Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『それをお金で買いますか』

90年代、この国を席巻した文系学問は、社会学であった。

橋爪大三郎さん、大澤真幸さんらをはじめとする“世紀転換期の社会学者たち”(※)が、論壇にて注目を集めるようになったのだ。今日でもオールドメディアやtwitterなどで「社会学者」の肩書を見かける機会が多いのは、彼らの活躍に起因するところが大きい。

※もともとの「世紀転換期の社会学者たち」とは、19世紀末~20世紀初頭にかけて活躍したマックス・ウェーバーエミール・デュルケームなどの欧米の社会学者のことである。

今世紀に入ってからは、政治哲学が脚光を浴びるようになった。『ハーバード白熱教室』における、マイケル・サンデル教授のあの参加型授業は、いまだ皆さんの記憶にも新しいことだろう。

それでは、これから先はどうだろうか。僕の予想では、次に来るのは経済学である。

実は、アメリカはとっくの昔から「経済学帝国主義」と揶揄されるほどに経済学の全盛時代であった。「社会学帝国主義」の観のある日本とは、ずいぶんな違いだ。

これまで日本では経済学の人気はイマイチであったが、アベノミクスの成功でいよいよ潮目が変わりつつあると感じる。

……え、アベノミクスは失敗しただろうって? 違う、違う。あれは消費増税などという余計なことをやらかしてしまったせいで成果がショボいものになってしまっただけであって、そんな余計な邪魔さえなければ日本経済はグーンと回復していたはずなのである。

個人的には、これから先の日本では政治哲学と経済学のバトルが見物になるかな、と予想しているところである。え、社会学? もうダメでしょあんなの。だってF市なんかが社会学者なんだぜ?(w

 

さぁ、そろそろ本題に入るとしよう。本日ご紹介する本は、『それをお金で買いますか 市場主義の限界』早川書房である。

著者は、さきほど名前が挙がったばかりの政治哲学者、マイケル・サンデル教授だ。

 

本著は、サンデル教授が政治哲学の立場から経済学に対し異議申し立てをした書、というふうにまとめることができよう。

本著では、なんでもかんでも市場原理に覆いつくされた昨今のアメリカ社会が批判的に論じられる。

臓器売買しかり。ネーミングライツしかり……。

以前ご紹介した映画『キャピタリズム~マネーは踊る』にて取り上げられた、企業が従業員に無断で保険金をかけてしまうという問題も、本著のなかで(もちろん批判的に)論じられている。

「コミュニタリアニズム的共和主義」を旗印に掲げるサンデル教授が、こうした市場原理主義的な風潮に批判的なのは、もちろん言うまでもないだろう。

サンデル教授は、昨今の経済学者たちが、美徳を一種の資源というふうに捉えており、使うと減ってしまうもの、したがって節約すべきもの(=なるべく美徳を使わず、かわりに市場原理に任せるべき)だと考えている、とまとめている。

 ≪社会・経済生活において利他心を向こう見ずに消費してしまうと、ほかの公共的目的に使える利他心の供給が枯渇するだけではない。家族や友人に残してある分まで減ってしまうのだ。

 こうした経済学者的美徳観は、市場信仰をあおり、本来ふさわしくない場所にまで市場を広げてしまう。≫(184頁)

経済学者たちの考えを以上のようにまとめたうえで、サンデル教授は、しかしながら以下のように反論するのである。

≪しかし、その比喩は誤解を招くおそれがある。利他心、寛容、連帯、市民精神は、使うと減るようなものではない。鍛えることによって発達し、強靭になる筋肉のようなものなのだ。市場主導の社会の欠点の一つは、こうした美徳を衰弱させてしまうことだ。公共生活を再建するために、われわれはもっと精力的に美徳を鍛える必要がある。≫(同頁)

この「精力的に美徳を鍛える」という発想こそが、彼の掲げるコミュニタリアニズム的共和主義なのだろう。僕としても、とても共感できる考え方だ。

 

しかし、である(w)。本著にてサンデル教授が批判する経済学者たちのイメージは、なにやら戯画化されたもののように僕には思えてならない。

さきほどの映画『キャピタリズム~マネーは踊る』を見たときにも思ったことだが、このテの映画ないし本で批判されている経済学者というのは、経済学の世界では「新古典派」と称される人々である。つまりは、リーマン・ショック以前までイケイケどんどんで金儲けに精を出していた人々、ないしは彼らを肯定していた経済学者のグループのことだ。

経済学者は、もちろんこれだけとは限らない。「ケインジアン」と呼ばれる人々もいるのだ。彼らは、ケインズの経済学を現代によみがえらせることによって、政府が積極的に金融・財政政策を打って経済を安定化させることを肯定するグループである。日本で「リフレ派」と呼ばれる人たちも、このケインジアンに属す。

こうしたケインジアンたちは、本著にてなかば戯画化されたような経済学者のイメージないしそれへの批判に、反発することだろう。現に、以前取り上げた『本当の経済の話をしよう』にて、リフレ派の経済学者・若田部昌澄さんがなにやらサンデル教授に対しぶーぶー文句を言っていたのを僕は覚えている(w

本著に対する、ケインジアンの経済学者たちからの反論を、おおいに期待したいところだ。

 

それにしても、この見るからに俗っぽい邦題――原題は“What Money Can't Buy”――は、なんとかならないものですかねぇ、早川書房さん?(w

 

 

最近見た映画の感想(第278回)

・『無言歌』

1960年の中国西部。反右派闘争のあおりをうけ、ここにも政治犯の収容所が建設された。

本作は、そこで非人間的な生活を余儀なくされた政治犯たちの物語である。

……いや、本作に「物語」と言えるほどの物語はない。本作は、収容所で生活する政治犯たちの過酷な日常を、一切のBGMを交えることなく――まさに「無言」歌だ――淡々と、しかし力強く描き出すのである。

僕はソルジェニーツィン『収容所群島』を思い出す。本作でも中国の政治犯たちは、まるでシベリアのソルジェニーツィンたちのように、飢えをしのぐためネズミを捕まえて食べたり、先に死んだ政治犯の死体を喰らったりする。死んだら遺体は埋められることもなくそのまま砂漠に放置される。どれが誰の遺体なのかさえ分からない。それでも本作中盤、政治犯の夫を追って収容所にやってきた妻は、必死になって夫の遺体を探しまわるのである。カメラは、彼女の姿を無言で捉えつづける。

本作は、香港、フランス、ベルギーの合作映画として撮られた。中国本土では絶対につくることのできない映画だろう。あるいは、これからは世界でもつくれなくなるかもしれない。

 

無言歌(むごんか) [DVD]

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・『神様メール』

聖書をパロディ化した、いかにもヨーロッパらしい映画である。

主人公は、神の娘――つまりはキリストの妹である。ある日、彼女は父である神の目から逃れて、全人類に自らの余命を通知するメールを勝手に送信してしまう。かくして全人類は自らの余命を知ることとなり、世界はパニックに陥る。

父=神にこのイタズラを気づかれてしまった彼女は、人間世界へと逃走。そこで出会った余命いくばくもない人々を“使徒”に選び、彼らと行動をともにすることで、人間とは何たるかを知っていく。

本作にて登場する神は、見かけはただの下品な中年プログラマーにすぎない。神は、「ジャムを塗った食パンを落とすと必ずジャムを塗った側が床に触れる法則」や「レジの待機列にて、自分の隣の列のほうが必ずスムーズに動く法則」などを次々と制定。あぁ、こんなクソみてぇなオッサンが世界をつくってるんだ、どうりで世界から悪が消えないわけだ、と納得してしまう(w

「完璧な存在であるはずの神がどうしてこの世界に悪をつくったのか(あるいは許容しているのか)」という議論は「弁神論」Theodizeeと呼ばれるが、なんてことはない、そもそも神が下品な中年プログラマーありさえすれば、すべての謎は解決するのである。

さて、そんな神の娘である主人公は、人間世界にて多くの人々と触れ合い、彼らを“使徒”に選んでいく。皆、これまで社会にうまく馴染めなかった人々ばかりだ。そんな彼らの半生を美しい映像でなかばコミカルに描いた本作は、いかにもヨーロッパ映画的なペーソスに満ちている。

使徒”のなかには、あのカトリーヌ・ドヌーヴの姿も見える。まぁさすがにおばあさんになってしまったのはしょうがないにしても、すっかり太ってしまっていて、僕は少なからずショックを受けたのだった(w

本作には、キリスト教のパロディが満載。キリスト教の知識があれば、なお一層本作を楽しめるはずだ。

 

神様メール(字幕版)

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・『インクレディブル・ファミリー

ピクサー作品『Mr.インクレディブル』は、家族の絆をテーマに描いたCGアニメ映画。僕のお気に入りのピクサー作品のひとつだ。

で、本作はその14年ぶりの続編である。

前作にて敵役・シンドロームをみごと撃退した主人公一家であったが、スーパーヒーローを差別する社会構造は相変わらず。そんななか、彼らを雇うとオファーを出したのが、新興通信企業のデブテック社だ。同社は、しかしながら一家の大黒柱たる父・Mr.インクレディブルではなく、母・イラスティガールのほうに活躍してほしいという。Mr.インクレディブルは、かくして家庭内にて主夫をやることとなる。

一方、スーパーヒーローとして活躍の場を得たイラスティガールの前には、「スクリーンスレイヴァー」を名乗る謎の人物がその影を落とす。

本作で面白いのは、Mr.インクレディブルが育児に忙殺され、「育児疲れ」になってしまうこと。スーパーヒーローも育児疲れになるものなのかと笑ってしまうが(w)、やがて彼は、育児の楽しさに気づいていく。それでも、社会で華々しく活躍する妻・イラスティガールにはなにやら嫉妬のような感情を抱いてしまうあたり、どうやら“内助の功”に徹することはできなかったようだ(w

このように、子供向けのアニメ映画のなかにもさりげなくジェンダーの問題をしのばせてくるところが、いかにも現代のアメリカ映画らしい。

 

 

・『美女と野獣

91年公開のディズニーのアニメ映画『美女と野獣』は、子供のころよく見たので個人的に愛着がある。それがCG全盛の今日になんと実写化された。それが本作である。

近世フランスの片田舎。主人公の女性・ベルは、行方不明になった父を追って、妖しい雰囲気の漂う古城へと入る。そこはなんと、魔法によって醜い野獣の姿に変えられた王子の住む城であった。ベルはそこに監禁されるが、野獣や、家具に変身させられた家臣たちとともに過ごすうち、次第に彼らに心を許すようになる。

このベルを演じるエマ・ワトソンがなんともハマリ役。ベルは、当時としてはめずらしく本を読むのが好きな知的な女性という設定であるから、実際に学業優秀だったエマは、これ以上は考えられないピッタリなキャスティングである。

近世フランスの片田舎という設定なのに村人のなかにフツーに黒人がいるのには笑ってしまったが、これは当然Political Correctness (PC)に配慮した結果だろう。普通の歴史映画ならばNGであろうが、まぁディズニーのおとぎ話だし、これでいいでしょ、ということなのだろう。

PCといえば、敵役ガストンの相方ル・フウが同性愛者に設定されているのもPCへの配慮なのだろう。アニメ版ではそうではなかった。主人公ベルの性格も、アニメ版のほうはおしとやかだったが、エマ演じる本作のベルはけっこう我が強そうだ。この違いも、おそらくは意図的なものだろう。

使用される楽曲がアニメ版とまったく同じだったのは嬉しいかぎり。子供のころによく見た映画なので当時を思い出し、感動を覚えた。

ひさびさに、長く余韻に浸りたいと感じさせてくれた一作だ。

 

美女と野獣 (字幕版)

美女と野獣 (字幕版)

 

 

・『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』

アメリカのフィギュアスケート選手、トーニャ・ハーディングの半生を描いた伝記映画である。

主人公・トーニャは、幼少のころから抜群のスケートの才能を見せるが、スパルタ教育を敷く母親からは日々虐待を受け、その生活は極めてすさんだものであった。若くして結婚するも、夫に日常的にDVを振るわれ、離婚してしまう。

ところがこの元夫との腐れ縁は切れなかった。やがて彼女はこの元夫とその仲間たちともに、ライバル選手を襲撃するというとんでもない事件を引き起こしてしまうのである。

この事件というのがなんともお粗末。実行犯である元夫の仲間たちがあまりにバカなので、情報だだ漏れ、足跡つきまくり。このグダグダっぷりは以前取り上げた映画『ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金』を思い起こさせる。最終的に、実行犯ではないトーニャにも捜査の手が及んでしまう。

幼少のころから過酷な環境で育ったトーニャは、どんな逆境にもめげることなく、持ち前のロックな反骨精神を見せつける。「雑草根性」という言葉がこれほどふさわしい女性アスリートも珍しい。

 

 

書評『アッラーのヨーロッパ』

日本では今、移民受け入れの是非をめぐって論戦がさかんに行われている。

日本は、本当に移民を受け入れても大丈夫なのだろうか。我々にイスラームの隣人と共存する用意はあるのか。

イスラーム系移民はヨーロッパの問題でしょ? 日本は関係ないよ」などと思うなかれ。マレーシア、インドネシアなど、東南アジアにはイスラーム教国が存在する。日本にとっても、イスラームとの共存の問題は、決して他人事ではないのだ。

 

本日ご紹介する『アッラーのヨーロッパ 移民とイスラム復興』東京大学出版会は、ヨーロッパのトルコ系移民に焦点を絞り、彼らがいかにしてイスラーム過激派へと流れていくのかを分析した著作である。

著者は、中東研究を専門とする、内藤正典さん。

 

内藤さんは、ヨーロッパのなかの三つの国に絞り、トルコ系移民の動向を分析する。ドイツ、フランス、オランダの三ヶ国だ。いずれの国においても、トルコ系移民が差別され、彼らがイスラーム過激派へと流れていく過程がスケッチされる。

まず、ドイツではどうだろう。ドイツは、血統主義の国である。フランスなどでは出生地主義と言って、フランス国内で生まれさえすれば自動的にフランスの市民権(国籍)が与えられるのだが、ドイツはそうではない。両親のうちどちらかがドイツ人である場合に限り、ドイツの市民権が与えられるのだ。

そんなドイツでは、当然ながらトルコ系移民はなかなか受け入れられない。たとえドイツ語を習得し、ドイツ人らしく振る舞っていても、駄目である。

かくしてドイツ社会から排除されていると感じた彼らが、イスラーム過激派へと流れていくというわけなのだ。

 

それでは、フランスはどうか。フランスはドイツほど血統にこだわる国ではなく、上述のとおり国籍取得に関しても出生地主義を採っている。ここフランスならば、トルコ系移民でも受け入れられるのではないだろうか。

……そうはいかなかった。フランスという国は、血統主義を採らないかわりに、全国民に対し共和国への忠誠を求める。フランス革命以来の「自由、平等、友愛」の理念を尊重してはじめて、共和国の市民として認められるのだ。いやそれだけではない。もうひとつ、「ライシテ」laïcitéという重要な原則がある。

「ライシテ? 聞き慣れない言葉だな」と多くの方が思うことだろう。ライシテとは、簡単に訳せば「政教分離」という意味である。

フランスは欧米諸国のなかで最も政教分離が徹底しており、たとえば公立学校で十字架をぶら下げて登校することは禁じられる。キリスト教国なのに、である。イスラームも同様で、ムスリマ(女性のイスラーム教徒)がかぶるヴェールは、フランスの公立学校では着用を禁止される。

このライシテが、ムスリムであるトルコ系移民たちには受け入れられなかったのである。

「え、トルコも政教分離の国じゃなかったの?」と中東事情に詳しい方なら不思議に思われるかもしれない。実はそのとおりなのだが、トルコ系移民はヨーロッパ諸国で疎外感を味わうことで、かえって本国のトルコ人以上に、ムスリムとしての自覚に目覚めるのである。するとどうしても、ライシテに反発を覚えるようになるのだ。

この「移民がかえって本国の人間以上にムスリムとしての自覚に目覚める」というのは、重要なポイントである。日本人でも、長く海外生活を経験することでかえって日本人としてのアイデンティティに目覚めるという人が少なからずいる。それと同じことなのだ。

 

最後に、オランダの場合。

オランダは、ドイツと違って血統主義の国ではなく、またフランスと違って「共和国の理念に忠誠を誓え!」と踏み絵を迫ることもない。多文化主義の国であるため、ムスリムムスリムとして生きていくことが可能である。うむ、ここならば大丈夫だろう……とはやはりいかなかった。

オランダは極めてリベラルな国であり、もはや「なんでもあり」の状態になってしまっている。売春もOK、麻薬もOK。ムスリムとしての自覚に目覚めたトルコ系移民たちには、そうしたなんでもありの(彼らの目からすれば)「堕落した」オランダが許せなかった。かくしてオランダでも、トルコ系移民たちはイスラーム過激派へと流れていったのである。

 

内藤さんは以上のように、ドイツ、フランス、オランダ、いずれの国においても、トルコ系移民は完全には受け入れられなかったことを明らかにするのである。

 

内藤さんのこの仕事の意味は、極めて重大である。

僕は、現下の日本の移民政策に強い懸念を抱く者のひとりである。もし日本に、イスラーム諸国から移民が入ってきたら、どうなるか。やはりドイツのように血統主義を採用している日本では、ムスリムの移民たちは日本社会に完全には統合されず、疎外感を抱くのではあるまいか。

「日本の場合、来るとしたらマレーシアかインドネシアでしょ? 東南アジアは中東と比べて戒律がユルいから大丈夫でしょ~」などと安直に考えるのはご法度だ。上述のとおり、トルコだって政教分離を敷く、戒律のユルいイスラーム教国だった。ところがヨーロッパ諸国にて疎外感を抱いたことで、かえって本国のトルコ人以上にムスリムとしての自覚に目覚めるようになったのである。日本でも同様の事態は、十分に考えられる。

 

日本の将来を考えるうえで、本著は必読の書と言っても決して大袈裟ではないと思う。皆さんも、これを機に本著を是非ひもといてみてほしい。

 

 

書評『子どもたちの階級闘争』

本ブログではここ最近、ライターのブレイディみかこさんの著作をたびたび取り上げている。

ブレグジットに揺れる昨今のイギリスを、「反緊縮」という観点から鮮やかに解説してみせるブレイディさん。てっきり社会学者かなにかかと錯覚してしまうが、彼女の本業は、意外にも保育士なのである。

本日ご紹介する『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』みすず書房は、ブレイディさんがイギリスでの自らの保育士生活をつづったルポルタージュである。

 

本著は、二部構成をとる。第一部では、保守党・キャメロン政権下での緊縮政策のせいでブレイディさんがこれまで勤めてきた託児所が閉鎖されてしまうまでを描く。

第二部では時間をさかのぼって、まだ緊縮政策が実行に移される以前、労働党政権下での同じ託児所を描く。

わざわざ時系列をひっくり返しているのは、どうしてか。その意図は、本著を読むにつれて明らかとなる。

 

時系列にしたがって、まずは第二部の話からはじめるとしよう。

本著にてブレイディさんの描き出す託児所の風景は、カオスそのものである。

なにせ貧しい家の子供たちだから、とにかく育ちが悪い。暴れる子などは当たり前、ひどい場合には子供のくせに人種差別発言まで吐く子もいるというのだから、始末に負えない。

彼らの親たちも、また困り者だ。この場合の「貧しい家」というのは、以前取り上げた労働者階級ともまた異なる。それよりもっと下、働かないで生活保護でかろうじて生きているような、最底辺の人々なのである。

労働者階級ならば、まだ自分の力で働いているぶん、社交性もあるし、労働者としての誇りだってある。彼ら最底辺の人々は、それすらない。もはやほとんど廃人とでも言わんばかりの社会不適合な人々が親となり、子供を育てているのだ。これで子供がまともに育つわけがない。

本著における託児所のカオスを見て、僕は将棋棋士・今泉健司四段の『介護士からプロ棋士へ』を思い出した。今泉四段はプロ棋士になる以前、介護士として介護施設で働いていた。彼の描き出す介護の現場も、やはりイギリスの託児所同様、カオスであった。さすがに人種差別発言を吐く老人はいないが(w)介護士への暴力、施設からの脱走は当たり前。それでも今泉四段は老人たちと交流を重ね、やりがいを感じつつ、日々の仕事をこなしていった。ただ大変なだけの労働では決してなかった。

ブレイディさんもまた、子供たち、親たち、そして同僚たち――この同僚というのがまた曲者である。こういう施設で働く同僚自身、社会不適合者が多いからだ――との交流を通じて、ときに失望し、ときに励まされ、イギリス社会の現実を知っていくのである。

 

さぁ、ここからが第一部の話。

労働党時代の託児所は、このようにカオスな職場でありながらも、どこか温かみがあった。ところが保守党時代になるや一転、緊縮政策によって生活保護などの社会保障費は削減され、それまで託児所を利用していた貧困層は大打撃を受けたのである。

これまで生活保護で暮らしていた彼らは、生活保護を打ち切られたことで、慣れない仕事に従事せざるをえなくなった。彼らの生活はすさみ、子供たちは福祉施設へと引き取られてしまった。彼らの姿は、託児所から消えてしまった。

かわりに入ってきたのが、移民の家族である。彼らはまだイギリスに入って日も浅く、英語すら満足に話せない。英語が話せないということは、保育士が彼らとうまくコミュニケーションをとることができないということである。

託児所も、公的資金援助を打ち切られたため、おもちゃなどを新しく購入することもできない。たかがおもちゃと馬鹿にしてはならない。幼児が積極的に手を動かして遊ぶことによって、その子の知能の成長が促されるからだ。

託児所の空気は変わった。かつての、カオスだけれども暖かみのある空気は消え、冷え冷えとした、殺伐とした空気へと変わっていったのである。

そうしてついに、託児所の閉鎖が決まるのである。第一部は、こうして重苦しい空気のなか、幕を下ろす。

ここでようやく、本著があえて時系列を逆にした意図が理解できるだろう。殺伐とした保守党時代のほうを先に描き、続けて温かみのあった労働党時代を描くことで、保守党政権の緊縮政策の残酷さを浮き彫りにしたかったのである。

 

ウィットに富んだ文章。権威への反抗心と、高い自立心。そして、既存の左右の図式にとらわれることなく、社会にとって真の弱者が誰なのかを見抜く、鋭い洞察力。

ブレイディさんの文章の持つこれらの魅力は、いったい何に由来するのだろう。

ようやく、分かった。実はブレイディさん、元ヤンであるらしいのだ(w

高校時代、貧困家庭ゆえに、校則で禁止されているアルバイトに精を出していた彼女は、教師に「今どきそんな貧しい家庭があるか!」と信じてもらえなかったことに反撥。翌日、髪を金髪に染め、ツンツンに立てながら登校したのだという。

そんな元ヤンだからこそ、反骨精神溢れる、鋭いルポルタージュを著すことができたのだろう。

僕は、自分が元ヤンではないものだから、そういう元ヤンの人たちについ憧れてしまう。尊敬する評論家の宮崎哲弥さんだってそうだ。彼もまた、高校時代は「札付きのワル」だったそうである――今日の彼の風貌からはちょっと想像がつかないが(w

 

元ヤンにして、保育士であり、ライターとしても活躍中の、ブレイディみかこさん。これからも、彼女の動向から目が離せそうにない。

 

 

書評『兼好法師』

日本文学史における「三大随筆」――『枕草子』の作者は清少納言、『方丈記』は鴨長明、そして『徒然草』の作者は吉田兼好

……そう国語の時間に習った。

ところが、その「吉田兼好」なる表記が実は誤りであると衝撃的な主張を展開しているのが、本日ご紹介する『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』中央公論新社である。

タイトルが「吉田兼好」ではなく、「兼好法師」とされているところがポイントだ。

本著は、旧来の常識を否定し、あらためて史料にあたることで、実際の兼好法師の生涯へと迫った書籍である。

著者は、国文学者の小川剛生さん。

 

吉田兼好」が誤りとは、いったいどういうことだろう。

本著の結論を簡潔にまとめて言えば、兼好法師の名の見える吉田家の家系図が実は後世になって捏造(!)されたものであり、吉田神社の神主である吉田家の権威付けのために、当時知名度が上がりつつあった兼好法師家系図に取り込んだというのだ。なんだそりゃ(w

このほか、従来、兼好法師の親・兄弟として伝えられてきた人物も実は赤の他人であり、法師の俗世時代の官職すらもデタラメな情報であったという。

ここまで否定されてしまうと、家系図の「吉田兼好」の情報を前提としてきた従来の兼好研究は、再考を迫られることとなる。

かくして小川さんは、本著にて「吉田兼好」ならぬ「兼好法師」の生涯の再構成に取りかかるのである。

本著において、小川さんはあえて『徒然草』の内容には言及しない。『徒然草』と切り離し、ひとりの歴史上の人物としての兼好法師に迫るためである。

 

本著によると、若き日の兼好――まだ出家してない――は北条氏の家臣・金沢氏に仕える書記であり、鎌倉と京のあいだを往復していたという。

鎌倉幕府が滅亡して後は、京へと活動の拠点を移したようだ。

その京にて、彼は何をしていたか。世をはかなんで出家、ひとり静かな隠遁生活に入ったのだろうか。

実は、そうではなかった。彼は室町幕府の要人たちに接近して重宝されたり、歌人として注目を集めたりもしていたのだ。

本著を読むと、隠者としての兼好法師のイメージが覆される。

これには「遁世」という言葉の意味の違いも関係していよう。今日の我々は「遁世」と聞くと、本当に世間との関係を絶った人、というふうに捉えてしまう。ところが本著によれば、遁世とは身分や格式にとらわれない、「社会の外部」に属する者、いうなればアウトサイダーとして、みずからの才覚を発揮し、有力者の庇護を得てサヴァイヴするという意味であったというのだ。けっして、ただの引きこもりではなかったのである。

本著にはさらに、兼好法師は晩年には歌人としても名を成し、死の直前まで勅撰集への入集に執着していたと書かれている。

「あれ、兼好法師、意外と俗物?(w」という印象すら抱いてしまう。

 

しかしながら、本著を通じて、かえって兼好法師がより魅力的な人物に思えてきたのは、僕だけだろうか。

僕は、フリーダイバーのジャック・マイヨール(1927-2001)を思い出す。

彼の自伝映画『グラン・ブルー』にて、主人公ジャック・マイヨールは孤独な青年として描かれる。対して、ジャン・レノ演じるライバルのエンゾ・モリナーリ――実在のイタリア人ダイバー、エンゾ・マイオルカがモデル――はイタリア人らしくちょっとマザコンの気がある豪傑として描かれる。

孤独なマイヨールと、社交的だがそのせいで俗物っぽくもあるモリナーリ=マイオルカ。いったいどちらが偉大であったか。

映画では、ラスト、モリナーリは事故死。マイヨールが偉大であることが示される。

ところが現実は、逆ではなかったか。マイヨールは2001年に自ら命を絶ち、マイオルカのほうは2016年に85歳でその生涯を全うしたのだ。

マイヨールの兄・ピエールも、自らの著書のなかで、マイオルカのほうが偉大だったと述べているという。

 

話を兼好法師に戻そう。

僕にはマイヨールが従来の隠者としての「吉田兼好」に、そしてモリナーリ=マイオルカが、今回小川さんが再構成してくれた兼好法師に、それぞれダブって見える。

自らの内面世界にこもったマイヨールは、それゆえ傍目からは孤高に見えたかもしれない。一方、社交的なモリナーリ=マイオルカは傍目には俗物に見えたかもしれない。

だが前者は最終的には鬱病を病んで自ら命を絶ち、後者は人々に愛されながら平穏にその生涯を閉じたのである。

兼好法師は、社会とともにあった。ときに有力者に庇護を求め、ときに権威ある歌集に自らの名が残ることを切望した。“俗物”であった彼は、つねに人々とともに生きた。決して、自らの内面世界に引きこもっていたわけではなかった。

僕はそこにこそむしろ、マイオルカ=兼好法師の健全さ、そして偉大さを見る思いがするのである。

 

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)

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最近見た映画の感想(第277回)

・『天安門、恋人たち』

1980年代から2000年代にかけての、中国の青年たちを描いた作品である。

タイトルに「天安門」とあるとおり、本作ではかの89年の天安門事件も描かれる。が、それはメインテーマではなく、あくまで主人公たちの青春に影を落とすひとつの歴史的事件、バックグラウンドに留まる。

本作を見ていると、この時代の中国が日に日に経済成長を遂げていく様子を実感でき、とても興味深い。

主人公格の女は、なんというか、いかにもフランソワ・トリュフォー監督の作品に出てきそうなメンドクサ~イ性格の女で、「あぁ、こんな女と付きあうのはヤだな……」と若干滅入りながら本作を見ていた(;^_^A

セックスシーンがやや多めなので、男性諸君、刮目して見よ(w

 

 

・『活きる』

これまた中国映画である。こちらは、1940年代から60年代にかけての、中国の一家族を描いた歴史モノの作品だ。監督は、『初恋のきた道』で有名な、チャン・イーモウ

1940年代。主人公の男はそのギャンブル癖ゆえに先祖代々の屋敷を手放す羽目になる。影絵芸人として人生を再出発させた彼は、時の国共内戦に翻弄されるものの、なんとかして故郷へと帰還する。そこで彼を待ち受けていたのは、彼のかつての屋敷の新しい主人――主人公から屋敷を買い取った男――が地主と勘違いされ共産党軍によって処刑されるという、なんとも皮肉な現実であった。

1950年代。主人公の息子が成長し、学校に通う年齢となった。ところが時の大躍進運動のため製鉄の現場へと動員された息子は、そこで運悪く交通事故に遭い、命を落としてしまう。しかも運転していたのは、主人公の影絵芸人時代の部下であった。これまた皮肉な現実が、主人公一家を苦しめる。

1960年代。主人公の娘が若い共産党員と結婚、出産に臨む。ところが時代は文化大革命の真っ只中。娘が担ぎこまれた病院には、なんと産婦人科の医師がひとりもいないというではないか。急いで連れてきた医師も、何日間もなにも口にしていなかったせいで饅頭を喉に詰まらせてしまい、まるで使い物にならない。そうこうしているうちに娘は出産後の出血が止まらず、死亡してしまう。主人公一家のもとに、忘れ形見の男児が残される。

ラスト。主人公夫婦は娘婿と男児とともに、息子と娘の墓参りをする。将来はもっと良い時代になる――みずからに言い聞かせるように男児に語りかけながら。

人間万事塞翁が馬と言うとおり、世の中、何が災いするか分からない。主人公夫婦は、あのとき息子を学校に行かせていなければ、あのとき医師に饅頭を与えていなければ、と後悔する。だがそんな主人公がこれまで生きてこられたのは、博打で屋敷を失ったおかげなのである。本当に、何が幸いか分かったものではない。

僕はここに、中国の伝統を見出す。『史記』はじめ中国の夥しい数の歴史書は、このような皮肉な物語に事欠かないからだ。

1940~60年代にかけての中国の農村の実態が分かるのも、本作の魅力のひとつ。国共内戦大躍進運動、そして文化大革命……。本作の主人公一家を見舞ったような悲劇は、当時の中国のいたるところで見受けられたのだろう。

 

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・『イノセント』

『ベニスに死す』で有名なルキノ・ヴィスコンティ監督による、文芸路線の映画。

19世紀イタリアの上流社会を舞台に、主人公の貴族の不倫と、その悲劇的な末路を描く。

ヴィスコンティ監督の映像はつねに重厚で、気品に満ちている。ひさしぶりに、フィルムを通じて“文学”を堪能したな、と感じた。

 

イノセント ルキーノ・ヴィスコンティ Blu-ray

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・『パシフィック・リム アップライジング』

以前取り上げた『パシフィック・リム』の続編である。

人類は「カイジュウ」との戦いに勝利、世界はようやく平和を取り戻したかに思われた。ところが、人間の操作する巨大ロボット「イェーガー」にナゾの有機体が侵食、暴走をはじめる。人類の前に、また新たなる強敵が出現してしまった。

……とまぁ、だいたいこんな内容の本作――『エヴァンゲリオン』の影響を受けてるのかな、やっぱり――、終盤にて、人類存亡の鍵を握るレアアースがなんと富士山の内部に存在することが判明。かくして富士山を背に、東京にて一大決戦と相成る。

この戦いがスゴイ。高層ビル群が戦いに巻き込まれ、どんどん破壊されていく(w)。これではもはや、どちらが破壊者か分かったものではないw(;^ω^)

かつて少年時代、『ドラゴンボールZ』にてZ戦士たちが「オラが地球を守る!」とか言うわりには、戦闘過程で地球環境をがんがんぶっ壊していくのを見て、「お前らのほうが地球滅ぼしてんじゃん!」と義憤に駆られたものだが(w)、本作を見てひさびさにそれを思い出してしまった(w

 

 

・『エクス・マキナ

IT企業に勤務する、主人公の男。ひょんなことから同社社長の自宅を訪問する機会に恵まれる。

社長宅は豊かな自然に囲まれた山岳地帯にあり、社長はそこでなんと、AI搭載のロボットの研究を行っていた。主人公が目にした女性型ロボットは、本物の女性かと見紛うほどである。

主人公はこの社長宅にて、AIが本当に生身の人間と同様のコミュニケーションができるのかをテストする実験に協力させられる。

だが、あまりに人間に近すぎるAIロボットを見て、主人公は次第に「そもそも、人間とは何なのか。自分は本当に人間なのか」との疑念にとらわれはじめる。彼の精神は、徐々に変調をきたしていく……。

という内容の、SFサスペンスである。主人公に実験参加をなかば強要する社長が、いかにもスティーブ・ジョブズないしイーロン・マスク的な「有能なんだけどサイコパスっぽい」経営者で、「あぁ、こういう社長なら社員にこんな実験やらせるだろうな」と妙に納得してしまった(w

スタイリッシュな映像と低音を基調とするBGMも、静かだけれども強い印象を、我々に残す。

 

エクス・マキナ (字幕版)
 

 

書評『魏志倭人伝の謎を解く』

どの国にも、我々現代人を魅了してやまない「古代史のロマン」は、当然ある。

中国の場合であれば、それは「伝説の夏王朝は実在したか否か」であろうし、わが国の場合であれば、それは「邪馬台国はどこに存在したか」となろう。

周知のとおり、女王・卑弥呼が治めていたという古代国家・邪馬台国については、今日の近畿地方に存在したという説と、北九州にあったという説、ふたつが対立している。いったい、邪馬台国はどちらに存在したのだろう。

 

本日ご紹介する本は、『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国中央公論新社。著者は、中国古代史がご専門の、渡邉義浩さんだ。

……そう、“中国”古代史というところがポイントである。本著の特色は、本来中国古代史を専門とする渡邉さんが、中国の歴史書儒教思想の知識を駆使することで、邪馬台国がどちらに存在したのかを論じるという、一風変わった点にこそある。

日本古代史ではなく、あえて中国古代史の専門家が邪馬台国の問題に取り組むことで、今までの論争では明らかにされてこなかった点も明確になる、というわけなのである。

 

本著において、渡邉さんが最も強調しているポイント――それは、「魏志倭人伝」における邪馬台国の記述は、当時の中国の政治状況ないし儒教的価値観にかなりの程度左右されているという事実である。

どういうことだろう。

今日の歴史学と古代中国における歴史学の最大の違いは何か。それは、当時の歴史学はまだ儒教と完全には分離しておらず、歴史書は当然、皇帝の徳を称えるべきものと考えられていた点にある。

そもそも魏の歴史書である『魏志』のなかに「倭人伝」が書かれたのは、どうしてか。それは邪馬台国が魏に朝貢してきたからであり、その邪馬台国について歴史書で言及することは、これすなわち魏の皇帝の徳を称えることにつながるからである。

けっして、「魏志倭人伝」著者が日本に個人的に親近感を抱いていたから、などという理由からではないのだ。この点に、まずは留意してほしい。

最近、「魏志倭人伝」のなかに当時の日本人に好意的な記述があることをそれこそ好意的に紹介した“日本通史”がベストセラーになっていると聞くが、そうした見方はあまりにナイーブにすぎるというほかあるまい。

 

魏志』とは、その名のとおり三国志の国のひとつ、魏の国の歴史を扱った歴史書である。そのなかで倭人について触れた箇所が、今日「魏志倭人伝」として知られている。

呉、蜀という強大な敵国に直面し、魏は、みずからの朝貢国=同盟国となりうる外国を探していた。

そのひとつが、中国のはるか西方、中央アジアに存在した大国「大月氏国」である。今日、「クシャーナ朝」の名で知られるこのインドの王朝は、魏の朝貢国であった。そして魏は、同様に朝貢国=同盟国となりうる大国を、東方にも求めたのである。

それが邪馬台国だった、というわけなのだ。

魏志倭人伝」において、邪馬台国は実際の日本列島の位置よりも南のほうに存在するとされた。そのせいで、そこに住む倭人たちの習俗も南方っぽく描かれたわけだが、どうして南寄りに設定されたのだろう。

それは、この位置に同盟国・邪馬台国を置くことによって呉の国を挟み撃ちにできるからである。さきほど「邪馬台国の記述は、当時の中国の政治状況」に左右されると書いたのは、具体的にはこういう意味なのだ。

このようなリアリスティックな動機から、歴史書魏志倭人伝」は執筆されたのである。

 

さて、そろそろ本題の「邪馬台国は近畿、北九州、いったいどちらにあったのか」論争に戻るとしよう。

本著の終章にて、渡邉さんはこの問題について本格的に検討している。そうして彼が下した結論は……。

あっ、これは本著を読むまでのお楽しみ♪、としたほうがいいのかな?(w

それでもまぁ、ある程度まではネタバレをしてしまおう。本著を読むと「あぁ、やっぱり、〇〇説のほうが有力なんだ」と分かるのである。

渡邉さんは本著のなかで、従来、〇〇説の弱点とされてきた邪馬台国の距離に関する記述について、それは「魏志倭人伝」著者が当時の儒教の世界観に基づいて記述したからであって――こういうところが中国史を専門としない日本史の研究者にとっては盲点なのだろう――必ずしも〇〇説の弱点とはならない、と指摘している。

そのほかにも彼は、「魏志倭人伝」の数々の記述や、近年の考古学的発見も視野に入れつつ、やはり有力視されるべきは〇〇説のほうだと結論づけるのである。

……おっと、いかんいかん、歴史好きの人にとってはもはやほとんどネタバレを言っているに等しいかな?(w

 

日本史好きの方にも、中国史好きの方にも、そしてなにより三国志が大好きという方にとっても(w)、本著はオススメの一冊である。

皆さんも、本著を読んで古代邪馬台国へとタイムスリップしてみないか?

 

魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書)

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