Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『死の家の記録』

19世紀ロシアを代表する文豪・ドストエフスキーは、若い頃に流刑を経験したことで有名である。

青年期の彼は、空想的社会主義のサークルに加入しており、それが原因で官憲によって逮捕されてしまったのだ。

彼は死刑判決(!)を受けたものの、執行直前になって恩赦を受け、シベリア流刑へと減刑されたのであった。

死刑執行直前での恩赦とは、まるで映画のように出来すぎた話であるが、もちろんこれは当局の「筋書き」通りの展開である。死刑の直前になって恩赦を出せば囚人どもは泣いて皇帝に感謝するだろう、というわけだ。

 

今日ご紹介する小説『死の家の記録Записки из Мёртвого домаは、ドストエフスキーが自らのシベリア流刑の経験をもとに書いた作品である。

タイトルにある「死の家」Мёртвого домаとはもちろん、監獄のこと。彼は、そこで生活する囚人たちひとりひとりに焦点を当てながら、本作を書いている。

おびただしい数の囚人が登場するが、読者がそのすべてを頭に入れることはとてもじゃないが無理だろう。

 

ドストエフスキー文学の真骨頂は「ウ○コ凝視力」にこそあり、と指摘したのは僕の友人であるがーお食事中の皆さん、すいません…ー本作を読むと、まさしく然り、と首肯するほかない。

監獄という、一般社会から隔絶された、極めて特異な空間における人間のふるまいを、主人公ーこれはもちろん作者ドストエフスキーの分身であるーは細部まで冷静に観察している。

ムチ打ちの刑におびえる臆病な人間もいれば、何を考えているかもわからない、無表情・無感情の人間もいる。なかには「なんで監獄なんかにいんの!?」と不思議に思うくらい、清々しい好青年もいる(『カラマーゾフの兄弟』の登場人物・アリョーシャのモデルだろう)

ロシアが他民族国家だという、考えてみれば当たり前の事実も、再確認させられた。ロシアの監獄だというのにロシア語がよく分からない、という囚人が少なからず登場するからだ。

 

暗くすさんだ監獄のなかにあっても、動物は、人間たちを和ませる存在であるようだ。

「ようだ」というのは、僕自身は動物がニガテなので、その魅力がいまいちよく分からないからである。

終盤、囚人たちが犬や山羊などを飼うという、ほほえましい場面がある。

その箇所だけは、監獄特有の暗鬱とした空気が取り払われ、全体的な雰囲気がパァ!と明るくなるのだ。とても清々しく、解放感がある。

 

死の家の記録』が著された目的は、やはり監獄における囚人たちの非人道的な生活を記録し、かつ告発することだろう。

だが僕は、現在並行して読み進めている、ある大著のことがどうしても気になってしまう。

 

ソルジェニーツィン『収容所群島』(Архипелаг ГУЛАГ)である。

 

いずれ読了したら、例によってこのブログにてレビューを書くつもりでいるが、現時点での感想を述べると…

「凄惨」、の一言に尽きる。

この本のなかで詳細に描写されているラーゲリ旧ソ連の収容所)は、「これは一体どこのナチスの収容所ですか」と疑いたくなるようなものばかりだ。

『収容所群島』を読んでしまうと、ドストエフスキーの時代の「死の家」がいかに“ヌルかった”かが分かる。

例えば「死の家」では、クリスマスやイースターは祭日とされ、労働は休みだった。ラーゲリではもちろんそんなことはなかった。

「死の家」では、囚人は酒を飲むこともできた。ラーゲリではもちろんありえないことだ。

「死の家」では、囚人は懲罰としてムチで打たれた。ラーゲリでは囚人たちがムチで打たれることはなかった。かわりに銃殺された。

 

死の家の記録』終盤にて、何人かの囚人たちが脱獄を試みるも、あえなく失敗、捕まってしまう。「あぁ、さすがにこれは銃殺かな…」と思いながらページをめくると、結局ムチ打ちで済んでしまう。なんと“温情あふれる”監獄だったのだろう!

哀しいことに、帝政ロシアからソ連へとかわったことで、恐怖支配はより一層強まってしまったのである。

 

死の家の記録 (光文社古典新訳文庫)

死の家の記録 (光文社古典新訳文庫)