Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『表徴の帝国』

最近つくづく考える。

天皇とは何だろう。

それが尊いとされるのは、一体どうしてだろう。

 

ある人は、男系の万世一系が2600年続いてきたから尊いのだと言う。

またある人は、天皇はただそこにおわすだけで尊いのだと言う。

 

…申し訳ないが、戦後生まれの僕には、イマイチよくピンとこない話だ。

こういうときは、むしろ外国人の言葉に耳を傾けたほうが、あるいは良いのかもしれない。

 

というわけで、今日取り上げるのはロラン・バルト『表徴の帝国』筑摩書房である。

著者、ロラン・バルト(1915‐1980)は、フランスの文芸評論家。ポストモダンの論者のひとりとされる。

そんな彼が、1960年代に日本を訪れ、その際に感じたこと考えたことを一冊の書物にまとめたのが、この『表徴の帝国』(L'Empire des signes)である。

「表徴の帝国」とは、ほかならぬこの日本のことだったのだ。

 

本著は、思想に関心のある人たちの間では知らない人のいないくらい、有名な著作である。そのなかでもひときわ有名なのが、「空虚な中心」という概念だ。

空虚な中心とは何か。

それは、皇居のことである。

皇居には何もない。東京は世界を代表するグローバル・シティであるにもかかわらず、その中心には何もない!

一般人の立ち入りが制限されているので詳しくは分からないが、なんでもそこには貴重な動植物が多数生息しているという話である。

このような森が、大都市のど真ん中にポカンと浮かんでいるーーそのことが、ロラン・バルトの心に強い印象を残したらしい(※)

※無理もない話だ。欧州の都市の場合、その中心には必ず大聖堂がある。広大な公園もあるが、それらはいずれも人間によってよく手入れされたもので、皇居のような手つかずの自然に近い例は珍しい。

この「空虚な中心」という言葉は、日本社会の本質を突く言葉だというので、たちまち人口に膾炙した。本著が思想の世界で古典とされているのも、そのためだ。

 

皇居だけでなく、そこにおわす天皇そのものが「空虚な中心」だと見るべきだろう。

こうした「空虚な中心」は、実に意外なところでも見ることができる。

『 AKIRA』というアニメ映画がある。大友克洋監督によるこの作品で、物語の重要なカギを握るアキラ少年は、なかなか姿を現さない。その名がタイトルになっているにもかかわらず、である。

このアキラ少年を天皇制のメタファーだと指摘したのは、編集者・ライターの竹熊健太郎さんだったと僕は記憶している。アキラ少年もまた「空虚な中心」だったのだ。

近年の映画のなかでは、『桐島、部活やめるってよ』にもやはり同様の「空虚な中心」を見てとることができる。

あるいは、本ブログの読者の皆様なら、批評家の藤田直哉さんがゴジラにやはり「空虚な中心」を見て取ったことを記憶にとどめていることだろう。

 

一般に、古典というのは敷居が高い。

難しいからだ。

だが、本著の難しさは格別である。

いや、難しいというより、率直に言って、悪文なのだ(;^ω^)

いかにも、フランス人にありがちな衒学的な文章、といった感じである。

読んでいて、「おいフランス人、いい加減にしろよ(#^ω^)ビキビキ」と苛立ちすら覚えるほどだ。

こういう文体は、一般にポストモダンの論者の特徴とされるが、いや、これはポストモダンに限った話ではない。フランス人全般に見られる、悪い癖だ。

驚くべきことに、映画のナレーションでもそう。フランス映画をよく見る人ならば、「あぁアレかぁ」とピンとくるはずである。

…もっとも、そうした悪文のなかにも、「空虚な中心」といった、日本社会の本質をズバリと突く名フレーズが織り込まれているのだから、侮れない。繰り返しになるが、それゆえにこそ本著は古典なのである。

 

今回取り上げた、ちくま学芸文庫版には、翻訳者・宗左近さんによる解説がおさめられている。

これがまた、難物である(w)。解説の解説が欲しい(w

だが、本文とは「難しさ」の意味合いがいささか異なる気がする。本文のほうはいかにもポストモダニストあるいはフランス人にありがちな悪文なのに対し、解説のほうは、確かに難解ではあるのだが、構造主義に関する知識を一通り備えていれば、それなりに読める文章なのである。

思想に関する知識がある程度ある人は、この解説から読むことをお薦めしたい。それから本文を読めば、あのわけの分からない文章(だってしょうがないじゃんか!本当のことだもんw)も少しは分かるようになるだろう。

 

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)