Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『地下室の手記』

以前、僕の友人が、19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの本領は「ウ○コ凝視力」にある、と言っていた。お食事中の方、ごめんなさいね(;^ω^)

人間が思わず目を背けてしまいたくなるような醜悪なものを、にもかかわらずじっと凝視し、観察し続けることーそれこそがドストエフスキーの本領なのだ、と。

なるほどなぁ、と感心したのをよく覚えている。

 

今回ご紹介するのは、そんなドストエフスキーの中編小説『地下室の手記』。

後の「5大長編」への、いわばプレリュード前奏曲と評されることの多い作品である。

 

主人公は、今でいうところのひきこもりの、40歳のおっさん。

彼は若いころは公務員として働いていたが、周囲とは摩擦が絶えなかった。やがて遺産が手に入ると、これ幸いとばかりに地下室に引きこもり、今日に至る。

そのおっさんが地下室から延々と社会に対して投げかける呪詛の言葉が、この小説の前半部分をなす。

 

おっさんの言葉は、ときにあまりにも意味不明で、最初読んだときは皆目意味が分からず面食らってしまった。

矛盾ともとれる箇所も、途中いくつもある。非常に、分かりづらい文章だ。

苦痛こそが快感になりうる、というくだりにいたっては、もはや「あーはいはい、ドM宣言乙」としか言いようがないではないか(;^ω^)

 

だが、ページをめくっていくとしだいに、彼の言わんとしていることがおぼろげながら見えてくる。

 

本作を読み進めていくと、「2×2が4になるのが許せない」といった趣旨の発言や、水晶宮(※)に対する批判…というよりかはもはや呪詛の言葉が目に入る。

※19世紀、万博でつくられた全面ガラス張りの建造物。今日の我々が見ると「へぇキレイだね」で終了だが、19世紀当時としてはまさに最先端の建造物であり、来るべきユートピア社会の象徴的存在とみなされていた。

 

要するに、こういうことだ。

彼が言いたいのは、<左翼>(※)に対する反発なのである。

※ここでいう<左翼>とは、現実における左翼活動家とは必ずしも合致しない、非常に抽象化されたものー社会学でいうところの理念型(Idealtypus)である。したがって<>つきで表記する

 

20世紀、<左翼>は「歴史には客観的な法則があり、それを理解し利用すれば必ずやユートピア社会をこの世に現出させることができる」と豪語していた。

おっさんは、そうした態度を批判しているのだ。

彼にとっては、客観的な法則なるものに人間が縛られるという事態がたまらなく不快なのであり(2×2が4になるのが許せない!)水晶宮に象徴されるようなユートピア社会が反吐が出るほど嫌いなのである。

<左翼>は、人間が理性を働かせれば必ずや世界は良くなる、人間が理性の生き物であるかぎり、人間は自らにとって利益になることを必ずや実行する、と考える。

おっさんは、そうではないと言う。人間は、自分にとって利益にならない、苦痛にしかならないことだって実行するではないか、と言う(苦痛こそが快感!)

かくしておっさんは、<左翼>が依拠するような啓蒙主義的理性に対し、地下室から呪詛の言葉を投げ続けるのである。

 

こう考えれば、おっさんの独白が難解なのもうなずけるだろう。

彼は理性を批判しているわけだから、その理性を“理路整然と”批判してしまうとなると、当のおっさん自身もまた理性から逃れられないことになるからである。

 

※おっさんの声は、作者であるドストエフスキー本人の声とも考えられる。

ドストエフスキーは、若いころは空想的社会主義のシンパであったが、シベリア流刑を契機に「右転向」、以降は汎スラブ主義的ないし国粋主義的な立場をとるようになった。

 

さて、ここまではまだ本作品の前半(w

後半では、おっさんがこれまで歩んできたイタすぎる過去が次々披露されていく。

その描写は、「ラノベ的」ですらある。

だが、本作が書かれたのは、約150年前。これぞ、ドストエフスキー作品の有する普遍性なのである。

 

…小耳にはさんだ噂によると、イスラーム法学者の中田考さんは、青年期、この『地下室の手記』に深く共鳴したのだそうな。

残念ながら噂話なので真偽は定かではないものの、もしそうなら、彼が代表的なライトノベル作品『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』を愛読書のひとつとして挙げているのもむべなるかな、という気がする。

 

地下室の手記 (光文社古典新訳文庫)

地下室の手記 (光文社古典新訳文庫)