Furusawa Keisuke's blog

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書評『歎異抄』

浄土真宗の祖・親鸞の教えを今日まで伝えてくれている書物のひとつに、『歎異抄』がある。

正確に言えば、親鸞ご本人ではなく、彼の弟子であった唯円というお坊さんが、お師匠の教えを後世に伝えるべく著した書物である。

※たとえば、プラトンが師匠のソクラテスの教えを伝えるべく本を書いたのと同じようなもの

 

本日ご紹介するのは、PHP研究所から刊行された『歎異抄』現代語訳だ。

訳者は、評論家の小浜逸郎さん。

現代語訳だけでなく、小浜さんによる解説文が充実しているのが、このPHP版『歎異抄』の魅力である。

 

本著を通読してあらためて思ったのは、浄土真宗はやはりキリスト教と似ている、ということだ。

本著のなかで、著者親鸞唯円は繰り返し、人間は「他力」によって生“かされている”と説き、「自力」によって生“きている”との考えを否定する。

まさに本来の意味での「他力本願」。キリスト教世界における、自由意志をめぐる論争にも通じる話である。

あるいは『歎異抄』第18節にある、「仏には具体的な形などない」という主張もまた、すぐれて一神教的であると感じる。

一神教は本来、偶像崇拝を禁じる宗教であり、イスラーム教は今日でもそれをかたくなに守っているからだ。

 

浄土真宗は、このようにとても興味深い宗教であるが、果たしてこれでも本当に仏教と呼べるのか、という疑問は当然ながら残る。

「自力」より「他力」を重んじる浄土真宗は、キリスト教の予定説の発想にかなり近接している。だが、仏教は本来、因果律を徹底させた宗教ではなかったのか。予定説の対極にあるはずの宗教ではなかったのか。

 

親鸞はもしかしたら、仏教者というよりかはむしろ、日本に初めて「一神教」をもたらした人物として評価されるべきなのかもしれない。

 

本著巻末では、評論家・吉本隆明(1924‐2012)による『歎異抄』解釈が俎上に載せられ、その誤訳、強引なこじつけが解説者の小浜さんによって仮借なく批判されている。

小浜さんはいわゆる「団塊の世代」であり、かつて吉本からの知的影響を大いに受けた世代である。

そうした点も考慮に入れながら小浜さんの吉本批判を読むと、たいへんに興味深い。

 

[新訳]歎異抄   「絶対他力」の思想を読み解く

[新訳]歎異抄 「絶対他力」の思想を読み解く