Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『愛と幻想の日本主義』

文芸評論家の福田和也さんと、お茶の間でもおなじみ、評論家の宮崎哲弥さんのふたりによる対談本である。

タイトルはやはり、村上龍『愛と幻想のファシズム』からの引用だろう。

 

本ブログでは以前にも、福田さんと批評家の大塚英志さんの対談本を取り上げたことがある。

本著『愛と幻想の日本主義』を読んでいて、「あぁ、面白いなァ」と思ったのは、福田さんの言葉が、大塚さんの対談のときと比べて、明らかに分かりやすく、また核心に迫っているということだ。

大塚さんは「あえて戦後民主主義」という再帰的なスタンスをとっているとはいえ、やはり<左>であるので、「あえて保守主義」という<右>の福田さんにとってはしょせん敵、ということだろうか。

その点、同じく「あえて保守」の宮崎さんは信頼できる“仲間”だから、彼の前でなら本音で喋れる、ということなのだろうか。あ~、なんか福×宮の薄い本、欲しくなっちゃった

 

大塚さんとの対談では、わざと抽象的な言葉で喋って読者を煙に巻いていた観のある福田さんだが、本著ではかなり率直にファシズムへのシンパシーを表明しており、印象に残る。

≪福田――必ず失敗するファシスト。そういう生き方が自分には一番そぐうのではないかというような。≫(177頁)

 

福田さんも宮崎さんも、書き手としての守備範囲は極めて広い。必然的に、ふたりの対談テーマは、多岐にわたることとなる。

おそろしいまでに博識なふたりだから、近代フランスの右翼思想の話から現代日本の文学・音楽の話まで、なんだって語れるのだ。

 

たとえば、映画。

宮崎さんは対談のなかで、1982年公開の日本映画『二百三高地(脚本:笠原和夫について触れている。

この映画は、僕も見たことがある。非常に暗く、重々しい映画だ。

日本にとって勝ち戦であるはずの日露戦争にすら、暗い情念を込めてしまう日本。かたやアメリカは、『地獄の黙示録』のなかですら、どこか楽しげに戦争しているのに、と宮崎さん。

※ただし、そんな日本人特有の厭戦感も、そろそろ終わりを迎えたのかもしれない。アニメ『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』では、自衛隊は音楽をかけながら実に楽しげにマシンガンをぶっ放しているからである。

 

本著の最後の章では、ふたりは実存問題について語っている。

宮崎さんは幼少のころから、異様なまでに死を恐れる人だった。意外にも、福田さんも子供時代はそうだったらしい。ここにも、ふたりの共通点があった。

≪福田――僕は子供時代、死の恐怖に憑かれて逃れられなかったんですよ。恐怖というと違うのかもしれないけど、つい死について長々と考えてしまう。(中略)

宮崎ーーある特定の子供にはあるんですよね。私もそうでした。どうしても私には、死そのものは恐ろしくない、ただそこにいたるまでの苦痛や親しき者との別れが怖いという人が理解できなかった。私は死そのものが恐ろしかったのです。生理的な苦痛や家族との別れなんかどうでもよかった。≫(243頁)

僕は、このご両人ほどには、死を恐れたことがない。死というものは考えれば考えるほど、わけが分からなくなる厄介なシロモノなので、僕は死について考えるのをいつも途中でやめてしまうのである。

ただ、宮崎さんの「私は死そのものが恐ろしかったのです。生理的な苦痛や家族との別れなんかどうでもよかった」という気持ちは、分かる。

 

福田さんと宮崎さんは、ともに1960年代前半生まれの世代である(福田さんは60年、宮崎さんは62年)

思えば、このふたりのようにアクチュアルな政治の問題から、軟派なサブカルチャーの話題まで縦横無尽に語りつくせる「あえて保守」の若手論客は、最近ではめっきり少なくなってしまったーというより、いなくなってしまった(?)

彼らのような「あえて保守」の論客が好きな僕としては、それが残念である。

 

愛と幻想の日本主義

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