅力的な人物だと思った。

彼に関する本、あるいは彼自身が書いた本を、もっと読んでみたい、そう強く思ったのだった。

 

ガザーリー―古典スンナ派思想の完成者 (世界史リブレット人)

ガザーリー―古典スンナ派思想の完成者 (世界史リブレット人)

 

 

書評『平凡パンチの三島由紀夫』

僕は以前、ある保守系の団体にコミットしていたことがある。

そこでは毎年、三島由紀夫の命日の近くになると、追悼祭を催していた。

追悼祭のプログラムの一環として、『英霊の聲』の一部分を三島本人が朗読したテープが毎回流された。その朗読テープでは、ご丁寧なことに「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という有名な箇所でエコー(残響)がかかる演出がほどこされており、「などてなどてなどて……たまいしいしいしいし……」みたいな感じになっていた。

……その団体を離れた今だから正直に白状してしまうが、当時の僕は、言っちゃ悪いが、笑いをこらえるのに必死だった。……だって、笑うでしょ? 朗読テープでわざわざエコーなんてかけられたら

朗読テープに限らず、追悼祭の雰囲気そのものに、僕はどうしても違和感を覚えずにはいられなかった。その違和感の原因は、いったい何だろう。

それは、その団体の人々が一貫して「烈士・三島由紀夫」にのみ関心を向けていたからだ。

僕は違った。僕が関心を持っていたのは、たとえば、徴兵検査に落ちてむしろ大喜びした三島さんであり、60年代当時まっとうな大人が見るものじゃないと言われたヤクザ映画を絶賛した三島さんであり、漫画が大好きでニャロメについても論じた三島さんであり、映画に出演してご丁寧にも下手くそな主題歌まで披露してみせた三島さんであり、その撮影現場で怪我して病院に担ぎこまれた三島さんであり、その演技がシロウトだと酷評された三島さんであり、なぜかカニが大嫌いな三島さんであり、自衛隊でレンジャー訓練を受けるもロープを渡る訓練で失神してしまった三島さんであり、同じく自衛隊内での走る訓練にて高齢ゆえにいつも置いてけぼりをくらった三島さんであり、つねに同性愛を疑われつづけた三島さんだったのだ。

僕には「烈士・三島由紀夫」はそうした「三島さん」の多様な姿のひとつとしか思えなかったし、もっと言えば、彼のなかでも“陳腐な”一面だとすら思った。

そうしたすれ違いもあって、僕は最終的にその団体を離れたのである。

 

本日ご紹介する書籍『完全版 平凡パンチ三島由紀夫河出書房新社を読んで、僕はその三島追悼祭のことを思い出した。

著者・椎根和さんは、タイトルからも想像がつくとおり、雑誌『平凡パンチ』の編集者であった。生前の三島とも、何度か会ったことがあるという。

本著において椎根さんは、「烈士・三島由紀夫」を描いていない。彼が描き出すのはあくまで、僕が言ったような「三島さん」である。

博識である椎根さんは、三島と彼が愛した映画について多くのページをさいて論じており、ときには三島を、あの革命家チェ・ゲバラとさえ比較している。60年代当時の三島が、今風に言えばアイドルとして強い大衆的人気を誇っていたことも、本著のなかで詳述している。

なにせ三島さん、ノーベル賞候補の売れっ子小説家であるだけでなくボディビルディングもやっており、その肉体美をいかして写真誌のモデルまでつとめたこともあるのだ。上述のとおり映画の主演までつとめたこともあるし、これまた上述のとおり自衛隊体験入隊しレンジャー訓練を受けたことさえある。これだけド派手なことばかりやっていて、世間が騒がないはずがないじゃないか(w

椎根さんはそんな「芸能人としての三島」を余すところなく描き出すのである。

 

さすが、三島と一緒にいたことのある人だ。初めて聞く話も次々出てくる。たとえば、この箇所。

≪ぼくが、「こういう時は、なんか音楽が、BGMがほしいですね」というと、三島は、「高倉健の『網走番外地』みたいなやつね」という。ぼくは会話を途切らせないため、「あれ、三島さんは鶴田浩二の方が好きだったんじゃないですか」と、まぜっかえすと、「うん、歳のことを考えると、学生みたいにストレートに健さんといえなくなっちゃった。でも本当は高倉健のほうが好きなんだ」≫(132頁)

「えっ!?」

僕は大層びっくりした。僕はてっきり三島は鶴田浩二びいきだとばかり思っていた。高倉健も、まぁ嫌いではないんだろうけど、本命は鶴田だと思っていた。だからこの箇所にはとても驚いたのだ。

 

椎根さんはもちろん、「あの事件」についても触れている。だがそれは、本著ではサイドストーリーにすぎない。椎根さんは、生きていたころの、あの芸能人としての三島、右翼からはニセモノと見なされていたころの、あの「三島さん」をこそ描いているのだ。

あとがきにて、椎根さんは以下のように書いている。

≪三島の死後、おびただしい量の、いわゆる三島関連本が刊行されたが、そこにでてくる三島はほとんど、床の間あたりに敬して遠ざけておきたいような薄暗い印象の人物として登場してきた。自分が日常的に接して感じていた、あの光彩陸離たる魅力を発散させていた三島は、どこへ行ってしまったのだろう。三島が可哀想に思えてきた。≫(327頁)

床の間あたりに敬して遠ざけておきたいような薄暗い印象の人物……おそらくは、本記事で述べてきたような「烈士・三島由紀夫」のことではあるまいか(違うかもしれないが)

椎根さんは、「あの光彩陸離たる魅力を発散させていた三島」、つまり僕のいう「三島さん」をこそ、描きたかったのだ。そして僕も、そんな「三島さん」について、もっと知りたいと思ってきた。

本著は、したがって僕にとって、非常に満足のいく本であった。椎根さん、ありがとう。

 

完全版 平凡パンチの三島由紀夫

完全版 平凡パンチの三島由紀夫