Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

ここがスゴイ!『野火』

昨日の映画評では、塚本晋也監督の『野火』を最後に取り上げた。でも、昨日の記事だけではまだまだ書き足りない。そこで今日も『野火』の話をする。

 

はじめに、近年の日本の戦争映画ないしドラマにたびたびあらわれる「戦場で泣きながら戦争の悲惨さと命の尊さを訴える兵士」(のドアップ映像)みたいなベタすぎる演出について考えてみたい。

僕たちはこうした演出を、陳腐だと感じる。

どうしてだろうか。

 

まず、「言葉で語ってしまうから」という理由が考えられる。

当たり前のことだが、映画というのは映像メディアだ。伝えたい内容があるなら、言葉でなく映像で語ればいい。どうしても言葉でしか語ることのできないものがあるなら、はじめから文学に任せてしまえばいいのだ。

優れた映像作家は、言葉でなく映像でもって雄弁に語る。反対に、ダメな映画ほど登場人物のセリフやらナレーションやらで安直に説明してしまう傾向がある。

たとえば、(愛すべき)クソ映画『プラン9・フロム・アウタースペース』。

冒頭、老優ベラ・ルゴシ演じる老人が自宅玄関からあらわれ、とぼとぼと歩いてゆく。直後、その老人が交通事故で死亡したことがナレーションで実にあっけなく説明されてしまう。観客は「その死亡するところをこそ映像で伝えなきゃダメだろっ!」とただちにツッコミを入れるに違いない。

先ほどの兵士の話に戻ると、反戦を訴える兵士は“言葉でもって”雄弁に語る。

なるほど、確かに戦争は悲惨だろう。命は尊いだろう。

だったら、それを映像で伝えようぜ。

 

理由ふたつめ。実はここからが重要だ。

そもそも、本当に戦争は悲惨なのか。命は尊いのか。

「いきなり何をいいだすんだ」と皆さん呆れられるかもしれない。

だが、戦争といったら悲惨なものだ、命といったら尊いものだというのは、あくまで日常での世界感覚に過ぎないのではないか。

世界が変われば、世界感覚も変わる。

戦場というのは、日常ならざる非日常の世界だ。そんな非日常たる戦場においては、人間の世界感覚は否応なく変容するのではないか。

 

『野火』はひたすら戦争という非日常を描く。そのなかで、主人公の世界感覚は確実に変容していく。彼はこの壊れた世界を、おどろくほど淡々と受け入れる。

僕たち観客もまた、主人公とシンクロを起こし、世界感覚が変容していく。

それを証明するシーンがある。

ジャングルの中、主人公一行が木に寄りかかる瀕死の兵士の前を通りすがる。兵士は無表情のまま「…今日はいい天気でよかったです」とボソリとつぶやく。次の瞬間、兵士は手榴弾で自爆する。

このシーンを見て僕は笑ってしまった。僕は『野火』に感激するあまり、1日のうちに2回も鑑賞したが、2回ともこのシーンで笑ってしまった。

「どうして笑ったりなんかするんだ。不謹慎じゃないか!」と叱られてしまうかもしれない。手榴弾による自爆の描写は、クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』にもある。だが『硫黄島~』では笑うことなどありえなかった。どうして『野火』では笑ってしまうのだろう。

答え。僕たち観客の世界感覚が変容してしまったからだ。「自爆する兵士がかわいそう」というのは、あくまで日常での世界感覚にすぎない。戦場においては、非日常での世界感覚がある。そこではただただ「あー兵士が自爆しちゃった。おかしーw アハハハハハ」という壊れた感受性のみがある。

 

戦争は悲惨だ、命は尊い、というのは、日常での世界感覚だ。実際に戦場に行けば、戦争がどうの命がどうのといった考えは、完全に吹き飛んでしまう。

僕たちが「泣きながら反戦を訴える兵士」に違和感を抱くのは、彼が戦場という非日常のただなかにいるはずなのに、一貫して日常での世界感覚にもとづいて訴えかけるからではないのか。

 

『野火』は、そのような陳腐な描写一切をしりぞける。戦場において変容した世界感覚のみ、淡々と描く。塚本監督の手腕に震撼せよ。