Furusawa Keisuke's blog

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書評『さみしさサヨナラ会議』

本著『さみしさサヨナラ会議』KADOKAWAは、僧侶の小池龍之介さんと評論家・宮崎哲弥さんによる対談本である。

小池さんはまだ若手ながら、これまでに仏教をテーマとする著作をすでに数多く著している。仏教界における注目の若手論客のひとりだ。

宮崎さんについては、いまさら解説するまでもないだろう。評論家としてテレビで活躍する一方、仏教にも精通しており、『宮崎哲弥 仏教教理問答』では仏教者5人を相手に極めて水準の高い対談を展開していた。

本著は、そんなふたりが「さみしさ」をテーマに論じた著作である。

 

「さみしさ」と聞いて、僕が一番に思い浮かべるのが、いわゆる「非モテ」の問題である。実際、本著でもかなりの部分、異性との性愛について語られる。

…率直に言うと、僕にはモテとか性愛とかの問題が、いまいちよく分からない。それって「問題」っていうほどのことか?とすら思ってしまう。

僕はどうにも、性愛というものに興味関心が持てないのだ。別にひとりだっていいじゃん、と思ってしまう。

本著を読むと、どうやら宮崎さんもそうであるらしい。小池さんも、すくなくとも肉食系という感じでは決してない。

本著は、モテる方法を指南する本、では決してない。むしろ、仏教者であるふたりが、仏教の観点から、べつにモテなくたっていいじゃん、ひとりでもいいじゃん、と非モテの人たちを励ましている本、という印象をどうしても受けるのである。

 

本著後半になると、性愛云々から、<この私>の死へと対談のテーマが移る。僕にはむしろ、こちらの話題のほうがよっぽど関心が持てる。

我々は、確固とした「自分」が存在すると思い込んでいる。だから、その「自分」が消えてしまう(=死)ことに耐えられない。

だが仏教は、そもそも「自分」などというのは錯覚に過ぎないというのだ。

ここから先はもしかしたら僕が誤解しているだけなのかもしれないが、たとえば昨日の自分と今日の自分は異なる。もっと言えば、1秒前の自分と今この瞬間の自分も異なる。「自分」とは、各々の瞬間における五感によって構成された錯覚に過ぎないのである。

そもそも「自分」が存在しないというのであれば、存在すらしない「自分」が消える(=死ぬ)などということは、論理的にありえないことになる。

この結論こそ、仏教における救済に他ならないのだ。

 

さて、本著を最初から最後まで読んでみて、ひとつ、分かったことがある。

どうやら、世界はひとつではないらしい、ということだ。

より正確にいえば、世界の見え方は人によって異なり、それぞれの人に、それぞれ違った世界が見えるのである。

村上春樹1Q84』では、主人公らごくわずかな人たちにだけ、ふたつめの月が見える。その他の人は、同じ世界に生きているはずなのに、そのふたつめの月がどうしても見えない。

最近よく思うのだが、安倍政権を(消極的ながらも)支持している僕のような人間と、いわゆる「アベノセイダーズ」の人たちとは、きっと世界の見え方が完全に違うのだろう。

同じ日本語を話す日本人であるにもかかわらず、だ。

……そうか、「さみしさ」というのはなにも性愛だけに限った話じゃない。こういう、国民国家の分断というべき事態もまた、「さみしさ」のひとつなのだ。