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Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

「3.11後」を考える―開沼博さんの著作を通じて

先日(11月22日)、東北地方太平洋岸がまた、地震津波に見舞われた。

マスコミは、福島第二原発の冷却系が一時自動停止したと報道。そのニュースは人々に、あの5年前の悪夢を思い起こさせるのに十分だった。

 

我々は、原発をなくすことができるだろうか。

僕は以前、「右から考える脱原発ネットワーク」という保守系の反原発運動にコミットしていた。

…いや、「している」と現在形で書いたほうがいいのかもしれない。本音を言えば、原発はやはり、ないに越したことはない、と今でも思っているからだ。

さりとて、原発が良くも悪くもその地域に根付いてしまっている現状がある以上、原発をただちにゼロにするのは至難であり、無理になくそうとすれば地域社会を破壊しかねないということも、重々承知している。

ジャーナリストの森鷹久さんは、停止した原発の周辺地域が経済的に困窮している様子を、ルポルタージュ記事で伝えている(『月刊WiLL』2015年6月号掲載)。その記事を読んで、「原発ゼロ」状態が抱えるリスクの大きさを再認識させられた。

 

我々は、原発とどう向き合うべきか。

ここにひとりの俊英がいる。福島県いわき市の出身であり、3.11以前から福島原発について研究してきた、若手社会学者・開沼博さん。

東大で吉見俊哉さん、上野千鶴子さんらに師事した彼は、リベラル派の立場から、脱原発派がともすれば陥りがちな「地域住民=被害者=正義vs政府・東電=加害者=悪」という単純な二項対立図式を批判、現状はもっと複雑であることを、文献調査、フィールドワークなどを通じて明らかにしてきた。

今日は、彼の3つの著作をご紹介する。いずれも、3.11後の日本社会を考えるにあたって重要なヒントを提供してくれるはずだ。

 

・『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社

開沼さんの初めての単著であるこの本は、彼の修士論文をほぼそのままの形で単行本化したものである。

タイトルにある「原子力ムラ」とは、福島に発生した、原発を取り巻く共同体のこと。

本著は、この原子力ムラの誕生から今日に至る過程を分析。原子力ムラは中央(政府)に対する「自動的かつ自発的な服従」によって原発を「抱擁」していったのであり、単純な「福島=被害者、政府=加害者」という図式では、決して福島原発の問題の本質を捉えることはできないのだと指摘している。

刺激に富んだ論考だが、れっきとした学術論文であるため、社会学の訓練を受けていない一般の読者にとっては、やや難しく感じられるかもしれない。

 

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

 

 

・『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎

前著『「フクシマ」論』に引き続き、福島原発を取り上げた著作

こちらは一般の読者向けに、より平易な文体で書かれているため、『「フクシマ」論』を読んで難しいと感じた人は、まず本著から読み、続いて『「フクシマ」論』を読み直したほうが、より理解が深まるだろう。

本著を読んでいると、開沼さんの怒り(という言葉が言い過ぎなら、いらだち)の矛先は、政府よりかはむしろ、単純な図式にもとづいて批判を繰り返す脱原発派のほうにこそ向かっているように感じられてならない。

たとえば脱原発派に対する以下のような皮肉は、まさに辛辣そのものだ。

≪自分の外に敵を作ることで問題の「ガン」を発見した気になる。それを叩き潰そうとするポーズさえとれば問題を解決できる。とりあえず、「悲劇」に共感しておこう。そして、「希望」を出しておこう。それで「知識人」としての「いい仕事」完了!≫(46頁)

本著は、前半はこれまで開沼さんがメディア上で発表してきた文章を再編集したもの、後半は他のリベラル派論客との対談、という形式をとっている。対談相手は、高橋源一郎さん、荻上チキさん、古市憲寿さん、などなど。

…正直に言ってしまうと、前半部分と比べて後半はやや面白みに欠ける。最後まで開沼さんひとりの言葉を聞きたかった。

 

フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い

フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い

 

 

・『漂白される社会』(ダイヤモンド社

上に挙げた2作は、原発を直接のテーマとする本だったが、本著は原発からはいったん離れてーといってもまったく無関係ではないことが最後に示されるー現代日本社会の抱えるアンダーグラウンドな部分を取り上げている。

俎上に載せられるのは、貧困ビジネスとしてのシェアハウス、脱法ドラッグ(※)、右翼、新左翼セクトなど、計12のテーマ。

本著のなかで、開沼さんは(おそらくは核マル派と思しき)新左翼セクトのアジトにすら、取材のため足を延ばしている。彼の胆力、行動力に驚きと称賛を禁じ得ない。

※奇遇にも、上で名前を挙げた森鷹久さんも、脱法ドラッグに関する単著を上梓している(『脱法ドラッグの罠』イースト新書)

本著において取り上げられる(新)左翼や右翼、あるいは彼らの背後にいる暴力団などは、現代日本社会における「周縁的な存在」であり、日本社会は、たとえば暴力団排除条例などの形で、彼らの存在を不可視化しようとしている。そして原発もまた、今日にあっては「周縁的な存在」のひとつである。

終章にて開沼さんは、このような不可視化を「漂白」と呼び、そうした風潮への、批判とまではいかないまでも、違和感を表明している。

こうした態度は、自らアウトローを名乗る評論家・宮崎学さんの「デオドラントな社会」批判にも通じるものだろう。

―なんでもかんでもキレイにすれば、それでいいのか。適度に「汚れ」のある社会のほうが、むしろ健全ではないのかー

 

…この記事の上のほうで、僕は開沼さんのことを≪東大で吉見俊哉さん、上野千鶴子さんらに師事した≫≪リベラル派≫だと紹介した。

だが僕は、開沼さんの「漂白される社会」への違和を通して、むしろ彼のなかにあるーいわゆる「行動する保守」とは全く違った次元でのー保守主義」を見た思いがするのである。

 

漂白される社会

漂白される社会