Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『収容所群島』

保守とは本来、自由を擁護する立場である。

全体主義の脅威から人々の自由を守ることこそが、保守の務めなのである。

 

これは、とても重要なことだと思うのだが、残念なことに日本の“保守”の人々はこの点を十分に理解しているとは言いがたく、なにかというとすぐ「権利ばかり求めるのもたいがいにして、もっと義務について論じなければいけませんね」みたいなことを言ってしまうからよくない。

 

今日ご紹介する作品は、ロシア人作家アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918‐2008)の、『収容所群島』(ブッキング)

ソ連の極めて非人道的な抑圧体制を告発した大著だ。

「収容所群島」という一見奇妙なタイトルは、広大なソ連の領土内に、まるで群島のように収容所が点在している様子を指している。

 

ソ連政府による人民への抑圧は、凄惨を極めた。

たとえば、こんな話が紹介されている。

政府がある農民に勲章を授けた。すると祝いの席で、農民はこう冗談を言った。

「勲章なんぞよりも、なにか食べられるもののほうがありがたかったよ」

…翌日、農民は家族ともども収容所送りとなった。

 

このテの話が、次から次へと出てくる。

不謹慎を承知であえて言えば、これらの逸話はほとんどギャグにすら思える。

だがそれこそ、作者ソルジェニーツィンの意図したところだろう。

彼の語り口は、ときに深刻なテーマに似つかわしくないほど、ユーモラスですらある。

僕は、『ニノチカ』というアメリカ映画を思い出す。

ビリー・ワイルダー脚本、グレタ・ガルボ主演によるこの映画は、ソ連全体主義体制をジョークの対象にして笑いとばすことによって、全体主義をシニカルに批判する作品であった。

ここから、我々は重大な教訓を得る。

全体主義の暴力に立ち向かうにあたって、求められる感情は「怒り」でもなければ「哀しみ」でもない。

それは、「笑い」なのだ。

「笑い」こそが、全体主義に真に打ち勝つ武器だったのである。

 

ポリフォニックなドストエフスキー作品がそうであるように、本作からもまた、様々な人間たちの“声”が聞こえてくる。

ここはダッハウアウシュビッツかと見紛うほどの非人道的な収容所環境を告発する声もあれば、スリルと解放感に満ちた脱走話を語ってくれる声もある。

批評家の東浩紀氏は、本作に満ち満ちたこれらの声たちから、ポストモダニズムの特徴である「複数の文化的政治的背景をもった多様な言語の断片」を見出しているようだ。

文学において傑作と呼ばれる作品は常にそうであるが、『収容所群島』もまた、様々な角度からのアプローチを許容する作品である。

 

本著の翻訳を手掛けたロシア文学者・木村浩氏は、2巻巻末の「訳者あとがき」にて、以下のように述べている。

≪現在スイスに滞在中のソルジェニーツィン氏は<異国の生活>に慣れることを拒み、常に祖国ロシアへ帰還する日を待ち望んでいる。≫(2巻391頁、太字部分は原文では傍点強調)

現代に住む我々が、つい読み過ごしてしまう箇所がある。

「祖国ロシア」という部分だ。

木村氏がこのあとがきを書いたのは、1974年。まだ冷戦まっただなかだった当時、日本人はかの国をソ連と呼んでいた。にもかかわらず、ここで木村氏はあえて「祖国ロシア」という言葉を使っている。

理由は言うまでもあるまい。

ソルジェニーツィンにとって、祖国とは断じて全体主義国家ソ連などではなかった。民族共同体としてのロシアこそが、彼にとっての祖国に他ならなかったのだ。

 

ソルジェニーツィンは、ソ連崩壊後の1994年、その愛する「祖国ロシア」へと帰還を果たした。そして2008年、モスクワにて89年にわたる数奇な生涯を終えたのである。

 

収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察

収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察

 

 

収容所群島〈2〉

収容所群島〈2〉

 

 

収容所群島〈3〉

収容所群島〈3〉

 

 

収容所群島〈4〉

収容所群島〈4〉

 

 

収容所群島(5)

収容所群島(5)

 

 

収容所群島(6)

収容所群島(6)