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Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『野蛮人のテーブルマナー』

元外交官にして作家という異色の経歴を持つ、佐藤優さん。

今日ご紹介するのは、彼の著書『野蛮人のテーブルマナー』講談社だ。

 

この本のなかで主に語られるのはやはり、佐藤さんの専門分野(のひとつ)である、インテリジェンス(諜報活動)だ。

インテリジェンスには、当然ながら特殊なスキルが多く求められる。そのひとつが、記憶術だ。

佐藤さんは、記憶術を鍛えるにあたって、はじめのうちは『百人一首』や宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、慣れてきたら夏目漱石の『ころ』や『それから』を全文暗記(!)することを推奨している。

佐藤さん自身は、『ころ』をなんと約1ヶ月で暗記してしまったというから驚きだ。

やはり、「外務省のラスプーチン」、ただ者ではなかった…(いや分かってはいましたけどねw)

 

さて、本著のなかで一番面白いと感じたのは、AVについての話である。

ーえ、AV!?

そうなのだ(w)

さっきまで記憶術うんぬんの話をしていたのに、唐突にAVの話になるものだから、読んでいて面食らってしまう。

だが、著者の佐藤さんにとっては、決して「唐突」な論理展開などではないのだ。AVは政治と、ちゃんと繋がっているのである。

佐藤さんはこう述べている。

≪AV女優のなかで「余人をもって代えがたい」というようなアイドルを作ると「癌細胞」になり、システムが内部から崩れる危険性があるので、あえてそれを作らないという経験知がAV業界に存在する。これは他の分野にも応用できる。霞が関官僚の世界では、「自分しかこの仕事はできない」と考える者がなかなか権限を手放そうとしないので、「癌細胞」と化しているのである。(中略)AV業界の実情を編集者の小峯隆生氏から聞くうちに、霞が関官僚の問題が筆者には見えてきたのだ。≫(99‐100頁)

 

物書きという仕事をやっていて、一番「やりがい」を感じるのは、どういうときか。

それは、一見無関係のように思えるふたつの事象を取り上げ、両者の間にある類似点を指摘するときである。

佐藤さんは本著のなかで、大胆にもAVと霞が関とを結び付けている。

その手管に、読者は喝采を送るのだ。

 

うーん、やっぱり、佐藤優って、面白いなぁ。

 

完全版 野蛮人のテーブルマナー

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最近見た映画の感想(第152回)

・『追悼のメロディ』

ジャン=ポール・ベルモンド主演のフランスのサスペンス映画。

冤罪で逮捕された主人公が、自らを嵌めた真犯人を暴こうと、事件の真相に迫っていく。

本作は、時系列をあえてシャッフルし、現在と過去を交錯させながら描いているので、ややストーリーを追いづらいかもしれない。

冒頭、久しぶりにシャバへと帰ってきた主人公が、急速な街の変化に驚く場面が印象に残る。

否、街の変化というよりかは、社会そのものの変化といったほうが適切だろう。戦後の高度経済成長により、フランス社会もまた大きく変質したのである。

この点、ポン・ジュノ監督の韓国映画殺人の追憶』と似ているともいえる。

 

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・『デストラップ 死の罠』

落ち目の脚本家の主人公。

ある日、かつての教え子である若手脚本家の戯曲を見た主人公は、その質の高さに驚き、なんと教え子を殺害して戯曲を自分名義で発表してしまおうと画策する。妻とグルになって、教え子を自宅に招き、スキを見てその首を絞めた主人公であったが…

全編、どんでん返しに次ぐどんでん返しで、先の展開を予見することがまったく不可能である。これぞミステリーの醍醐味というべきか。

若手脚本家を演じるクリストファー・リーヴは、ご存じのとおり映画『スーパーマン(1978年)で主人公クラーク・ケント=スーパーマンを演じた役者さんである。

そのまぶしいほどのイケメンぶりに、同性ながら目を見張ってしまった(;^ω^)

 

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・『ヤング・シャーロック ピラミッドの謎』

かの名探偵シャーロック・ホームズとその相棒ワトソンが、もし少年時代に出会っていたら…というコンセプトでつくられた、全年齢対象のエンターテインメント作品。製作総指揮はあのスティーブン・スピルバーグだ。

19世紀のイギリス。ワトソン少年は全寮制の寄宿学校にて、聡明利発なホームズ少年と知り合い、友人となる。

そのころロンドンでは、謎の毒針のせいで幻覚症状に苛まれ、狂乱のはてに死亡するという殺人事件が立て続けに発生していた。ホームズとワトソンは事件の捜査を進めるうちに、エジプトの邪教集団が事件に関係していることを突き止める…。

ホームズを主人公とする最近の映像作品には、ホームズとワトソンのBL的な関係性に焦点を当てたものが多いがー映画『シャーロック・ホームズ』とかドラマ『SHERLOCK(シャーロック)』とかー本作はなにぶん少年時代のふたりが主人公なので(w)、当然ふたりの関係も子供同士の友情の域を出ず、ほほえましいものである。

本作はエンドクレジットの後に重要なシーンがあるので、くれぐれも見逃すことのなきやう。

 

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・『ディック・トレイシー

本作は、同名の人気アメコミを映画化したもの。

そのため、アメコミ特有の、原色をふんだんにあしらった強烈な色彩感覚が、この映画の一番の見どころとなっている(ストーリー自体は、わりとありがちなギャング映画だ)

本作のヴィラン(悪役)は、おなじみアル・パチーノ。特殊メイクのせいで、やつれて顔色の悪いギャングの親玉になっており、なんだか『ヒトラー~最後の12日間~』におけるヒトラーのようだ。

一方、本作の華ともいえるのが、マドンナ。彼女の歌声をバックにアクションが描かれるシークエンスは、まさに「1930年代ここにあり」といった印象だ。

さて、要所要所で現れるのが、覆面をかぶった謎の人物。ラストでこの人物の意外すぎる正体が明らかにされる。それが誰なのかは、実際に本作を見て確かめてね。

 

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・『ハードカバー 黒衣の死者』

猟奇的な小説を熱心に読む、主人公の女性。

するとどうだろう。小説のなかでの出来事のはずの残忍な殺人事件が、そっくりそのまま現実世界でも発生しているではないか!

フィクションと現実の境界が徐々に融解していくという、村上春樹作品にも通じる内容のホラー映画である。

終盤、VFXを駆使した特撮映像が見られて面白い。

まだCG技術が一般的でなかった時代の作品のほうが、かえってクリエイターたちの創意工夫が感じられて面白いと感じるのは、僕だけだろうか。

 

 

最近見た映画の感想(第151回)

・『フリッパー』

イライジャ・ウッド演じる主人公の少年。フロリダの伯父の家に預けられている間にイルカと知り合い、友達になる。

そんな彼らの友情を邪魔するかのように、イルカを狩ろうとする日本の調査捕鯨船…じゃなかった(w)、村のならず者たちが現れる。

ならず者どもの横暴許すまじ、と少年はイルカとともに立ち上がる。

終盤、サメに襲われそうになるも、サメの脇腹をチョンチョンとつついて撃退するイルカが、またなんとも可愛いw

全編にわたって、イライジャ・ウッドの瞳とフロリダの海、それぞれの青さが印象に残った一作であった。

 

 

・『マーティ』

僕自身、30を過ぎたからよく分かるが、人間、30歳になるとどうしても、結婚、結婚、と周囲がうるさくなる。

本作の主人公・マーティも、34歳。案の定「どうして結婚しないの?」との周囲の声に煩わされている。

そんな彼も、ある日、オールドミスの女性と知り合い、結構イイ感じになっていく…。

アラサーの男女諸君には「分かるわぁ~」と共感できるところの多い映画だろう。

全編にわたって、市井の人々の何気ない日常が描かれていて、好感が持てる。

ただし、本作にはひとつだけ、欠点がある。

主人公マーティが全然ブ男に見えないことだ!(w

僕自身が同性の目を通じて見ているから、というのもあるのかもしれない。マーティはたしかにイケメンではないだろうが、決してブサイクとは思わない。むしろ年季の入った、なかなかに良い歳のとりかたをした男性だと僕は思っているのだが、さて皆さんはどう思われるだろうか。

 

 

・『慕情』

国共内戦まっただなかの、1949年の香港。妻子のあるアメリカ人ジャーナリストと、英中のハーフの女性との不倫のロマンスを描く。

…といっても、ロマンスそのものはわりとありがちな話で、すくなくとも僕はあまり興味がもてなかった。

それよりもむしろ、1950年前後の香港の街並みのほうが僕にとってははるかに興味深かった(本作公開は1955年)

冒頭にて香港の空撮シーンがあるが、おどろくべきことに高層ビルがひとつも見当たらない

どれもこれもせいぜい4~5階建ての低層建築ばかりである。香港名物・摩天楼にすっかり慣れきった現代の僕らには、とても新鮮に映る光景だ。

本作では、国共内戦当時の外国人コミュニティーの空気などもうかがい知ることができ、これまた実に興味深い。

 

 

・『マイ・フレンド・フォーエバー』

米南部の田舎町を舞台に、主人公の少年と彼のエイズの友人のふたりが家を飛び出し、名医のいるというニューオーリンズへ向け旅に出る。

友人はエイズに苦しめられ余命いくばくもないが、本作は基本的にさわやかなタッチの青春映画であり、あまり悲壮感を感じさせないところが良い。

中盤、友人は主人公の少年に、宇宙の果てについて語る。

死を前にしたとき、人間は宇宙について、無限について、思考をめぐらせる。

個人的に、本作で最も印象に残った場面だった。

 

 

・『迷子の大人たち』

20世紀イタリア映画界を代表する名優、マルチェロ・マストロヤンニを主演に迎えたアメリカ映画(イタリア映画じゃないよ)

1960年代のNY。長年連れ添った夫を喪った主人公の女性。そんな彼女の前に、マストロヤンニ扮するイタリア男が現れる。男は、夫の友人の元バーテンダーであり、なんと、ずっと彼女に片思いをしていたという。突然の“告白”に驚く女性。

最初は謎の人物に思われたイタリア男だったが、次第に彼の存在のおかげで、主人公やその家族たちが幸せになっていく。男はあたかも、民俗学におけるマレビトのようだ。

アメリカ映画なんだけれども、ヨーロッパ映画的なペーソスに満ちた、大人の映画だ。

 

迷子の大人たち [DVD]

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書評『新・帝国主義の時代 左巻 情勢分析篇』

先日は、作家の佐藤優さんの著書『新・帝国主義の時代 右巻 日本の針路篇』(中央公論新社)をご紹介した。今日取り上げるのは、その姉妹版『新・帝国主義の時代 左巻 情勢分析篇』中央公論新社だ。

 

さて、「右巻」「左巻」とは、なにやら聞き慣れない言葉である。普通こういう場合、「上巻」「下巻」と呼ばないか?

 

佐藤さんの著作には、このほかにも「右巻」「左巻」と名付けられたものがいくつかある。

これについて、あるとき僕の友人が興奮気味に、こう語ってくれたのをよく覚えている。

「右巻、左巻ってヘンな言い方だなぁと思ってたんですけどぉ、ある時ふと気づいちゃったんですよぉ! 右巻は右翼むけに書かれた内容の本で、左巻のほうは左翼むけに書かれた内容なんですよぉ!w スゴイと思いませんかぁ!ww さすが左右両方に明るい佐藤優ならではですよねぇ!!wwwwwwww」

…真偽のほどは定かではないが(;^ω^)、なるほどたしかに、本著を読むと「あぁ、なんか左翼が喜びそうな本だなぁ」という気がしてくる。

 

先日ご紹介した右巻のほうは、佐藤さんが得意のインテリジェンスの考え方を応用して、現下の国際情勢を分析する、という内容の本だった。

左巻のほうも、基本的な性質こそ変わらないものの、前半部分でやや集中的に、マルクス主義ファシズムに関する佐藤さんの考察が披露されるのだ。

そのため、国際情勢よりかはむしろ思想の話のほうが好き、という読者にとっては、右巻よりもこの左巻のほうが面白いと思えるかもしれない。

 

佐藤さんは、「帝国主義」と「ファシズム」というふたつの用語について、まずは「悪魔祓い」をする必要がある、と書いている。

このふたつの言葉は、もっぱら左翼が論敵を罵倒する際に用いられる。だが本来は、きちんとした意味のある言葉なのだ。

佐藤さんは、これらの言葉の定義から見つめなおし、現下の世界を分析するためのツールとして活用しようとしている。

 

本著(の下敷きとなった連載)が書かれたのは、2009年から2013年にかけてのこと。2009年には、周知のとおり、米国でオバマ大統領が誕生した。

佐藤さんはこのオバマ大統領と、意外にも、戦前イタリアのムッソリーニとの近接性について論じている。

リベラルも保守もない、黒人も白人もない、あるのはアメリカ合衆国だけだ、というオバマの演説に、佐藤さんはファシズムに通じるものを見出したのである。

 

佐藤さんは、ファシズムという用語の悪魔祓いとともに、ファシズムとナチズムの違いについても注目するよう読者に促している。これは重要な箇所なので、少し長いが引用する。

ベニト・ムッソリーニ総帥(ドゥーチェ)によって展開されたファシズム(fascismo)と、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統(フューラー)が始動したナチズム(Nationalsozialismus)を混同してはならない。ナチズムはドイツ人を中核とするアーリア人種の優越性という荒唐無稽な人種神話を基礎とする運動だ。(中略)これに対して、一九二〇年代にムッソリーニによって展開されたイタリアのファシズムははるかに知的に洗練された運動だった。その目的は、マルクス主義に基づく社会主義革命を排除しつつ、自由主義的資本主義がもたらした失業、貧困、格差などの社会問題を、国家が社会に介入することによって解決することを提唱した。≫(30頁)

ファシズムははるかに知的に洗練された運動だった」という佐藤さんの言葉を、我々は重く受け止めなければならない。

支持する、しないにかかわらず、我々はまずファシズムという思想を知るところから始めなければならない。そしてファシズムとナチズムの違いについてもまた、知る必要があるだろう。

ムッソリーニは、ただのヒトラーの子分ではないのである。

 

このほかに、本著のなかで面白かった箇所。北方領土問題に疎いバカな政治家をいかにして官僚は懐柔するか、という話は抱腹絶倒モノだった。

これは、≪官僚はいかに政治家に対応するか≫というタイトルがつけられた章、ページで言うと368ページから370ページにかけて載っているので、興味のある方はぜひ読んでみてほしい。

まさに、外交は言葉の芸術。

この場合の「外交」は、国家間だけでなく、官僚と政治家という人間同士での社交も含んでいる。

ちなみに僕は、漫画『さよなら絶望先生』における、「編集者はいかにしてツマラナイ漫画家の連載をオブラートにくるみながら打ち切るか」というネタを思い出しながら、この章を読んだのだった。

 

新・帝国主義の時代 - 左巻 情勢分析篇
 

 

書評『新・帝国主義の時代 右巻 日本の針路篇』

 元外交官にして作家という異色の経歴を持つ、佐藤優さん。

今日ご紹介するのは彼の著書『新・帝国主義の時代 右巻 日本の針路篇』中央公論新社だ。

佐藤さんの他の著作と同様、本著も書き下ろしではなく、佐藤さんの雑誌での連作をまとめて書籍化したものである。

 

本著、ならびにその続編である『新・帝国主義の時代 左巻~』―これについてはまた後日レビューを書く―は、おおまかに、日本がこれから先、アメリカ、ロシア、中国とどう接すべきかについて論じた著作だ。

タイトルにある「新帝国主義」とは、佐藤さんの考えによれば、現代の世界を秩序づけている思想である。

「新冷戦」が叫ばれるようになって久しい。だが佐藤さんは、現下の国際情勢の緊張は、冷戦というよりかはむしろ、それ以前の帝国主義の再来、と考えたほうが良いという。

理由は、イデオロギーの対立ではないからである。冷戦時代は、資本主義と共産主義というふたつのイデオロギーが対立した。

今はそうではない。複数の大国が、自らの国益のみを考え、行動するのである。そこにイデオロギーが顔を出す余地はない。

このような弱肉強食の国際システムは、19世紀末ー20世紀初頭の帝国主義の時代と似ている。ゆえに佐藤さんは、現下の国際秩序を「新帝国主義」と名付け、本著のタイトルとしているのである。

 

佐藤さんは、現下の新帝国主義のアクター(行動主体)を、以下の5つと見ているようだ。

すなわち、アメリカ、EU(欧州諸国は一国ではなく複数あつまってひとつの新帝国主義のアクターを形成している)、ロシア、中国、そして日本である。

佐藤さんは、欧州諸国とは異なり、日本は一国のみで新帝国主義のアクターになれると考えているようだ。

このうち、日本にとってもっとも脅威となりうるアクターは、中国である。

なぜか。

 

中国は現在、前近代的な意味での帝国から現代的な意味での帝国へと脱皮する過程にあるからだ。

 

前近代において、帝国とは、複数の民族が共存する国家体制のことを指した。

これに対し、近代以降は国民国家の時代である。現在の(新)帝国主義国は、この国民国家のシステムを基盤としている。

人々をひとつに束ねるにあたって、一番手っ取り早いのは、「敵」を設定することだ。

―そう、国民国家は敵を必要とする。

フィンランドにとってはロシアがそうであり、アイルランドにとってはイギリスイングランドがそうである。

中国の場合、我々にとって残念なことではあるが、それは日本となってしまったのだ。

ひとたび敵として日本が設定されてしまえば、どんなに日中間で経済協力が深化したとしても、「日本=敵」という基本的な構図が変わることはない、と佐藤さんは言う。

我々日本人、とりわけ中国で事業を展開するビジネスパーソンたちにとっては絶望的な見方だが、佐藤さんの言う通りだと僕も思う。

いたずらに脅威を煽るべきではない。が、日本はやはり中国を警戒すべきである。

 

新・帝国主義の時代 - 右巻 日本の針路篇
 

 

書評『地球外生命 われわれは孤独か』

先日、土星の衛星エンケラドゥスにて水素が検出されたというニュースを取り上げた

水素があれば、微生物がこれをエネルギー源として活用し、生命活動を維持できる可能性がある。地球外生命存在の可能性が出てきたわけだ。

太陽系だけではない。今年2月、TRAPPIST-1という赤色矮星にて地球サイズの系外惑星が7個発見された。

そのうちの3個は、水が液体として存在できる「ハビタブルゾーン」に位置していると考えられており、生命が存在する可能性すらある。

 

従来はSFのなかの存在にすぎなかった地球外生命が、いよいよ発見される可能性が高まってきた。

今日ご紹介する本は、『地球外生命-われわれは孤独か』岩波書店

生物学者の長沼毅さんと、天文学者の井田茂さんによる共著である。井田茂さんについては、先日このブログでも著書を取り上げたばかりだ

 

本著は大まかに、ふたつのパートに分けられる。

前半ではまず長沼さんが「そもそも生物とは何か」について解説。後半、井田さんが地球以外で生命が存在しうる天体をひとつひとつリストアップし、それぞれの星における生命存在の可能性を議論していく。

 

前半の長沼さんの解説のなかで驚いたのが、地球生命は火星起源の可能性あり、という箇所だ。

地球には今でこそ複数の大陸が存在しているが、誕生当時は一面、海洋で覆われていたと考えられるという。

大陸がないと、さてどうなるか。

大陸からは生命にとって必要なミネラルが、雨や川などの作用により海洋へと流れ込んでおり、これが生命を生む原動力となった。

もし大陸がなければミネラルは海洋に流れ込まず、生命の誕生は難しくなったかもしれないのだ。

一方、太古の火星には液体の水が存在したことが確実である。しかも地球ほど量は多くなく、海というよりかは浅瀬のような環境であったと考えられるという。

このような環境ならば、ミネラルが水中へと豊富に流れ込み、生命が誕生する可能性だって十分に考えられるのだ。

 

かりに、このように火星で生命が誕生したとして、ではどうやって生命は地球へと「惑星間旅行」をしたのだろう。

それは、隕石である。

火星の岩石が、隕石というかたちで地球へと飛来したのだ。その隕石のなかに生命が潜んでいれば、彼らは地球へと無事到着することができる。

なんだか夢物語のようにも思えるが、火星由来の隕石は実際に地球で見つかっている。

可能性は、十分にあるのだ。

現在、実業家のイーロン・マスク氏が火星への有人飛行計画を提唱しているが、もしこの生命火星起源説が正しいとするなら、彼は火星に「行く」のではなく、「帰る」と表現したほうが適切なのかもしれない。

 

後半では井田さんが、太陽系において生命の存在しうる天体ーすなわち火星、木星の衛星エウロパ、ガニメデ、そして土星の衛星タイタンとエンケラドゥスについて解説していく。

やはり今話題のエンケラドゥスが、このなかでは最も生命存在の可能性が高いようだ。

≪エンケラドスには、液体の水、有機物、熱源という生命に必要と考えられる条件がそろっています。このような三拍子そろっている天体は、地球以外では今のところエンケラドスしかありません。エンケラドスこそ、地球外生命探査の大本命ーーそう考える人もたくさんいます。≫(143頁)

一方、もうひとつの土星の衛星タイタンでは、水ではなく液体メタンを触媒として生命が誕生する可能性が考えられるという。個人的にはむしろ、こちらのタイプの生命のほうが見てみたいな、と思う。

 

井田さんはさらに、太陽系を飛び出して、前述のTRAPPIST-1系のような惑星系についても、生命存在の可能性を検討する。

TRAPPIST-1のような赤色矮星では、惑星はそのすぐ近くを周回していると考えられー実際、TRAPPIST-1系はそうであるーそのような惑星は「潮汐固定」(tidal locking)なる天文現象により、つねに同じ面を恒星に向けていると考えられる(月と同じである)

赤色矮星からはまた、強いX線や放射線、それに赤外線なども放出されている。

系外惑星のなかにはさらに、全表面にわたって、深さ100㎞にもわたる海洋が存在する、いわゆる「オーシャン・プラネット」もあるかもしれない。

このように、地球と大きく異なる環境の系外惑星では、たとえ水を利用するタイプの生命であっても、地球とはだいぶ異なる形態の生き物が考えられる。

たとえば、赤色矮星から豊富に供給される赤外線を光合成に利用する植物が考えられる。

オーシャン・プラネットでは、イルカのように視覚よりも聴覚が発達した生命も考えられる。水中では聴覚のほうが頼りになるからだ。

このように、地球外生命についてあれこれと想像力をめぐらせるのは、なんとも愉快で知的刺激に富んだ作業である。

 

本著の副題は、「われわれは孤独か」

現時点ではまだ、この問いに答えることはできない。

が、僕の個人的な予想を述べさせてもらえば、我々地球人は地球外生命を発見できると信じている。それも“今世紀”のうちに。

 

地球外生命――われわれは孤独か (岩波新書)

地球外生命――われわれは孤独か (岩波新書)

 

 

書評『「瑞穂の国」の資本主義』

先日はリベラルの佐々木俊尚さんの著作を取り上げたから、今日は保守の論客の著作をご紹介するとしようか。

 

日夜、twitter上で精力的に情報を発信し、他のユーザーとさかんに議論も交わしているのが、経済評論家の渡邉哲也さんだ。

今日ご紹介するのは、そんな渡邉さんの著作『「瑞穂の国」の資本主義』(PHP研究所)。従来の金融主導のグローバル経済からの決別を訴えた本だ。

タイトルにある「瑞穂の国」とは、僕たちが暮らすこの日本のこと。残念なことに某左派政党の前党首の名前が同様に瑞穂であったが、この点はスルーするとしよう。

 

例によって、個人的に面白いと思った箇所をいくつか取り上げてみる。

佐々木俊尚さんの『21世紀の自由論』では、日本型リベラルーあるいはカタカナ表記でのサヨクが冒頭にて仮借なく批判されていた。渡邉さんもまた、こうした日本型リベラルを強く批判する。

≪本来、「右」や「左」とは、国家の利益に基づく左右論、すなわち国益を軸にして規定されるべきものである。基本的に国益を重んじ、日本の自存自衛や権利を守るため、また国民生活が豊かであるために、右寄りがいいのか、左寄りがいいのかという観点から政策を定めるのが、政治の役目である。その意味で、国益を害するような勢力は右でも左でもなく、単なるアナーキストや破滅論者であると言ってよい。こうした勢力をリベラルと定義していることが、第一の誤りだ。≫(160頁)

はじめに、国益ありき。その国益を増大させるための政策を議論する段階ではじめて、右と左に分かれるのである。

渡邉さんは≪政策そのものを右寄りや左寄りに転換させることは、その時代に国民が置かれている環境や条件によって自由に行えるべきであり、そのなかで最適解を導き出していくことが政治の重要な役割≫(160頁)だとしている。

ここから、僕たちは重要な知見を得ることができる。

右と左、あるいは保守とリベラルというのは案外、僕たちが思っているほど「水と油」のような相容れない存在なのではなく、もっと近い存在、根本的なところでは通底する存在なのである。

 

国語教育の重要性を訴えた箇所も興味深かった。

≪「グローバル化=英語能力」などとバカなことを言う経営者もいるが、実際はどのような言葉であってもかまわないので、まず自ら第一言語で思考する、物事を考える能力を育てることが重要なのである。≫226頁)

ここは、以前このブログでも取り上げた佐藤優さんの『知性とは何か』とも共通する主張である。

僕ならばコンピューターのたとえを用いるところだ。外国語がアプリケーションだとすれば、母語はOSなのである。どんなにアプリケーション(=外国語)を大量にダウンロードしたところで、OS(=母語が安定していなければうまく動作しないのは必定であろう。

僕たちはまず、母語ー僕たちの場合、それは当然日本語であるーを運用する能力を高めるところから始めないといけないのだ。

 

巻末、渡邉さんは大型店舗の出店に伴う地方商店街の衰退を取り上げ、地域産業の振興の必要性を訴えている(ただし、経営努力を怠った商店街の経営者たちに対しては渡邉さんは批判的である)

僕たちは「保守」と聞くとどうしても、靖国尖閣、それにいわゆる「従軍慰安婦」の問題ばかりを連想してしまう。

たしかにそれも重要なイシューだろう。だが、まずはもっと身近なところから考えるべきではないか。

保守とは本来、もっと身近な概念のはずである。

 

「瑞穂の国」の資本主義

「瑞穂の国」の資本主義