Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

最近見た映画の感想(第265回)

・『幽閉者』

本ブログではここ最近、若松孝二監督の作品を集中的に取りあげている。本日の一発目はそんな若松監督……ではなく(w)、彼の盟友であった足立正生監督による作品である。

おそらくはイスラエルをモデルにしたと思しき、中東の架空の国家。そこで、主人公の日本人テロリストが逮捕されてしまう。

逮捕当初こそ自ら「無名戦士」を名乗り、強い矜持を抱いていた彼であったが、連日にわたる尋問のすえ、しだいに拘禁反応による幻覚に襲われるようになる。

幻想と現実との境目がどんどんあやふやになるなか、彼はついに人間としての最低限の品格すら喪失し、犬猫同然にまで成り下がってしまう。

そんな難しい役どころを、主演の田口トモロヲが迫真の演技で表現してくれている。本作は、映画というよりかはむしろ、演劇を見ているかのようだ。

遥か中東の地にて勾留された日本人。僕はどうしても、先日解放されたジャーナリストの安田純平さんを連想してしまう。彼もまた、このような生き地獄を経験したのだろうか……。

 

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・『帰って来たヨッパライ

若松孝二さんに影響を与えた人物のひとりとして、映画監督の大島渚さんの名を挙げることができる。

本作は、そんな大島さんによる映画である。

主人公の若い男三人組は、どうやら在日韓国人のようだ。彼らは韓国へと送還され、そのまま当時戦場であったベトナムへと派兵、かの地にて戦死してしまう。

……と思ったら、時間軸が巻き戻り、めでたく三人組復活(w)。また同じようなやりとりが繰り返される。いったい何なんだ、この映画は?(ww

三人組が韓国へと送還されるシーンでも、日本海とされる“海”は明らかに、東京・上野の不忍池である(w

このように本作はとても不思議な映画であるが、しかしながら大島監督が伝えたかっただろうことは、僕にはとてもよく分かる気がするのだ。

当時は、ベトナム戦争のまっただ中。かの悪名高きベトコン路上処刑映像も、本作にて繰り返し引用される――ベトコン路上処刑の映像は、NHK『映像の世紀』でも取り上げられたほど有名なものである。皆さんも一度くらいは見た経験があるのではなかろうか

大島監督は、この不可思議な映画を通じて、ベトナムが決して「遠い国の出来事」などではないこと、我々の住むこの日本と地続きで繋がった出来事であることを、それも在日韓国人というマイノリティーの視点を通じて、日本社会に糾弾したかったのであろう。

 

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・『天使の恍惚』

さぁこちらは、待ってました(w)、我らが若松孝二監督の、初期の作品である。これまで取り上げた初期若松作品と比べると、かなり陰惨な印象を与える作品ではある。

主人公は、新左翼過激派に属する活動家の青年たち。若松監督は本作にて、彼らが破滅していくまでの過程を描き出している。

相も変わらず――まぁピンク映画なのでw――セックスの場面がとても多いが、興味深いのは、見るからに生真面目そうな印象の男子学生が、セックスを必死になって拒み、過激な政治運動へと自らの身を投じる、という描写である。

こうした童貞にありがちな潔癖症的な性格は、我々観客にどうしても、フラジャイルだとの印象を与えてしまう。先日の『ゆけゆけ二度目の処女』を見たときにも感じたことだが、やはりこの時代の若者たちは、総じてフラジャイルだったのではあるまいか?

劇中にて絶えずBGMとして流れるジャズが、またなんともカッコいいのである。

 

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・『性賊/セックスジャック』

こちらも若松孝二監督の、初期に位置づけられる作品である。本作も、新左翼過激派の学生活動家を主人公とした作品だ。

イメージとしては、『現代性犯罪絶叫編 理由なき暴行』と先ほどの『天使の恍惚』を足して二で割ったような印象の作品である。

アジトにこもった主人公はじめ活動家たちは、ただひたすらにセックスをしつづける――まぁ、ピンク映画だからしょうがないと言えばしょうがないが(w。もはや、革命をやりたいのか、それとも単に女とヤリたいだけなのか、どっちなんだ! と問いつめたくなるレベルである(w

だが、皆さん、よく覚えておいてほしい。これこそが、1960年代という時代の実像だったのだ。

 

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・『胎児が密猟する時』

こちらも、初期若松監督作品である。

……いやぁ、本作はスゴイ。完全に、ただの変態映画であるw(;^ω^)

内容は、おすぎ似の男が若い女を監禁し、鞭打ちなどのSMプレイによって彼女を“調教”するという、かなり危うい代物である(;^_^A

本作は、しかしながら最も若松監督らしいと言える作品でもある。

男は明らかに、母性を希求する願望=子宮回帰願望に基づき、女に接する。もちろん女はそんなキモい男を拒み、この絶望的な状況から脱出しようと試みる。これは、“ロリコン監督”若松孝二による「自己批判」の作品、とも考えることができる。

さぁ、この監禁された女がラストでどうなるか。結末は、皆さんが直接己の目で見て確かめてほしい。

つけ加えれば、若松監督が後年、同じ問題設定に基づいて撮ったのが、『完全なる飼育 赤い殺意』(2004年)である。

 

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書評『谷川雁革命伝説』

先月取り上げた評伝『渡辺京二』のなかで、評論家・渡辺京二に影響を与えた思想家として吉本隆明などと並んでその名が挙げられるのが、谷川雁(1923‐1995)である。

本日ご紹介する本は、そんな谷川の生涯に迫った評伝『谷川雁革命伝説 一度きりの夢』河出書房新社

著者は、本ブログではもはやおなじみ、“マツケン”こと評論家の松本健一さん(1946‐2014)だ。

 

僕は松本さんの本が大好きであるが、本著を読みはじめて、いささか困惑せざるをえなかった。

内容がどうにも、頭に入りづらいのだ。これまで、彼の本を読んでいてそんな経験をしたことなどなかったのに。

松本さんの文体はとても流麗で、まるで上質の日本酒が水のようにさらさら飲めるのと同じように、なめらかに読み進めることができる。そんな松本さんの文体が、僕は好きだった。ところが今回は、読んでも読んでもなかなか内容が頭に入ってこないのだ。

どうしてだろう? 理由はおそらく複数考えられる。

1.本著が、文体や執筆時期、掲載に至った経緯などが異なる複数の文章をまとめて一冊の書籍としたものであること。

2.谷川雁は基本的に詩人であり、自らの思想をおもに詩のかたちで発表してきたため、その思想内容が分かりづらい。

3.そもそも谷川の思想自体、右翼なのだか左翼なのだかよく分からない代物である。

4.著者の松本さんが谷川に対して思い入れが強すぎる。

 

1、2はさておき、3について簡単に説明するとしよう。

先日の『渡辺京二』の書評にて、僕は渡辺は≪この国における、今日ではもはや数少ない、本当の、最も根源的なレベルでの、そしておそらくは最後の、右翼なのだ≫と書いた。

実のところ、谷川にも渡辺と同じことがあてはまると思うのだ。

もちろん、彼自身は自らのことを左翼と規定していたことだろう。なにせ彼は、毛沢東を崇拝するアナルコ・サンディカリスト(※)だったのだから。

※ただのアナーキストではなく、組合(サンディカ)の運動を重視するタイプのアナーキストのこと。

もっとも松本さんは、谷川はただのアナルコ・サンディカリストではなく、東洋風のアナルコ・サンディカリストであったという。松本さんは、谷川の思想が戦前右翼の農本主義に近接していることにも当然気づいていたことだろう。

戦前の右翼たちには、天皇という絶対的存在がいた。農本主義を掲げる右翼たちにとっては、天皇こそ農村社会のシンボルであり、その守護者でもあった。それでは“農本主義者”・谷川雁にとって、天皇に相当する存在はいったい何だったのか。

毛沢東だったのである。

天皇毛沢東を結びつける発想は、けっして特異なものではない。ある意味では、毛沢東は戦前日本における天皇の機能的等価物とさえ言えるのである。

たとえば、今日の中国にて農民たちがデモを起こす際、彼らが毛沢東の肖像写真を掲げながら自らの主張を訴えるというケースがたびたび見られるのだという。

「俺たちの置かれた悲惨な現状を、たとえ現在の共産党幹部どもが許そうとも、偉大なる毛主席は絶対にお許しにならないぞ」というわけだ。これはちょうど、戦前日本の社会不安について、「これは君側の奸によって引き起こされた社会悪だ。陛下はこのような悪をけっしてお許しにはならないはずだ」と考えた右翼たちの発想と、とてもよく似ているのである。

 

話を谷川に戻すと、渡辺京二と同様、谷川もまた、日本古来の民衆の世界に憧憬し、それを守らんとした。彼は「民衆の軍国主義、それは民衆の夢のゆがめられた表現にすぎません」と言う。このあたり、渡辺や、彼が依拠したドストエフスキー『作家の日記』にも通じる発想だと捉えるのは、僕の穿ちすぎだろうか。

ドストエフスキーは、渡辺は、そして谷川は、民衆の生活世界を護持せんとする立場から、それを破壊せんとする<近代>という時代そのものに対し、(反)革命を企てたのである。

……うん、谷川雁って、やっぱり右翼だね(w

 

話が長くなったが、最後に上掲の理由4についても簡単に書いて本稿を締めくくるとしよう。

松本さんは、実をいうと十代のころに谷川雁の詩と出会い、感銘を受けたのだという。もともと、個人的にとても思い入れのある作家だったのだ。松本さんが谷川にどれだけ惚れこんでいたかは、以下の箇所に如実に現れていよう。

≪ああ、いま引用していてさえ、精神のどこかが感応する。ワクワクする。≫(24頁)

……あれ? なんだか、いつものマツケンさんらしくないな、普段クールなマツケンさんがこんなにも感情をあらわにするなんて、と僕は意外の感に打たれた。松本さんは、あのライフワークともいうべき大著『評伝 北一輝』においてさえ、こんな感情あふれる文章を書いたことはなかったように思う。

松本さんの、意外な一面を垣間見れた気がする一冊であった。

 

谷川雁革命伝説―一度きりの夢 (松本健一伝説シリーズ)

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 ※今回、僕が読んだのは辺境社版ではなく、河出書房新社刊行のものです。したがって、引用箇所のページ番号に相違があるかもしれません。ご了承ください。

書評『地球外生命体』

僕が個人的に注目している自然科学系の書き手として、サイエンスライター竹内薫さん、宇宙開発技術者の小野雅裕さん、そして天文学者井田茂さんの名を挙げることができる。

井田さんの書く文章は、とても読みやすく、分かりやすい。だが、単に分かりやすいというだけなら、同じく天文学者である渡部潤一さんだってそうだ。だが渡部さんが、いかにもEテレあたりに出てきそうな「メディア慣れした学者さん」といった雰囲気なのに対して――これは必ずしもネガティブな意味ではない――井田さんの文章はどこか“哲学”を感じさせるのである。

そんな井田さんの文章が、僕は大好きだ。

 

本日ご紹介する井田さんの著作『地球外生命 実はここまできている探査技術』マイナビ出版は、まさしくタイトルのとおり、地球外生命探査の最前線へと迫った本である。惑星科学、とりわけ系外惑星について研究している井田さんだからこそ、書くことのできた一冊だ。

 

本著を読んでみてさっそく驚いたのが、これまでの科学界では地球外生命について論じることはタブーとされていた、という記述である。

えっ、そうだったの!?

井田さんによると、20世紀初頭に天文学者たちが「火星には運河がある!」と騒いだせいで、一般人がすっかりこれを事実だと信じこんでしまった。その反省から、科学者は地球外生命について論じてはならない、とする風潮ができあがってしまったのだという。

そうした風潮も、しかしながら土星の衛星・エンケラドスなどの太陽系天体で生命の存在可能性が指摘され、また生命が存在しうる系外惑星が実際に発見されるようになって以降、変化したのである。

これらの発見のおかげで、実際に地球外生命が存在するのかどうか実証できるようになったからだ。

こいつがデカかった! 実証できるのであれば、もはやれっきとした科学の対象である。

かくして今日、科学者たちは堂々と地球外生命について議論できるようになったというわけだ。なるほどなるほど。

 

さぁ、その地球外生命は、いったいどこにいるのだろう。

太陽系内にも可能性は考えられるし、系外にしたって同様だ。太陽系内で考えられる天体は、火星、木星の衛星・エウロパ、そして土星の衛星であるタイタンとエンケラドスである。

本著では、エンケラドスの間欠泉など、これら天体の驚くべき写真も掲載されている。笑えるのは、キャプションにてご丁寧に(CGではなく実際の写真)といちいち断り書きがなされている点だ。う~む、CG全盛の今日では、いちいちこうやって断わりを入れないといけないのか。大変な時代だw(^▽^;)

一方、太陽系の外で生命が考えられるのは当然、系外惑星である――いや、分からないよ、情報統合思念体みたいなのが宇宙空間に漂っているかもしれないけどさ(w)。近年、天文学の長足の進歩にともない、系外惑星が実際に次々と発見されている。そのなかには、地球と環境が似ていると考えられる惑星も複数含まれているのである。

井田さんは本著にて、AI人工知能の進歩によってさらに系外惑星の発見に弾みがつくだろうと述べている。今から楽しみだ。

 

さて、本著のなかで僕が個人的に最も面白いと思った箇所は、実は地球外生命に関する話ではない。『地球外生命体』の書評なのに!

僕にとってはむしろ、系外惑星が初めて発見されたときの話のほうが面白かったのだ。

1995年、史上初めて発見された系外惑星は、木星ほどのサイズであるにもかかわらず、太陽系でいえば太陽と水星のあいだよりももっと狭い空間を回る「ホット・ジュピター」と呼ばれるタイプの天体であった。

これは、我々の太陽系の常識とはあまりにもかけ離れている。天文学者たちも、したがって実際に発見されるまでは、このような天体が存在する可能性などこれっぽっちも考慮してこなかったという。

それが災いしたのだ。

実を言うと、系外惑星を探知する装置は、1980年代の時点ですでに十分な精度に達していた。にもかかわらず、実際に系外惑星が発見されたのは、上述のとおり1995年のこと。どうしてここまで遅れたのだろう。

……今になって振り返ってみれば、ホット・ジュピターの存在を示唆するデータはあったのだという。だが当時の天文学者たちは、そんな天体などありえない、とはなから決めつけ、それらのデータを単なるノイズとして無視してしまったのだ。そうした先入観さえなければ、系外惑星はもっと早く発見できていただろう、と井田さんは書いている。

これは、とても重要な教訓だ。せっかく真実を告げるデータがあっても、我々の先入観が強すぎるとただのノイズとして排除されてしまうおそれがあるのである。

 

さて、本著はこのようにとても興味深い本であるが、ここまでなら普通の天文学者にだって書けそうな内容である……な~んて、ずいぶん偉そうなことを書いてしまって恐縮だがw(;^ω^)

井田さんのオリジナリティは、そこから文系的な発想へと跳ぶ点にある。

たとえば、2017年にTRAPPIST-1系にて7つの系外惑星が発見されたとき、欧米では科学者ではない一般人まで含めて大騒ぎだったという。ところが日本ではそれほどでもなかった。いったいどうしてか。

欧米人は、キリスト教文化圏に属す。キリスト教では、神の子・キリストはこの地球という惑星に地球人の姿をまとって受肉化した、ということになっている。ところが地球以外にも似たような天体があり、生命が存在するのであれば、どうして神の子は地球にだけ降誕したのか、いや、実は地球以外の惑星にもキリストは降誕したんじゃないか、という話にどうしてもなってくる。その点、非キリスト教圏に属す日本人は、そんなメンドクサイ問題に頭を悩まされる心配もない。

……というのが井田さんの考える、欧米人と日本人の違いなのである。なるほどなぁ、と僕は感心しながらこの箇所を読んでいた。

皆さん、お分かりいただけただろうか。この記事の冒頭で書いた「井田さんの文章はどこか“哲学”を感じさせる」とは、要するにこういうことなのである。

 

 

書評『知中論』

最近、僕が注目している中国ウォッチャーのひとりが、ノンフィクション作家の安田峰俊さんだ。

本日ご紹介する本は、そんな安田さんの『知中論 理不尽な国の7つの論理』星海社である。

 

かつて大学時代に東洋史を専攻、修士号まで取得したという安田さんは、本著のなかで「かつての歴史に学ぶことで、今日の中国を読み解く」というスタンスを貫いている。

たとえば、2010年に発生した尖閣諸島中国漁船衝突事件

安田さんによると、この漁船の船長は中国福建省の人物であり、福建といえばかつて倭寇の拠点であった地域である。そのせいか、荒くれ者の多い地域なのだという。おまけに彼らは、伝統的に尖閣諸島の周辺海域を漁場としていたため、同海域を「俺たちの海」と認識する傾向が強く、それが漁船衝突事件の原因のひとつとなった――安田さんはそう指摘するのである。

 

あるいは、00年代から断続的に発生している、反日デモ

安田さんによれば、もともと中国民衆には「暴れるのが大好き♡」という性質があるのだという。このことは、彼らが伝統的に好むキャラクターが、やはり同様に豪快で暴力を好む『西遊記』の孫悟空や『三国志演義』の張飛であることからも裏付けられる、と安田さん。

暴力が大好きな彼らは、中国政府からひとたび「……ハイ、ここ反日デモではいくらでも暴れ放題ですからね~」とお墨付きをもらえれば、たちまち「わ~い♪ 俺たちのやりたい放題だ~(ww」と暴れまわってしまう、というのだ。

当然、そのような“デモ”にイデオロギー色は希薄である。たとえ普段はアニメなどの日本文化が大好きな若者であったとしても、ひとたびこうした環境を与えられれば、「わーい♪」と喜び勇んでたちまち暴動を起こしてしまうおそれが、十分に考えられるというのだ。

安田さんは、したがって反日デモは今後も続くという、我々日本人にとっては極めて悲観的な見解を明らかにしている。

 

今日の中国の指導者である習近平が、意図的に「前近代における名君」として自らを演出している、という話もたいへん興味深かった。

我が国ではもはやほとんど「蛇蝎の如く」と形容していいほど嫌われきっている習近平であるが、かの国では意外にも、民衆から比較的好感を持たれているのだという。

それは彼が、「民衆と気さくに接し、腐敗した官僚を断固許さない」という、古来より中国社会にて理想視されてきた“君子”のイメージを、メディア上にてかなり意図的に演出しているのが功を奏した結果である、と安田さんは分析している。

要するに、日本で言うところの「水戸黄門」みたいな感じのキャラなのである、現在の習近平(w)。つねに庶民の側に寄り添い、悪代官を討つ、みたいな。

こうした自己演出は、しかしながら同時に問題にもなりうる、と安田さんは言う。

習近平は、上述の意味であまりにも保守的であり、グローバル時代である今日の中国の指導者としてはふさわしくないのではないか、と彼は見ているのだ。

僕も同感である。習近平の言動を注視してみると、「……ぶっちゃけこの人、ただの経済オンチなんじゃないか?」との疑念に幾度となくとらわれてしまう。もっとも、それは我が日本の政治家とて同じことなのであるが。

最近とみに思うことだが、東洋世界において伝統的に理想視されてきた指導者のイメージは、現下の資本主義体制のもとではかえって「経済オンチ」の一言で片づけられてしまう類のものにすぎないのではないか。

たとえば、質素倹約を美徳とする古来よりの発想は、今日においては緊縮財政を帰結し、かえって民の暮らしを悪化させてしまうのではないか……というふうに考えられるのである。

日中両国とも、そうした罠にストンと嵌まってしまっているのではないだろうか。

 

本著では、チベットウイグルなど、少数民族に関する話もとても興味深かった。

彼ら少数民族の住まう地域は、清の時代になって中華帝国編入された。では、これをもって「チベットウイグルは中国の一部となった」と言えるのだろうか?

……実はそうではないのである。

安田さんは、清を現代の企業にたとえている。このたとえによると、≪当時の㈱チャイナ産業と、㈱モンゴル草原商事・㈱チベット仏教物産・㈱新疆テュルク・イスラム興業といった藩部との関係は、共通の持ち株会社・大清帝国HDのもとでの子会社同士という位置付けです。≫(176頁)

……わ、分かりやすい!(w

僕がこれまでに読んだ中国関連の本のなかで、最も分かりやすいたとえであるw(;^ω^)

このたとえによれば、近代以前までは大清帝国HDのもと、みな対等であったが、近代に入ってその大清帝国HDが解散してしまった後、最大手である㈱チャイナ産業が勝手に他のグループ企業を吸収合併してしまった、ということになる。

う~む、この分かりやすすぎるたとえ。安田さん、やはりただ者ではない……w(^▽^;)

 

本著は、先日取り上げた上念司さんの『習近平が隠す本当は世界3位の中国経済』とは対照的であるといえる。

どこが対照的なのか。上念さんは中国に冷たいけれども安田さんのほうは中国に優しいということか?

そうではない。安田さんだって、実のところ中国には結構厳しく、本著のなかでかの国をチクチクと皮肉っている。

対照的だというのは、上念さんのアプローチが(社会)科学的なのに対し、安田さんのそれは完全に人文学的だということである。

上念さんは経済学を学んだ人であり、経済学は社会科学のなかでは例外的に、数学を多用する学問である。

習近平が隠す~』のなかでも、上念さんは「このふたつは相関係数が〇〇なので強い相関があると言えます」「これらは相関係数が〇〇以下なので相関関係はないと判断されます」……といったぐあいに議論を進めている。それはとても科学的なアプローチであり、あるいは“理系的”とさえ言えるものだ。

一方、安田さんのほうは「古代の中国では〇〇だったから、今日の中国でも同様に〇〇であると考えられる」……というぐあいに議論を進めていく。数学が出てくることはない。

こういうアプローチのしかたが、人文学的であると僕には思えるのだ。数式アレルギーのある人は、したがって安田さんのアプローチのほうが性に合っているかもしれない(w

こうした意味で、ふたりのアプローチは対照的である。だが、どちらか一方が間違っている、というのではない。むしろ、これらは相補的な関係にある、と言うべきだろう。

皆さんにはどうか、『習近平が隠す~』と本著、両方とも手に取って、読み比べてみていただきたい。

 

本著は、「中国のことはあまりよく分からないよ」という初学者の人たちのために、とても分かりやすく、かつ親しみやすくつくられている。

重要な箇所は太字で印刷されているし、各章のはじめにはご丁寧に漫画パート(!)まで設けられているというサービスぶりだ(w

この漫画パートを担当しているのは、孫向文さんという中国出身の漫画家さんである。彼は若いころから漫画などの日本文化に親しみ、日本に移住してきたのだという。

一方、難点としては、レイアウトが一種独特であることが挙げられる。

たとえば写真がページの左端などにはみ出た状態で掲載されており、場合によってはひとつの写真が分断され、ページをまたいで掲載されていることすらある。さらに各節の冒頭には、その節のタイトルの中国語訳が薄いフォントで大きめに印刷されており、それが邪魔で本文が読みづらいのである。

こうした不可解な装飾は、安田さん、あるいは孫さんによる本著の価値を不当に貶めるものであると僕は考える。版元の星海社さんには、この点、ぜひ改めていただきたいと、一読者として要望するものである。

 

 

最近見た映画の感想(第264回)

前回に引き続き、今回も若松孝二フェアなのだよ。

 

・『処女ゲバゲバ』

富士の裾野。若い男女が拉致され、女はなんと十字架にかけられてしまう。男のほうは、これまた若い男女からなる犯行グループによって殴る蹴るの虐待を受けるが、スキをついて反撃、グループの若い女を殺してしまう。その後も殺戮劇が繰り広げられ、男も最終的には死亡、かくして磔にされた女だけが生き残る。

富士の裾野といえば、先日取り上げた足立正生監督『女学生ゲリラ』でも同様に富士の裾野が舞台であった。おそらく同じ場所で撮影されたのだろう。

……おっと失礼、監督の紹介がまだだった。本作の監督は、若松孝二。1969年に公開された本作は、彼の初期作品のひとつに数えられている。

この謎めいた物語は、イエス・キリストの受難の反復なのだろうか。いや、僕としてはむしろ、十字架上の女は聖母マリアであると考えたい。すなわち、母性のメタファーだ。

彼女の足元で男たちは皆、暴力のすえ破滅してしまう。ヤクザ者の男たちと、彼らを拒むことなく包摂する女(=母親)……後の若松作品で幾度となく反復されることとなるモチーフである。

それにしても、十字架上に磔にされた女の、なんと美しいことだろう!

 

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・『ゆけゆけ二度目の処女』

1960年代とは、いったいいかなる時代だったのか。

21世紀の現代に住む我々は、「不自由に抗うべく若者たちが立ち上がった時代」というふうについ捉えてしまいがちだ。だが我々の思い描く「学生運動の闘士たち」のイメージは、あまりに偉丈夫にすぎるのではないか。実際のところ、60年代の若者たちはもっとずっと、フラジャイルな存在ではなかったか。

本作『ゆけゆけ二度目の処女』もまた、初期若松作品のひとつである。

本作の舞台は、ビルの屋上。屋上からは当然のごとく、街並みが見下ろせる、大空が広がっている。どこにだって行けそうな気がする。だがもちろん、そこから落ちれば待ち受けるのは死あるのみだ。

どこにも行けそうで、どこにも行けない。60年代とは、とどのつまり、そういう時代ではなかったか。そのメタファーとして、屋上という舞台装置はこれ以上は考えられない代物と言えるだろう。

このような「屋上」のなかで常に鬱憤を抱えていたのが、実際の60年代の若者たちだったのである。

 

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・『現代性犯罪絶叫編 理由なき暴行』

見るからに非モテスクールカースト底辺と分かる、上京したての若造三人組。

青森からはるばる東京へとやってきたはいいが、毎日がくだらない。

いい加減嫌気がさした彼らは、小田急線の電車に乗り、当時流行っていた高倉健主演『網走番外地』の主題歌を口ずさむ。

「はる~かぁ~、遥か彼方にゃ、オホ~ツク♪」

彼らは、小田急線の電車が自分たちを網走へと連れてってくれることを夢見る。

もちろん、電車は網走ではなく、湘南・江の島へと到着。彼らはそこで、リア充の“アベック”どもを襲い、女のほうを強姦する。そうした犯罪を重ねてもなお、彼らの鬱憤は晴れることはない。

本作では全編にわたって、彼ら三人組のクズっぷりが際立っている。中盤のある場面では、自分たちのほうから女性の自宅に強引に押しかけて彼女を犯したようなものなのに、コワモテのお兄さんたちがやってくると、「違うんだ! この女が誘ったんだ!」と弁明、彼女に責任をなすりつける。

そんなクズな三人組にも、ラストでは悲劇的な最期が待ち受けるのである。

 

僕は、沼津生まれの沼津育ち。帰省の際にはいつも、小田急線を利用している。

「あぁ、半世紀前の新宿駅小田急線は、こんな風景だったのだなぁ」

……僕にはそれが、とても感慨深かった。

 

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・『新宿マッド』

上に紹介した三作品は、いずれも初期若松孝二作品である。本作『新宿マッド』もまたそのひとつであるが、僕がこれまで見た初期若松作品のなかでは、これがベストかもしれない。

冒頭、いきなり若者が殺害される。ここまでは初期若松作品ではわりとよくある(!)展開であるが、本作はそこから先が異なる。

殺された若者のお父さんが、単身、田舎から上京してくる。はやくに妻を亡くしたお父さんにとって、死んだ息子は男手ひとつで育てた、かけがえのない息子であった。

お父さんは、新宿の街をさまよい歩き、若者たちに「犯人を知っていないか」と訪ねてまわる。若者たちは、しかしながらヒッピー野郎だの乱交カップルだのと、ふざけた連中ばかりなので、彼らに話してもいっこうに埒があかない。だがついに、「新宿マッド」なる新左翼の過激派の男が息子を殺したことをつきとめる。お父さんは、この「新宿マッド」を相手に、一対一の対決に挑む。

このお父さんが、とにかくもうカッコいいのだ!(w)。これまで、無軌道な若者ばかりが登場していた初期若松作品の世界に、はじめて「まっとうな大人」が現れたのである。

お父さんは、若いころ戦争に召集された。戦後になると、彼は一日も休むことなく郵便配達の仕事をつづけ、息子を男手ひとつで育て上げた。彼は「新宿マッド」に問う。「お前らにその苦労が分かるか」、と。新左翼過激派としてその名を馳せた「新宿マッド」も、ついには彼の前に屈服するのである。

お父さんの姿はまさしく、吉本隆明のいう「大衆の原像」、あるいは江藤淳のいう「生活者」そのものだ。お父さんは、決して学があるわけではない。革命の大義を高らかに宣言するわけでもない。それでもなお、お父さんは、ただ観念的な言葉を並べて暴れまわるだけの新左翼過激派の連中とは比較にならないくらい、“カッコいい”のだ。

……いやぁ、久しぶりに、映画のなかで“本物のヒーロー”を目撃してしまったな、と感じた。

僕は、震撼した。

 

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・『マル秘女子高校生 課外サークル』

こちらは1973年公開の、中期(と言えばいいのだろうか)若松孝二作品である。

さすらうように冬の田舎へと流れてきた、主人公の男。どうやらかつて、犯罪を犯して東京から逃れてきたらしい。

彼は、田舎のとある売春宿へと匿われる。そこでは、女子高生四人組が売春に精を出していた。彼女らと時間をともにするうちに、次第にそのなかのひとりの女子高生と親しくなっていく主人公の男。

一方、その店のオーナーの男性もまた、かつて同様に犯罪を犯して逃亡している身であった。お互いの境遇を知ったふたりは、次第に意気投合するようになる。

本作においても、若松作品において何度も反復された、犯罪者の男たちと彼らを包摂ないし承認してくれる女、という構図を見て取ることは容易い。

 

 

書評『習近平が隠す本当は世界3位の中国経済』

昨日は『台湾人と日本精神』という本を取り上げた。

その本のなかで、「運命共同体としての台湾と日本」と題された一節があった。まさしく然り、台湾と日本は中国に対峙するという意味でまさに運命共同体にほかならない。

ではその中国のほうは、これから先、いったいどうなるのだろう。

というより、現時点ではどうなのだろう。

 

そんな疑問にこたえてくれるのが、本日ご紹介する『習近平が隠す本当は世界3位の中国経済講談社である。

著者は、経済評論家の上念司さん。本ブログではこれまで、上念さんの著作を複数取り上げてきた。

 

第1章にて、上念さんは中国政府がいかにしてGDP統計を偽造しているかについて詳述している。

中国のGDPについては高橋洋一さんも同様の指摘をしていた。上念さんは高橋さんの議論を大枠で肯定しつつ、高橋説への反論も紹介し、さらにそれへの再反論を行うことによって、より精緻な分析をほどこしている。

第2章では、中国がこれまで“猫をかぶっていた”ことを指摘。上念さんはこの章のなかで、本ブログでも以前取り上げたマイケル・ピルズベリーの『China 2049』の議論を参照している。

上念さんによれば、中国はリーマンショックで西側先進諸国が苦しんでいるのを見て「俺たちの時代到来!」と錯覚してしまったのだという。それでかなり早いタイミングで牙をむいてしまったのが、結果的にあだになった、と見ているのだ。本来、中国はもっと国力を蓄えるまで猫をかぶりつづけ、米国の目を欺く必要があったのである。

これは、中国共産党政権にとっては、もう本当に取り返しのつかない、致命的な過ちであったと言えるだろう。もっとも、我々西側の人間からすれば、彼らの蹉跌はまたとない僥倖なのであるが(w

 

第3章では再び偽装統計の話に戻って、GDPに限らず中国当局がいかに経済統計を偽装しているのかが明らかにされる。

……もはやこれがかの国の常識なのか、と読んでいて溜息が出るほどだ(;^ω^)

続く第4章では、円高などのせいでやむにやまれず中国進出したはいいが、人件費の高騰などの理由で結局は撤退を余儀なくされる日本企業の話が紹介されている。

そういえば先日も、経団連の爺さん連中が大挙して中国を訪れていたが、彼らに本当に学習能力はあるのだろうか、と心配になってくる(;^_^A

さて、「人件費が高騰した」のは、いったいどうしてか。

それは、農村から都市への人口流入がひと段落ついてしまったからである。

一般的に、これがひと段落つくと、その国の高度成長は終わり、安定成長の時代に入る。中国は、すでに高度成長を終えてしまったのである。

 

第5章では、大気汚染の問題にしろAIIBアジアインフラ投資銀行の問題にしろ、習近平政権がいよいよ末期的状況を呈していることが浮き彫りにされる。

そして終章となる第6章にて、これからはじまる米中新冷戦が日本にとって“福音”となる可能性が指摘されるのである。

これは、どういうことだろう。

たとえば、新冷戦によって日本は軍事支出の拡大を余儀なくされるだろうが、これは経済的に見れば、政府による財政出動の一種と考えられるのだ。財政出動は、デフレからの脱却が目前に迫っている現下の日本経済にとってプラスに作用する、と上念さんは言うのである。

懸念される中国経済崩壊の影響も、巷で言われるよりかは軽微であることを、上念さんは具体的なデータを挙げながら明らかにしている。

 

さて、これらすべての章にて、上念さんは具体的に数字のデータを挙げながら論証を進めている。

彼はときに、国際機関のデータをもとに自分でExcelかなにかでグラフを作成しながら、「このふたつは相関係数が〇〇なので強い相関があると言えます」「これらは相関係数が〇〇以下なので相関関係はないと判断されます」……といったぐあいに、論証を進めていくのだ。

彼の手法は、とても科学的である。あるいは“理系的”とすら言っていいかもしれない。だがこれこそが、経済学という学問なのだ。

経済学は、社会科学のひとつであるから、一般的には文系の学問に分類されるのであろう。しかしながら経済学は同時に、数学を頻繁に駆使する学問でもあるのだ。むしろヘタな自然科学などよりよっぽど数式を使うのではないか、とすら思えるほどだw(^▽^;)

本著を通じて、我々はそんな“理系学問としての経済学”を垣間見ることができるのである。

 

本著を通読して感じたのは、中国共産党政権のいう「社会主義市場経済」なるシロモノには、やはり無理があったのではないか、という今更ながらの疑問である。

現下の中国社会が抱える諸問題の原因は何か、をつきつめて考えていくと、結局はかの国の「一党独裁」という歪んだ体制へと行きつく。

「いやいや、中国は昔から専制の国だったじゃないか」と反論されるかもしれない。たしかにかの国に民主主義の伝統はないかもしれない。だが、それをいうなら昔の中国には資本主義だってなかったのである。

現在の中国は、「独裁体制+資本主義」という、従来の中国にはなかった、というより、かつてのナチス・ドイツやイタリアをしのぐ規模であるという点で、世界史のいずれにも存在しなかった極めて特異な体制なのである。

何が起こっても、おかしくはないのだ。

 

習近平が隠す本当は世界3位の中国経済 (講談社+α新書)

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書評『台湾人と日本精神』

徴用工問題をめぐる韓国内での裁判の判決が、日韓関係に極めて暗い影を投げかけている。

 

ironna.jp

00年代まで、日本人の対韓感情は――いわゆるネット右翼層を別にすれば――決して悪くはなかった。この時期、対中感情は悪化する一方だったが、対韓感情のほうはそれほどでもなかった。

それも今や昔である。

日本人のあいだでは諦観が広がりつつある――「日本にとってまともな隣国は、もはや台湾しかないのではないか」と。

 

本日ご紹介する本は、『新装版 台湾人と日本精神 日本人よ胸を張りなさい』小学館である。

著者は、台湾人の実業家である、蔡焜燦さん(1927-2017)

 

本著にて、蔡さんはひとりの台湾人として、自らの国の歴史について語っている。

日本は台湾を植民地統治した。だが蔡さんに言わせれば、日本は植民地というよりかはむしろ、本国の一部として台湾を扱ったのである。

たとえば、教育。日本による教育は、とても充実したものであった。当時、日本人と台湾人はそれぞれ別の学校で学んでおり、これは一見すると差別のようにも思えるが、蔡さんは、これは日本語を母語としない台湾人のための配慮であったと書いている。

一方、これとは対照的に酷かったのが、戦後の国民党政権だ。国民党は、単に腐敗しているだけではなかった。彼らは台湾人を、実に惨たらしいやり口で虐殺したのである。国民党による台湾人虐殺事件は、台湾では二・二八事件と呼ばれている。我々日本人にとっては、2月26日こそが歴史のターニングポイントであったが、台湾ではそれは2月28日であったのだ。

日本統治時代と国民党時代とのコントラストは、実に鮮明である。「あぁ、だから台湾人は親日になったわけね」と納得させられる。

 

驚くべきことに、蔡さんは母語が日本語なのだという。普段、日本語でものを考えるというのだ。実は李登輝元総統も同様に日本語を母語としているという話を、僕は以前聞いたことがある。

本著では、その李登輝さんも登場する。蔡さんと李さんは、もちろん日本語で会話するのだそうである。

このほかにも、本著では和歌を詠む台湾人のグループのことも紹介されている。

彼ら戦前生まれの台湾人にとっては、むしろ北京語のほうこそ外国語であったようなのだ。たとえば本著では、戦後まもなくのころの台湾人は「台北」の北京語読みが「タイペイ」であることすら知らなかった、という話が出てくる。実に意外な話だ。

「へぇ~、台湾って、昔は親日だったんですね」

と皆さん思われるかもしれない。

実のところ、現在でもそうなのだ(w)。本著でも、哈日族と呼ばれる日本びいきの若者たちのことが言及されている。

台湾人の親日ぶりは、今日でも変わっていないのだ。

※現在の台湾人の親日ぶりについて詳しく知りたいという方は、ジャーナリスト・酒井亨さんの著作を読むとよいだろう。

 

さて、本著にて、日本人に台湾の歴史を伝えてくれた書として蔡さんが挙げるのが、司馬遼太郎さんの『街道をいく 台湾編』と、小林よしのりさんの『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』の二冊である。

このうち、『台湾論』のほうは僕も読んだことがあるが、『街道をいく』のほうは、恥ずかしながら未読である。

司馬遼太郎さんといえば、日本を代表する歴史作家であるが、実を言うと、僕の周りでは司馬さんを褒める人があまりいないのであるw(;^_^A

「あの司馬とかいうオッサン、なんでロクな史料も無しにあんなテキトーなことベラベラ書けるんや?」

「実際はただの武器商人にすぎなかった坂本龍馬を、さも日本の偉人のように描きやがって。許せん!」

……といった意見が、僕の周りには多いのであるw(;^ω^)

だが蔡さんによれば、司馬さんは台湾の歴史をとても深い次元まで理解し、それを日本の読者に伝えることに功績があった人なのだという。

う~む、司馬遼太郎、にわかに読みたくなってきた(w

 

米国のペンス副大統領の演説が「米中新冷戦」の到来を告げるものだというので、巷間で話題になっている。

来たる新冷戦において、日本と台湾はともに、リベラル・デモクラシーと市場経済という基本的価値観を共有する自由主義陣営の最前線として、中国に対峙していくこととなるだろう――え、韓国? もう知らんよあんな国

本著のなかでも、「運命共同体としての台湾と日本」と題された一節がある。本当にそのとおりだ。

日本と台湾は、同じ自由主義国として、東アジアの将来を切り開いていく歴史的責務を共有しているのである。

 

新装版 台湾人と日本精神: 日本人よ胸を張りなさい

新装版 台湾人と日本精神: 日本人よ胸を張りなさい

 

 

この本もオススメ! BOOK GUIDE

・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論小学館

よしりん先生」こと、漫画家の小林よしのりさんによる台湾論。毀誉褒貶の激しいよしりん先生だけれども、本著の初版刊行時点(2000年)で「中国もダメ、韓国もダメ。日本が真に信頼できる隣国は台湾のみ!」と断じたのは、慧眼でしたねぇ。

 

新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論 (小学館文庫)

新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論 (小学館文庫)