Furusawa Keisuke's blog

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書評『大学講義 野望としての教養』

主に90年代にかけて活躍した評論家として、浅羽通明さんの名を挙げることができる。

一時期は漫画家・小林よしのりさんのブレーン的存在としても活躍した、浅羽さん。

今日ご紹介する『大学講義 野望としての教養』時事通信社は、そんな浅羽さんによる著作だ。

 

かなり分厚い本だがー読んでいると腕の筋肉が痛くなります。いやマジでー講演録なので全編話し言葉で書かれており、とても読みやすく、分かりやすい。おかげでスイスイ読み進めることができた。

本著での浅羽さんの議論はきわめて豊穣なもので、その論点は多岐にわたる。テーマは章ごとに異なり、教養主義から近代的自我、はては「トイレの花子さん」(!)にまで及ぶ。

だが、全体を通して読むと、浅羽さんが一番言いたかっただろうことが、おぼろげながら見えてくる。

要するに浅羽さんは、好むと好まざるとにかかわらず、日本で近代を徹底することはできない、ということを言いたかったのではないかな。

 

近代日本の思想史は、ものすごーく乱暴にまとめれば「俺たちもヨーロッパみたいに近代化を徹底してしっかり近代的自我持とうぜ」派と、「そんなことできっこないし、日本は無理に近代化しなくたっていいんだよ」派とに分かれる。

前者が「近代の徹底」を訴えるのに対し、後者は「近代の超克」をこそ訴える。

これは日本の思想史において、何度も何度も形を変えて、繰り返し論争されてきた。

戦前における講座派vs労農派の対立がそうだし、戦後の丸山真男vs吉本隆明の論争にしたってそうだ。

あるいは80年代、日本をポストモダン(近代の後)の国とするニューアカデミズムに対し、柄谷行人さんが『批評とポストモダン』のなかで日本をプレモダン(前近代)の国と規定し直したことにも、その反復が見られる。

最近の例では、濱野智史さんが『アーキテクチャの生態系』において梅田望夫さんを批判したのにも、やはり同様の反復が見てとれる。

浅羽さんは本著において、「近代の超克」の側に立って議論を展開している(ように僕の目にはどうしても映る)

 ≪一人ひとりが個我を確立して、自立しなくちゃならない、というふうな考え方に対してですね、私はひたすら現実的な立場で考えています。(中略)みんなが自立した個人になんかなる必要は全くない、日本のしがらみの中で生きてゆくことで(ときには窮屈な思いもするでしょうが)、その方が自分で何も決しなくて良いし、自分で責任をとらなくても良いし、楽な生き方ができるという一面があることは事実です。それでいいじゃないと大多数が考えていたばあい、誰がそれを非難できるのか。≫(79‐80頁)

日本はどのみち、欧米のような形での近代国家にはなれないだろう。だがそれでも、知識人にはこの日本社会をなんとかしてうまく回らせるための知恵を考える責務がある。

その知恵について考察を続けてきたのが、浅羽さんだったのだ。

彼の戦いは、今日もなお続いている。

 

大学講義 野望としての教養

大学講義 野望としての教養