Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

「リア充である者」と「リア充であろうとする者」

リア充になりたい」というのは、いまや現代に生きる多くの日本人にとっての願望だろう。

まさか今どき「リア充」という言葉を知らない人などいないと思うが、一応念のため解説しておくと、「リア充」というのは「リアル(ネット上ではない、私生活)が充実している人」を指す言葉である。

元々は「2ちゃんねる」の大学生活板というところで使われていたネットジャーゴンだったが、あれよあれよという間に普及して、いまやれっきとした日本語になってしまった(かつて大学生活板の住民だった僕としては隔世の感を禁じ得ない)。

 

リア充」にあこがれる人々は、なんとか自分もリア充になろうと、トークスキルを磨いたり、おしゃれに気を配ったり、といろいろ涙ぐましい努力をしているようだ。

そういった人々に対しては、しかしながら残酷な告知をしなければならない。

どれだけ努力をしたところで、もともと「リア充である者」にはかなわないということだ。

 

誤解のないようことわっておくが、リア充になること自体は、可能だ。

上述のような努力をすることで異性(あるいは同性)のパートナーを見つけることは、意外にもそう難しいことではない。

だが、そうやってリア充になったところで、しょせんは「リア充であろうとする者」でしかない。

そもそも「リア充になりたい」などという自意識を抱いている時点で負けなのだ。そういう自意識を持っているかぎり、論理的に言って、永遠に「リア充であろうとする者」にとどまるしかない。

これは、自意識の問題だ。

リア充であろうとする者」は、未来永劫「リア充である者」にはなれないのだ。

 

リア充「である」者とリア充「であろうとする」者との、永遠に埋まることのない溝。

戦後日本の言論界においてこのことを一番よく分かっていたのは―僕の考えでは―江藤淳だろう。

もちろん江藤の生きていた時代には「リア充」などという言葉はなかったけれど、彼の言いたかったことを今風の言葉でパラフレーズするならば、まさに「『リア充である者』になりたい。でも、なれない」ということに尽きるのだ。たぶん。

 

…今日は少しばかり難しい話をしてしまった。明日はもっと分かりやすい話をします。