読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『収容所群島』

保守とは本来、自由を擁護する立場である。

全体主義の脅威から人々の自由を守ることこそが、保守の務めなのである。

 

これは、とても重要なことだと思うのだが、残念なことに日本の“保守”の人々はこの点を十分に理解しているとは言いがたく、なにかというとすぐ「権利ばかり求めるのもたいがいにして、もっと義務について論じなければいけませんね」みたいなことを言ってしまうからよくない。

 

今日ご紹介する作品は、ロシア人作家アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918‐2008)の、『収容所群島』(ブッキング)

ソ連の極めて非人道的な抑圧体制を告発した大著だ。

「収容所群島」という一見奇妙なタイトルは、広大なソ連の領土内に、まるで群島のように収容所が点在している様子を指している。

 

ソ連政府による人民への抑圧は、凄惨を極めた。

たとえば、こんな話が紹介されている。

政府がある農民に勲章を授けた。すると祝いの席で、農民はこう冗談を言った。

「勲章なんぞよりも、なにか食べられるもののほうがありがたかったよ」

…翌日、農民は家族ともども収容所送りとなった。

 

このテの話が、次から次へと出てくる。

不謹慎を承知であえて言えば、これらの逸話はほとんどギャグにすら思える。

だがそれこそ、作者ソルジェニーツィンの意図したところだろう。

彼の語り口は、ときに深刻なテーマに似つかわしくないほど、ユーモラスですらある。

僕は、『ニノチカ』というアメリカ映画を思い出す。

ビリー・ワイルダー脚本、グレタ・ガルボ主演によるこの映画は、ソ連全体主義体制をジョークの対象にして笑いとばすことによって、全体主義をシニカルに批判する作品であった。

ここから、我々は重大な教訓を得る。

全体主義の暴力に立ち向かうにあたって、求められる感情は「怒り」でもなければ「哀しみ」でもない。

それは、「笑い」なのだ。

「笑い」こそが、全体主義に真に打ち勝つ武器だったのである。

 

ポリフォニックなドストエフスキー作品がそうであるように、本作からもまた、様々な人間たちの“声”が聞こえてくる。

ここはダッハウアウシュビッツかと見紛うほどの非人道的な収容所環境を告発する声もあれば、スリルと解放感に満ちた脱走話を語ってくれる声もある。

批評家の東浩紀氏は、本作に満ち満ちたこれらの声たちから、ポストモダニズムの特徴である「複数の文化的政治的背景をもった多様な言語の断片」を見出しているようだ。

文学において傑作と呼ばれる作品は常にそうであるが、『収容所群島』もまた、様々な角度からのアプローチを許容する作品である。

 

本著の翻訳を手掛けたロシア文学者・木村浩氏は、2巻巻末の「訳者あとがき」にて、以下のように述べている。

≪現在スイスに滞在中のソルジェニーツィン氏は<異国の生活>に慣れることを拒み、常に祖国ロシアへ帰還する日を待ち望んでいる。≫(2巻391頁、太字部分は原文では傍点強調)

現代に住む我々が、つい読み過ごしてしまう箇所がある。

「祖国ロシア」という部分だ。

木村氏がこのあとがきを書いたのは、1974年。まだ冷戦まっただなかだった当時、日本人はかの国をソ連と呼んでいた。にもかかわらず、ここで木村氏はあえて「祖国ロシア」という言葉を使っている。

理由は言うまでもあるまい。

ソルジェニーツィンにとって、祖国とは断じて全体主義国家ソ連などではなかった。民族共同体としてのロシアこそが、彼にとっての祖国に他ならなかったのだ。

 

ソルジェニーツィンは、ソ連崩壊後の1994年、その愛する「祖国ロシア」へと帰還を果たした。そして2008年、モスクワにて89年にわたる数奇な生涯を終えたのである。

 

収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察

収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察

 

 

収容所群島〈2〉

収容所群島〈2〉

 

 

収容所群島〈3〉

収容所群島〈3〉

 

 

収容所群島〈4〉

収容所群島〈4〉

 

 

収容所群島(5)

収容所群島(5)

 

 

収容所群島(6)

収容所群島(6)

 

 

書評『知性とは何か』

最近、人口に膾炙するようになったのが、「反知性主義」なる言葉である。

反知性主義ーなんだか、わかるような、わからないような、不思議な言葉だ。一体、反知性主義とは何なのだろうか。

 

というわけで今日ご紹介するのは、元外交官にして作家の佐藤優さんによる『知性とは何か』祥伝社だ。

 

佐藤さんによれば、反知性主義とは≪大雑把に定義するならば、「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」である≫(16頁)という。

こうした反知性主義者の典型として佐藤さんが挙げるのが、麻生太郎副総理である。

周知のように、麻生副総理は2013年7月29日に都内で開かれたシンポジウムにて「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と発言し、物議をかもした。

実際には、ヒトラー政権が全権委任法を成立させたのちも、ワイマール憲法は形式的には存在しつづけた。よって、上の麻生副総理の発言は、ナチスを称賛するという点であまりにも軽率であるうえに、事実誤認である。

こうした発言こそ、実証性、客観性を軽視して自分の殻に閉じこもる反知性主義のもっともわかりやすい例だ、と佐藤さんは主張している。

 

麻生副総理に限らず、こうした反知性主義が跋扈しているのが現下の日本なのだという。それはたとえば、在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチという形で現れる。

では、反知性主義を克服するには一体どうすればいいのか。

 

それには、各人の言語能力を高めることだ、と佐藤さんはいう。

この場合の「言語能力」とは、国語(我々の場合、日本語)と外国語、双方を操る能力という意味である。

ここから先、本著はにわかに語学マニュアルとしての性格を強めていく。

佐藤さんは、外国語を学習するのは良いことだが、その前にまず国語力を鍛えるべきだとする。

僕もまったく同意見だ。

僕は何事もコンピューターにたとえるのが好きである。コンピューターでいうなら、外国語はアプリケーションであり、国語はOSである。

土台となるべきOSがしっかりインストールされていなければ、そのうえにいくらアプリケーションをインストールしたところで、動作が安定しないのは必定であろう。

我々はまず国語力を鍛え、そのうえで、適切な学習法に基づいて外国語を学習しなければならない。

この“適切な”というところがポイントで、短期間で一気に覚えるのではなく長期間かけてゆっくりと覚えていくやり方のほうが、忘れにくく、語学学習として効率が良いのだという。佐藤さんは≪間違えた方法で外国語を勉強することは、人生の無駄なので避けるべきだ≫(104頁)と警告している。

 

そして、外国語習得に当たっては、語彙と文法を叩き込むことが大事だと佐藤さんは言っている。

これまた僕と同意見で、読んでいて思わず膝を打った。

最近の学校の英語教育では文法を軽視するきらいがあるが、佐藤さんは、いやいや文法こそが大事なんだよ、と昨今の風潮にくぎを刺しているのだ。

僕は、文法が大好きだ。書店でよく語学教本を立ち読みするが(←買えよっ!)、「あの映画のあのセリフ、英語で言ってみよう!」とか「海外ドラマを通じて生きた英語に触れてみよう!」みたいな内容の本には一切興味がなく、ひたすら文法にのみ関心が向かう。

人間の言語は、一見すると非常に雑駁で、法則性などないように見える。が、よく見ていけば、そのなかにも法則性はちゃんとある。それが文法なのだ。

中学のころ、英語の文法に触れて、僕は感動を覚えた。

今思えば、これは非常に理科系的な感性だった、と言えるだろう。自然科学もまた、複雑な自然界のなかから法則を洗い出していく知的営みに他ならないからだ。

 

本著第6章は「知性を身につけるための実践的読書術」と題されており、数々の興味深い著作が紹介されている。

語学マニュアルとしてもブックガイドとしても、本著はとても有益な書物だ。ぜひ座右に置いてほしい。

 

知性とは何か(祥伝社新書)

知性とは何か(祥伝社新書)

 

 

書評『動乱のインテリジェンス』

元外交官にして作家の佐藤優さんと、外交ジャーナリストの手嶋龍一さんは、2006年にタッグを組んで、『インテリジェンス 武器なき戦争』幻冬舎を著した。

論壇における名コンビの誕生である。

以来、ふたりはたびたび対談本を世に出している。

 

今日ご紹介する『動乱のインテリジェンス』(新潮社)もまた、ふたりの対談本のひとつである。

本作が刊行されたのは2012年11月。ちょうど民主党政権の末期にあたる。

 

本著は、一言で言ってしまえば、民主党政権を糾弾する書である。

鳩山由紀夫のイラン訪問、福島原発事故の際の菅直人の対応の拙さなどが仮借なく批判されている。

とりわけ、1章まるごと割いてまで批判されているのが、鳩山のイラン訪問だ。

2012年4月、鳩山“元首相”がイランを訪問して当時のアフマディネジャド大統領と会談、そのなかで現行のNPTやIAEA体制を批判したという“事件”である。

当然ながらこの“事件”は国際社会で(もちろん悪い意味で)大きな反響を呼んだ。同盟国である米国をはじめとする欧米諸国が日本に不信感を抱き、日本政府は釈明に追われることとなったのだ。日本の国益が害されたことは言うまでもない。

佐藤、手嶋両氏は、「元首相」という肩書で勝手にイラン訪問を行った鳩山の無責任さを厳しく批判する一方で、鳩山を招きいれたイランの狡猾さに対してはむしろ“称賛”しているようにすら見える。

イランから見れば、この“事件”はつまり、こういうことなのだ。

…お、調べてみたら、日本に民主党とかいうヴァカ政党があって、そのなかでも鳩ナントカとかいうヤツは輪をかけてヴァカみたいだぞ。しかもどういうわけだかそんなのが「首相経験者」という肩書までもっていて、おまけに先祖代々反米志向だというじゃないか! …いやはや、コイツは使えるゾ。大のお人好しだというから騙すなんてわけないしな。よぉーし!

…というわけで、イランは難なく鳩山を招き入れ、“元首相の口から”NPT、IAEA批判を引き出すことに成功したのであった。

思えば、鳩山サンみたいなアレな御仁が首相になってしまったこと自体、なにかの間違いとしかいいようのない悲劇であった。

こういう悲劇は、そうそうあるものではない(というか、あってもらっては困る)。そんな奇跡的なチャンスを、イランは見事にモノにしたのである。インテリジェンスの世界をよく知る佐藤、手嶋両氏が「敵ながら天晴れ」と称賛を惜しまない(ように見える)のもむべなるかな、という感じがする。

 

鳩山のイラン訪問は、いわゆる「二元外交」の悪いお手本という意味では、非常に有益である。

一般に、悪いお手本は良いお手本よりも役に立つ。映画にしてもそうで、映画の作り方を知るためには良い映画ではなくむしろ悪い映画ー具体例を挙げればエド・ウッド監督の伝説的B級映画『プラン9・フロム・アウタースペース』ーを見たほうが効率的なのである。

鳩山のイラン訪問を手本として、我々は本来あるべき二元外交とは何かを考察することができる。

そういう意味では、鳩山はまことに有り難い存在であった。

 

動乱のインテリジェンス (新潮新書)

動乱のインテリジェンス (新潮新書)

 

 

書評『佐藤優の10分で読む未来 新帝国主義編&戦争の予兆編』

いやはや、時評なるものを書ける評論家さんって、すごいね。

評論家の先生の時評を読んでいると、おびただしい量の情報が脳みそのなかに洪水のように流れ込んできて、頭がクラクラしてくる。

しかしそれは同時に、心地よい疲労でもある。

 

今日ご紹介する『佐藤優の10分で読む未来』講談社は、元外交官にして作家の佐藤優さんによる時評だ。

新帝国主義編』と『戦争の予兆編』の2冊が刊行されており、今回は2冊まとめてご紹介することとする。

これらの著作は、ただの時評ではない。佐藤さんのメールマガジンの一部を書籍化し、さらには彼がコメンテーターとして出演しているラジオ番組でのトークも活字化したものなのだ。

したがって、ひとつの本のなかでも、硬質な書き言葉で書かれた箇所もあれば、親しみやすい話し言葉で書かれた箇所もある。こうした一種ポリフォニックな構成も、読んでいて(いい意味で)頭がクラクラしてくる原因のひとつだ。

 

新帝国主義編』および『戦争の予兆編』は、2013年から2014年にかけての時評だ。第2次安倍政権の初期にあたる。

俎上に載せられるテーマは、ロシアによるクリミア半島併合や安倍・プーチン北方領土交渉、沖縄基地問題などである。ウィキリークスで世界を騒がせた「スノーデン事件」も取り上げられている。

いうまでもなくこれらは、沖縄にルーツを持ち、かつて外務官僚として対ロシア外交で活躍した佐藤さんにとっての、十八番といえるテーマだ。

…正直に告白してしまうと、僕は佐藤さんの経済ニュースに関するコメントには、いささか疑念を抱いている。彼がマルクス経済学という(僕に言わせれば)カビの生えた古い経済学に依拠しているのがその理由だ。

だが国際情勢の話になると…やっぱり“ご本職”はさすがですね! 読んでいて、とても勉強になる。ときにはまるでスパイ映画を見ているような気分にさえなって、ハラハラすることもある。

普段から「なんだ、いつも“遺憾の意”ばかりじゃないか!」というので無能無能と言われている日本の外務省も、裏では意外と健闘していることも分かって、僕にとっては収穫だった。

 

佐藤さんのメルマガから転載された部分は「佐藤コメント」としてまとめられている。非常に簡潔で、無駄のない文体だ。

以前このブログでも取り上げた『共産主義を読みとく いまこそ廣松渉を読み直す(世界書院)で、佐藤さんは、自分には文体がない、強いて言うなら外務官僚時代に叩きこまれた報告書のスタイルが自分の文体だ、と言っていた。これがその「自分の文体」なのだろう。

「佐藤コメント」を読んでいると、僕自身の文体まで影響を受けてくるー古代ギリシャ思想でいうところのミメーシス(感染的模倣)というやつだ。不思議なものだね。

 

皆さんも、まるでお酒を飲んで酔うように、佐藤さんの時評を読んで酔ってみてはいかが?

 

佐藤優の10分で読む未来 キーワードで即理解 新帝国主義編

佐藤優の10分で読む未来 キーワードで即理解 新帝国主義編

 
佐藤優の10分で読む未来 キーワードで即理解 戦争の予兆編

佐藤優の10分で読む未来 キーワードで即理解 戦争の予兆編

 

 

書評『英EU離脱 どう変わる日本と世界 経済学が教えるほんとうの勝者と敗者』

上念司さんと並んで、僕が個人的に一目置いている経済評論家に、安達誠司さんがいる。

 

今日ご紹介する『英EU離脱 どう変わる日本と世界 経済学が教えるほんとうの勝者と敗者』KADOKAWAは、安達さんが、昨年夏のイギリスの国民投票に基づくEU離脱ーいわゆる「ブレグジット(Brexit)」ーについて論じた著作だ。

 

「はじめに」と題された前書きにおいて、安達さんは、国民投票の結果を報じるマスコミに対して抱いた違和感を率直に表明している。

≪「EU離脱に賛成する人々は知性や教養がない」という風潮すらみられた。しかし筆者からすれば、その議論は「欧州統合」という「崇高な理想」が壊されてしまうという感情論に依拠している部分が多いのではないか、と思えたのである≫(4頁)

当時の僕も、「EU離脱」という意外な結果にいささか驚いたり、前言をすぐ翻す離脱賛成派の政治家たちに呆れたりした一方で、はじめから「EU離脱衆愚政治」という前提ありきで議論を進めるマスコミの報道にも違和感を覚えたものだった。

それだけに、安達さんのこの言葉に触れて、読んでいて思わず膝を打ったのだった。

 

おそらく、みなさんの関心は以下の一点に尽きることだろう。

結局のところ、著者の安達さんはブレグジットに賛成なのか、反対なのか。

安達さんは冷静な論者だから、あるひとつの事象を全肯定するわけでも全否定するわけでもない。

短期的に見れば、英国にとってブレグジットはメリット、デメリット双方を伴う、と安達さんは言う。だが、同時に彼が強調しているのは、中長期的に見ればブレグジットにはたしかにリスクが伴うが、そのリスクは定量的に予測することが可能なものだということである。

これに対して、本当の意味で“ヤバい”リスクーつまり予測困難なリスクを抱えるのは、意外にも、イギリスではなくむしろ大陸諸国、とりわけドイツだ、というのが安達さんの見方なのだ。タイトルにある「経済学が教えるほんとうの勝者と敗者」というのは、そういう意味である。

なぜドイツが「ほんとうの敗者」となってしまうのか。

中東情勢の混乱とそれに伴う難民の流入、長年ドイツの“お得意様”であった中国の経済停滞、さらには欧州経済そのものの低迷が、予測困難なリスクとしてドイツを苦しめるからである。

そもそも欧州統合自体、政治的な打算によって推し進められた、矛盾に満ちたものだった。リーマン・ショックまでの欧州経済の“好況”は、「ユーロバブル」という名のバブル景気に過ぎなかった、と安達さんは見ている。

そのバブルが崩れ、欧州各国が次々と経済危機に陥るなか、最後の牙城とも言うべきドイツまでもが危機に直面している。そしてその危機とは、イギリスの場合と異なり、定量的に予測することが困難ーすなわち対策を立てづらいリスクだと、安達さんは考えているのだ。

 

彼はまた、ブレグジットを契機に、金融機関がロンドンのシティーNYのウォール街と並ぶ金融街として有名―から大陸のフランクフルトなどに移転されるのでは、という見方にも懐疑的である。

経済地理学でいうところの「履歴効果」というやつで、一度形成された金融街はそう容易には壊れないと考えられるからだ。

 

このように離脱反対派の議論に批判的な安達さんだが、一方で、単純に離脱賛成派を支持しているわけでもない。

たとえば「移民・難民がイギリス国民の雇用機会を奪っている」という離脱賛成派の主張に対しては、現在のイギリスの完全失業率がたったの2%強にすぎない点を指摘し、≪移民がイギリス国民の雇用機会を奪っているという批判は当てはまらないし、社会保障の不正受給がイギリスの国家財政を揺るがすほどのインパクトをもっているとも思えない≫(68頁)として離脱賛成派を批判している。

感情的な議論に陥りがちな問題に対して、このように中立的なスタンスをとれることが、経済評論家・安達誠司の持ち味、と言えるのではないか。

 

 

以前、本ブログにてご紹介した『ユーロの正体 通貨がわかれば、世界が読める幻冬舎と比べると、やや難易度が高めなので、経済学の初学者の方はまず『ユーロの正体』を読み、それから本著を読むことを勧めたい。

 

 

最近見た映画の感想(第144回)

・『ジェラシー』

中欧の都・ウィーン。主人公のアメリカ人精神科医が、チェコスロバキア(当時)から渡ってきた人妻とひかれあう。

ところがこの女、実にメンドクサ~イ女で(w)、フランソワ・トリュフォー監督が好んで描きそうなメンヘラ女なのであった。主人公は振り回されながらもなお、彼女に恋い焦がれる(このテの映画の定番パターンですねっ)

極め付きがラスト。女がメンヘラ―の類にもれず電話で自殺予告をするが(ほんとド定番やなぁ…)、主人公はあえて直行せず、やや時間をおいてから向かう。女は薬物中毒で死にかけていた。

すると主人公は…女が抵抗できないのをいいことに、彼女の下着を切り裂いて(!)、そのままヤりはじめたではないか!

…この場面が、本作において最も官能的なシークエンスとなっている。ヤる場面よりむしろ、下着を切り裂く場面のほうがエロくてよろしい。

本作はあえて時系列を寸断しているため、やや物語の筋が追いづらいかもしれないが、それもこれも、最後のエロティックな場面を観客に強く印象づけるための演出である。

大都市でありながらどこか陰鬱とした雰囲気を湛えるウィーンの街が、より一層雰囲気を盛り上げてくれる。

ひさびさに“大人の映画”を見たな、と感じた。…あっ、別にイラヤしい意味じゃないですからね(;^_^A

それだけに、もうちょっとマシな邦題が思いつかなかったものか、と悔やまれる。

 

ジェラシー [DVD]

ジェラシー [DVD]

 

 

 ・『じゃじゃ馬ならし

ロミオとジュリエット』『ブラザー・サン シスター・ムーン』などの時代劇でおなじみ、フランコ・ゼフィレッリ監督が、かのシェイクスピアの悪名高い(理由は後述)戯曲『じゃじゃ馬ならし』を撮った。それが本作。

主演は、女優として脂がのりにのりきった、エリザベス・テイラー

彼女が演じる主人公カタリーナはものすごいじゃじゃ馬娘で、どんな男も寄せ付けない。よし、それなら俺が、と彼女にアプローチする若い男が、本作のもうひとりの主人公、ペトルーキオである。

とにかく冒頭のカタリーナのメイクが、女性なのになんか野獣みたいで(w)、笑ってしまった。

そんな彼女がラストでは打って変わって男に従順な女性になるというのがこの作品の見どころである。

が。

そもそも『じゃじゃ馬慣らし』、昔からそのミソジニー女性嫌悪の側面を批判され続けてきた、シェイクスピア戯曲のなかでは悪名高い作品でもある。

僕もこの映画を見て、かのバーナード・ショーが原作戯曲にあたえた以下の批判が正鵠を射ていると感じた。

「まともな感情を持った男であれば、賭けや女性自身の口から発せられる演説に示されている、偉ぶった男どものモラルに強く恥じ入ることなしには、女性とともに芝居を終わりまで見ていることなどできるわけがない」ーバーナード・ショー

もっとも、ゼフィレッリ監督の美術は相変わらず「お見事!」の一言に尽き、その点は評価できる。

 

 

・『ジョー・ブラックをよろしく』

名優アンソニー・ホプキンス演じる会社社長は、死期が迫っているのを自分でも感じている。ときおり心のなかで聞こえてくる何者かの声も、彼を悩ませる。

そんな彼の前に、ある日、ブラット・ピット演じる若者がやってきた。彼の正体はなんと死神(!)であり、交通事故で死んだ若者の体を乗っ取って、ここまでやってきたのだという。

彼が登場するシーンでは、すりガラスの窓ごしに映る彼の顔が、光の加減のせいでまるで骸骨のように見え、彼の正体がまさしく死神であることを暗示している。

そんなおどろおどろしい死神も、しかし人間社会のことはさっぱりわからない。そのせいで彼がとる珍妙な言動は、見ているこっちが恥ずかしくなるほどだ(;^ω^)

だがそんな死神も、愛を知ることにより、徐々に変化していく。

超自然的存在が受肉化する(=人間としての肉体を与えられる)とどうなるかという思考実験が、本作のテーマのひとつであろう。

ブラピがまだ若い!

 

ジョー・ブラックをよろしく [DVD]

ジョー・ブラックをよろしく [DVD]

 

 

・『スプラッシュ』

人魚のヒロインが都会に出てきて人間の男と恋をするというお話。

といっても、あまりファンタジックな作品ではなく、ラブコメディとしての性格が前面に出た映画となっている。

1960年代、人魚の少女が海に落ちた人間の少年を助ける。それから20年後の現代(1980年代)、かつての少年はトム・ハンクス扮する成人男性となり、冴えない独身生活を送っている。

そんなある日、かつての人魚の少女が人間の女性となって彼の前に現れたものだから、さぁ大変。すっかり彼女にのぼせ上ってしまう。

一方の人魚姫さん。乾いた状態では人間の姿でいられるが、水をかぶると元の人魚へと逆戻りしてしまう。当然、公の場で濡れないよう気を配るのだが…

終始トボけた感じのラブコメ映画で、頭空っぽの状態でも楽しめる、良い娯楽映画でした。金曜ロードショーあたりでやりそうな感じの映画でしたね。うん、たまにはこういう映画も悪くないかな。

 

スプラッシュ 特別版 [DVD]

スプラッシュ 特別版 [DVD]

 

 

・『すべての美しい馬』

1940年代のテキサス。主人公のカウボーイの青年は、実家の牧場が売却されたのをきっかけに、仲間とともに米国を去り、メキシコへと向かう。

メキシコの農園で働く主人公たち。やがて農園主の美しい娘と出会い、恋に落ちるが…

という、なんとも青春映画の王道を往く作品。

主人公のカウボーイの青年を演じるのは、マット・デイモン。そして農場主の美しい娘を演じるのは…

ペネロペ・クルス

…いやぁ、もうねぇ、一度このまぶしい「ペネロペ光線」を浴びてしまったら、もうマット・デイモンなんてど~でもよくなりますよ、ホントw

彼女が登場する中盤以降は、もう彼女しか見えませんでした…(;^ω^)

 

すべての美しい馬 [DVD]
 

 

書評『冲方丁のライトノベルの書き方講座』

作家の冲方丁(うぶかた・とう)さんは、ライトノベルから一般文学、さらにはゲームのシナリオまで、幅広い分野で活動している人物である。

彼にとって初の時代小説である『天地明察』はベストセラーとなり、映画にまでなった。

僕も見ました、映画は。

原作は…スイマセンまだ読んでません…(-_-;)

 

本著『冲方丁ライトノベルの書き方講座』(宝島社)は、その冲方丁さんによるライトノベルの指南書である。

 

一般人「えーっ、ライトノベルって、アレでしょ。やたらタイトルが長くて一つの文章みたいになっちゃってるやつでしょー? なんか『俺の脳内彼女がすでに俺のコミュ力を全力で凌駕している件』(※)みたいな? あんなのキモくないですかぁ~?」

まぁまぁ、そう言わずに(^▽^;)

※今、僕がまったく適当に思いついた架空のタイトルです。既存の作品名に似ているとしたら全くの偶然です。

 

本著前半では、冲方さんが実際にラノベを書いた際の経緯が開陳されている。

まず、キャラ設定を決め、ストーリーのプロットをつくる。これらがラノベの、いわば「骨」となるわけだ。これをもとに、「肉」をつけていくことになる。

この肉付けの過程で、元あった設定をばっさり切り落としてしまったり、逆に新たにキャラを追加することもあるのだという。

キャラの追加にあたっては、既存のキャラとかぶらないよう、性別や年齢を変えることもあるというから、なかなかに興味深い話だ。

 

後半では、いよいよ冲方さんが読者たちにラノベ、あるいは文章全般の書き方を指南してくれる。

キャラを生み出すための想像力を育むコツとして、冲方さんが「擬人化」を挙げているのは面白かった。僕も擬人化は好きで、過去にはこのブログで天体を擬人化したこともある。

文章そのものを磨く術としては、「好きな小説を写す」ことを挙げている。たしかに、このやり方は昔からよく言われていることだ。

だが、単に写すだけではない。「好きな小説の文体を変える」というのも一つの手だと冲方さんはいう。

これまた面白い。僕は以前、三島由紀夫の『憂国』を村上春樹っぽい文体に変えてみたらどうなるかと考えたことがある。

さぁこれから切腹するぞ!という主人公が、「…完璧な切腹などといったものは存在しないんだ。完璧な絶望が存在しないようにね。やれやれ」と言いながら切腹したら…なんか面白そうではないか!

…と思ったのだが、もちろん僕に文才がないせいで、思いついてからものの3秒で挫折してしまったことはいうまでもない。(;^ω^)

 

各章の合間にある「お昼休み」と題されたコラムでは、ラノベ業界の裏側についても垣間見ることができ、面白かった。

もっとも、この場合の「面白い」とは、野次馬的な好奇心を満たされる、といった意味であるが。

 

本著を読んでいると、この指南はライトノベルだけでなく、キャッチコピーや企画書にも通じるな、あるいはラノベという枠を超えて文学一般、はたまた文章を書くこと全般にも通じよな、と思う点が多々あった。

はじめから「あぁ、ラノベね。自分興味ないから」と決めつけるのは、非生産的な態度だと思う。

つねづね思っていることだが、一般文学とラノベの間にくっきりと境界線を引いてしまうのは、いかがなものか。

ラノベだってれっきとした文学だと僕は思っているし、一般に文学と呼ばれている作品の中にもラノベ的な要素はあるのだ。

例えば、以前このブログでも取り上げた、ドストエフスキー地下室の手記』。

後半で語られる主人公のおっさんのイタい過去は、ラノベに登場するスクールカースト底辺の主人公に通じるものがある。

※『地下室の手記』に限らず、ドストエフスキーは、同時代のロシアの文豪・トルストイと比べると、現代日本のサブカルチャーと親和性が高いように思う。

もっと、いい意味でラノベの特殊性が薄まってほしい、ラノベと一般文学の垣根が下がってほしい、と願う今日この頃だ。

 

 本著の最初から最後まで一貫している、冲方さんのユーモラスな語り口も気に入った。

…あ、『天地明察』の原作、ちゃんと読みます…

 

新装版 冲方丁のライトノベルの書き方講座 (このライトノベルがすごい!文庫)

新装版 冲方丁のライトノベルの書き方講座 (このライトノベルがすごい!文庫)