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Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『「瑞穂の国」の資本主義』

先日はリベラルの佐々木俊尚さんの著作を取り上げたから、今日は保守の論客の著作をご紹介するとしようか。

 

日夜、twitter上で精力的に情報を発信し、他のユーザーとさかんに議論も交わしているのが、経済評論家の渡邉哲也さんだ。

今日ご紹介するのは、そんな渡邉さんの著作『「瑞穂の国」の資本主義』(PHP研究所)。従来の金融主導のグローバル経済からの決別を訴えた本だ。

タイトルにある「瑞穂の国」とは、僕たちが暮らすこの日本のこと。残念なことに某左派政党の前党首の名前が同様に瑞穂であったが、この点はスルーするとしよう。

 

例によって、個人的に面白いと思った箇所をいくつか取り上げてみる。

佐々木俊尚さんの『21世紀の自由論』では、日本型リベラルーあるいはカタカナ表記でのサヨクが冒頭にて仮借なく批判されていた。渡邉さんもまた、こうした日本型リベラルを強く批判する。

≪本来、「右」や「左」とは、国家の利益に基づく左右論、すなわち国益を軸にして規定されるべきものである。基本的に国益を重んじ、日本の自存自衛や権利を守るため、また国民生活が豊かであるために、右寄りがいいのか、左寄りがいいのかという観点から政策を定めるのが、政治の役目である。その意味で、国益を害するような勢力は右でも左でもなく、単なるアナーキストや破滅論者であると言ってよい。こうした勢力をリベラルと定義していることが、第一の誤りだ。≫(160頁)

はじめに、国益ありき。その国益を増大させるための政策を議論する段階ではじめて、右と左に分かれるのである。

渡邉さんは≪政策そのものを右寄りや左寄りに転換させることは、その時代に国民が置かれている環境や条件によって自由に行えるべきであり、そのなかで最適解を導き出していくことが政治の重要な役割≫(160頁)だとしている。

ここから、僕たちは重要な知見を得ることができる。

右と左、あるいは保守とリベラルというのは案外、僕たちが思っているほど「水と油」のような相容れない存在なのではなく、もっと近い存在、根本的なところでは通底する存在なのである。

 

国語教育の重要性を訴えた箇所も興味深かった。

≪「グローバル化=英語能力」などとバカなことを言う経営者もいるが、実際はどのような言葉であってもかまわないので、まず自ら第一言語で思考する、物事を考える能力を育てることが重要なのである。≫226頁)

ここは、以前このブログでも取り上げた佐藤優さんの『知性とは何か』とも共通する主張である。

僕ならばコンピューターのたとえを用いるところだ。外国語がアプリケーションだとすれば、母語はOSなのである。どんなにアプリケーション(=外国語)を大量にダウンロードしたところで、OS(=母語が安定していなければうまく動作しないのは必定であろう。

僕たちはまず、母語ー僕たちの場合、それは当然日本語であるーを運用する能力を高めるところから始めないといけないのだ。

 

巻末、渡邉さんは大型店舗の出店に伴う地方商店街の衰退を取り上げ、地域産業の振興の必要性を訴えている(ただし、経営努力を怠った商店街の経営者たちに対しては渡邉さんは批判的である)

僕たちは「保守」と聞くとどうしても、靖国尖閣、それにいわゆる「従軍慰安婦」の問題ばかりを連想してしまう。

たしかにそれも重要なイシューだろう。だが、まずはもっと身近なところから考えるべきではないか。

保守とは本来、もっと身近な概念のはずである。

 

「瑞穂の国」の資本主義

「瑞穂の国」の資本主義