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Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』

先日は、鴨長明『方丈記』を取り上げた。

 

方丈記』のなかでも、以下の冒頭部分はとみに有名だ。

≪ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。≫

思うに、これは世の無常さのみならず、自然科学における「動的平衡」(dynamic equilibrium)をも見事に言い表したという意味でも、名文である。

 

本日取り上げるのは、分子生物学者・福岡伸一さんの『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』木楽舎だ。

 

 本著は、複数の独立した章によって構成されている。ゆえに、どこから読み始めてもかまわない。

しかし、これらの章には通底するひとつのテーマがあるーそれこそが、タイトルともなっている動的平衡なのだ。

動的平衡とは何ぞや。

wikipediaには、≪物理学・化学などにおいて、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態≫とある。(2月22日現在)

すこしわかりづらいかもしれないが、要するに上述の『方丈記』冒頭における川の描写と同じことなのである。

我々は「川」なる実体が存在しているとつい思ってしまうが、よく見ればそれは水が絶えず流れているという「現象」に過ぎず、川という実体があるわけではない。

同じように、ミクロの視点-つまり分子のレベルにおいては絶えず変化が起こっているのだけれど、マクロの視点ーつまり人間の目には、変化することなく存在しつづけているように見えるという現象を、動的平衡というのである。

 

福岡さんは、この動的平衡を生命の定義に使える、と考えている。

彼は生物を、生物という実体があるのではなく、分子の流れが我々の目には生物として捉えられている、と考えているようだ。

本著において福岡さんは、生命をパーツ交換可能な一種の機械のようなものと見るデカルト的世界観を批判、生命を機械にたとえるのは無理があるとしている。デカルト的世界観は動的平衡という視点を欠いているからである。

 

僕は、こうした福岡さんのアイデアは、仏教における「空」の概念と通じるんじゃないかな、と思った。

空とは、ものすごく乱暴に説明してしまうと、この世にあるものは実はすべて存在しないとする考え方である。

いや、「存在しない」というと語弊があるのかもしれないが(仏教は難しくてイマイチよく分からん!)、要するにこの世界に永久不変なものなどなく、すべてのものは絶えず移り変わっていくというのが、「空」の思想である。

生物とて例外ではない。絶えず構成分子が交換され、細胞が新陳代謝していくのである。

我々は「ゆく河のながれ」のように、実体ではなく現象なのだ。

 

それにしても、福岡さんの文章は実に流麗である。

聞くところによると、福岡さんはもともと文系の素養があり、学生時代にはこのまま理系を続けるか、それとも文系に鞍替えするかで随分と迷ったのだそうである。

結局、理系にとどまり、こうして科学に関する優れた啓蒙的著作を世に出すに至った。

学生時代に、同様に理系か文系かで相当迷った挙句、理系コースをドロップアウトしてしまった僕が、今こうして福岡さんの本のレビューを書いているというのも、仏教でいうところのなにかの「縁」なのかもしれない。

 

精神科医斎藤環さんが、福岡さんを「白衣をまとった詩人、と言ってはほめ過ぎか」と評しているのを何かの本で読んだ覚えがある。

決して、ほめ過ぎではないだろう。

 

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか