Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『つぎはぎ仏教入門』

評論家・呉智英(くれ・ともふさ)さんについては、以前このブログで著書を取り上げたことがあった。

 自ら「封建主義者」を名乗り、「差別もある明るい社会」をスローガンに掲げるなど、アイロニカルな論考が魅力の評論家だ。

 

今日ご紹介するのは、そんな呉さんによる仏教の入門書『つぎはぎ仏教入門』筑摩書房である。

この本の特色はなんといっても、そのおそろしいまでの分かりやすさ

仏教というのはなにやらフクザツでよく分からない代物だと、おそらく多くの人が感じていることだろう(僕もそうだった)。本著ではそんな仏教が、実に分かりやすくコンパクトにまとめられているのだ。

仏教について知りたい、でもどの本から読めばいいのか分からない、と途方に暮れている人がいたら、僕はまず本著から読むよう勧める。本著を起点として、仏教の豊饒な世界が読者の前に開かれるはずだ。

 

本著は全5章からなり、文庫版ではさらに補論がふたつ載せられている。個人的に面白いと思ったのは、第5章だ。

この章のなかで、呉さんは仏教界の安直な「社会参加」を戒めている。

僕も呉さんに賛同する。

宗教の「社会参加」と聞くと、我々はすぐボランティア活動を連想してしまう。「それならもっとやればいいのに」と思ってしまう。

だが考えてもみれば、呉さんも本著のなかで書いているように、イスラーム教のジハードだってれっきとした「社会参加」なのである(※)。安直に、宗教に対して「もっと社会参加を!」などと危険なことを、果たして言って良いものだろうか。

我々はもっと、「宗教とは元来危険なものである」という点を理解しなければならないのではないか。そしてこの場合の「宗教」とは、なにも新興宗教に限らないのである。

※おそらく、現在、いわゆる世界三大宗教のなかでもっとも「社会参加」に熱心なのは、イスラーム教だろう。

 

第5章ではこの他、仏教のなかにある女性差別的な発想が俎上に載せられ、批判されている。

この点、「封建主義者・呉智英」が意外にもフェミニズムと親和性があることが垣間見え、とても興味深かった。

 

つぎはぎ仏教入門 (ちくま文庫)

つぎはぎ仏教入門 (ちくま文庫)

 

 

最近見た映画の感想(第167回)

・『カバーガール』

 1944年公開のミュージカル映画。主演は、フレッド・アステアとならぶアメリカ・ミュージカル界のスター、ジーン・ケリーだ。

ナイトクラブで働くヒロインが、カバーガール雑誌の表紙を飾る女性のことのコンテストに応募し、みごと優勝。ブロードウェイの花形スターとなるが、かつてのナイトクラブの振付師ジーン・ケリーの気持ちに気づき…

まぁ、往年のアメリカ・ミュージカル映画にはわりとありがちなお話である。

それにしても世界中が阿鼻叫喚の地獄絵図にあった第二次大戦真っ只中の1944年において、これほどのカラー映画を撮ってしまうんだから、やっぱりアメリカってすごい国だったんですね。

 

 

・『パーマーの危機脱出』

僕は、1960年代のスパイ映画が大好きだ。

ショーン・コネリー主演のあの『007シリーズ』を筆頭に、本ブログではこれまで『電撃フリント GO!GO!作戦』『空から赤いバラ』などのスパイ映画を好んで取り上げてきた。

本作『パーマーの危機脱出』もまた、1960年代に制作されたスパイ映画シリーズの一作。だが、豪華絢爛なアクション映画『007』とは全く異なり、本作は、地味だけれども頭の切れる主人公ハリー・パーマーの活躍を、リアルかつ堅実に描写していくのが特徴だ。

原題"Funeral in Berlin"から明らかなように、本作の舞台は東西ベルリン。ーそう、当時まだこの街は「東西」に分断されていたのだ。

冒頭、「赤い海共産主義諸国)に浮かぶ自由の島」としての西ベルリンの喧噪が描かれ、つづいて物静かな東ベルリンの街が描かれる。現代の観客は、その落差に驚くことだろう。

すでに戦後20年が経過しているとはいえ、東西ベルリンの街にはいまだ、第二次大戦で破壊された建造物の多くがそのまま放置されている。

このように、当時のベルリンの街を眺めているだけでも、本作は十分に楽しい。

どうやら本作のもうひとつの主人公は、ベルリンの街であったようだ。

 

 

・『引き裂かれたカーテン』

サスペンスの神様・ヒッチコック監督による作品。

ポール・ニューマン演じるアメリカ人物理学者の主人公が、東側への亡命者を装って東ベルリン(あ、またここが舞台ですか)に到着。そこで東側の軍事機密を入手すべく、あれやこれやと工作を試みる。

襲い掛かる敵を包丁などの台所用具で滅多打ちにした末、ガスオーブンに詰めて窒息死させるといった具合に、アクションシーンにもこの巨匠らしい趣向が込められていて、観客を飽きさせない。

が、それでもヒッチコックさんの他の作品と比べてしまうと、本作の出来はぶっちゃけイマイチ、といったところでしょうかね。

本作でも、第二次大戦で壊れたままのベルリンの建築物が出てきて興味深かったデス。

 

 

・『パニック・イン・スタジアム』

アメリカ、LAの巨大スタジアム。アメフトの試合が行われ、多くの観客でごった返すなか、ライフルをもった謎の狙撃手が潜入した。

これを察知したロス市警は狙撃手の身柄を確保しようとするが、狙撃手の腕前はプロ級で、なかなか捕らえられない。

そうこうしているうちに、狙撃手は観客席に向かって無差別に銃を乱射、多くの犠牲者が発生する……。

終盤のこの銃乱射と、観客たちがおびえてスタジアムの外へと群れを成して逃げ出すシーンが、本作の見どころである。

狙撃手の素性が最後まで謎のままなのが気に入った。

 

 

・『バニー・レークは行方不明』

本ブログではこれまで、『危険な情事』『白い家の少女』といったホラー・サスペンス映画を取り上げてきた。いずれの映画を見ても「幽霊なんぞより生身の人間のほうがよっぽど恐ろしい」という結論に至った。

本作もそうだ。

アメリカ人のシングルマザーとその娘・バニー、および母親の兄(バニーの伯父)の3人が、英国・ロンドンへと移住してきた。母親はバニーを保育園に預けるがーもっともその場面は描かれないーバニーは行方不明となってしまう。さっそく捜査に乗り出すロンドン警察。

しかし物語が進むにつれ、このシングルマザーは孤独な幼少期を過ごしており、そのときに彼女が創作した「空想上のお友達」の名前がバニーであったことが判明する。

どこか浮世離れした印象のシングルマザー。かくして観客は疑念を抱くのであるーそもそも彼女に娘なんて本当にいたのか、と。

だが、本作において最も特筆すべき登場人物は、むしろ彼女の兄のほうである。いかにも頭脳明晰で優秀そうに見える一方、いわゆる「論破厨」と呼ばれるタイプで、他人を仮借なく批判し、そのせいで敵を作りやすい性格である。

だが終盤になるにつれて、ただの「論破厨」にはとどまらない、彼のサイコパスとしての狂気があぶり出されていき、観客は戦慄するのである。

さて、結局のところ、タイトルともなっている娘バニー・レークは、実在したのか、否か。最後まで先の読めない筋書き。ラストまで必見である。

 

バニー・レークは行方不明 [DVD]

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最近見た映画の感想(第166回)

・『ガール!ガール!ガール!』

エルビス・プレスリー主演のアイドル映画。

南洋の楽園・ハワイを舞台に我らがエルビスが歌って歌って歌いまくる。

やっぱり、60年代のスターには海がとても良く似合う。わが国では、石原裕次郎がそうだったように。

ただしストーリーのほうは…いっちゃナンだけど、まぁ、単調ですねぇ(w

 

ガール!ガール!ガール! [DVD]

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・『カーネギー・ホール』

NYの音楽の殿堂、カーネギー・ホール。その半世紀以上もの歴史を、ひとりの女性の半生とともに描いた作品。

主人公の女性は、少女時代にカーネギー・ホールの落成式を見て以来、ホール一筋。掃除婦の職を得、毎日ホールで働いている。やがてピアニストと結婚、息子を授かるものの、夫は急死してしまう。以来、女手一つで息子を育てていく。息子はやがて、音楽の道を志す。

主人公は、彼女なりに息子を支えようとするが、彼はそんな母親に反発し、家を飛び出してしまう。

僕には彼の気持ちがわかる気がする。母親の「あなたのためを思って~」が、息子にとってはかえってウザイものなのだ。

本作では、彼女の半生における個々のエピソードを、音楽が彩る。そう、本作は音楽映画なのだ。

ひとつの場所を舞台に女性の半生を描いたということで、僕は東京ディズニーランド30周年のCMを思い出しながら本作を見ていた。

 

カーネギー・ホール [DVD]

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・『回転木馬

遊園地にて回転木馬の案内役をつとめる男性と、ヒロインの女性とのロマンスを描いた、ミュージカル映画である。

海をはじめとして、舞台の街の風景がとても綺麗だが、ミュージカル映画としては、序盤の展開がややダルいところが難点か。

終盤、なんと事故死(!)してしまった主人公は、忘れ形見である娘のことがどうしても気になり、霊界から人間界へと下る。そこにはすでに成長して年頃の女性となった娘がいた。

なんとなく、名画『素晴らしき哉、人生!』を思い出しながら本作を見ていた。

 

 

・『楽聖ショパン

作曲家・ショパンの生涯を描いた伝記映画としては、以前、『別れの曲』を取り上げた。あちらは1934年公開のドイツ映画だったが、1945年にアメリカで公開された本作もまた、ショパンの伝記映画のひとつだ。

もっとも、その出来のほうは…『別れの曲』と比べると、正直イマイチである。

ショパンは音楽家であると同時に、祖国ポーランドの再興を熱望するナショナリストでもあったのだが、『別れの曲』のほうが、政治と音楽とのあいだで股裂き状態に遭うショパンの葛藤が、よく描かれていたと思うのだ。

一番の見せ場ともいえる、音楽家・リストとの出会いも、『別れの曲』のほうがある種、任侠映画にも通ずるところがあり、うまかった。

本作のヒロインは、男装の麗人ジョルジュ・サンド。だが、なんだかメイクが極端な感じで、どことなく故・鈴木その子さんみたいだ。ご本人の肖像画のほうが、ぶっちゃけ美人である。

……と貶してばかりいるが(w)、ショパンと行動を共にする音楽の師がなかなかいいキャラしていて、本作の真の主人公はもはやショパンではなく彼とすら言えるほどである。

 

楽聖ショパン [DVD] FRT-135

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・『カストラート

近世ヨーロッパにおいて、(声変わりしないよう)去勢された男性ソプラノ歌手のことを「カストラート」(castrato)と呼んだ。

タイトルの通り、本作はそのカストラートを主人公とする映画である。主人公の名は、ファリネッリ、18世紀に実在した人物である。

カストラートであるファリネッリは、彼の兄とともにヨーロッパを巡業している。彼は女性の間で絶大な人気があり、彼の歌声を聞いて失神する女性客まで出るありさまであった。

このようにモテまくり、一晩を共にする相手にはことかかないファリネッリだが、当然アレがないため、女とセックスすることができない。そこで彼の兄の出番である。

本作には官能的なシークエンスも多く、ファリネッリと女性、そして兄による奇妙な3Pを描いている。

格調高い作風であり、18世紀ヨーロッパの習俗がよく再現されているところも、ブラボー!

 

 

書評『現人神の創作者たち』

戦後日本において異色の保守論客として活躍したのが、評論家の山本七平さん(1921‐1991)である。

どこがどう異色であったか。

日本社会の抱える問題点をがんがん剔出していくその記述のスタイルもさることながら、デビューの経緯がいささか風変りなものであったのだ。

彼の(事実上の)デビュー作『日本人とユダヤ人』は、「イザヤ・ベンダサン」というユダヤ人の名で出版された。山本さんは、この本の訳者として扱われた。

だが今日では、この「イザヤ・ベンダサン」なるユダヤ人は実のところ架空の人物にすぎず、訳者とされた山本さんこそがこの本の真の著者であったことが分かっている。

どうしてわざわざ、こんなややこしい“設定”を採用したのか、一読者にすぎない僕には正直よくわからない。

ただ僕が思うに、山本さんは、自らの日本社会に向けた眼差しが、どこか「外人」が日本社会を見つめるときのそれと似ている、と感じていたのかもしれない。

 

今日取り上げるのは、そんな山本さんによる力作『現人神の創作者たち』筑摩書房

戦前、天皇は「現人神」(あらひとがみ)と呼ばれた。「この世に人間の姿で現れた神」という意味だ。どうしてこのような特異な概念が誕生したのだろう。

山本さんはその謎を探るべく、日本史を近世、中世にまでさかのぼり、どのような経緯で「現人神」が誕生したのかを分析していく。

あとがきにも書いているとおり、山本さんは、クリスチャンであった。

≪三代目のキリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に「現人神」を意識し、これと対決せざるを得なかった≫(下巻277頁)

クリスチャンである山本さんが、キリスト教の教えと相いれない(ように見える)現人神なる概念と向き合いつづけた結果、世に出されたのが本著なのだ。

本著は、したがって山本さんのライフワークともいえる作品なのである。

 

……余談ながら。熱心な尊王家として知られる作家の佐藤優さんも、同志社大神学部で学んだクリスチャンである。クリスチャンはこのように、熱心な尊王家になることもある。この点、第二次大戦時に日系アメリカ人が米兵として誰よりも果敢に戦ったという話と、どことなく似ている。

 

本著の記述スタイルが面白いのは、中世近世の尊王思想と戦後日本の左翼思想とを比較しながら議論を進めていく点だ。

たとえば、(抽象名詞としての)「中国」。日本人はかつて中国をあがめていたが、その中国(明)は異民族の清によって滅ぼされてしまった。それから日本人にとって「中国」は現実の清とは異なる抽象的な概念となり、「日本こそが中国である」との発想すら生まれた。

これと似ているのが、「社会主義」。日本の左翼はかつてソ連をあがめていたが、そのソ連は実のところ専制国家に過ぎないことがスターリン批判などで暴かれてしまった。それから日本の左翼にとって「社会主義」は抽象的な概念となり、現実のソ連とは別の「本物の社会主義」を目指すべきだという話になった。

本著が書かれたのは東西冷戦真っ只中の1970年三島由紀夫切腹した年だーだったから、山本さんのこうした議論の進め方はさぞや当時の読者たちを刺激したことだろう。

 

本著を読んでいると、意外な事実に次々と出くわす。

後世の尊王思想に強い影響を与えた人物として栗山潜鋒(1671‐1706)が挙げられるが、彼は自らの著書『保建大記』において激しい「天皇批判と天皇政治責任の追及」を展開していたのである。

どうしてこれほど厳しい天皇批判が、むしろ後世の天皇礼賛へとつながっていったのか。ここではあえて書かない。気になる方は、ぜひ本著を読んでみてほしい。

 

実を言うと、本著とほぼ同じ内容を、より平易かつ親しみやすい文体で著した本がある。

社会学者・小室直樹さん(1932-2010)の『天皇畏るべし-日本の夜明け、天皇は神であった』だ。今から30年以上前の著作だが、幸いなことに近年復刊された。

『現人神~』を読んで「うーん、ちょっと難しいなぁ」と感じた読者は、まず小室さんの『天皇畏るべし』から読むことをお勧めする。そこから『現人神~』を読み直すと、だいぶ理解が深まることだろう。

なお、山本さんと小室さんは、大の親友であった。

 

本著を難しいと感じた読者に、もうひとつ朗報。

下巻巻末にて、「日本の正統と理想主義」という題の、山本さんの文章が載せられている。

ですます調で書かれたこの文章は、本著全体の分かりやすいアブストラクト(要約)となっている。本著の内容があまり頭に入らなかったという読者は、この「日本の正統~」を読んでから再度本著全体を読んでみると、だいぶ視界がクリアになることだろう。

 

現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)

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現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)

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書評『江藤淳という人』

優れた知識人には、たいてい、優れた師匠がいるものである。

 

浅羽通明さんの場合、それは呉智英さんであった。

では福田和也さんの場合、それは誰であったか。

 

江藤淳さんであった。

 

福田さんは、処女作『奇妙な廃墟』を世に出して後、江藤さんにその才を認められ、公私両面にわたって支援を受けながら、論壇進出への足がかりを得た。

福田さんにとって江藤さんは、したがって事実上の師匠といえる存在であったのだ。

 

その江藤さんは、1999年の夏、この世を去った。自殺であった。

江藤さんが亡くなった直後から、福田さんは、江藤さんを追悼する文章を数多く著した(編集者からは「襲名披露ですね」と笑われたらしい)

本著『江藤淳という人』(新潮社)は、そのとき福田さんが書いた江藤さんの追悼文を中心に、一冊の書籍にまとめたものだ。

 

本著を読むと、江藤さんは非常に面倒見のよい人だったことが分かる。

福田さんに、文章についてあれこれ指南してくれたのも江藤さん。福田さんに、大学の教員のポストを紹介してくれたのも、江藤さん。

福田さんは現在、慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス(SFC)の教授である。

佐々木敦さんの『ニッポンの思想』講談社によると、福田さんは学生さんたちの面倒見が非常に良く、そのためSFCの学生さんたちからは大変に慕われている、ということである。

「へぇ、あんなに連載を抱えていて忙しい人が、よくそんなに面倒を見られるもんだなぁ」と僕は思ってきたが、本著を読んでようやくその理由が分かった。

福田さんの師匠であった江藤さんがまた、非常に面倒見が良かったからなのだ。

福田さんは、そうして江藤さんからもらった恩を、今度は若い世代に返そうとしている。そしてその若い世代は、さらに次なる世代へと恩を返していくに違いない。

このようなギブ・アンド・テイクのありかたを、文化人類学の世界では互酬(Reciprocity)と呼ぶ。現代日本のアカデミズムの世界でも、このようなかたちで互酬は続いていくのだ。

 

もっとも、江藤さん、単に「いい人」であったわけでもなさそうだ。

福田さんがまだ駆け出しの若手だった頃。福田さんが江藤さんにお歳暮を贈ったところ、江藤さんから、まだ半人前のお前が贈り物など早い! と叱られてしまったのだという。

その後、福田さんは評論家として著名になって後、あらためて江藤さんにお歳暮を贈った。すると今度はきちんと受け取ってくれ、さらには礼状まで送ってくれたのだという。

美談ではあるが、同時に「あ~なんか、メンドクサイ人だな」と僕は思ってしまった。

もっとも、そういったメンドクサさこそが、人を育てていくのかもしれないけれど。

 

つくづく、福田さんは師匠に恵まれたんだな、と思った。

正直、うらやましい。

 

江藤淳という人

江藤淳という人

 

 

書評『最後の対話』

本著『最後の対話ーナショナリズム戦後民主主義(PHP研究所)は、文芸評論家の福田和也さんと、批評家の大塚英志さんによる対談本である。

 

サブタイトル「ナショナリズム戦後民主主義」とは、一体どういう意味だろう。

これは、対談者ふたりの立ち位置を表したものである。すなわち、福田さんはナショナリスト、大塚さんは戦後民主主義者、という具合に。

「え、それじゃあふたりの立ち位置は正反対じゃん? そんなんでちゃんと嚙み合った議論なんてできるの?」

と疑問に思われる読者もいるかもしれない。

ところがどっこい、できるのである。

それは、ふたりとも「あえて」政治的立ち位置を決めているからに他ならない。

つまり福田さんは、「大きな物語」が失効し、価値観・ライフスタイルが多様化したこの現代において「あえて」ナショナリズムという大きな物語を選択し、大塚さんは「あえて」戦後民主主義という大きな物語を選択しているのである。

ふたりは、したがって似た者同士なのだ。

 

さて、本著のなかで個人的に面白いと感じられたのは、第3章から。

ここから、大塚さんが少しずつ「福田さんの正体」へと迫っていくからである。

以前にも書いたように、福田さんは「アイロニーの評論家」と呼ばれている。彼は単純な保守ではなく「あえて」保守という立ち位置を選んでいるーあるいは、偽装しているーにすぎないのだと、よく指摘される。

その指摘は、正しいだろう。上にも書いたように、福田さんはあえて大きな物語としてのナショナリズムを選択しているように、すくなくとも僕の目には映る。だが、そうだとしても「なぜ、その大きな物語ナショナリズムでなくてはいけないのか」という問題は残る。

本著のなかで大塚さんは、福田さんに「で、結局のところ、あなたは一体何者なの? 日本をどうしたいの?」と問いかけるのだ。

さぁ、それに対する福田さんの答えは…

 

福田さんの説明は抽象的で分かりづらいのだがー肝心なところは煙に巻いてしまえ、ということかもしれない。そうならば福田さんのイジワルな部分がよく出ているー要するに彼は「天皇なきナショナリズム」を志向(思考)しているらしいことが、読んでいて徐々に分かってくる。

言い方を変えれば、福田さんは天皇を愛するがゆえに天皇制に反対する人なのである。

福田さんによれば、近代日本は天皇(彼の言葉を借りれば)ナショナリズムの発電機」として利用してきた。だがそれも、もうそろそろやめにしないか。近代以前の天皇は、和歌などの日本文化の中心に位置する、きわめて文化的な存在だった。そうしたあり方に戻ろうじゃないか。東京の皇居から京都御所に戻って、そこで文化的な存在として政治から離れ、静かに過ごせばいいじゃないかーこれが福田さんの考えなのだ。

福田さんは天皇を文化的な存在としては愛しているから、共産党あたりの言う天皇制廃止論とは全く異なる。だが福田さんは、天皇と政治を切り離して、政治のほうは「天皇なきナショナリズム」で行けと、こう言っているのだ。

……もちろん福田さんは決して口にはしないが、この「天皇なきナショナリズム」とはとどのつまり、ファシズムのことではないのか、と僕はにらんでいる。

 

本著のなかで福田さんは、様々な論点を提起することで肝心な部分を煙に巻いているように、やはり僕の目には見えてしまう。

だがそれは、かならずしも悪いことではない。おかげで興味深い論点が多々示されるからだ。

例えば天皇について、福田さんはこう述べている。

≪明治帝は維新後すぐ宮廷女官の手から引き離され、薩摩が選任した傳育官に預けられています。天皇を、さきほどお話したナショナリズムの発電機たらしめる一方策でした。が、同時に、連綿と続いてきた皇室のなかの「たおやめぶり」を排除する試みでもあったのです。これもまた、皇室の伝統からすれば異様なことでした。≫(182頁)

天皇の本質を「たおやめぶり」(女らしさ)に見る福田さんの見解に、僕も同意する。

あえて挑発的に言おう。天皇は、男の娘だったのである。

 

最後の対話―ナショナリズムと戦後民主主義

最後の対話―ナショナリズムと戦後民主主義

 

 

書評『神学の思考』

元外交官にして作家という異色の経歴をもつ、佐藤優さん。

だがそもそもは、チェコ語研修を希望して外務省の門をたたいた、同志社の神学生だったのである。

 

本著『神学の思考』平凡社は、そんな佐藤さんによるキリスト教神学の入門書だ。

まずプロレゴメナ(序論)から始まり、つづいて神論、創造論、人間論、キリスト論、と続いていく。

我々日本の読者にはなにやら見慣れない構成だが、こうした記述の仕方は、ごく標準的なプロテスタント神学の枠組みに合わせたものなのだという。

 

さて、「神学なんて“虚学”の最たるものもんでしょ。どうせ役に立たないじゃん」と思われた方もいるかもしれない。

ところが佐藤さんは「あとがきにかえて」にて、こう書いているのだ。

≪読者は意外に思われるかもしれないが、「はじめに」でも触れたように私は究極の実用書として本書『神学の思考』を書いた≫(309頁)

えっ? 神学書が「究極の実用書」!?

≪究極の実用とは、生きていくために役に立つという意味だ。われわれがどのような時代に生きているかという「時の徴」をとらえ、一人ひとりが社会の中でどのような場所にいるのかを知るために、神学はとても役に立つ。≫(309頁)

佐藤さんは、一般の人々の目には見えない事柄を可視化することにこそ、神学の思考の特徴がある、としているのだ。

佐藤さんによれば、たとえばISーいわゆる「イスラーム国」ーの動きを理解するために、それは役に立つのだという。

当事者たちは自らの運動を、最後の預言者ムハンマドの時代を回復するための復古維新運動と考えているが、佐藤さんに言わせれば、実際は近代的現象に過ぎない。

これが、目には見えない事柄である。

あるいは、資本主義を分析する際にも、神学の思考が役に立つのだという。佐藤さんはマルクス経済学ー正確にはその一派としての宇野経済学を使って経済を分析する。

なぜ今、マル経なのか。

≪システムの内部にいる人々には、この現実が見えない≫(311頁)からだ。

そこで佐藤さんは、資本主義のシステムの内部でものを考える近代経済学ではなく、あえて資本主義の外部を思考(志向)するマルクス経済学を推奨するのであるーもっとも、僕自身はマルクス経済学には懐疑的なのだけれども

 

上述の通り、本著はプロレゴメナ(序論)、神論、創造論、人間論、キリスト論という構成をとるが、佐藤さんはさらに、救済論、教会論、信仰論、終末論を書く予定なのだという。

それらは、いつ書籍化されるのだろう。今から楽しみでしょうがない。

もちろんそれも、「究極の実用書」なのだろう。

 

現代人は、目に見えない事柄を扱うのが苦手だ。

なんでもかんでも、目に見える事柄ばかり追い求めたがる。

本著は、そうした現代人への強烈なアンチテーゼにほかならない。

 

 

…最後にひとつ、佐藤さんに質問を。本著の人間論では、結婚についての現代プロテスタント神学の考えが説明されているが、これは当然ながら、というべきか、異性間の結婚を前提としている。

では同性間の結婚について、現代プロテスタント神学は、そして佐藤さんは、どのように考えておいでか。

 

神学の思考

神学の思考