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Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

「政治ジャンキー」について

先日、思い切ってfacebook上の人間関係を整理することにした。

これまでまったくといっていいほど交流がなく、「そもそもどういう経緯でこの人と友達になったんだっけ??」と、知り合った経緯すら思い出せないような相手は、申し訳ないけど友達一覧から外させてもらった。

それからもうひとタイプ、命名するのがメンドクサイがとりあえず「政治ジャンキー」と僕が個人的に呼ぶことにしているタイプの人も、このたび外すことにした。

 

これについては解説が必要だろう。僕のいう「政治ジャンキー」とは、ゴリゴリのイデオロギー信奉者とは、また違う。

ゴリゴリのイデオロギー信奉者というのは、たとえば右だったら「天皇陛下を侮辱するような極左反日分子は許さん! 殺す!」と言っちゃうような人で、左だったら「反革命分子は総括!」と言っちゃうような人だ。

こういう人たちは、当然ながら現代ではめっきり数が減った(まったくいなくなったとは言っていない)。そのかわりに昨今増えてきたのが、その逆、つまり「右も左も関係ないさ!みんなでネオリベ体制(or安倍政権)をぶっ潰そうぜ!」というタイプの人たちだ。

 

こういう人たちは、自分から「右も左も関係ないさ!」と言っちゃうことからわかるように、(少なくとも旧来の意味での)右左には本当にこだわらない。

じゃあいったい何にこだわるのかというと、いわゆる「ネオリベ新自由主義体制」を肯定するか否定するか、という点である。あるいは、安倍政権を肯定するか否定するか。

「え、右の安倍政権を否定する人は自動的に左に分類されるんじゃないの?」とみなさん疑問に思われるかもしれない。

もっともな問いだ。僕もそう思う。

だが政治ジャンキーの人たちに言わせれば「安倍はニセモノの右にすぎず、本物の右ならば対米追従を続ける安倍政権を否定するのが当然」なのだそうである。

 

で、僕はこのたびfacebook上にて、これら政治ジャンキーの人たちをまとめて友達一覧から外してしまった。

どうしても、彼らの言動への違和感を払拭できなかったからだ。

 

違和感ひとつめ。「右左にこだわらない」というのは聞こえはいいが、やはり無節操に過ぎるのではないか。

「右なら左とは付きあうな!」とはもちろん言わない。

僕自身、リベラルの人々との対話を重視しているし、彼らの著作だって読んでいる。たとえば僕はマルクス主義に否定的だが、一方でマルクス経済学者の松尾匡(ただす)教授の著作をよく読んでいる。

だが「右左なんて関係ないさ!」とまではもちろん言えない。僕は共産党とは連帯する気には到底なれないし、極左暴力集団である中核派、核マル派なんて論外だ。

もっと節度を保つべきだと思う。

 

違和感ふたつめ。政治ジャンキーの人たちは、結構行動力がある。デモには―いわゆるカウンターデモも含めて―頻繁に参加するし、都内では政治ジャンキーの人たちが集まってシェアハウスを運営しているケースすらある。

たしかに、行動力は大事だ。だが、彼らはあまりに行動を偏重しているのではないか。

 

…ここからは、あえてキツいことを言わせてもらう。

世の中を本気で変えたいのなら、もっと本腰入れて勉強しろ。それこそ自分が受験生にでもなったつもりで死ぬ気で勉強しろ。それがイヤなら運動なんてやめろ

 

唐突な質問をする。

そもそも、学問をやる意味って、何だろうか。

もちろんいろいろな答えが考えられるけれども、僕に言わせると、それは「良かれと思ってやったことが、かえって悪い結果をもたらすという悲劇を極力回避するため」だ。

近現代史を勉強していると、善意のつもりでやったことが、かえって社会の混乱に拍車をかけてしまったというケースが、本当に後を絶たない。近現代史はその繰り返しとすら言っていい。

政治ジャンキーはもちろん(彼らなりの)善意の人たちだろう。だが、彼らは経済学はじめ人文・社会科学にあまりに無知すぎる。そんな彼らが良かれと思って行動すると、皮肉にもかえって社会的混乱を引き起こしてしまうおそれが高い。

もちろん、彼らの善意は認める。だからこそ、その善意が単に混乱をもたらすだけで終わってしまうという悲劇を避けたいのだ。

 

…いろいろとキツいことを言ってしまったが、彼らに本当の意味で社会を良い方向へと変える原動力になってほしいからこそ、あえて言ったのである。健闘を祈る。