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Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『ブッダは、なぜ子を捨てたか』

これはあくまで僕の身近での話だが、政治・社会活動家と呼ばれるタイプの人たちには、わりと独身の方が多いように見受けられる。

独身の活動家の人たちに対して、日本社会の目は、わりと冷たい。

ふん、子どもひとり育てたこともないくせに、いったいどうやって世の中を良くすることができるっていうんだい、と。

 

日本には、きちんとした父親(=家長)になって、子供を育み社会に出してはじめて、天下国家について語る資格がある、と考える人が、比較的多いように思う。

これは、儒教の伝統的な考え方に由来するのではないか。

儒教では、格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の八条目が重要視される。

なんのこっちゃ、と思われるかもしれないが、要は、「自己修養から始めて多くの人を救済する政治へと段階的に発展していく」ということだ。

つまり、まずは自己修養ありき、なのである。自らやその家庭を管理できてはじめて、世の中をよくする(平天下)ことができる―儒教はそう考えるのだ。

 

だが、本当にそうなのだろうか。

 

今日ご紹介する『ブッダは、なぜ子を捨てたか』集英社は、タイトルのとおり、ブッダがなぜ実の子を捨てたのかをテーマとした本である。

著者は、宗教学者山折哲雄さん。

彼は若い頃に臨死体験(!)をしたことがあるのだという。そのせいか、本著の記述にもどこか神秘主義の香りが漂う。少なくとも、無味乾燥な宗教学の記述ではない。

 

本題に入る。ブッダは実の息子にあろうことかラーフラ(悪魔)という名前までつけ、事実上、子育てを放棄してしまった。

どうしてか。

結論から言ってしまうと、上に挙げた儒教の考えとは真逆なのだ。仏教は、真の公共性ー世界規模の公共性へと開かれるためには、家族共同体との絆などむしろ邪魔だ、と考えるのである。

 

考えてもみれば、生まれてきた我が子をいとおしいと感じるのは、煩悩にほかならないのではないか。

こうした煩悩から解放されてはじめて、人間は悟りー本当の意味での公共性を獲得できるのではないか。

 

本著で取り上げられるのが、インド独立の父、マハトマ・ガンディーの事例である。

彼自身は仏教者ではなかったものの、彼はブッダと同様に家族を捨て、さらには妻を失った長男の再婚を妨害すらした。

そうすることによってはじめて、彼は家族共同体の絆ーというか、しがらみ―から解放され、「インド独立の父」となることができたのだ。

 

僕は今、独身である。

結婚を焦っているかとよく訊かれるが、全然そんなことはない。

実を言うと僕には、家庭を持ちたいという願望がきわめて薄いのだ。

それでも世の中を良くしたいという気持ちはある。

おかしいだろうか。たしかに儒教の観点からすればおかしいのかもしれない。

だが、仏教の観点からすれば、決してそんなことはないはずである。

 

…やっぱりいらないよ、家庭なんて。

 

ブッダは、なぜ子を捨てたか (集英社新書)

ブッダは、なぜ子を捨てたか (集英社新書)