Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『楽器と武器だけが人を殺すことができる』

評論家・宇野常寛さんの仕事には、前々から注目している。

 

…と正直に言うと、周囲からはよく驚かれるのだ。

「え~! 古澤さん、なんで宇野なんか褒めるんですか? あいつサヨクじゃないですかぁ~」みたいな感じで。

確かに、今上天皇を平気で平成天皇と呼んでしまう彼とは、政治的立ち位置が異なる。だが、問題はそこではないのだ。

大事なのは、自らの考えをいかに明晰な論理にもとづいて理路整然と話すことができるかどうかだ。

彼の著書を一読すればわかるように、宇野さんの文章は極めて論理性が高い(※)

だから僕は、彼の意見に賛同するか否かとは別にーむしろ賛同しないことのほうが多いー彼の評論家としての力量を高く評価しているのである。

乱暴を承知であえてまとめれば、先日著作を取り上げた文芸評論家・福田和也さんの高尚な評論が「文科系的」だとするなら、宇野さんの論理的な評論はすぐれて「理科系的」である。

 

今回取り上げる、いささか長くて物騒なタイトルの『楽器と武器だけが人を殺すことができる』KADOKAWAは、宇野さんの雑誌での連載をまとめて書籍化したものだ。

俎上に載せられる作品は、映画、小説、ドラマ、アニメ、そしてアイドル(!)、と実に多岐にわたる。

連載をまとめたものなので、それぞれの章が評論として独立している。興味のない分野のものは、したがって読み飛ばしても差し支えない。

僕個人に関して言えば、映画とアニメは好んで見るけれども、ドラマは大河ドラマを除けばほとんど見ないし、アイドルにいたってはまったくもってなんの興味もない。そのためAKBに関する章は読み飛ばした。

 

例によって、興味深いと思った点をいくつか挙げてみることとしよう。

フジテレビの凋落が語られるようになって、すでに久しい。

最近では、ネット上で「フジテレビの凋落するさまを眺めてm9(^Д^)プギャーすることこそが一番の娯楽」とまで揶揄される始末だ。

フジテレビの、具体的にどこがダメなのだろう。

宇野さんは、フジテレビのバラエティ番組に象徴される「楽屋オチ」「内輪ウケ」が、もはや21世紀の今日では時代遅れになったからだとしている。

フジテレビにかわって視聴率の上位に躍り出たのが、テレビ朝日である。

宇野さんによれば、テレビ朝日が優れているのは、「ファミリーレストランの人気メニューベスト5」的な、ネット検索に似た番組を作っていることである。

一方で、『相棒』などのドラマもすこぶる好調。

このように、テレビ朝日は、現実(ネット検索的な情報バラエティ)と虚構(ドラマ)とがはっきり分かれているところにその特徴がある。一方、フジテレビお得意の「楽屋オチ」「内輪ウケ」は、現実と虚構の区別を曖昧にするところにその特徴があるわけだから、テレ朝とは真逆のアプローチだということになる。

そして時代が求めていたのは、テレ朝のアプローチのほうだったのだ。

かくして時代に取り残されたフジテレビは、過去の成功にもかかわらず、いやむしろ過去の成功ゆえに、新時代に適応できず、凋落の一途をたどっているのである。

 

宇野さんによる吉本隆明評も面白かった。ちょっと長いが以下に引用しよう。

戦後民主主義の論理は個人が「徹底して個人的であること」を追及すると逆説的に個人的であることを保証してくれる国家を必要とする=「公共性を帯びる」というものだ。しかし、徹底して個人的であることを是とする吉本隆明はこの戦後日本における市民主義の論理を信じていなかった。共同幻想が機能しなくても、公共性を維持できる社会を考えていた。戦後民主主義は最後に九条が象徴する共同幻想を召喚する。そこが弱点だと指摘したのが吉本隆明だったのだ。そして戦後民主主義という「物語」が破綻し、「普通の国」に良くも悪くも性急に近づきつつあるいま、僕は吉本隆明を読み直すことで、リベラルな個人主義を再興できないかと考えている≫(232‐233頁)

この問題について同様に思索をめぐらせているのが、本ブログではもはやおなじみ(←?)、作家の佐藤優さんである。

現下の日本社会においてもはや「大きな物語」が失効しているという点では、宇野さんと佐藤さんは認識を共有している。

ふたりが分かれるのは、そこから先だ。宇野さんは、「大きな物語」なんてなくてもかまわない、「小さな物語」だけで人間はやっていけるはずだ、ならば「小さな物語」だけで回る社会を構築しよう、と本著のなかで訴えている。

一方、佐藤さんは、人間という生き物はどうしても「大きな物語」を欲してしまう(佐藤さんはその実例をソ連崩壊時に多数見てきた)、ならば知識人の仕事は「安全な大きな物語」を構築することであり、その「安全な大きな物語」とはナショナリズムである、と考える。

僕個人はというと、佐藤さんの考えのほうに賛同する。カルチュラル・スタディーズないしポストコロニアリズムが言うように国民国家は虚構(=物語)であるが、だからこそそれは「大きな物語」として我々の社会を支えるのである。

 

冒頭にも書いた通り、僕はそもそも宇野さんとはあまり意見が合わない。

だが重要なのは、意見が合うかどうかではない。意見を理解できるかどうかなのだ。

僕は本著を読んで、宇野さんの言いたいことが、とてもよく理解できた。

それにひきかえ、この国で「知識人」と呼ばれる人々は、むしろ「〇〇大学教授」などのきちんとしたアカデミズムの肩書を持っている人ほど、意味不明な文章を書いてしまう。そういう人の文章は、賛同するしない以前に、そもそも理解することができない。

きちんと理解できる文章を書いてくれるという点で、僕にとって宇野さんは信頼するにたる書き手なのである。