Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『教養主義の没落』

僕の友人のひとりに、リベラル左派の人がいる。

戦前の日本には概して批判的であるはずの彼が、にもかかわらずこんなことを言ったのを、記憶にとどめている。

「戦前の旧制高校はよかったなぁ。戦前のもののなかで、旧制高校だけは復活してほしいなぁ」

僕も全く同意見であった。

 

旧制高校とは、戦前における高等学校のことである。

当然ながら、今日の高校とは全く異なる。戦前は中学校が5年制であり、今でいうなら中高一貫校のような感じだった。ではその上にある旧制高校とは何なのかというと、今の大学の教養課程に当たる教育機関だったのである。

もっとも、旧制高校のレベルの高さは、今日の大学教養課程の比ではなかった。

旧制高校に通う生徒たちは皆、読書家であり、ゲーテシェイクスピアなどを原著で読んでいた。「おいお前、三批判書についてどう思う」と訊かれて「ハァ、カントですか。カントなんて難しそうで、僕は読んだことすらありません」とでも答えようものなら、以降人間として扱てもらえなくなるーそういう世界だったと聞いている。

旧制高校を拠点とするこのような知的営為のことを、教養主義と呼ぶ。

僕は大学時代、第二外国語としてドイツ語を学習したが、それには、こうした旧制高校教養主義へのあこがれがあったことは否定できない。旧制高校は語学に重点を置いており、ドイツ語が重要視されたからである。

 

そんな教養主義も、今日ではもはや跡形もない。

今日ご紹介する『教養主義の没落』中央公論新社は、タイトルの通り、教養主義が没落していく過程について解説した本だ。

著者は、社会学者の竹内洋氏だ。

 

戦後の歴史は、拠点を旧制高校から大学文学部へと移した教養主義が、次々挑戦を受け、敗北していった過程だった、と総括していいだろう。こうした流れが、本著のアウトラインとなる。

竹内氏によれば、教養主義に挑戦した戦後の第一世代が、石原慎太郎である。

農村出身の、不健康な成り上がり者たちによって支えられた教養主義に対して、都会的でスポーティーな石原慎太郎(とその弟・裕次郎によって体現される「太陽族」的な価値観が、教養主義に挑戦、これを打破していったのだ。

 

石原だけではない。いわゆる「70年安保」にしたって、丸山真男によって体現された教養主義に対する、もはやサラリーマンとなることを運命づけられた学生たちによるプロテストであった。

 

こうしたアウトラインに加え、本著では、教養主義の担い手となった岩波書店の歴史などが、いわばサブストーリーとして描かれている。

 

戦前からの教養主義の歴史を描いてきた本著は、最後に教養主義が崩壊した現状について触れ、それへの主観的ともいえる違和感を表明している。

これを読んで、正直ホッとした。教養主義がなくなって寂しいと思っていたのは、どうやら僕(や上述の友人)だけではなかったようだ。

なにも戦前の教育制度がすべて素晴らしかったなどというつもりはない。話題沸騰(?)の森友学園みたいな学校を支持するつもりは全然ない。

だがせめて旧制高校くらいは、なんとか現代に復活してはくれないものか、とひそかに期待しているのである。

 

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)