Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』

先日は、評論家・呉智英さんの著作を取り上げた。

今日は、その呉さんの弟子・評論家の浅羽通明さんの著作を取り上げることとしよう。

『「反戦脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』筑摩書房である。

 

タイトルからして実に挑発的だが、内容はさらに凄い。冒頭から巻末まで、終始切れ味抜群なのだ。

以前、本ブログで取り上げた佐々木俊尚さんの『21世紀の自由論』も、いわゆる日本型リベラルをバッサバッサとぶった斬るという内容で実に爽快だったが、本著はあまりに切れ味が良すぎて、爽快というよりかはむしろ恐ろしさすら感じたほどである。

 

本著は、第1章、第2章、そして第3章からなる3部構成。

第1章では、国会前デモであれほどの人を動員できたにもかかわらずリベラルが原発再稼働を阻止できなかった原因が分析される。

つづく第2章では、やや抽象的で難しいかもしれないが、リベラルの活動家たちが社会のこと(=現に社会が変わるかどうか)を考えているように見えて、実は自分たちの実存のこと(=デモを通じて自分たちが気分爽快になれるかどうか)しか考えていない、という問題が俎上に載せられる。評論家の宇野常寛さんがよく言う「政治と文学の混同」の問題である。

さらに第3章では、これは以前取り上げた浅羽さんの著作とも重なるところだが、日本人がいまだ近代的自我を確立できていないことにリベラルが無頓着すぎる点が批判されている。

どれもこれも、実に示唆に富む論考だ。

 

浅羽さんの文章の切れ味は凄まじいものがある。これは、実際に読んでみたほうがいいだろう。百聞は一見に如かず、というやつだ。

≪日本軍は沖縄県民へ手榴弾を渡し、戦わせようとした。日本軍敗退とともに彼らも米軍に追われて洞窟などへ逃げ、その手榴弾で自害していった悲劇が、映画やドラマでよく知られています。

 しかしね、あの時、これはヤマトンチュの戦争だ。自分たちウチナンチュはヤマトンチュに強制併合された被支配者であるから、ヤマトンチュとともにアメリカと戦う義理はない。

 そう気がついたウチナンチュはいなかったのでしょうかね。(中略)一人もいなかったのなら、私は沖縄人はへたれだと嗤うばかりです。≫(81頁)

 

≪だいたい子どもの素直な感想なんてありえない。あれはどうすれば大人が素直と喜んでくれるかを熟知した子どもが書くものですからね。素直な感想が尊いというのなら、被爆体験の語り部さんを「死にぞこない」と笑った中学生、あれは素直じゃないのか。≫(158‐159頁)

 

≪興味深いことに、座談会「「本当に止める」のフィロソフィ」でSEALDsの奥田愛基氏は、「民主主義国家だから、この国がどうあるべきかってことを、本来われわれが考えなくてはならない。王政だったら任せればいいけど、民主主義だから、めんどくさくてもやんなきゃいけない」と、まさに「である」思考の典型を語っているのです。

 牛田悦正氏もこれを受けて、「それが嫌なら憲法がない、民主主義じゃない国に行ってくれ」と、「である」思考にどっぷり浸かった応答をしているのです。私は開いた口がふさがらなかった。

 憲法がなく民主主義「でない」王政国家だったら、革命で王政を倒して民主主義を実現「する」。それが民主主義者だと思ってましたから。≫(162‐163頁)

 

浅羽さんは、まるでナイフのような鋭い言葉で僕たち戦後ニッポンジンの偽善を斬って捨てる。

つくづく、怖い人だな、と思った。

 

 

書評『真実の「名古屋論」』

タレントのタモリさんが全国各地をブラブラと歩いてまわる、NHKの教養バラエティー「ブラタモリ」

先日(6月10日、17日)のテーマは、名古屋であった。これがネット上ではずいぶんと話題になった。

なぜか。

じつはタモさん、80年代に、現在の地方イジリ芸の先駆けともいうべき「名古屋イジリ」を主なネタとしており、そのせいで名古屋人からはずいぶんと顰蹙を買っていたからである。

そのタモさんが、なんと名古屋にやって来る!

ネット上では「明治帝の奥羽巡幸や東西冷戦終結にも匹敵する」と、大いに話題になったのであった。

 

www.yomiuri.co.jp

 

そんなこんなで注目を浴びている、名古屋。

今回取り上げる著作は、タイトルもずばり『真実の「名古屋論」 トンデモ名古屋論を撃つ』(人間社)だ。

著者は、評論家の呉智英(くれ・ともふさ)さん。

この呉さん、自ら「封建主義者」を名乗り、「差別もある明るい社会」をスローガンに掲げるなど、なかなかにひねくれた御方である(;^_^A

こうした彼の言説は、戦後民主主義を相対化するものとして、80年代に大いに話題を呼んだのであった。

呉さんはまた、論壇におけるマイスター(師匠)としても、存在感を示している。彼のもとから、浅羽通明さんを筆頭に、大月隆寛さん、そして宮崎哲弥さんなど、多くの評論家が巣立っていったのだ。

そんな呉さんは、名古屋のご出身。生まれも育ちも名古屋という生粋の名古屋人たる呉さんが著したのが、この『真実の「名古屋論」』というわけなのだ。

 

「真実の」名古屋論というからには、当然、「偽りの」名古屋論だってあるわけである。

本著では、「偽りの名古屋論」としていくつかの著作が挙げられ、さらにはその著者の顔写真(!)までもがバッチリ掲載されている。呉先生、なかなかにシビアである(;^ω^)

 

96頁ではさらに、上述のタモさんの「名古屋イジリ」の話も載っている。

≪名古屋の食といえば……海老フライ。と思う人は今ではむしろ少なくなった。事実、そんな統計結果は出ていない。名古屋人は海老フリャーが好きと言い出したのは、タレントのタモリである。一九八〇年前後、ブラックユーモア芸でその人気が全国に広がった頃のことである。海老フライごときをご馳走だと思って喜んで食っている名古屋人、という差別ギャグであった≫(96頁)

似非名古屋弁と聞いて誰もが思い浮かべる「海老フリャー」。アレって、実はタモさんの造語だったんですよ! 皆さん、ご存じでしたか?(僕、知らなかった…w)

≪名古屋人が好むとしたところもなかなかうまかった。失業率の高いさびれた地方都市を差別ギャグでからかったら大問題になるし、被差別部落の食習慣や在日朝鮮人の民族食をからかったらこれも大問題になる。苦情が来ないところをうまく狙ったのは、タモリがこうした事情に通じていたからだろう≫(96‐97頁)

と、呉先生もタモさんを称賛(?)している。「名古屋イジリ」は、綿密な配慮の上に成り立った、絶妙な地方イジリ芸だったのだ。

 

さて、本著を読むと、ふだん我々が伝統だと思っているものは、実はきわめて歴史の浅いものに過ぎなかった、いうことにも気づかされる。呉さんは本著のなかで、そうした実例をこれでもか、と挙げている。

僕にもいくつか思い当たる例がある。呉さんは挙げていないが、仙台の牛タンだってそうだ。「仙台の牛タン」というと、なにやら伊達政宗の時代から食べられていそうなイメージがあるが、意外や意外、仙台に牛タンが普及したのは、実は第二次大戦後のことなのである。

こうした「つくられた伝統」は、結構多い。

伝統は、確かに大切だ。

だがそれが本当に伝統なのか、我々はもう一度検討してみる必要があるだろう。

江戸しぐさ」とか、あったしね。

 

真実の「名古屋論」 トンデモ名古屋論を撃つ (樹林舎叢書)

真実の「名古屋論」 トンデモ名古屋論を撃つ (樹林舎叢書)

 

 

書評『教養としてのゲーテ入門』

僕は以前、ドイツの文豪・ゲーテの『ファウスト』を読んだことがある。

もちろん、日本語である(w)。いやぁ~、ここで

「『ファウスト』? ああ、もちろん読んだよ、原著でね(眼鏡クイッ」

とかサラリと言えればカッコイイんだろうけど(w)、あいにくドイツ語は大学時代に第二外国語として学んで、それっきりなので、とてもでないが世界的文豪の代表作には太刀打ちできない。

その点、戦前の高等学校の生徒たちはシェイクスピアゲーテを原著でスラスラ読んでいたというから、ただただ恐れ入る。

話を『ファウスト』に戻す。困ったことに、読んでも読んでも内容がちっとも頭に入ってこない。

ファウスト』は第一部と第二部とに分かれているのだが、第一部のほうは(わりとありがちな)悲恋の話としてすんなり読める。問題は第二部。完全に、アニメでいうところの「超展開」というやつで、そのせいで内容が頭に入らないのだ。

それ以来、僕の頭のなかで「ゲーテ=なにがなんだかよく分かんないオッサン」という悪しきイメージが出来上がってしまった。必然的に、彼の作品も遠ざけるようになった。

 

まるでそんな僕のために書かれたのかと思ったのが(w)、今回ご紹介する『教養としてのゲーテ入門』(新潮社)だ。

著者は、哲学者の仲正昌樹さん。

実をいうと僕は、この仲正さんの大ファン。書店などの本棚を眺めていて「仲正昌樹」の名を目にするや、自動的に手がスーッと伸びてしまう(w)。僕にとって、仲正さんはそんな書き手だ。

 

本著は、タイトルの通り、仲正さんがゲーテについて解説してくれる入門書。

ゲーテ作品というと日本では『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』の2作品が有名だが、本著ではそれ以外にも『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』、そして『タウリスのイフィゲーニエ』が俎上に載せられる。

これらゲーテ作品が各々の章にて解説されるわけだが、仲正さんが本著を通じて最も言いたかったことは、「ゲーテに何を期待すべきか」と題された終章にまとめられている。

ゲーテの何が特別なのか? これまで多くの批評家が様々な説明をしてきたが、私なりにまとめると、やはり「はじめに」で述べたように、「近代」における「人間」の在り方を掘り下げて描くことで、後に続く文学者たちに何をテーマとして追及すべきかその基本的モデルを示したから、ということになるだろう。≫(237頁)

ゲーテは、ヨーロッパの世界観・価値観の大変動の中で、それまで人びとの無意識に潜んでいた欲望がパンドラの箱から解き放たれ、様々なタイプの人間、人間関係が入れ代わり立ち代わり現れてくる過程を、出来合いの物の見方に固執することなく、自らの眼に映るままに素朴に描き続けた作家であると言える。≫(239頁)

僕なりにものすごく大雑把にまとめてしまうと、ゲーテはきっと、「近代というのは、よく分からない時代なんだ。その分からないことを無理に分かろうとしないで、分からないまま耐えろ」と言いたかったのだと思う。たぶん。

これは、実を言うと著者の仲正さん自身がこれまで言い続けてきたことだ。

仲正さんは一貫して、「分かりやすい」言説を批判してきた。

僕たちが暮らすこの世界はものすごく複雑で、分かりにくい。それを無理やり「日本=善、中韓=悪」だとか「野党=善、安倍首相=悪」みたいな単純な二項対立図式にまとめて、それで世の中を分かった気になっている左右両翼を、仲正さんは批判してきたのだ。

分からないことを、分からないまま耐える。

そのことを訴え、かつ実践してきたのが、ゲーテであり、仲正さんだった。

その仲正さんがゲーテの入門書を書くことは、それゆえ、必然であったのだ。

 

 

書評『大学講義 野望としての教養』

主に90年代にかけて活躍した評論家として、浅羽通明さんの名を挙げることができる。

一時期は漫画家・小林よしのりさんのブレーン的存在としても活躍した、浅羽さん。

今日ご紹介する『大学講義 野望としての教養』時事通信社は、そんな浅羽さんによる著作だ。

 

かなり分厚い本だがー読んでいると腕の筋肉が痛くなります。いやマジでー講演録なので全編話し言葉で書かれており、とても読みやすく、分かりやすい。おかげでスイスイ読み進めることができた。

本著での浅羽さんの議論はきわめて豊穣なもので、その論点は多岐にわたる。テーマは章ごとに異なり、教養主義から近代的自我、はては「トイレの花子さん」(!)にまで及ぶ。

だが、全体を通して読むと、浅羽さんが一番言いたかっただろうことが、おぼろげながら見えてくる。

要するに浅羽さんは、好むと好まざるとにかかわらず、日本で近代を徹底することはできない、ということを言いたかったのではないかな。

 

近代日本の思想史は、ものすごーく乱暴にまとめれば「俺たちもヨーロッパみたいに近代化を徹底してしっかり近代的自我持とうぜ」派と、「そんなことできっこないし、日本は無理に近代化しなくたっていいんだよ」派とに分かれる。

前者が「近代の徹底」を訴えるのに対し、後者は「近代の超克」をこそ訴える。

これは日本の思想史において、何度も何度も形を変えて、繰り返し論争されてきた。

戦前における講座派vs労農派の対立がそうだし、戦後の丸山真男vs吉本隆明の論争にしたってそうだ。

あるいは80年代、日本をポストモダン(近代の後)の国とするニューアカデミズムに対し、柄谷行人さんが『批評とポストモダン』のなかで日本をプレモダン(前近代)の国と規定し直したことにも、その反復が見られる。

最近の例では、濱野智史さんが『アーキテクチャの生態系』において梅田望夫さんを批判したのにも、やはり同様の反復が見てとれる。

浅羽さんは本著において、「近代の超克」の側に立って議論を展開している(ように僕の目にはどうしても映る)

 ≪一人ひとりが個我を確立して、自立しなくちゃならない、というふうな考え方に対してですね、私はひたすら現実的な立場で考えています。(中略)みんなが自立した個人になんかなる必要は全くない、日本のしがらみの中で生きてゆくことで(ときには窮屈な思いもするでしょうが)、その方が自分で何も決しなくて良いし、自分で責任をとらなくても良いし、楽な生き方ができるという一面があることは事実です。それでいいじゃないと大多数が考えていたばあい、誰がそれを非難できるのか。≫(79‐80頁)

日本はどのみち、欧米のような形での近代国家にはなれないだろう。だがそれでも、知識人にはこの日本社会をなんとかしてうまく回らせるための知恵を考える責務がある。

その知恵について考察を続けてきたのが、浅羽さんだったのだ。

彼の戦いは、今日もなお続いている。

 

大学講義 野望としての教養

大学講義 野望としての教養

 

 

書評『特高 二・二六事件秘史』

戦前日本の歴史に決定的な影響を与えたのは、二・二六事件であった。

 

この二・二六事件を描いた映画は、数多くある。

たとえば高倉健さんが青年将校の役を演じた東映映画『動乱』は、その代表といえるものだろう。

ところが、同じ高倉健さんが、青年将校ではなく、むしろ相対する憲兵隊の曹長の役を演じた『二・二六事件 脱出』なる映画があったのを、皆さんご存知だろうか?(僕は…ハイ、正直に言います。まったく知りませんでしたw)

この映画には、ちゃんと原作がある。小坂慶助さんという元憲兵の方が書いた当事者手記特高』だ。

今回ご紹介する『特高 二・二六事件秘史』文芸春秋は、その『特高』が文春学芸ライブラリーにて復刻されたもの。解説を担当するのは、本ブログではもはやおなじみ、作家の佐藤優さんだ。佐藤さんは、お得意のインテリジェンスの観点から、『特高』の主人公・小坂曹長の行動を解説してくれている。

 

青年将校たちには、一般に、ピュアなイメージが付きまとう。

二・二六事件に関する書籍には、彼らは農村で娘たちが売られる現状に心を痛め、決起を決意した、と書かれている。もちろんそれ自体に嘘偽りはないだろう。

だが本著を読むと、彼らのまた別の側面が見えてくる。

彼らは、「昭和維新」をスローガンに掲げ、決起した。

このスローガンからただちに分かるように、彼らの念頭にあったのは、明治維新であった。彼らは、自らを明治維新の志士たちになぞらえ、大言壮語していた。

≪「昨日から叛軍の将校の出入りが激しいのです。陸軍大臣は全く詰の状態です。現在、香田大尉、野中大尉、村中孝治、磯部浅一という連中が大臣応接間に、ふんぞり返って大臣や閣下連中を対手に、敬称もなにもあったものでなく、馬鹿野郎呼ばわりで、まるで天下でも取ったような気持で気勢を上げています。聞いていても腹が立つことばかりです!」≫(72頁)

二・二六青年将校たちにはこのように、どこか「イタい」印象がつきまとう。

 

こうしたイタい青年将校たちを見て、僕はある書物を思い出した。

網野善彦『異形の王権』である。

南北朝時代の破格の天皇後醍醐天皇を扱ったこの本によれば、後醍醐天皇のまわりに集った南朝の「悪党」ー今日の言葉のなかでは、「アウトロー」がこれに近いーたちは、ぶっちゃけて言えば某漫画におけるモヒカン頭のヒャッハーな人たちのイメージに、結構近い。

彼らは、既存の社会秩序の(下層というよりかはむしろ)「外部」にいる人たちであった。

彼ら悪党と、二・二六青年将校とが、僕の目にはダブって見える。

天皇を慕い、天皇のもとに集った南朝青年将校は、必ずしも品行方正とはいいがたかった。むしろそれは、彼らと相対する北朝憲兵の側にこそ当てはまった。

南朝青年将校は、もっとアウトローで、ぶっちゃけて言えば、「イタい」人たちであった。

これは、ただし中傷ではない。「イタい」がゆえに、彼らには一種独特の妖しい魅力がつきまとうからである。

 

特高 二・二六事件秘史 (文春学藝ライブラリー)

特高 二・二六事件秘史 (文春学藝ライブラリー)

 

 

書評『デフレと円高の何が「悪」か』

本ブログでもたびたび著作を取り上げている、経済評論家の上念司さん。

今日ご紹介するのは、そんな上念さんにとって記念すべきデビュー作となった著書『デフレと円高の何が「悪」か』(光文社)だ。

 

この本のなかで、上念さんは現在の日本を苦しめている「デフレ」なる現象について、分かりやすく解説してくれている。

上念さんは、後輩の倉山さんと一緒になって、『ガンダム』やら『銀英伝』やら、アニメに関するやたらマニアックな話題で盛り上がるという(悪い)クセがあるが、本著はデビュー作だからか、そういったオタク的な記述は抑制されており、たいへん読みやすい文章に仕上がっている。

『銀英伝』なんてよく分かりませんという方でも、安心して読み進めることができるだろう。

 

本著を読んでいると、これまで我々が当然のことと思ってきた経済に関する知識や考え方が、実は当然でもなんでもない、むしろ誤りであったことが分かり、唖然とさせられる。

たとえばニュース番組などでよく見かける、「日本はこのままでは破産する!」という言説。

これは要するに、日本をひとつの家計にたとえているわけである。

普通の家計ならば、借金が膨大な額に膨れ上がれば破産してしまう。そのアナロジーから、日本という「家計」もこのままでは破産の憂き目に遭うぞ、というわけだ。

こうした言説に対し、上念さんはサイボーグ(!)を例に挙げることで反駁している。

今ここに、サイボーグ化されたがゆえに、寿命が無限大になった人間がいるとする。このサイボーグ人間は巨額の借金を抱えており、その返済には3億年(!)かかりそうである。

普通に考えれば破産は必定のように思われるが、ここで注目すべきはサイボーグであるがゆえに寿命が無限大であるという点。

したがって、いくら返済期間が長くても、毎年少しずつでも債務が減っていけば、いつかは借金を完済できるのである。

…いうまでもなく、ここでいうサイボーグとは、寿命というものがない国家のメタファーに他ならない。

人間の寿命はせいぜい80年だが、日本には約2000年、神話時代も含めれば2600年以上もの長い歴史がある。

日本は、死なない。ゆえに、人間の寿命よりもっと長いスパンで、借金を返済することができる。

こうなるともはや、大事なのは借金の額ではなく、借金が少しずつでも減っているかどうか、なのだ。

上念さんのこの巧みな喩えに触れて、読者は「あぁ、なるほど!」と膝を打つことだろう。メディアにたびたび出てくる、日本をひとつの家計にたとえるやり方は、一見分かりやすいように見えて、実は人々に誤った考えを植え付ける悪質な喩えだったのだ。

 

一方、我々が「なんだかよく分からないな」と首をひねっていた歴史的事件は、実はわりと簡単に説明できてしまう、というケースもある。

例えば、世界大恐慌。僕は高校時代、世界史が一番の得意科目だったのだが、なんど教科書を読んでもイマイチよく分からなかったのが、この世界大恐慌が起こった原因であった。きっと、みなさんもそうだったと思う。著者の上念さんすらも、かつてはそうだったらしい。

だが今の上念さんは、この恐慌の原因を実に明快に説明してくれる。

それは、金本位制である。

金本位制が原因で、社会に出回るカネの量が低く抑えられ、デフレ圧力を生んで、最終的に世界大恐慌という最悪の事態に陥ってしまったのだ。

 

上念さんの説明はとても分かりやすく、勉強になる。

だがその上念さんは、中央大の(経済学部でなく)法学部の出身。専門の経済学者ではないのだ。

上念さんはこう述べている。

≪経済学の専門的なトレーニングを受けていない私のような人間がゼロから少しずつ学んだ過程を、多少近道してもっと分かりやすく人々に伝えることができるのではないか? その自学自習のメソッドをより簡潔に分かりやすく組み直せば、もっと多くの方に経済学の知見を共有してもらうことができるのではないか、とひらめいたのです。(中略)断わっておきますが、私は経済学の専門的なトレーニングは一切受けていません。しかも微分積分も超苦手です。しかし、それでもプロの経済学者に認めてもらえました。みなさんだって「やればできる」のです≫(219頁)

「やればできた」経済評論家・上念司の存在は、経済学の素人たる我々に、一筋の希望の光をもたらしてくれるのである。

 

デフレと円高の何が「悪」か (光文社新書)

デフレと円高の何が「悪」か (光文社新書)

 

 

書評『日本は破産しない!』

ひところよく叫ばれたのが、「このままでは日本は第二のギリシャになるぞ!」というフレーズ。

え、日本がかつての古代ギリシャのように、思想・哲学の世界的中心地になるってこと? やったぁ!

ー残念ながら、さにあらず。

ギリシャのように日本も財政破綻するぞ、というのが「第二のギリシャ」の意味だ。

 

これに真っ向から反論しているのが、今回取り上げる『日本は破産しない!』(宝島社)だ。著者は、経済評論家の上念司さん。

上念さんの文章は、あいかわらず分かりやすい。

『ガンダム』や『銀英伝』など、いささかマニアックなネタに走ってしまいがちな短所はあるが、本著ではそうしたアニメネタは封印(?)されており、とても読みやすい本へと仕上がっている。

 

個人的にとくに面白いと思った箇所が、「人口が減ったからデフレになった!? デフレをめぐる数々の珍説」と題された章だ。

上念さんはここで、デフレに関して巷ではびこっている誤った説を次々と論駁していく。

たとえば、「人口が減ったからデフレになった」という説。

上念さんは≪人口が減ることは将来的な労働投入量の減少を意味しますから、どちらかと言うとモノの供給が減る要因になります。これに対して、お金は印刷すればすぐに増やせるので、人口減少にはあまり関係がありません≫(169頁)と一刀両断。少子高齢化に悩む他国のデータも挙げて、人口減とデフレに関係がないことを示している。

 

もうひとつ、俎上に載せられるのが、「魅力的な商品がないから、デフレになった(=モノが売れない)」という説。

たとえば、若年層にて車が売れなくなったというので「若者の車離れ」が叫ばれる。これについて、社会学者は、日本社会が変化した結果、もはや車がかつて(高度成長期)のような魅力ある商品ではなくなった、それが原因だ、と「説明」をする。

社会学者が言うとなんだかもっともらしく聞こえるが、上念さんはこうした「説明」を、ミクロとマクロの問題を混同していると、これまた一刀両断にする。

≪デフレの問題は、モノそのものに対する需要より印刷された紙(お金、紙幣)に対する需要が大きくなってしまう、ということに尽きます。

 これに対して、魅力的な商品云々という問題は、すでに市場に存在する需要(ニーズ)にどのように応えていくかという話です。

 前者がマクロ的な視点であるのに対して、後者は明らかにミクロ的な視点です≫(166‐167頁)

≪モノそのものに対するニーズが生まれるように、まずはお金を大量に発行することによって、お金に対するニーズを満たしてやればいいわけです。お金に対するニーズが満たされれば、モノに対するニーズが自然と生まれてきます。≫(168‐169頁)

なんだ、日本の社会学はその実、社“怪”学に過ぎなかったのか、とイヤミのひとつも言いたくなってくる。

 

経済の問題に関しては、多くの自称「専門家」たちが、ああでもない、こうでもない、と議論している。

彼らの主張には、残念ながら、上に挙げた例のように、ただちに論破できてしまうものも少なくないのだーもちそん、そうではない主張もちゃんとある

それは実のところ、彼らが経済学を知らないからである(「専門家」なのに!)

彼らの言説に惑わされることのないよう、我々はもっと、経済学を勉強しなければならない。

上念さんは、そのための優れた導き手のひとりである。

 

日本は破産しない!?騙されるな!「国債暴落で国家破産!」はトンデモ話だ!

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