Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『はじめたばかりの浄土真宗』

僧侶の釈徹宗さんと哲学者の内田樹さんは、どちらも名文家として知られる。

釈さんは、以前このブログで取り上げた『宮崎哲弥 仏教教理問答』でも対談者のひとりとして登場した。とても話術のたくみな人で、彼の文章を読むと、吸い寄せられるように一気に読んでしまう。不思議なものだ。

(これはちょうど、高級な日本酒が、まるで水のようにグイグイ飲めてしまうのに似ている)

内田さんのほうもー彼の政治的スタンスには共感しないもののーやはりエッセイストとして優れている。

本著は、そんなふたりの名文家による往復書簡をまとめ、書籍にしたものである。

 

文体こそ平易だけれども、本著からは浄土真宗の「深さ」が伝わってくる。

思えば、浄土真宗というのは、実に奇妙な仏教だ。仏教と言うよりかはむしろ、キリスト教に似ている。

僕の記憶が確かならば、たしか社会学者の小室直樹先生は、親鸞仏教キリスト教にした、と喝破したはずである(記憶違いだったらスイマセン…)

本著を読んでいても、浄土真宗キリスト教(のプロテスタントにやっぱり似ているなぁ、という印象を強く持った。

たとえば釈さんは「真宗的倫理の特性」という章(112頁)で、真宗の特性のひとつとして「行動的禁欲」を挙げている。これこそ、マックス・ウェーバープロテスタンティズムの特質として注目したaktive Askese(行動的禁欲)そのままではないか!

釈さんはまた、こうも述べている。

≪在家仏教である浄土真宗は庶民生活に経済倫理や職業倫理を生み出しました。これは、よくプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に比されるところです。

 ご存知、ウェーバーの説によれば、資本主義経済の離陸には資本主義の精神やエートスと呼ばれる勤勉な労働倫理が必要だった、ということになります。その役割を、日本では浄土真宗石田梅岩の商人道などが果たしてきたわけです。≫(118頁)

真宗がさかんであった近江国(現在の滋賀県は、商業が盛んであった。いわゆる「近江商人」というやつである。

やはり、宗教が似ていると社会も似る、ということなのだろうか。社会学的に、とても興味深い話である。

 

釈さんの仏教の話を、内田さんは現代思想の観点から考察していく。やや抽象的ながら、この点も興味深いものがある。

内田さん、もうアクチュアルな政治の話なんかしないで、純粋に思想・哲学の話だけしてくれればいいのに、と思った(w

 

はじめたばかりの浄土真宗 (角川ソフィア文庫)

はじめたばかりの浄土真宗 (角川ソフィア文庫)

 

 

書評『現代ドイツ思想講義』

日本の保守派の間で、どういうわけだか評判が悪いのが、フランクフルト学派である。

曰く、「日本のサヨクを裏で牛耳っているのが、隠れマルクス主義たるフランクフルト学派であって…云々」といった具合。

ひどい場合には「ジェンダーフリー教育はフランクフルト学派による陰謀!」といったものまである。

これではもはや、イルミナティやらフリーメイソンやらの陰謀論と大差ない。

……実際のところ、フランクフルト学派とは、「ルカーチグラムシの理論をベースにマルクス主義を進化させ、これにヘーゲル弁証法フロイト精神分析理論の融合を試みた、批判理論によって啓蒙主義を批判する社会理論や哲学を研究したグループの他称」wikipediaである。

そのフランクフルト学派について解説しているのが、今日ご紹介する『現代ドイツ思想講義』作品社だ。著者は、本ブログでもたびたび著作を紹介してきた、哲学者の仲正昌樹さん。

 

本著はまず、のちのフランクフルト学派活躍の礎を築いた先人として、ルカーチグラムシなどの思想家が簡潔に紹介され、続けてフランクフルト学派のふたりの中心的人物、ホルクハイマーとアドルノによって書かれた主著『啓蒙の弁証法』について、仲正さんが解説していく。

その後、ホルクハイマーらに続くフランクフルト学派第二世代のハーバーマスが取り上げられ、最後に彼よりさらに下の世代―いわゆる「フランクフルト学派第三世代」たる現代ドイツの哲学者たちが紹介されるのである。

 

本著を読んでいて思わず舌を巻いてしまうのが、著者・仲正さんのドイツ語力である。

ドイツ語の文法、語法、造語法などを、細かいニュアンスに至るまで、実によく理解しているのだ。

本著では上述の『啓蒙の弁証法』はじめ、フランクフルト学派の著作の日本語訳が多く取り上げられるが、率直に言って、これらの本の訳者たちよりも仲正さんのほうが翻訳がうまい。

仲正さんは本著のなかで、たびたび

「ここの~~という箇所は意味が取りづらいですね。ここは原文では~~となっていて、ここを正確に訳すと~~となります。翻訳した○○さんはおそらく~~という理由であえてこう訳したのでしょうが、~~と訳したほうがより適切だと思います」

といった具合に、訳書の翻訳の不備を指摘していく。そして“対案”として仲正さんが提示する翻訳のほうが、確かに日本語の文として分かりやすいのだ。

どうやら仲正さんは、単に書き手としてだけではなく翻訳家としてもすぐれているようで、実際に彼が翻訳を担当した書籍も多数ある。今後、時間の余裕があれば、彼の著書だけではなく“訳書”も読んでみたいと思う。

 

本著は、仲正さんが都内のとある書店にて講演したものをテープ起こしして一冊の書籍にまとめたものである。

したがって、ですます調で書かれているが、語られる内容はたいへん高度。一読しただけではよく分からないだろう。何回も繰り返し読むことをお勧めする。

正直に白状すると、僕自身、まだ本著の内容を十分に理解したとはいいがたい。

まぁそれでも、少なくともジェンダーフリー教育がフランクフルト学派の陰謀でないことだけは、明らかである(w

 

現代ドイツ思想講義

現代ドイツ思想講義

 

 

書評『日本はどう報じられているか』

日本人は、海外からの目を非常に気にする民族である。

昔から『○○人から見た日本』といったタイトルの本には事欠かないし、現在でも「見てください! 海外から来た観光客たちはこんなにも日本を絶賛しています!!」といった類の日本礼賛番組は、とても多い。

では、実際のところはどうなのか。

そこで本著『日本はどう報じられているか』(新潮社)である。

タイトルの通り、本著は海外諸国における日本の報道のされ方について、その国の専門家が書いた論考をまとめて一冊の書籍としたものだ。ビミョーに古い本なのが難点だが(2004年刊行)、本著を読めば、世界が日本に対して向けている眼差しがだいぶ理解できるだろう。

 

本著の内容をおおまかにまとめると、こんな感じである。

イギリス:日本にはあまり関心がない。日英同盟を知らない(!)というイギリス人が大半なんだとか。

フランス:こちらもイギリスと似たり寄ったり。曰く「(日仏間に)関係はあっても政治はない」のだとか。

ドイツ:僕がこう言うと周囲の人は驚くのだが、ドイツという国は、意外と反日である。本著でも、経済停滞を続ける日本に、ドイツ人の向ける眼差しは極めて冷たい。

アメリカ:こちらも日本の経済停滞にはかなり厳しいが、アメリカにおける反日的な報道は、実のところジャーナリスト個人の問題によるところが大きいと指摘されている。なかでも悪名高いのがニコラス・クリストフである。

アラブ諸国これについては後述。

中国:(少なくとも本著が刊行された00年代当時は)日本に関する報道が少ないため、たとえば「女体盛り」などといった奇妙な行為が日本の伝統として紹介されるらしい。

韓国:本著が指摘するのは「反日」の大衆化ーすなわち政府やメディアによる反日キャンペーンから、大衆による自発的な反日への変化である。しかし本著は一方で、対北朝鮮政策をめぐる韓国内部の対立が激しくなっていることから、≪いよいよ「植民地の過去」よりは「朝鮮戦争」の記憶をめぐる戦いが韓国の政治の前面に浮上したと見るべきなのだろうか。≫(203頁)と結んでいる。こうした見方が近視眼的に過ぎたことは、今日の文在寅政権を見れば明らかである。

 

さて、本著で最も興味深いのは、アラブ諸国の日本を見る目である(この章の執筆者は、池内恵氏)

9.11テロの首謀者オサマ・ビンラディンは、アル・ジャジーラのインタビューのなかで広島への原爆投下について言及している。これはなぜか。

これはなにもビンラディンに限った話ではなく、どうやらアラブ世界では、「ヒロシマ」は米国による一般市民無差別虐殺の象徴であり、だからこそ「かつてヒロシマで市民を虐殺した米国は、したがって同様に(テロで)市民を虐殺されても文句言えないのだ」という具合に、テロ肯定の根拠として利用されているようなのだ。

言うなれば、ヒロシマは反米の免罪符なのである。

これまで日本人は、ヒロシマを平和主義の象徴として世界に発信してきた(つもりだった)のだが、どうやらそのメッセージはアラブの人々には誤読されて伝わってしまったらしい。

 

イラク戦争のとき、「アラブの人々は親日的です! そんな親日的なアラブの人たちを見捨てて、日本はアメリカにつくんですか!」といった批判が多く見られた。

たしかにアラブ人は親日だろう。だがその「親日」の裏には、以上に述べたような誤読があるのである。その点は、しっかり理解しなければならない。

 

日本はどう報じられているか (新潮新書)

日本はどう報じられているか (新潮新書)

 

 

書評『其の一日』

本著は、文芸評論家・福田和也さんが戦前日本の偉人たちの「一日」を描いた、やや異色の作品である。

「一日」と言っても、何気ない日常を切り取って描く、というのではない。かといって、日本の転機となる重大事件の起こった一日を描く、というのでもない。

各々の偉人たちの人間性がよく表れているエピソードを福田さんが選んで、それを「一日」のなかで描いているのだ。

本著前書きによると、福田さんにとって≪書いていて、一番、愉しかったのが、本書≫(3頁)だったとのことである。

 

本著にて描かれる「一日」の大半は、明治時代のものだ。

本著を読んで強く感じるのは、明治というのはとても若々しくて、風通しの良い社会だった、ということである。

維新を成し遂げた明治の元勲たちは、実にのびのびとした感じで、この国を変革していったのだ。

とりわけそれを強く感じるのが、本著における明治天皇の章である(本著では明治天皇まで取り上げられている!)

戦前、天皇は「現人神」と呼ばれた。人々は、神を敬うように天皇を敬え、と教育されてきた。

ところがこの「現人神」に、実にフランクに接した人物がいた。

藤波言忠である。

明治天皇の学友としてともに育ち、天皇にとっては幼馴染ともいえる存在であった。

日清戦争開戦の折、清国との戦争に反対だった明治天皇は、政府に反発し宮中に引きこもってしまった。そんなとき、宮中にフラリと現れたのが、この藤波であった。

≪「御上よう、いい加減にしないと、いけねぇぜ。土方の爺さま、可哀想じゃないか。だいたい、御自分で裁可したくせに、大臣たちが勝手に戦争をおっぱじめた、なんていう言い草はないだろう」

聖上は、我慢していた。

「そりゃ、たしかに陸奥さんの遣り口が、御上の気に入らないのはわかるぜ。長いつきあいだからな」

女官たちは、次第に緊張していった。

「だけど、陸奥さんは、陸奥さんで、御国の事を考えてこそ、の事だろう。そういう役廻りの人も要るんだよ、国にはさ。それを吞み込んでの大御心だろう、そう元田の爺さんに教わったんじゃないのか」≫(143頁)

この引用箇所を読んで、藤波の口調があまりにフランクであることに、みなさん驚かれたかと思う。

明治にはこのように、「現人神」にタメ口で話ができる人材がいたのだ。

そしてそれこそが、明治日本という若き国家の健全さを象徴していたのである。

 

本著のトリをかざるのは、近衛文麿である。

本著にて描かれる近衛の「一日」は、昭和20年2月14日。このとき、もはや明治日本の若さ、健全さ、フランクさ、風通しの良さなどは、微塵もなくなっていた。

読者はその落差に驚き、そして嘆くに違いない。どうして日本は、こうなってしまったのか、と。

 

戦前日本がつねに権威主義的、全体主義的な社会であったと考えるのは、戦後日本人にありがちな勘違いだ。

今日、日本には、近衛の時代と同様、閉塞感が充満している。

今こそ、明治の美風を取り戻すべきときではないのか。

 

其の一日: 近代日本偉人伝

其の一日: 近代日本偉人伝

 

 

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書評『国家の罠』

作家・佐藤優さんのことを、本ブログではこれまで、なかば定型句的に「元外交官にして作家という異色の経歴をもつ~」と紹介してきた。

そもそも、どうして彼は外交官を辞める(辞めさせられる)こととなったのか。

今の若い方はもう知らないかもしれないが、佐藤さんは、いわゆる「鈴木宗男事件」連座して逮捕・起訴され、外交官としての身分を失ったのである。

 

今回ご紹介する本は、佐藤さんが同事件における自らの体験を綴った『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)。佐藤さんにとっては、本著が作家としてのデビュー作となった。

本著の前半では、逮捕に至るまでの、佐藤さんの日ロ外交での活躍が描かれる。ある種、スパイ小説にも似たスリルを楽しむこともできる。

後半は一転、逮捕されて後、佐藤さんと担当検事との対決が描かれる。前半がスパイ小説なら、後半は法廷ドラマ、とでも言ったところか。

ここで佐藤さんの前に立ちはだかるのが、西村尚芳検事である。

本著後半の一番の見せ場が、佐藤さんとこの西村検事との駆け引きなのだ。

ここは、面白い。最初は当然ながら敵対的な態度のふたりだったが、時間がたつにつれて次第にお互いの人間性、置かれた立場を理解し合うようになり、ある種の共感すら見せるようになるのだ。

ふたりのこの独特な関係を分かりやすくたとえて言うなら、ルパン三世』におけるルパンと銭形刑事の関係、とでも説明すれば良いだろうか。

あるいは、ドストエフスキー罪と罰』におけるラスコーリニコフ青年とポルフィーリー判事の関係、と言ったほうが文学ファンには分かりやすいかも。

はたまたもっと砕けて言うなら、漫画『DEATH NOTE』における夜神月とLの関係、とすらたとえてもいいのかもしれない(;^ω^)

≪結局、私は西村氏と一度も握手をしなかった。なぜならば国策捜査というこのゲームで、西村氏はあくまでも私の敵で、敵と和解する余地が私にはなかったからである。しかし、西村尚芳検事は、誠実で優れた、実に尊敬に値する敵であった。≫(353頁)

いわゆる腐女子の女性のなかには、このふたりに一種BL的な関係性すら見い出す人も…イヤさすがにそれはないかな?(;^_^A

 

…失礼、ちょっと筆が走り過ぎた。

本著で面白かった点は、もちろんほかにもある。

先ほどの引用箇所で「国策捜査」なる言葉が出てきた。

国策捜査、これ何ぞ。

これは、捜査方針をきめる際に、政治的意図や世論の動向にそって検察(おもに特捜検察)が、適切な根拠を欠いたまま「まず訴追ありき」という方針で捜査を進めることをいう池上彰池上彰の政治の学校』より

マスコミは、検察の発表を鵜呑みにして喧伝する。国民もまた、そんなマスコミの情報を鵜呑みにする。

本著では、「日本人の実質識字率は5%」というなんとも強烈な皮肉が出てくる。熱心に新聞を読んでいる読者はたったの5%で、その他大勢はワイドショーに振り回される無定見な大衆に過ぎない、という意味である。

僕にはこの国策捜査と、現下のいわゆる「加計学園問題」―実のところ問題でもなんでもないのだが―でのマスコミの尋常ならざる安倍バッシングとが、重なって見えてしょうがない。

ある意味では「加計学園問題」は、検察ではなくマスコミによる国策捜査、と言えるのかもしれない。

 

鈴木宗男事件」という事件名のとおり、この事件の中心人物が、佐藤さんが外務省時代に仕えた鈴木宗男・元衆院議員であった。

本著を読んでいると、この鈴木さんの意外な一面を知ることもできる。

≪鈴木氏には嫉妬心が希薄だ。他の政治家の成功を目の当たりにすると鈴木氏はやきもちをやくのではなく、「俺の力がまだ足りないんだ。もっと努力しないと」と本気で考える。

 裏返して言えば、このことは他人がもつ嫉妬心に鈴木氏が鈍感であるということだ。この性格が他の政治家や官僚がもつ嫉妬心や恨みつらみの累積を鈴木氏が感知できなかった最大の理由だと私は考えている。≫(39頁)

 ≪鈴木氏は、直情的な人物のように見られがちだが、実はとても慎重で、特に政治ゲームに関しては勝ち負けについて実によく計算し、勝算が七割を超えないとリスクを冒すような行動をとらない≫(73頁)

 

佐藤さんは、実に512日間も勾留された末、保釈された。その後、佐藤さんが作家として、論壇で超人的な活躍を見せるのは、もはや周知のとおり。

佐藤さんは、意外にも外務省でのインテリジェンス業務が、あまり好きではなかったのだという。「好きなこと」と「得意なこと」とは異なる。佐藤さんは、本当は静かに本を読んで過ごすのが好きだったのだ。作家生活に入り、佐藤さんはようやく「好きなこと」を仕事にすることができた。

人間万事塞翁が馬。佐藤さんにとっては、国策捜査は結果オーライだったのかもしれない。

 

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

 

 

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書評『宮崎哲弥 仏教教理問答』

お茶の間でもおなじみ、評論家の宮崎哲弥さんは、仏教に関心があることで知られる。

いや、「関心がある」どころの次元ではもはやない。自ら「ラディカル・ブディスト」を名乗り、インドの原始仏教の経典も読む宮崎さんは、したがって仏教の専門家とも極めて水準の高い会話ができるのだ。

 

本著『宮崎哲弥 仏教教理問答』(サンガ)は、そんな宮崎さんと、仏教の専門家5人との対談をまとめた著作である。

全部で5つある対談は、後半のほうに行けば行くほど難しくなる。明らかに意図的な構成だろう。最初の、白川密成さんとの比較的分かりやすい対談は、いわばイントロダクションというわけだ。

二番手の釈徹宗さんはとても話術がたくみで、吸い寄せられるようにグイグイ読んでしまう。やっぱり彼が大阪の出身だから、というのが関係しているのだろうか。

三番手の勝本華蓮さんは、本著の対談者のなかでは唯一の女性(つまり、尼さんだ)

勝本さんは若い頃に神秘的な体験をし、それがきっかけで仏教に帰依するようになったが、その後は地道な文献研究の道へと進んだ。

これも、面白い話だ。普通、神秘的な体験をした人は、そのまま神秘主義の世界へと行きそうなものだが、彼女の場合、そうではなく(高度の語学力が求められる)地道なアカデミズムの世界へと進んだのだ。

仏教には、やっぱり面白い人が多い。

四番手は、南直哉さん。実を言うと、この対談集のなかで僕が個人的に一番しっくりきたのが、この南さんだった。もしかしたら、彼が曹洞宗の僧侶だからというのも関係しているのかもしれない(僕の家は、父方母方ともに、曹洞宗である)

南さんの言葉は結構難しいが、僕には彼の言葉が一番印象に残っている。たとえば、この一節。

一神教のようなエターナルなものを提示する宗教というのは、結局は「死を消去する」こと、僕の言葉で言えば「死を買い戻す」ことにしか見えない。なぜそんな取引をするのか。仏教は唯一、その取引をやめたものなんです。≫(174頁)

「死を買い戻す」というのは、なんだかものすごい表現だ。どうしてか理由を言語化するのは難しいのだが、本著のなかではこの言葉が一番、僕の脳裏に突き刺さったのだった。

本著の最後の対談者は、林田康順さん。

林田さんは、意外にも法学部のご出身。

彼は仏教者として、本来ならば死刑には反対なのだけれど、一方、法律の専門家としては現行の死刑制度を支持せざるをえないという。≪被害者ご自身や被害者のご遺族のことを考えますと不十分な被害者救済の現状の中で「殺生戒を犯させることとなる」云々の理論だけでご遺族を説得することは困難であると考えて≫(264頁)いるからである。

林田さんはまた、こうも言っている。

≪法学部の指導教授からは「世の中には天の法と地の法がある。君は天の法をしっかりと学んできなさい」というお言葉をいただきました。私は、天の法と地の法をむやみに混濁して語ってはいけないと自戒しています。≫(269頁)

天の法(仏法)とは別に、地の法(法律)がある。両者は、分けて考えるべきものだと林田さんはいう。なんだか、キリストの「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉とも通じる話だ。

 

対談を通じて、宮崎さん自身の実存もまた、明らかにされていく。

宮崎さんは、我々一般人からすれば異常なほど、死を恐れる人であった。彼は実に幼稚園児のころから、「将来、自分が死んでしまう」ということに並々ならぬ恐怖を抱き続けてきたのだという。

僕は以前から宮崎さんの著作を読んできたのでそのことは知っていたが、本著によるとそのきっかけとなったのは、幼稚園の同級生が突如てんかんの発作のため口から泡を吹いて倒れたという事件だったという(32頁)。これは、初耳であった。

初耳と言えば、宮崎さんと仏教との出会いが大学時代、というのも本著を読んで初めて知ったことであった(もしかしたら他の本にも書いてあったのかもしれないけれど)。宮崎さんは、龍樹の『中論』を読んで大乗仏教中観派の教えを知り、自分が長年求めてきた答えがここにある、と感じたのだという。宮崎さんはこのときの経験を、宗教的な回心ーコンヴァージョンとすら呼んでいる(33‐34頁)

これはちょうど、作家の佐藤優さんが同志社大神学部時代にチェコ神学者・フロマートカの思想に出会ったときと同じような心境だったのかもしれない。

僕には、そうした経験がない。そんな僕には、宮崎さんが正直、とてもうらやましい。

 

宮崎哲弥 仏教教理問答(サンガ文庫)

宮崎哲弥 仏教教理問答(サンガ文庫)

 

 

書評『今こそルソーを読み直す』

哲学者・仲正昌樹さんの『今こそ○○を読み直す』あるいは『いまこそ○○に学べ』は半ばシリーズ化されている観があり、これまでに『今こそアーレントを読み直す』、『いまこそハイエクに学べ』、『いまこそロールズに学べ』など複数の著作が刊行されている。

 

今日ご紹介するのは、『今こそルソーを読み直す』(NHK出版)

タイトルから一目瞭然だが、18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーに焦点を当てた著作である。

 

本著を読むと、ルソーのイメージがかなり変わってくる。

ルソーとは、いかなる人物だったのか。

プライベートでは超がつくほどのド変態だったわけだが詳しくはこの本を読んでね思想の世界では、これは一般の人には意外と知られていないのだが、全体主義の元祖ともみなされてきたのである。

ルソーの思想の中核ともいえるのが、「一般意志」(general will)という概念である。

ものすごーく大雑把に言ってしまえば、「みんなの意志」という意味だ。この「みんなの意志」を重視するルソーの思想は、知らず知らずのうちに人々を全体主義へと導く――後世の思想家たちから、こう批判されてきたのだ。

仲正さんは、しかしながら本著のなかで、ルソーの一般意志概念のなかに全体主義の萌芽があるというのは、あくまでルソーより後の時代の思想家たちの誤解にすぎない、ルソー本人の思想には全体主義の要素は見られない、と反論している。

ルソーを批判した著名な思想家としてハンナ・アーレントを挙げることができるが、このアーレントによるルソー理解にも誤解があった、と仲正さんは指摘しているのだ(203頁)

 

仲正さんがアーレントを批判しているのには、いささか意外、という感じがした。

仲正さんは元来、ドイツ・ロマン派の思想が専門である。その仲正さんがフランスの思想家であるルソーを本のテーマに取り上げるというだけでも意外という感じがするのに、さらに仲正さんがこれまで割と好意的に紹介してきた感のあるアーレントを批判してルソーを擁護するというのは、これまた意外に感じる。

 

本著のあとがきを読んで、少しばかり驚くと同時に納得した。

仲正さんは、ルソーが好きだったのだ。

ちょっと長くなるが、以下に引用してみよう。

≪私はしょっちゅう関心が変わる人間なので、ずっと関心を持ち続けている思想家というのは、ほとんどいないのだが、ルソーは例外中の例外である。『社会契約論』でのルソーの議論の進め方が――高校の教科書などから受ける印象と違って――きわめてシャープで、印象深かったということもあるのだが、どうもそれだけではないような気がする。

 思想家に対する思い入れなどあまり持たない私には珍しいことに、個人的にルソーに深く“共感”しているようなのだ。

(中略)

 どうしてルソーに“共感”しているのか改めて自問してみると、結構複雑な要因が絡み合っているような気もするのだが、敢えて一言で表現すれば、終章で論じた、「透明と障害」という問題に集約されるだろう。スタロバンスキが描くルソーのように、私はコミュニケーションが苦手な人間であり、自分の“真意”を伝えようとして挫折した体験が、物心付いた時から数限りなくある。私の中に印象の強い思い出のほとんどは、誤解され、理不尽な扱いを受けて苛立った思い出である。そのせいで、かなりの人見知り、というより人間嫌いになっている。

(中略)

 そういう「私」だからこそ、無駄な努力だと分かっていながらも“透明なコミュニケーションを再生するためのエクリチュール”を生産し続けたルソーに“共感”するのだろう。≫(248‐250頁)

仲正さんのいう「自分の“真意”を伝えようとして挫折した体験」は、僕自身にも、それこそ数限りなくある。そんな僕は、したがってルソーに“共感”する仲正さんに“共感”するのである。

僕はこれまでルソーに対しては、申し訳ないけど「あぁ、あの変態さんね」程度の印象しかもたなかった。

しかし仲正さんという「媒介」を得たことで、僕のなかでにわかにルソーへの関心が高まりつつある。

今度、ルソーの本、読んでみようっと。

 

今こそルソーを読み直す (生活人新書)

今こそルソーを読み直す (生活人新書)