Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『宮崎哲弥 仏教教理問答』

お茶の間でもおなじみ、評論家の宮崎哲弥さんは、仏教に関心があることで知られる。

いや、「関心がある」どころの次元ではもはやない。自ら「ラディカル・ブディスト」を名乗り、インドの原始仏教の経典も読む宮崎さんは、したがって仏教の専門家とも極めて水準の高い会話ができるのだ。

 

本著『宮崎哲弥 仏教教理問答』(サンガ)は、そんな宮崎さんと、仏教の専門家5人との対談をまとめた著作である。

全部で5つある対談は、後半のほうに行けば行くほど難しくなる。明らかに意図的な構成だろう。最初の、白川密成さんとの比較的分かりやすい対談は、いわばイントロダクションというわけだ。

二番手の釈徹宗さんはとても話術がたくみで、吸い寄せられるようにグイグイ読んでしまう。やっぱり彼が大阪の出身だから、というのが関係しているのだろうか。

三番手の勝本華蓮さんは、本著の対談者のなかでは唯一の女性(つまり、尼さんだ)

勝本さんは若い頃に神秘的な体験をし、それがきっかけで仏教に帰依するようになったが、その後は地道な文献研究の道へと進んだ。

これも、面白い話だ。普通、神秘的な体験をした人は、そのまま神秘主義の世界へと行きそうなものだが、彼女の場合、そうではなく(高度の語学力が求められる)地道なアカデミズムの世界へと進んだのだ。

仏教には、やっぱり面白い人が多い。

四番手は、南直哉さん。実を言うと、この対談集のなかで僕が個人的に一番しっくりきたのが、この南さんだった。もしかしたら、彼が曹洞宗の僧侶だからというのも関係しているのかもしれない(僕の家は、父方母方ともに、曹洞宗である)

南さんの言葉は結構難しいが、僕には彼の言葉が一番印象に残っている。たとえば、この一節。

一神教のようなエターナルなものを提示する宗教というのは、結局は「死を消去する」こと、僕の言葉で言えば「死を買い戻す」ことにしか見えない。なぜそんな取引をするのか。仏教は唯一、その取引をやめたものなんです。≫(174頁)

「死を買い戻す」というのは、なんだかものすごい表現だ。どうしてか理由を言語化するのは難しいのだが、本著のなかではこの言葉が一番、僕の脳裏に突き刺さったのだった。

本著の最後の対談者は、林田康順さん。

林田さんは、意外にも法学部のご出身。

彼は仏教者として、本来ならば死刑には反対なのだけれど、一方、法律の専門家としては現行の死刑制度を支持せざるをえないという。≪被害者ご自身や被害者のご遺族のことを考えますと不十分な被害者救済の現状の中で「殺生戒を犯させることとなる」云々の理論だけでご遺族を説得することは困難であると考えて≫(264頁)いるからである。

林田さんはまた、こうも言っている。

≪法学部の指導教授からは「世の中には天の法と地の法がある。君は天の法をしっかりと学んできなさい」というお言葉をいただきました。私は、天の法と地の法をむやみに混濁して語ってはいけないと自戒しています。≫(269頁)

天の法(仏法)とは別に、地の法(法律)がある。両者は、分けて考えるべきものだと林田さんはいう。なんだか、キリストの「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉とも通じる話だ。

 

対談を通じて、宮崎さん自身の実存もまた、明らかにされていく。

宮崎さんは、我々一般人からすれば異常なほど、死を恐れる人であった。彼は実に幼稚園児のころから、「将来、自分が死んでしまう」ということに並々ならぬ恐怖を抱き続けてきたのだという。

僕は以前から宮崎さんの著作を読んできたのでそのことは知っていたが、本著によるとそのきっかけとなったのは、幼稚園の同級生が突如てんかんの発作のため口から泡を吹いて倒れたという事件だったという(32頁)。これは、初耳であった。

初耳と言えば、宮崎さんと仏教との出会いが大学時代、というのも本著を読んで初めて知ったことであった(もしかしたら他の本にも書いてあったのかもしれないけれど)。宮崎さんは、龍樹の『中論』を読んで大乗仏教中観派の教えを知り、自分が長年求めてきた答えがここにある、と感じたのだという。宮崎さんはこのときの経験を、宗教的な回心ーコンヴァージョンとすら呼んでいる(33‐34頁)

これはちょうど、作家の佐藤優さんが同志社大神学部時代にチェコ神学者・フロマートカの思想に出会ったときと同じような心境だったのかもしれない。

僕には、そうした経験がない。そんな僕には、宮崎さんが正直、とてもうらやましい。

 

宮崎哲弥 仏教教理問答(サンガ文庫)

宮崎哲弥 仏教教理問答(サンガ文庫)