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Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

読書ノート(第5回)

・『戦国武将の明暗』

タイトル通り、浮き沈みの激しかった戦国武将たちの遍歴を中心に取り上げた著作

面白かったのが、関ヶ原の戦いで有名な小早川秀秋は「実は裏切り者じゃなかったのでは?」という新説。

どういうこと?

「小早川が裏切った」という物言いは、「小早川は西軍」という前提があって初めて成り立つ。ところが、実際のところ小早川は「もとから東軍」だったのではないか。だとすれば彼のとった行為は“東軍の武将として”当然のことであって、「裏切り」とは言えないことになる。

著者は、小早川が西軍の他の武将を押しのけて強引に要衝・松尾山城に陣取ったことなどを根拠に、関ヶ原の戦いは「東軍・小早川秀秋」を守るために急きょ行われた急戦だった、とする。

この他にも、中世の人間の意識では「日本はひとつ」などではなく、近畿を中心として中国、東海といった「日本A」と、遠国である九州、関東、東北といった「日本B」に分かれており、それぞれ全く別の作動原理で動くものと考えられていた、という話も面白かった。

そんなに面白いのに、まえがきの書き出しがよりにもよって≪ぼくの本は売れません。≫(9頁)って、著者の本郷和人さん、いくらなんでも悲しすぎやしませんか?(涙

 

戦国武将の明暗 (新潮新書)

戦国武将の明暗 (新潮新書)

 

 

・『前田敦子はキリストを超えたー<宗教>としてのAKB48』

↑もうタイトルからして相当ぶっ飛んでいるが(;^ω^)、内容のほうも相当アレな一冊だった…。

たとえば、前田敦子のかの有名な「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!」という発言について、著者である社会学者・濱野智史氏はこう述べている。

≪この言葉に充溢するあっちゃん(註:前田敦子の「利他性」こそが、前田敦子がキリストを超えたアルファにしてオメガのポイントである。それはキリストがゴルゴダの丘磔刑を受けているときに発したとされる言葉、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」に匹敵する(いやもしかしたら超えるかもしれない)、自らを犠牲にする者の利他性に満ちた言葉である≫(35‐36頁)

↑なんともオーバーな文章だが、驚くべきことに本著は巻頭から巻末までずっとこんな調子で続くのだから、いやはや恐れ入る(^▽^;)

…っていうか、この程度の利他的な人なら、学校にでも職場にでも、普通にいると思うんですけど~(僕だって、この程度の利他的なことなら普通に言えます)

著者は、自論を補強すべく、吉本隆明『マチウ書試論』、レオニート・カントロヴィチ『王の二つの身体』などの人文学知をふんだんに援用しているが、どうにも牽強付会との印象をぬぐえない。

だが本著が読む価値のない本なのかというと、そうでもない。言うなれば反面教師的に、本著は僕ら文章を書く人間に、重要なことを教えてくれる。

それは、物書きたるもの、対象とのあいだに適切な距離を置かないとダメだということだ。

僕たちは、自分の好きなテーマについて語れば、きっと素晴らしい文章が書けるにちがいない、と思ってしまいがちだ。だがそうではない。あまりに対象への愛がありすぎると、読者を置いてきぼりにする、ただの自己満足の文章になってしまうのだ。

本著を嗤うのは簡単だ。だが僕たちは、たんに嗤うだけでなく本著を他山の石と考えなければならないだろう。

 

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

 

 

 

・『アーキテクチャの生態系』

↑上であまりにケチョンケチョンに貶してしまったので、濱野智史氏の名誉のため、彼のマトモな著作も同時に取り上げることにする(;^ω^)

本著は、00年代の日本のインターネットの歴史について解説している。

著者の視線は、本来アメリカの技術・文化であるインターネットが、いかにこの国で独自の進化を遂げたかという点に注がれている。

たとえばアメリカ由来のブログ文化は、「自立した個人」を重視するアメリカならではの文化であるが、日本独自の2ちゃんねる文化は、匿名性(=集団のなかに埋没する個人)を重んじる日本ならではの文化といえる。

こうした日米文化比較はなにも今に始まった話ではなく、昔からなされているものであり、たいていの場合、日本文化のほうが「近代化が不十分」だとして批判される。だが著者は、そうした「近代化が不十分」な日本(のネット)文化に肯定的である。

この国では戦前から、「日本は近代の次を目指すべきなのか、それともまずは近代という時代を徹底的に受け入れるべきなのか」という「近代の超克」論争が交わされてきた。

この論争は、その時代ごとに変奏されて繰り返されてきた。たとえば80年代であれば「日本はプレモダンポストモダンか」という具合に。

そして、本著である。著者が「近代の超克」(無理に近代化しなくたっていいじゃーん)の立場をとっていることは、言うまでもない。