Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『ブッダとそのダンマ』

本ブログではこれまで、20世紀インドの政治家ビームラーオ・アンベードカルの伝記や、その後継者である日本人僧侶・佐々井秀嶺の評伝を取り上げてきた。

今回取り上げるのは、前々からずっと、読みたい、読みたいと思っていた本だ。

 

アンベードカル著『ブッダとそのダンマ』(光文社)

アンベードカルが、亡くなる直前に不可触民の仏教徒たちのために著した、仏教の解説書である。

 

読みはじめてまもなく、ページをめくる手が止まってしまった。

これはもはや、普通の本ではない。これは、「経典」である。

たとえるならば、これはキリスト教徒にとっての聖書のような書物なのだ。実際、インドの不可触民の仏教徒たちは、本著を経典として朗誦すらしているという。

本著を読むうえで絶対にやってはいけないのは、斜め読みである。さらに、一回読んだだけでも、駄目である。

「経典」である以上、つねに座右に置き、何度も何度も読み返さなければならない。

 

ここで、本著の構成について少しだけ解説するとしよう。まず、ブッダの生誕から悟りに至るまでの半生が述べられ、次に彼の教えの内容について著者(アンベードカル)が解説していく。

本著において重きをなしているのは、この解説の部分である。

そして終盤ではブッダの生涯の話へと戻り、彼の晩年から臨終までが描かれる。

最初から読まなければいけないのか、と皆さん思われるかもしれないが、そんなことはない。

どこから読んでも構わない。

今日はこの箇所を読んでみたいな、と思ったら、そこから読めばよい。

そういう読み方ができるのも、本著が「経典」だからだ。

聖書を考えると分かりやすい。聖書を最初から最後まで通して読むということはない。ミサのときなどに、聖職者が「今日は○○書の○章○節を読みましょう」と言って読み上げる。

これと同じ読み方で良いのである。

 

本著は比較的、著者アンベードカルのオリジナリティーが強く出ている。

たとえば、ブッダの出家の経緯。一般的な経典では、ブッダは居城の門の外にて老人、病人、死者、修行者と出会い、彼らのなかに人生の苦しみを見て、出家を決意したとされる。四門出遊の逸話である。

ところが本著では、ブッダの出家は政治的事情によるもの、とされているのだ。本著解説によれば、この箇所は、四門出遊の逸話では現代人を説得するのに弱いと考えたアンベードカルによる創作、とされている。ここから、アンベードカルの宗教家というよりかはむしろ政治家としての一面を窺うことができる。

 

一般に、仏教は輪廻転生を説く宗教として理解されているが、本著では輪廻転生はきっぱりと否定されている。

神もない。霊魂もない。輪廻転生もない。仏教は、極めて合理的な宗教である。

そう説くアンベードカルの筆致もまた、実に理知的である。彼はときに自然科学やマルクス主義の喩えを用いて、仏法を解説していく。

たとえば、仏教一切皆苦と説くので厭世的と誤解されがちだが、それをいうなら『資本論』だって労働者の悲惨な現実をこれでもか、と描写しているではないか。それではマルクス主義は厭世的と言えるのか? …といった具合に。

このあたり、いかにもインテリのアンベードカルらしい。

本著は、しかしながらそのラディカルな内容ゆえに、東南アジアはじめ既存の仏教国からは批判されたようだ。「これは『ブッダとそのダンマ』ではない。『アンベードカルとそのダンマ』だ」といった具合である。

だが、それを言うなら、日本の仏教の開祖たちだって同じではないのか。親鸞しかり。道元しかり。日蓮しかり。

彼らもまた、仏典を自分なりに読み込み、「これこそ本物の仏教だ!」との確信に至って、自らの教えを広め、宗派をおこしていったのである。

アンベードカルもそれと同じ、と考えればよいではないか。彼によって「仏教アンベードカル宗」が打ち立てられたのである。

 

巻末に、佐々井秀嶺さんによる解説文が収められている。

いや、解説というよりかはもはや「演説」と呼んだ方が適切だろう。非常に力強い。いかにも佐々井さんが書きそうな文章である。

そのなかに、こんな一節がある。

≪『ブッダとそのダンマ』は、その一文一句無上の大光明を放ち、白蓮華の清く美しく咲く無限の大道をアンベードカルと共にブッダと共に我々は歩んでいる。≫(425頁)

さぁ、我々も歩みだそうではないか。アンベードカルとともに。ブッダとともに。

 

ブッダとそのダンマ (光文社新書)

ブッダとそのダンマ (光文社新書)