Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『シン・ゴジラ論』

昨夏、新海誠監督の『君の名は。』と並んで大ヒットを記録、社会現象となったのが、庵野秀明監督『シン・ゴジラ』だ。

 

本著『シン・ゴジラ論』作品社は、まさにタイトルのとおり、この『シン・ゴジラ』を正面から論じた評論である。

著者は、批評家の藤田直哉さん。

批評の世界にある程度の関心を持っている方なら、彼が08年、「東浩紀ゼロアカ道場」に参加し、第五回関門まで進出したことを記憶にとどめているはずである。

 

本著において藤田さんは、映画『ゴジラ』シリーズに関する過去の膨大な先行研究を逐一踏まえつつ、『シン・ゴジラ』と3.11について、また天皇との関係について、論を進めていく。

ゴジラは、実のところかなり政治性を帯びた表象である。したがって、ゴジラについて論じようとすると、どうしても政治から逃れることができなくなる。

さて、著者の藤田さんは、右翼だろうか。左翼だろうか。

≪ぼくは、戦後に教育を受けた者として、「大東亜戦争」は侵略戦争であり、天皇イデオロギーなどがファッショ、全体主義化を促したと考えている。≫(86頁)

この記述ー特に「大東亜戦争」とわざわざ鍵カッコつきで表記するあたりーを見るかぎりでは、藤田さんは左翼のように見える。

だが、以下の記述はどうだろう。

≪三島の発言に、イデオロギーとしては全く同意しない。だがしかし、心情部分においては胸を打つ、と率直に言わなくてはならない。たとえ日本が間違った戦争を行い、たくさんの残虐行為を行い、天皇イデオロギーが為政者たちによって「洗脳」されたものだったとしても、純粋にそれを信じて、死んだり、負傷したり、身内を失ったものの悲しみ、苦しみ、幾あまたの無念が、なくなるわけではないし、それは事実して直面しなくてはならないものである。≫(86‐87頁)

 

本著を読んで分かったのは、藤田さんがつねにアンビバレンス(両義性)を抱えている人だということだ。

彼は、矛盾するふたつの価値観の間で宙づりになりながらも、それに耐えている。

≪ぼくは、無神論者である。しかし、社会構造や人の心理における「神」や「宗教」の有用性・必然性を受け入れる者である。同時に、無神論者でありながらも、霊的な感覚(宗教的な建築物や美術を観た時に脳が痺れる感じ)を覚えるタイプの人間である。≫(198頁)

僭越ながら、僕も藤田さんと同じタイプの人間である。

僕も、ぶっちゃけ「八百万の神」なんてものがいるのかどうか、イマイチ疑問に思っている。にもかかわらず、同時に全国津々浦々の神社を巡るのが大好きな人間でもあるw

特に、藤田さんが引用箇所で述べている、「宗教的な建築物や美術を観た時に脳が痺れる感じ」というのは、僕にも「ああアレね」と皮膚感覚でピンとくるのである。

 

そんな藤田さん、どうやらゴジラ天皇制のメタファーと捉えているようだ。

≪なんとでも解釈できるが故に「美」であると同時に、解釈を受けて動じないが故に「美」である<ゴジラ>。解釈を衣のように纏い続けて膨れ上がるが、それでも動かない中心の空虚としての<ゴジラ>。むろん、これは、ロラン・バルトが『表徴の帝国』で論じた、東京の中心にある空虚としての皇居という論を踏まえている。≫(132頁)

彼はもっと露骨に、こうも述べている。なんだか今日の記事は引用ばかりで恐縮であるが(;^ω^)、以下に引用する。

≪ところで、かつて、日本で、芸術や文化の頂点にいるとされた者がいた。

 神として、聖なるものとして扱われていた者がいた。

 天皇である。

 空虚で、融通無碍な中心であるが故に、国家を一丸とさせるための装置として利用されもした天皇が、神ではなく人間となった。そのとき、社会は急には変われない。機能的等価物をどこかに求めてしまう。その無意識的願望を掬い上げたのが、『ゴジラ』だった。≫(155頁)

ゴジラは、天皇であり、神であった。

シン・ゴジラ』のタイトルにあるカタカナ表記の「シン」とは、「新」と「真」をかけたダブルミーニングであることを見抜くのは容易い。が、藤田さんはさらに、「神」をもかけたトリプルミーニングだと見る。

慧眼だろう。

 

無神論者を名乗りながらも霊的な感覚が強く(※)三島由紀夫天皇制に関心を示す藤田さん。

こう言うと、もしかしたらご本人は気分を害するかもしれないが(;^_^A、僕は藤田さんには潜在的に右翼ないしファシストの素質あり、と見ている。

※本ブログの読者の皆さまならば、戦前右翼の大物・北一輝が、国家社会主義的な考えの持ち主であったのと同時に、強い霊感の持ち主でもあったことを覚えておられるに違いない。

ちょうど、エヴァンゲリオンが装甲ーその実態は拘束具ーによって暴走を抑えられているように、藤田さんは自らの内にある右翼的ないしファシスト的な情念を、リベラルという装甲=拘束具をまとうことで抑えつけているように、僕にはどうしても見えてしまうのである。

  

シン・ゴジラ論

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