Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『人はなぜ死ななければならないのか』

死にたくないでござる。

 

…人間、誰だって本音では、死にたくないはずだ。

「御国のためなら死ねる!」

「革命のためなら死ねる!」

「アイドルの○○ちゃんのためなら命だって惜しくない!」

…とか言う人だって、本当は死にたくないんだけど、無理やり自分にそう言い聞かせている、という側面が否定できないんじゃないか。

何年か前、テレビが、宮崎県の当時国内最高齢のおじいさんを取材していたのを思い出す。

「何歳まで生きたいですか?」

という取材陣の問いかけに対し、おじいさんがちょっとニヒルな感じで

「…そりゃあ死にたくはないわなw」

と答えていたのがなんともカッコよくて(w)、印象に残っている。

 

今日取り上げる書籍は、タイトルもずばり『人はなぜ死ななければならないのか』洋泉社

著者は、先日の『人はなぜ働かなくてはならないのか』と同じく、評論家の小浜逸郎さん。

本著は、『働かなくては~』の続編として構想されたのだという。『働かなくては~』が実存問題から国家論にまで及ぶ壮大な論考だったのに対し、本著のほうは実存問題に焦点を絞った観がある。

章の数も、『働かなくては~』が10だったのに対し、本著は「「人は何のために生きるのか」と問われたら」「哲学・思想はほんとうに役に立つのか」「死はなぜ不条理で恐ろしく、また悲しいのか」「人はなぜ死ななければならないのか」の4章構成となっている。

 

小浜さんは、「死の自覚こそが生を規定する」という。

これは、分かりやすい。

人間は「いつかは死ぬ」ということを忘却してしまうと、終わりのない日常を単にダラダラと生きるだけになってしまう。

「いつか来る終わり」を意識することではじめて、この退屈な世界は輝きを取り戻すのである。

哲学の世界でこの問題について思索を深めたのは、ハイデガーであった。小浜さんも、ハイデガーからは強く影響を受けたようだ。

もっとも小浜さんの場合、必ずしもハイデガーを全面的に肯定しているわけではなく、より細かい論点では彼を批判してもいる。

具体的にどの点を批判しているかについては、実際に本著を読んで確かめてもらうとしよう。このように、複数の論者の意見の相違点を細部までチェックすることもまた、読書の楽しみのひとつ、と言えるだろう。

 

小浜さんは本書の終章を、こうまとめている。

≪人間は、自分がやがて死すべき運命にあり、互いに別離することを知っているからこそ、日常性においてさまざまな「仕切り」や、「区画づけ」や、言語・感情の交流や、家族生活や、埋葬の儀式といったことを行うのである。

 こうして、人間の生は、そのさまざまな具体相において、死によってあらかじめ意味づけられている。死があるからこそ生があるのであり、人間の生命力は、死の自覚によってはじめてその発揮の具体的な方途と場所を得る。その意味で、「人は死ななければならない」のである≫(230‐231頁)

抽象的で難しい箇所だ。

だがたしかに僕にも、「人は死ななければならない」と納得できること、死がむしろ福音だと感じられることは、ある。

もし、世界の人間のなかで、自分ひとりだけが老いず、死ななかったとしたら、どうか。

これまで親しくしてきた人たちがどんどん死んでしまうなか、自分ひとりだけが死ぬことなく、この世界にぽつりと取り残されてしまう。

それは、とても寂しいことではないのか。

親しい人たちとともに歳を取り、ともに死ねるということが、どれほどありがたいか!

 

そう考えれば、死はむしろ福音とすら思えるのである。

 

人はなぜ死ななければならないのか (新書y)

人はなぜ死ななければならないのか (新書y)