Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『近代の呪い』

本ブログでは以前、評論家・渡辺京二さんの著作を取り上げたことがある。

神風連の乱ドストエフスキーを取り上げたそれらの本はなかなかに難解であり、率直に言って、十分理解したとはいいがたい。

それでも、渡辺さんが、我々近代人の目から見れば不合理きわまりないように見える人間集団や思想に対して、正面から向き合おうとしていることは、おぼろげながら理解できた(気がする)

 

今日ご紹介する『近代の呪い』平凡社は、渡辺さんが複数の場所で講演した内容を、テープ起こしして一冊の新書にまとめたものである。したがって、平易かつ独特のリズムをもった話し言葉で書かれており、上に挙げた神風連の本などと比べると、大変に分かりやすく、また読みやすい本に仕上がっている。

だが平易ではあっても、そのなかには渡辺さんの思想の核心がまとめられているのだ。

本著は、したがって渡辺京二入門には最適の一冊、と言えるだろう。

 

本著をひもとくと、渡辺さんは自律的な民衆世界に強い信頼を寄せていることが分かってくる。こうした構えが、彼のドストエフスキー論などにもつながってくるのだろう。

興味深いのは、作家・大佛次郎(1897‐1973)に対する渡辺さんの評価。

大佛は、当初はドレフュス事件を小説の題材に取り上げてフランス第三共和政を擁護するなど、どちらかといえば左翼的な人であった。しかし彼は次第に、インテリ知識人ではなく土着的な民衆のほうにこそ共感を寄せるようになるのである。そんな彼の集大成が、パリ・コミューンを描いた『パリ燃ゆ』であった。

渡辺さんは、そんな大佛の思想遍歴に、自らのそれを重ねているに違いない。

 

評論家・渡辺京二を一言でまとめるとするなら、さて何と言えばいいだろう。

もちろん乱暴は承知であえて言えば、「アンビバレンス(※)にひたすら耐える人」とでもなるだろうか。

※ambivalence;同一の対象に対して、愛と憎しみのように相反する感情を同時に持つこと

渡辺さんは、自らをいちおう左翼だと規定しているらしい。近年のナショナリズムの激化に対しても、率直に不快だと述べている。

一方で、上述のように、彼は自律的な民衆世界を決して否定しない。いやむしろ、それに対し憧憬の念すら抱いているようなのだ。

それでいて渡辺さんは、近代なるものに対しても、これまた否定はしない――それゆえに、自らを左翼と規定しているのだろう

近代にはたしかに問題はあろう。が、一方でそれは、人権や経済的豊かさなどを我々現代人にもたらしてくれたのである。近代を全否定することはできない――渡辺さんはそう言うのだ。

この近代がもたらしてくれた基本的人権という概念に、今、真っ向から挑戦しているのが、中国である。

書店を歩けば「今再び超大国へと返り咲く中国!」とか「米中G2時代の幕開け!」とかいった本を見かけるが、渡辺さんは、中国の隆盛は一時的なブームで終わる、ととても冷ややかである。

 

この国の(自称)リベラルは不思議なもので、普段からやれ平和だやれ人権だとうるさいくせに、中国の帝国主義的膨張政策に対してはずいぶんと及び腰である。

渡辺さんの態度は、彼らとは正反対だ。神風連の乱に、ドストエフスキー国粋主義的思想に強い関心を傾ける渡辺さんは、それでもなお近代を擁護し、近代の価値観に挑戦する中国に、決して靡こうとはしないのである。

 

近代の呪い (平凡社新書)

近代の呪い (平凡社新書)

 

 

書評『震災恐慌!』

本日ご紹介する本は、『震災恐慌! 経済無策で恐慌が来る!』(宝島社)

著者は、経済学者の田中秀臣さんと、経済評論家の上念司さん。対談本である。

ふたりは、リフレーション(人為的に引き起こされる緩やかなインフレ)によって日本経済の回復を目指す、いわゆる「リフレ派」の論客として知られている。

「震災恐慌」というタイトルからお察しいただけたかと思うが、本著は、3.11からまだまもない、2011年6月に刊行された本だ。当時はまだ、民主党政権時代であった。

 

第一章ではまず、震災後の経済不況が人災であることが語られる。

「えっ!? 人災って、どういうこと? 震災なんだから、天災じゃないの?」

と皆さん思われるかもしれない。が、人災であっているのである。

たしかに、地震それ自体は、自然災害だ。だが、震災後に日銀が適切な金融政策さえ採っていれば、景気が落ち込むことはない。逆に言えば、日銀が適切ではない金融政策をやってしまったから、日本経済は震災後、落ち込んでしまったのである。

驚くべきことに、これは戦前の反復なのだ。

戦前におこった関東大震災の直後でも、当時の政府は金融引き締めをやってしまい、そのせいで日本経済は低迷してしまった。

本ブログで以前取り上げた田中さんの著作『平成大停滞と昭和恐慌』のなかで、田中さんは戦前日本と戦後日本は「パラレル・ライフ」の関係にあると指摘していた。それは、具体的に言えば、こういうことなのである。

 

第二章では、いわゆる「失われた20年」は、日銀が金融引き締めを続けてデフレを放置したことが原因であると、ふたりの口から繰り返し繰り返し、語られる。

それにしても、呆れるのは日銀の無能ぶりだ。

たとえばCPI消費者物価指数の話。

物価の変動を表す指数がCPIだが、これだけではまだ実用に適さない。天候不順などで価格が変動しうる生鮮食品を除外する必要があるからだ。

そこで生鮮食品を抜いたのが、「コアCPI」という指数。日銀は、長くこのコアCPIを用い続けてきた。

ところがこのコアCPIにも、実は問題があったのだ。それは、市況に左右されやすい石油、石炭などのエネルギーを除外していないこと。

そこでさらにこれらを除外したのが、「コアコアCPI」である(なんだか可愛らしい響きだね)

アメリカはこのコアコアCPIを、物価の変動を見るための指数として使用しているのだという。

ところが日銀は、このコアコアCPIを採用していなかった。

するとどうなるか。

本当はまだデフレが続いているのに、石油の値段が上がったせいでインフレになったと日銀が勘違いし、本来ならばやるべきではない金融引き締めをやってしまったというのだ。

その結果、日本はダラダラとデフレ不況を続け、貴重な20年を無駄にしてしまったのである。

日銀の想像を絶する無能ぶりに、背筋が凍る思いがした。

 

第三章では、民主党政権が今後取り得るシナリオが検討されている。繰り返すが、本著は2011年6月、民主党政権時代に刊行されたのだ。

田中さんと上念さんは、増税の可能性高しとしながらも、増税を強く批判している。

増税をやれば人々の消費が落ち込み、かえって税収が減ってしまうという本末転倒の事態を招くからである。

田中さんの以下の言葉を、読者はよく覚えておいてほしい。

≪この本の読者は、日銀はそういう信じられないようなことを平気でして、さらに誰にも叩かれない驚異の組織だということを覚えておかなければならない。≫(133頁)

にもかかわらず、政治家もマスコミも、この日銀の無能ぶりが分かっていない。ゆえに、マス“ゴミ”なのである。

そして彼らの犯罪的なまでの無能ぶりのせいで、この国では毎年3万人以上もの自殺者が出てしまったのだ。彼らこそ、この「失われた20年」における一番の犠牲者であった。

 

さて、終章にて、ふたりは政府による積極的な財政政策の必要性を訴えている。

繰り返しになるが、本著が書かれたのは2011年6月。その約一年半後、悪名高き民主党政権はついに終わりを迎え、第二次安倍政権が始まった。そして、ご存知「アベノミクス」が開始されたのである。

途中、消費増税などというどうしようもない失政もあったものの、日本経済は少しずつ回復へと向かっている。今秋に至っては連日のように株価が上昇を続け、ついには連続上昇日数で歴代最長を記録したのだそうである。

少しずつではあるが、この国は確実に、良い方向へと向かっているのだ。この歩みを、断じて止めてはならない。

 

震災恐慌!?経済無策で恐慌がくる!

震災恐慌!?経済無策で恐慌がくる!

 

 

書評『仏教シネマ』

浄土真宗僧侶・釈徹宗さんの著書を読むと、たいてい何本か映画が紹介されていることに気がつく。

「あれ? 釈さんってもしかして、映画好きなのかな?」と思っていたら、案の定であった(w

 

本日ご紹介する『仏教シネマ』文藝春秋は、まさにタイトルのとおり、釈さんが仏教者として気に入った映画を取り上げ、解説するという内容の本である。

本著は、対談本である。対談者は、秋田光彦さんという方。

映画評論家なのかな、と思っていたら、なんとこの秋田さんも僧侶なのだという(こちらは、浄土宗なのだそうな)

というわけで、本著は映画大好きのお坊さんふたりによる、対談本なのである。

 

本著は、「生きる」「老いる」「病む」「死ぬ」という四つの章からなる。生老病死、まさに仏教のいう「四苦」だ。本著ではこれら4章にさらに「葬る」が加えられ、計5章となっている。

それぞれの章のなかで、映画が数多く紹介されていく。邦画か洋画かは問わない。

僕はこれでも結構映画は見ているほうなので、本著で取り上げられる映画のなかでは「あ、これ見たことある」というものもあるが、一方でまだ見ていない映画もたくさんあった。

「へぇー、こんな映画があったのか!」ととても勉強になった。

本著は、ページの下のほうの余白の部分に、対談で取り上げられた映画に関する情報――制作年、監督、あらすじなど――が掲載されている。こういうサービスは、実にありがたい。

 

本著は、仏教書や映画評論であるだけでなく、比較文化論にもなっているところがポイントだ。

たとえばアメリカ映画のなかでは「永遠の不良少年」がカッコいい老人のありかたとされる。クリント・イーストウッド監督作品で、イーストウッド本人がよくそういう役どころを演じている。あるいは、ポール・ニューマンもまた、そういう役がよく似合っていた。

日本映画では、しかしながらそうではない。日本でカッコいい老人といえば、『東京物語』の笠智衆のような“枯れた老人”である。あの老成した佇まいこそ、日本の老人の理想なのだ。

太平洋の両岸で、理想の老人像がこんなにも違うとは(w

このほか、アメリカ映画では老人のかつての溌剌とした青春時代のシーンを挿入するのに対し、日本映画はそうした手法は採らず、代わりに美しい自然の風景を挿入する、という著者たちの指摘も、なるほど確かにそうだなァ、と感心した次第である。

 

本著では第5章「葬る」のあとにさらに終章が設けられており、そこでは映画の話題からやや離れて、3.11と仏教の役割について主に論じられている。

 

釈さんも秋田さんも大の映画ファンである。そんな彼らが口をそろえて言うのは、DVDはダメですよ、映画はちゃんと映画館で見なきゃダメですよ、ということ。

ううっ、耳が痛い! 僕は映画はたいてい自宅でDVDで見てるんだよぉ~(泣

だって~だって~、映画館だと前方の座席に背の高い人が座ってると、その人の頭が邪魔になってスクリーンがよく見れないじゃないですかぁ~(涙

 

仏教シネマ (文春文庫)

仏教シネマ (文春文庫)

 

 

書評『いきなりはじめるダンマパダ』

はて、ダンマパダとは何だろう?

 

…と、多くの人はふしぎに思われるかもしれない。

『ダンマパダ』とは、原始仏教の経典の名である。漢語では『法句経』とも訳される。

今日ご紹介する『いきなりはじめるダンマパダ』(サンガ)は、浄土真宗僧侶にして宗教学者でもある釈徹宗さんが、この『ダンマパダ』について、いかにも彼らしい親しみやすい言葉で解説してくれる本である。

釈さんの本はどれも平易な話し言葉で書かれており読みやすいが、本著は本当に話しかけているかのような、なめらかな文体である。

…と思ったら、それもそのはず、講演をテープ起こしして書籍化したのだという(;^_^A

 

原始仏教のお経の話だなんて、退屈なんじゃないの?」と思わないでほしい。釈さんの語り口は、まるで年配の落語家や芸人のようだ。

たとえば、『ダンマパダ』は韻を踏んでいるという話では

≪「苦しみ」が「ドゥッカー」で、「福楽」が「スッカー」。「ドゥッカー」「スッカー」なんて、なんだか、こう、「常夏・ココナツ」とか「アテンション・シチュエーション・バケーション」みたいで、いいでしょ。≫(27‐28頁)

あるいは、『倶舎論』というスタンダードな仏教の大著の話でも

≪読んでみたらわかりますが、あっという間に心地よい睡眠へと達することができます。「もうよろしいがな。それで結局どないせえいうねん」って必ず言いたくなります。≫(70頁)

釈さんは、大阪府内の寺院の住職でもある。彼の法話は、きっと漫才のように面白いに違いない。

 

本著は仏教の話からはじまり、次第に政治哲学、倫理学の世界へと進んでいく。

ここらへんは、仏教者というよりかはむしろ宗教学者としての釈さんの顔が前面に出てきて、興味深い。

釈さんがまとめてくれる仏教の歴史は、とても分かりやすい。本ブログでは先日、勝本華蓮さんの『座標軸としての仏教学』を取り上げたが、初学者の方は、まず本著を先に読み、それから『座標軸~』に進むと、スムーズに仏教史を頭に入れることができるかもしれない。

本当に優れた宗教者には威圧感がない、威圧感があるヤツは宗教者としてはまだまだ、という釈さんの話が面白い。

似たような話を、曹洞宗僧侶・南直哉さんも書いていたのを思い出す。南さんによれば、在家信者が「あぁ、美しい!」と惚れ惚れするような姿で座禅をする僧侶は、禅僧としてはまだまだ。本当に優れた禅僧は、「あれ、いたの?」という感じで、自然のなかにすっかり溶け込んでしまうのだという。

 

本著終盤ではいよいよ、日本仏教の話に入る。

釈さんの話を一言でまとめると、日本仏教は、社会から離脱するのではなく、あえて社会のなかに留まることを是とする宗教なのである。

僕はこれまで、日本仏教なんてぶっちゃけ堕落の極みにあるのでは、と思っていたけれど、釈さんの話に触れて、あぁ単純にそうとも言えないんだな、と日本仏教への見方を改めたのだった。

 

最後に。釈さんの、こういうところは僕とよく似ているな、と親近感を持った。

≪私など車を運転していてもしょっちゅう次のスケジュールのことを考えたり、人の話を聞いてもついつい別のことを考えていたり、ほとんど「人生うわの空」というタイプです。≫(93頁)

釈さん、僕もですっ!(w

 

いきなりはじめるダンマパダ―お寺で学ぶ「法句経」講座

いきなりはじめるダンマパダ―お寺で学ぶ「法句経」講座

 

 

書評『「男の娘」たち』

本ブログの読者の皆さまならよぉーくご存知かと思うが(w)僕はいわゆる「男の娘(こ)が大好きなのである♡

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の戸塚彩加ちゃんはもはや極上の一品であるし(w)、ごく最近のアニメのなかでは『メイドインアビス』のマルルクちゃんも実にかわいかった。

 

で、今日取り上げるのは、タイトルもずばり『「男の娘」たち』河出書房新社

著者の川本直さんが実際に複数の女装者たちにインタビューした、ノンフィクションである。

「…って、なんだよ! 「男の娘」っていうからてっきり2次元の話だと思ったのに、3次元かよ!(怒」とページをめくった当初は憤ったが(w)、読んでみたら、これが結構面白いのだ。

そんなわけで、今回こうしてレビューを書いている次第である。

…おっと書き忘れるところだった。川本さんは、本著がデビュー作なのだそうな。

 

本著では、多くの女装者たちが登場する。“彼女たち”の半生を追うことで、読者は謎多き“女装の世界”を垣間見ることができるのである。

例えば、日本最大規模を誇った女装ニューハーフイベント「プロパガンダ」。「こ、こんな世界があったのか!」と多くの人は目を丸くするに違いない。

プロパガンダ」というイベント名は、僕も耳にしたことがある。

いや、単に耳にしただけじゃなく、実際に新宿・歌舞伎町の会場に行こうとしたこともあった。結局は取りやめてしまったのだが。どうして行かなかったのか、正直今となってはあまりよく覚えていない。

その「プロパガンダ」も、残念ながら2016年をもって終了してしまった。一度くらいは試しに行ってみれば良かった、とすこしばかり後悔している。

 

プロパガンダ」だけではない。本著を通じて、読者は女装の世界について、多くの知識を身につけることができる。

たとえば、女性ホルモンの副作用について。

女装者のなかには女性に憧れるあまり、女性ホルモンに手を出す人もいるが、女性ホルモンの摂取は肝硬変の原因となる。また、情緒不安定にもなるという。

安易にホルモンを摂取するのは、したがって禁物なのだ。

 

女装者とゲイは必ずしもイコールではないという点も重要だ。

女装者は必ずしも男が好きなわけではないし――むしろ普通に女の子が好きという人が多い――ゲイもまた、必ずしも女装しているわけではない。

両者は、集まるエリアも異なっている。

このことは、当の女装者やゲイたちにとっては常識に属すことなのであるが、世間一般ではいまだに「女装するやつはホモ」という誤解ないし偏見がはびこっている。

こうした認識は、すみやかに改められる必要があろう。

 

一口に「女装者」と言っても、多様だ。

「女装者」というよりかはむしろ「コスプレイヤー」と呼んだほうが適切なのでは、と思わせるような女装者も、本著では出てくる。

その一方、真剣に「子供を産みたい」と悩む女装者もまた登場するのだ。

読者は、女装の世界の奥深さに驚くに違いない。

女装の世界は、豊穣なのだ。

 

余談ながら。

本著ではコスプレイヤー系の女装者のひとりとして、あしやまひろこさんが紹介されている。

あしやまさんのtwitterを見ると、最近はアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の影響で静岡県沼津市を訪れることが多いようだ。

もしかしたらこれから先、僕はあしやまさんとお会いする機会があるかもしれない。楽しみである。

 

「男の娘」たち

「男の娘」たち

 

 

書評『軍事革命(RMA)』

北朝鮮情勢が、いよいよ緊迫の度を増している。

我々日本人は、約70年ぶりに<戦争>を意識しなければならなくなった。

 

実のところ、大多数の日本人が抱いている<戦争>のイメージは、大東亜戦争以来、まったくと言っていいほど更新されていない。

だが、世紀が転換する前後から、戦争のやり方は革命的とすら言っていいほど、様変わりしてしまったのだ。

そんな「革命」について解説してくれるのが、今日ご紹介する『軍事革命(RMA) “情報”が戦争を変える』中央公論新社である。

著者は、軍事評論家の中村好寿さん。

 

戦争に革命をもたらした張本人――それは、情報技術であった。

冷戦時代にはすでに、米ソの軍事関係者の間で、情報技術が戦争の在り方を変化させると予想されていたらしい。

実際にそうした変化がもたらされたのは、冷戦終結直後、湾岸戦争からのことである。

この戦争では精密誘導兵器システムなどの新技術が活躍し、多国籍軍イラク軍を圧倒することができた。イラク軍には豊富な実戦経験があり、当初はイラク側がもうすこし善戦すると予想されていたにもかかわらず、である。

 

かくして、戦争は変わった。

戦争の世界で革命が起こるのは、本著によれば、有史以来、これが3回目のことだという。

1回目は、農業革命に伴って起こり、2回目は産業革命に伴って起こった。この産業革命以降の戦争の形態が、<戦争>と聞いて我々日本人が思い浮かべる「あの戦争」のイメージに他ならない。

それが、変わってしまったというのだ。

 

この3回目の軍事革命以降、戦争の目的は「消耗」から「麻痺」へと移った。

それまでの戦争では、爆撃などで社会インフラを徹底的に破壊するやり方が採用されていた。それが、「消耗」だ。

一方、これからの戦争では、たとえば電子機器などを破壊、使用不能にすることによって、社会インフラを「麻痺」させるというやり方が採用されるという。

どうやって、「麻痺」させるのか。

サイバー攻撃などの手法が考えられる。

これからの戦争は、まずサイバー攻撃によって相手国の社会インフラを麻痺させ、その上ではじめて、陸海空の三軍が攻撃する、というかたちになるというのだ。

サイバー攻撃は、当然のことながら、サイバー空間で行われる。したがって、これからの戦争は、従来の陸海空に加えてサイバー空間でも行われるのである。

もうひとつ付け加えると、宇宙空間もそうだ。

宇宙空間に打ち上げられた軍事偵察衛星もまた、3回目の軍事革命の担い手のひとつだからである。

これら軍事偵察衛星を打ち落とすことも、現代の戦争では重要視される。

すなわち、宇宙空間もまた、今日においては戦場となるのだ。

我々はまもなく、従来の陸海空の三軍に加え、サイバー軍と宇宙軍を加えた五軍の時代を迎えることとなろう。わが国でも、おそらくは今世紀前半のうちに「サイバー自衛隊」と「宇宙自衛隊」が新設されるはずである。

 

本著の第六章では、実際に3回目の軍事革命の後の、日本の防衛の在り方が論じられている。

そこではおそらくは中国を念頭に置いていると思しき某国が九州に上陸するというシナリオが想定されている。

ここでもやはり、最初にサイバー攻撃が行われ、その上で某国軍が上陸してくるという筋書きになっている。

この上陸作戦は、極めて短期間に行われる、というのもまたポイントだ。

3回目の軍事革命により、戦争のタイムスパンが驚くほど短縮されるからである。

 

※話はややそれるが、孫子の兵法が1回目の軍事革命後の戦争を、クラウゼヴィッツの戦争論が2回目の軍事革命後の戦争ーすなわち消耗戦を念頭に置いている、との本著の指摘は興味深い。

3回目の軍事革命後の今日の戦争は麻痺戦であり、これはある意味では、やはり同様に麻痺戦であった1回目の軍事革命後の戦争へと先祖返りしたものとも考えられるという。

21世紀の今日においては、もはやクラウゼヴィッツは死に、かわりに孫子が復活するのかもしれない。

 

我々日本人は、軍事学を苦手とする。

これまで、軍事学を大学で教えようなどと言おうものなら、「戦前への回帰だ!」「軍靴の足音が聞こえてくる!」とヒステリックに反発する人間たちがいたせいである。

だが、こうした軍事オンチは、もはや許されまい。

今こそ我々シビリアン文民は、軍事学を学び、来たるべき朝鮮半島有事に備えなければならない。

本著には、軍事に関する知識が、ぎっしりと詰まっている。

さぁ、読者の皆さん、ともに勉強しよう。

…偉そうに言っている僕自身、軍事学の勉強はまだ途上であるから(w

 

軍事革命(RMA)―“情報”が戦争を変える (中公新書)

軍事革命(RMA)―“情報”が戦争を変える (中公新書)

 

 

書評『イスラムの読み方』

評論家の山本七平さん(1921-1991)の著書は、以前本ブログでも取り上げたことがある。

日本の保守派の論客の多くが「情」の人であるのに対し、山本さんはどこまでもクールな「理」の人であったところに、その最大の特徴があった。

 

今日ご紹介するのは、そんな山本さんと、外交評論家・加瀬英明さんのふたりによる対談本『イスラムの読み方』祥伝社だ。

 

…うんやっぱり、山本さんの本は面白い(w

本著でも、「へぇー、そうだったのか!」と目から鱗が落ちる思いがしたことが、たびたびあった。

たとえば、中東・アラブ語圏の人々の、トルコに対する恨み。

周知のとおり、20世紀以前、イスラームの両聖地(メッカ、メディナはじめアラブ語圏の多くはオスマン帝国によって支配されていたのだが、アラブ人の間では「オスマン帝国なんかに統治されたせいで中東は停滞した」という思いがあるようなのだ。

ボスポラス海峡の向こう側、ヨーロッパでも以下のような光景がみられるらしい。

オスマン帝国は最盛期にはバルカン半島のほとんどを領有する大帝国だったが、今日のバルカン半島の景色を眺めると、旧オーストリア帝国領土のほうは豊かな田園風景が広がっているのに対し、旧オスマン帝国領のほうはなんとも景色が寂しいのだという。

オスマン帝国のせいで停滞した」というアラブ人の恨みは、あながち的外れではないのかもしれない。

 

面白かった箇所はまだまだある。

驚くべきは、アラブ人の労働観。なんと、労働する人間は卑しいという発想がアラブ世界にはあるのだという。

要するに、ガチで働いたら負けという世界なのだ。

どうしてまた、そんなトンデモな労働観になってしまったのかというと、アラブでは砂漠をまたにかけて略奪する人間こそ“漢”であり、そうした勇気のない臆病者が農耕(労働)をやって細々と生きる、という図式があったからだという。

こうした価値観は、現代の湾岸諸国でも根強く生き残っている。

彼らは、とにかく仕事をしない。建築業など汗水流して働く業種は、インド人など海外の労働者にオ・マ・カ・セ。そんなんだから社会学者の橋爪大三郎さんは彼らを「寄生虫」と呼んで強く非難したわけだが、しかしそうでもしないとアラブ世界の近代化は不可能だったのでは、とも思えてくる。

 

イスラームは、異教徒に寛容な宗教だったと言われる。

実際、イスラームは占領地の異教徒を強引に改宗させる、ということがほとんどなかったとされる。

だが、本当に寛容だったからなのか。

山本さんたちは、異教徒からの人頭税ジズヤと呼ばれる―の税収のおかげでイスラーム社会が成り立っていたという側面があったことを指摘する。異教徒との共存は、かならずしもイスラームの寛容さを表しているわけではない、そこには税収という極めて現実的な問題が関係していた、というのだ。

裁判においても、ムスリムと異教徒との間には法的な差別があったという。ここで山本さんは、いかにも彼らしく、こうした法的不平等を、米軍占領下の日本における進駐軍と日本人の関係と同じだと言っている。

 

 戦前、日本のアジア主義者たちは「アジアはひとつ」と訴え、遠く中東のムスリムたちとも連帯しようとした。

が、本著のふたりの著者たちは、そうしたロマンティシズムに冷や水を浴びせるのである。

≪日本人はアラブに行っても、イスラエルに行っても、たいへんに友好的で調子がいいと言う人がいますが、簡単にいえば両方から異質の人間として除外されていて、問題にされないから、調子よくやっていけるわけです。≫(208頁)

イスラーム教圏である中東は、同じく一神教であるキリスト教圏の欧米にむしろ近い。加瀬さんは、アジアはひとつだなんて言うのは日本人だけだと皮肉っぽく述べている(210頁)

どうも日本人は、異国の人々に感情移入しすぎるきらいがあるようである。

そうした傾向は、イギリス人と日本人のルポルタージュの違いにも表れている、と著者たちは言う。

イギリス人は、事実を淡々と描く。ところが日本人は、文章のなかに感情をこめてしまう。自分と同じ人間なんだと思ってしまうのだ。

それが、そもそもの間違いだというのである。

 

さて、本日ご紹介したのは、近年になって刊行された文庫版である。

山本さんは残念ながら1991年に亡くなってしまったが、加瀬さんのほうは今日も健在である。

文庫版では加瀬さんが「終章」としてあらたに一章を加筆してくれている。

そこではイスラーム世界の近現代史が概観され、ISーいわゆる「イスラーム国」ーに代表されるようなイスラーム原理主義が、2010年代における世界の脅威となっていることが指摘されている。

この章のユニークな点は、中東諸国の腐敗した独裁体制を中国のそれと比較しながら論じていること。もちろん加瀬さんは中東、中国、どちらに対しても批判的である。

ありがちな「21世紀は中国の時代!」「米中G2時代突入へ!」みたいな安直な中国礼賛を、ここで戒めているのだ。

 

イスラムの読み方 (祥伝社新書)