Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『視覚文化「超」講義』

僕が批評家・石岡良治さんを知ったのは、宇野常寛さん主宰『PLANETS』でのこと。

彼はそこで「最強の自宅警備員と称し、極めて情報量の多いアニメ評論を行っていた。

 

今日ご紹介する『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)は、そんな石岡さんにとっては初めての単著となった本だ。

 

タイトルに「講義」とあることから分かるように、本著は視聴文化をテーマにした石岡さんの全5回の集中講義を書籍化したものである。そのため話し言葉で書かれており、とても読みやすい。石岡さんの説明が分かりやすいこともあって、すらすら読み進めることができる。

では、これまたタイトルにある「超」とは、いったい何のことか。

石岡さんは東京大学大学院総合文化研究科の出身でありー批評家の東浩紀さんの後輩にあたるー大変な博識である。

本著においても、アニメや映画、ゲームや果てはボーカロイドに至るまで、扱う対象は極めて多岐にわたっている。

ゆえに、「超」講義なのだ。

 

表紙のイラストがまた良いね。実に混沌としていて、本著の特徴である「情報過多」をよく表現できていると思う。

 

本著で論じられる内容を全部ご紹介することは、とてもじゃないが出来ない。そこでまた例によって、個人的に面白いと思った箇所をひとつ挙げるとする。

戦前の教養主義について論じている箇所で、石岡さんは≪文芸的な側面では、学ランにマントを羽織って高下駄を履く、という類型化された「バンカラ」のイメージは現代でも繰り返し描かれます≫(17‐18頁)として、その典型例として久米田康治さよなら絶望先生』と森見登美彦四畳半神話大系』を挙げている。

僕もこのふたりの世界観はかなり近接しているな、と常々感じていたので、石岡さんによるまとめに納得した。なお石岡さんは言及していないが、このふたつの才能をひとつに結び付けたのが、アニメ版『有頂天家族』である(原作:森見、キャラ原案:久米田)

石岡さんはさらにニート的な生き方を提唱した『ニートの歩き方』著者のphaも京都大学出身であり、現在の「バンカラ」かもしれません≫(18頁)とも。

この指摘に触れたときは「あぁ、なるほどなぁ!」と思わず唸った。「ニートのプロ」を自称するブロガーのpha(ファ)さんには僕も前々から注目していたが、彼のことを「バンカラ」という観点から考えたことはなかった。さすがは石岡さんである。

 

さて、こういう情報量の極めて多い本を読んでいると、なんだか目まいがしてくる。

だが、現代社会というのは、そういうものだ。人々に目まいをおこさせるほどに、複雑怪奇な代物なのだ。

社会を変えたいと思うなら、まず社会について知らなければいけない。

そこで目もくらむほどの社会の複雑さを目の当たりにして、それでもなお社会を見つめ続けたいという熱意を持てる者こそ、本物である。

 

視覚文化「超」講義

視覚文化「超」講義

 

 

書評『高学歴社員が組織を滅ぼす』

世の中を変えたい

 

ーこう思っている若い方は、きっと多いはずだ(いやなにも若くなくてもかまわない)。しかし、そういった人たちは同時に、こうも思っていることだろう。

東大、京大を卒業した超エリートの人たちがこれまで社会を引っ張ってきて、それでもこのありさまなんだから、しょせん低学歴の自分が頑張ってみたところで、社会は何ひとつ良くならないんじゃないか。いやむしろ悪くなる一方なのでは…。

 

本ブログの読者の皆さんのなかにも、そう思っている方がいらっしゃるかもしれない。

…そうした考えは、ただちに捨て去ってほしい。

高学歴であっても、ダメ。いやむしろ高学歴“だからこそ”ダメ。

そう主張しているのが、今日ご紹介する『高学歴社員が組織を滅ぼす』(PHP)である。

著者は、経済評論家の上念司さん。

分かりやすい文章と、ときおりガンダムの話なども交えながら適度に煽っていくスタイルに定評がある。

 

さて、上念さんによれば、高学歴のエリートー会社員でも官僚でもーには以下の特徴がある。

1.リスク回避的である

2.安定志向であり、自己保身主義的である

3.相手が誰であるかを判断するとき、世間で重んじられるヒエラルキーばかりを重視する(※世間の評価・評判、学歴、職歴、企業規模など)

4.自分よりも「格上」と見做した人間には、思考を停止しておもねる。身内に対しては、自分が傷つきたくないので過剰に甘く、お互いに傷を舐め合う

5.「格下」の人間に対しては生死に関わる問題も含め極めて冷淡な態度をとる

こうした高学歴エリートたちの態度が、彼/彼女の所属する組織ー会社なり官庁なりーに大きなダメージを与え、場合によっては滅ぼしてしまうことは、言うまでもないだろう。

その代表的な例として、上念さんは戦前の旧日本軍を挙げている。

 

では、こうした(悪い意味での)高学歴エリートにならないために、私たちはどうしたらよいのだろう。

上に挙げた高学歴エリートの特徴と、逆のことをやればいいのである。

つまり、積極的にリスクを引き受けていく、安定志向を捨て、自己保身に走らない、などといったことだ。

すぐれた経営者は、ひるむことなく新しいことに挑戦することによって、企業を大きく成長させてきた。

その例として、上念さんはホンダの創業者・本田宗一郎さんを挙げている。

ホンダは、もともとはバイクの会社だった。それを本田さんは日本を代表する自動車メーカーのひとつへと成長させたのだ。彼はその後も、起死回生のアイデアによって幾度も経営危機を乗り越えてきた。

そんな本田さんの最終学歴は、高等小学校卒であった。高等小学校は、現在の中学校に相当する。つまりは、中卒なのだ。

仕事をするうえで、学歴というのは実は関係なかったのである。

 

東大、京大を出ているからといって、この国を良くできるとは限らない。いやむしろ、東大、京大を出た人間たちが今までこの国を傾けてきた、といっても過言ではない。

もう学歴信仰にとらわれるのはやめよう。低学歴にだって、この国を救うことはできるのである。

 

…なお、これはまったくの余談であるが。この本の著者の上念さんは、中央大法学部の出身である。

 

高学歴社員が組織を滅ぼす

高学歴社員が組織を滅ぼす

 

 

最近見た映画の感想(第161回)

・『オーケストラの少女』

歌が得意な少女がオーケストラづくりに奮闘する、という内容の音楽映画。

少女は、名指揮者レオポルド・ストコフスキーに、自らの楽団の指揮を依頼する。最初は多忙を理由に申し出を断っていた彼だったが、実際に楽団の演奏を聞いてみるや…

さてこのレオポルド・ストコフスキーさん、なんと実在の人物である。しかもご本人がご本人の役で出演しているというから、驚きだね。

本作は、まぁ要するに、歌のうまい女の子が自前のオーケストラをつくっちゃって、最後は世界的な指揮者と共演する、というお話なわけだけど、映画とはいえ、いくらなんでもストーリーがおとぎ話すぎやしませんかね?

 

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・『エル・マリアッチ』

メキシコのとある田舎町に、刑務所から脱獄したばかりの殺し屋がやってきた。彼の抱える黒いギターケースには、マシンガンが入っている。

一方、これと同時期に、同じく黒いギターケースを抱えたマリアッチ(音楽家)の青年が、同じ街へとやってきた。

そのせいで不運にも殺し屋と間違えられてしまった青年。命を狙われるも、なんとか街のバーへと匿われる。そこは、いかにもメキシコ美人といった印象の女性が経営するバーであったが、彼女はこの街のギャングの親玉の愛人であった…

…とまぁこんな内容の本作、要するに、殺し屋映画のパロディなわけ。

パロディなので序中盤にコミカルな場面もいくつかあるんだけど、一方で結末のほうは結構シリアス。

真面目過ぎず、かといってふざけすぎもせず。なんだかとても、不思議な魅力のある映画だった。

 

 

・『キー・ラーゴ』

地図を見てもらえるとわかるが、フロリダの先端部分は細長い島の連なりになっている。そのなかでも一番大きな島が、キーラーゴ島だ。

そのキーラーゴ島を舞台にしたのが、本作。監督は『マルタの鷹』でおなじみジョン・ヒューストン。主演はこれまた『マルタの鷹』のハンフリー・ボガードだ。

キーラーゴ島のホテルにやってきた主人公。ところがそのホテルはギャングの一味によって占拠されてしまう。主人公は元軍人だったが、戦争のトラウマのせいで無気力状態に陥っていた。だが傍若無人なギャング団を見ているうちに、沸々と怒りがこみ上げてきて…

アメリカ映画にはこのように、過去のトラウマのせいで戦えなくなった男が、悪党たちの横暴を見て正義感を取り戻し、最後には見事悪を討つ、といった内容のものが多い。わりと近年の映画のなかだと、『ダイ・ハード』がそうだったでしょう?

我らが戦後ニッポン君も、そろそろ過去のトラウマを克服し、横暴な隣国を討ちとってみては如何?

 

キー・ラーゴ(字幕版)
 

 

・『北国の帝王

1930年代の大恐慌の折、米国では汽車賃すら払えないという人が多かった。そういう人たちは、キセル(無賃乗車)によって大陸を移動していたのである。

ところが本作に出てくる鬼車掌は、絶対にキセルを許さない。キセルしている人間を見つけたら、容赦なくぶっ殺すのである。

これは比喩などではない。本当にハンマーで頭を叩いてレール上に転落させ、轢死させるというのだから、なんともエグい話。

ところがどっこい、キセルの世界にもスゴい男がいた! 「A(エース).ナンバーワン」と呼ばれる彼が、列車上で鬼車掌と死闘を繰り広げる、というのが本作の主な筋書きだ。

主人公・ナンバーワンを演じるは、リー・マーヴィン。もう見るからにシブく、百戦錬磨の達人、といった趣きである。…もっとも、やってることはキセルなんですけどねw(;^_^A

キセルの達人vs鬼車掌」という、一目で面白いとわかる素材なんだけど、ロバート・アルドリッチ監督のテンポがいささか悪く、そのせいでやや面白みに欠ける点が難点か。

 

 

・『唇からナイフ』

僕は1960年代のアクション映画が大好きだ。

『007』シリーズを筆頭に、これまで『電撃フリントGO!GO!作戦』『空から赤いバラ』などの作品を好んで見てきた。

本作も、1966年に公開されたアクション映画。全編にわたって『007』シリーズをパロディ化し、しかも主人公をお色気たっぷりのお姉さんにした感じの作品で、ユーモアたっぷり、皮肉たっぷりだ。

たとえば劇中のこんな会話。政情不安に陥った途上国を指して

「なぁに、豆粒ほどの小国ですよ」

「ならイギリスの半分くらいね」

1960年代、かつての植民地が次々独立し、「大英帝国の威厳、今いずこ」というほどに没落してしまったイギリスを皮肉った、見事なセリフでございました。

ラスト、謎のアラブ風軍団が応援に駆けつけてくれるシークエンスは、やっぱり『アラビアのロレンス』のパロディなんでしょうかね。

こういう描写、現代じゃもう無理なんだろうなァ…

 

 

書評『棋士の一分』

今日、将棋界において異彩を放っているのが、橋本崇載八段だ。

派手なスーツに金髪というまるで歌舞伎町のホストのような外見と、NHK出演時に他のプロ棋士のモノマネをするなど、絶えずネタを投下しつづけるサービス精神から、ネット上では「ハッシー」との愛称で親しまれている。

一方で、昨秋の三浦九段冤罪事件の際、twitterにて三浦九段を「1億%クロ」であるとツイート、後に撤回・謝罪するなど、なにかと“舌禍”の絶えない人でもある。

 

今回ご紹介するのは、そんな橋本八段による新書『棋士の一分』KADOKAWAだ。

橋本八段はこれまでに棋書を2冊刊行しているが、一般向けの新書を書いたのは今回が初めてである。

ちょうど三浦九段にソフト不正使用疑惑がもたれた最中に刊行された本なので、冒頭ではさっそくこの問題が触れられ、将棋界の従来の「事なかれ主義」が批判されている。

 

本著を読むと、橋本八段が、その派手な言動とは裏腹に、非常にまじめな人物であり、将棋界の将来を強く憂いていることが分かる。

冒頭部分からも明らかなように、橋本八段は本著の多くの箇所にて、現在の将棋界のありかたを強く批判している。

前述のとおり、彼はなにかと“舌禍”の絶えない人なので、僕は内心ひやひやしながら本著を読んでいたが、それも杞憂に終わった。確かにきつい言葉もあるが、それだけ将棋界の将来を憂いているからだと理解できる。

 

一般論として、批判を展開する人間には同時に対案を出すことも求められる。

橋本八段は本著において、将棋界改革のための具体的な提言をいくつかしている。

たとえば、「オールスター棋戦」の立ち上げがそれだ。

これは、野球のオールスター戦と同じように、将棋界においても、ファンからの人気投票によって出場棋士を選抜し、棋戦を行おう、というアイデアである。橋本八段はこのオールスター戦の資金をクラウドファンディングによって賄うことまで提案している(119頁)

このほかにも橋本八段は、現在の将棋界は現役棋士の数が多すぎるとして、すでに第一線で戦うのが難しくなったベテラン棋士は「レッスンプロ」としてアマチュアの指導に徹するべき、と主張している。

 

これらの提言には僕も大いに首肯できたが、一方で、橋本八段の主張のなかにはいささか時代錯誤と感じられるものもある。

たとえば「名人戦バラエティ化していいのか」という章では、ニコニコ生放送による棋戦中継が伝統文化をないがしろにするものだとして批判されているが、僕は(最近ではAbemaTVにおされているとはいえ)ニコニコ生放送が大好きで、いつも他のユーザーたちと一緒に「タノシソウダネ」弾幕を張るなどして楽しんでいる。べつに伝統文化をないがしろにしているつもりはない。

こういう楽しみ方があったって、それはそれで、いいのではないか。

 

書評というのは基本的に、本ないしその著者を褒めるための文章なのだが、最後にひとつ、僕が橋本八段と見解を異にする点を明らかにして本稿を締めくくるとしよう。

橋本八段は、米長邦雄日本将棋連盟元会長(1943‐2012)に批判的である。具体的には、米長時代に始まったコンピューターvs人間の対決「将棋電王戦」が結果的にプロ棋士のバリュー(価値)に傷をつけたと批判しているのだ。

たしかに、「なんだ、人間の棋士なんて大したことないじゃん」と感じた将棋ファンもいたことは否定しない(いわゆる「ソフト厨」というやつである)

だがそのことをもって米長時代を否定することなどできない。

米長会長のおかげで将棋界とドワンゴとの間につながりができ、だからこそ電王戦が生まれ、だからこそ(電王戦の出場棋士を決めるトーナメントという位置づけで)叡王戦が生まれ、だからこそ「第8のタイトル戦」が生まれたのである。

米長会長がいなければ、将棋界のタイトルは減りこそすれ、増えることなどありえなかっただろう。

 

 

書評『プラハの憂鬱』

先日は、作家・佐藤優さんの『同志社大学神学部』を取り上げた。

佐藤さんが京都・同志社大での自らの学生生活を回顧した本だ。

 

佐藤さんは同志社大を卒業後、チェコ語研修を希望して外務省に入省する。が、実際に研修を命じられたのはチェコ語ではなく、ロシア語であった。

当時、ロシアはまだ「ソ連」と呼ばれ、鉄のカーテンの向こう側であった。そのため、西側の外交官である佐藤さんは、当初、モスクワではなくイギリスのロンドンにてロシア語の研修を受けたのである。

今日取り上げる佐藤さんのノンフィクション『プラハの憂鬱』(新潮社)は、佐藤さんがイギリス留学時代を回顧した内容の著作だ。

 

佐藤さんはイギリスにて、亡命チェコ人たちと接する機会を得た。

佐藤さんのノンフィクションにおける華ともいえるのが、佐藤さんと現地の知識人との知的すぎる対話である。

佐藤さんは彼らと、哲学・神学やソ連ゴルバチョフ政権の今後などについて議論していく。

何十年も前の会話をよくもまぁこれだけ正確に記憶しているものだなぁ、とほとほと関心させられる。(;^_^A

 

大英帝国時代の栄光を失ったとはいえ、イギリスは今日でもなお、帝国である。

佐藤さんが留学した陸軍の語学学校は、ロシア語学科のほかにドイツ語学科などがあり、フォークランド紛争の際には急遽スペイン語学科が新設された。

ようするに、イギリスにとっての仮想敵国の言語を学習するための学校なのだ。

イギリスはまた、同校を卒業したOBたちとの人脈を維持し、いざという時(テロとか革命とか)には彼らとの人脈をふんだんに活用するのである。

決して、慈善で語学学校を運営しているわけではないのだ。

イギリスの国際社会に対する態度は、このように極めてシビアである。

 

イギリスの帝国としての証のひとつが、主にロンドン市内に移住ないし亡命している多数の異民族だ(そのなかのひとつに亡命チェコ人たちがいる)

イギリス社会は彼らのコミュニティーに基本的に関知しない。

これが隣国フランスだったら「フランス市民になれ!」「自由・平等・博愛という共和国の理念に忠誠を誓え!」と臆面もなく要求してくるところだ(これを同化主義という)

イギリスはそういうことは言わない。植民地支配においても、なるべく現地の民族の慣習に首を突っ込まないできた。

だからこそ、彼らはあれだけ大きい帝国を維持できたのだ。

…もっとも、そうしたやり方が本当に正しいのかどうかは、実のところ分からない。たとえば中東系移民のコミュニティーがイギリス社会に同化されずに取り残され、今日それがテロの温床となりつつあるからだ。

 

さて、実を言うと我らが日本もかつては植民地帝国だったのであり、今日もなお大国なのである。

本著のなかで、佐藤さんと亡命チェコ人が以下のような対話をしている。

≪日本は大国なので、日本人にはチェコ人のような弱小民族の気持ちを理解することは難しいと思います」

「日本人は、自らを小民族と考えています」

「しかし、日本の人口は英国よりも多い。それについ四十数年前に日本は全世界を敵に回して戦いました」≫(69頁)

佐藤さんも指摘しているように、日本人には自らの国が大国だという自覚がない。だが亡命チェコ人の目から見れば、日本はれっきとした大国なのである。

それはなにも、(昨今のテレビ番組にありがちな)「日本はこんなにも素晴らしい国です!」「ごらんください、世界の人々がこんなにも日本を愛しています!」といったたぐいの安直な日本礼賛ではない。

大国は国際社会に対し責任を負っている。ところが自らが大国だという自覚のない大国は、往々にして無責任な態度をとってしまいがちである。現下の日本の問題点のひとつが、それだ。

ようするに、日本は大国だから素晴らしいのではなく、日本は大国であるにもかかわらずそれを自覚できていないからダメなのである。

 

日本はもっと、大国ないし「帝国」としての自覚をもったイギリスを見習うべきだろう。同じ島国なんだしさ。

 

プラハの憂鬱

プラハの憂鬱

 

 

最近見た映画の感想(第160回)

・『レヴェナント:蘇えりし者

レオナルド・ディカプリオというのはなかなかに面白い役者さんだ。

タイタニック』のころはいかにも「王子様~」といった印象で、俳優というよりかはむしろアイドルといった趣きだった。しかしその後は、“いい意味で”汚らしい役を好んで演じるようになったのである。

「レオ様が汚らしくなっちゃった~」と多くの女性ファンはがっかりしたことだろうが、僕ら同性の目から見れば、王子様キャラを拒絶してあえて汚らしくなった彼は、むしろ憧れなのである。

本作にて彼は、実在した罠猟師ヒュー・グラスを演じている。

率直に言って、汚らしいオッサンである。これが本当に『タイタニック』のあのジャックなのか。だが汚らしいオッサンは、それゆえに常人離れした強靭な生命力を発揮して、ひとり野生の森から生還するのである。

本作は、マジックアワーでの撮影にこだわったのだという。マジックアワーというのは夕方ないし明け方の、太陽が沈み切っていないかあるいは上り切っていない、ごく短い時間帯である。

このマジックアワーのとき、世界は幻想的な青色に包まれる。本作の舞台である野生の森も、そのためにつねに不思議なブルーの色合いを湛えている。

そんなブルーの世界のなかにあって、ひとり屹立するディカプリオ=ヒュー・グラスの美学が際立つ。

 

 

・『浮かれ姫君』

18世紀のフランス。主人公のお姫さまは、政略結婚が嫌だというので、下女に化けて新大陸への船に乗る。

途中、運悪く海賊に遭遇するが、そこにタイミングよくネルソン・エディ演じる大尉が現れ、お姫さまを助けてくれる。それからいろいろあって、最後はお姫さまと大尉がくっつくという王道ストーリーのミュージカル映画である。

お姫さまを演じるジャネット・マクドナルドが溌剌としていて、美しい。

 

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・『ウェディング・シンガー

主人公は、結婚式で歌を披露する歌手。だが当の本人の結婚式では、なんと花嫁さんに逃げられてしまった。

以来、失意の日々を送る主人公であったが、やがて職場で知り合ったウェイトレスの女性と親しくなる。だがその女性はほかの男性との結婚を考えていた…

主人公は、ジョン・トラボルタからもうちょっとカリスマを抜きとったような感じの(失敬!)アダム・サンドラー

ヒロイン役のドリュー・バリモアは、ややふっくらしていて格別美人というわけでもないが、魅力的な女性である(と書くとまるで村上春樹作品のようだな、やれやれ)

90年代の映画だが、80年代の雰囲気がよく出ている作品だ。同時に、アメリカ映画における伝統的なラブコメディの手法にも忠実である。

 

 

・『 歌え!ロレッタ 愛のために』

実在のカントリー歌手ロレッタ・リンの半生を描いた伝記映画である。

主人公ロレッタは、炭鉱労働者の娘。まだ若いのにさっさと男と結婚しちゃって、案の定すぐ別居するも、子供ができたことがわかり、結局は男と元のさやにおさまって、故郷の街を去る…という序盤の筋書きは、なんだか現代日本のマイルドヤンキー層でもよくありそうな話である。

その後、子宝に恵まれた彼女は、よく子供たちに唄を歌って聞かせたことから、夫は彼女の才能に気づき、さっそくローカルのラジオ局に売り込みをかける。これが好調で、彼女はカントリー歌手としてどんどん人気を獲得していく。

夫の役を演じているのが、日本では某缶コーヒーのCMですっかりおなじみとなったトミー・リー・ジョーンズだというのが笑える。僕などは「あぁ、ジョーンズ調査員、若い!w」と終始笑いながら本作を見ていた。

 

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・『 エルヴィス・オン・ステージ』

エルヴィス・プレスリーはその生涯において何十本もの映画に出演したが、本作は劇映画ではなく、エルヴィスの1970年の公演の模様をおさめたドキュメンタリー映画である。

このテのドキュメンタリーの定番どおり、まずリハーサルの場面から始まる。エルヴィスはあれだけのスターなのに偉そうな印象はまったくなく、気さくな感じでスタッフと冗談を言い合いながら練習をしていく。いい人だったんだなァ。

後半はひたすら公演だ。複数にわたった公演での映像を、編集してひとつのシークエンスにまとめたのだという。

本作のおかげで、現代の世界に住む我々も、エルヴィスの公演の“疑似的な観客”になれるというわけなのだ。テクノロジーに感謝!

 

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書評『同志社大学神学部』

今日はまず、自分の話から始めることをお許しいただきたい。

僕は関東のとある国立大学の工学部に進学した。しかし高校時代には、むしろ文科系の科目のほうが得意だったし、好きだったのだ。一番好きな科目は世界史で、その次が倫理、3番目が英語だった。

それだのにどうして工学部なんぞへ進学したかというと、この就職難ー今でこそアベノミクスのおかげで人手不足、売り手市場となっているが、当時はまったく違ったーの時代にあって理科系のほうが就職に便利だと周囲の大人たちから“助言”を受けたからだった。

大学の授業は、第2外国語のドイツ語や一般教養の授業を除けば、まったく面白くなかった。

それでも3年間はなんとか我慢した。ところが4年目に入って研究室に配属されると、もう堪えきれなくなった。

結局、なんとか卒業はさせてもらったが、理系研究者の道からは完全にドロップアウトした。

以降数年間は、それまでの反動で“ド文系”になり、iPodビートルズの曲を入れながら吉祥寺の古本屋を歩いて回るなどした。当時は「理系」という言葉に触れるたびに、じんましんすら出た。

大学時代に学んだ内容は、第2外国語で学習したドイツ語を除いて、なにもかも、きれいさっぱり忘れてしまった。

 

そんなこんなで、僕にとって大学の4年間は、まったくもって、灰色の時代であった。

今日ご紹介する、作家・佐藤優さんの『同志社大学神学部 私はいかに学び、考え、議論したか』(光文社)を読んで、僕は佐藤さんの青春時代を心底うらやましく感じた。

 

本著は、佐藤さんが自らの学生時代を振り返った本だ。

佐藤さんは、高校時代、左翼の活動家であった。やがて無神論を研究しようと思い、同志社大学神学部へと進学した。当時から同学部は、キリスト教徒でなくても、キリスト教に興味があるという学生は受け入れていたからだ。

やがてこの地で研究を進めるうちに、佐藤さんは、マルクス主義からのキリスト教批判ー「宗教はアヘンである」っていう有名なアレーが実は誤解に過ぎなかったことを知る。そして洗礼を受け、キリスト教徒となったのである。

本著は、洗礼を受けた佐藤さんが、知的好奇心の強い同級生たちや人間味あふれる先生たちと極めてレベルの高い対話を日夜繰り返すという、なんとも高尚だけれども浮世離れした青春を描いていく。

 

本著の舞台となる京都の街もまた、実に温かい。

佐藤さんのような観念的な神学生も、京都の街は温かく受け入れてくれる。

小説家・森見登美彦の描く京都も、やはり浮世離れした京大生を温かく包摂してくれる場所だ(たとえば彼の代表作『四畳半神話大系』を見よ)

僕は、理科系の学部に進学したというだけでなく、関東などという不毛の地で貴重な青春時代を浪費してしまったことを、つくづく後悔したのだった。

 

温かく甘美な学生生活にも、しかしながら終わりは確実にやってくる。

佐藤さんは、同志社大神学部にて、チェコ神学者・フロマートカについて研究した。佐藤さんは研究をさらに深めるべく、フロマートカの祖国・チェコー当時はチェコスロバキアへの留学を望んだが、当時のチェコはまだ鉄のカーテンの向こう側。当然佐藤さんの希望は思うようにいかない。

やがて佐藤さんは、外務省に入省し、同省の研修生としてチェコに語学留学することを思いつく。

外務省の試験に、1度目は失敗したものの、2度目は見事合格、佐藤さんは晴れて外交官としてのキャリアを始めることとなった。

しかしそれは同時に、これまで佐藤さんを温かく育んでくれた同志社大学神学部に、別れを告げる、ということも意味していた。

ラスト。佐藤さんを送り出す神学部の学部長・石井裕二教授の言葉が、僕たち読者の胸を強く打つ。

 

「佐藤君。外務省での生活が苦しく、どうしても耐えられなくなったらいつでも神学部に帰ってきなさい。僕たちはいつまでも君のそばにいるからね」