Furusawa Keisuke's blog

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書評『最後の対話』

本著『最後の対話ーナショナリズム戦後民主主義(PHP研究所)は、文芸評論家の福田和也さんと、批評家の大塚英志さんによる対談本である。

 

サブタイトル「ナショナリズム戦後民主主義」とは、一体どういう意味だろう。

これは、対談者ふたりの立ち位置を表したものである。すなわち、福田さんはナショナリスト、大塚さんは戦後民主主義者、という具合に。

「え、それじゃあふたりの立ち位置は正反対じゃん? そんなんでちゃんと嚙み合った議論なんてできるの?」

と疑問に思われる読者もいるかもしれない。

ところがどっこい、できるのである。

それは、ふたりとも「あえて」政治的立ち位置を決めているからに他ならない。

つまり福田さんは、「大きな物語」が失効し、価値観・ライフスタイルが多様化したこの現代において「あえて」ナショナリズムという大きな物語を選択し、大塚さんは「あえて」戦後民主主義という大きな物語を選択しているのである。

ふたりは、したがって似た者同士なのだ。

 

さて、本著のなかで個人的に面白いと感じられたのは、第3章から。

ここから、大塚さんが少しずつ「福田さんの正体」へと迫っていくからである。

以前にも書いたように、福田さんは「アイロニーの評論家」と呼ばれている。彼は単純な保守ではなく「あえて」保守という立ち位置を選んでいるーあるいは、偽装しているーにすぎないのだと、よく指摘される。

その指摘は、正しいだろう。上にも書いたように、福田さんはあえて大きな物語としてのナショナリズムを選択しているように、すくなくとも僕の目には映る。だが、そうだとしても「なぜ、その大きな物語ナショナリズムでなくてはいけないのか」という問題は残る。

本著のなかで大塚さんは、福田さんに「で、結局のところ、あなたは一体何者なの? 日本をどうしたいの?」と問いかけるのだ。

さぁ、それに対する福田さんの答えは…

 

福田さんの説明は抽象的で分かりづらいのだがー肝心なところは煙に巻いてしまえ、ということかもしれない。そうならば福田さんのイジワルな部分がよく出ているー要するに彼は「天皇なきナショナリズム」を志向(思考)しているらしいことが、読んでいて徐々に分かってくる。

言い方を変えれば、福田さんは天皇を愛するがゆえに天皇制に反対する人なのである。

福田さんによれば、近代日本は天皇(彼の言葉を借りれば)ナショナリズムの発電機」として利用してきた。だがそれも、もうそろそろやめにしないか。近代以前の天皇は、和歌などの日本文化の中心に位置する、きわめて文化的な存在だった。そうしたあり方に戻ろうじゃないか。東京の皇居から京都御所に戻って、そこで文化的な存在として政治から離れ、静かに過ごせばいいじゃないかーこれが福田さんの考えなのだ。

福田さんは天皇を文化的な存在としては愛しているから、共産党あたりの言う天皇制廃止論とは全く異なる。だが福田さんは、天皇と政治を切り離して、政治のほうは「天皇なきナショナリズム」で行けと、こう言っているのだ。

……もちろん福田さんは決して口にはしないが、この「天皇なきナショナリズム」とはとどのつまり、ファシズムのことではないのか、と僕はにらんでいる。

 

本著のなかで福田さんは、様々な論点を提起することで肝心な部分を煙に巻いているように、やはり僕の目には見えてしまう。

だがそれは、かならずしも悪いことではない。おかげで興味深い論点が多々示されるからだ。

例えば天皇について、福田さんはこう述べている。

≪明治帝は維新後すぐ宮廷女官の手から引き離され、薩摩が選任した傳育官に預けられています。天皇を、さきほどお話したナショナリズムの発電機たらしめる一方策でした。が、同時に、連綿と続いてきた皇室のなかの「たおやめぶり」を排除する試みでもあったのです。これもまた、皇室の伝統からすれば異様なことでした。≫(182頁)

天皇の本質を「たおやめぶり」(女らしさ)に見る福田さんの見解に、僕も同意する。

あえて挑発的に言おう。天皇は、男の娘だったのである。

 

最後の対話―ナショナリズムと戦後民主主義

最後の対話―ナショナリズムと戦後民主主義