Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『ドストエフスキイの政治思想』

19世紀ロシアが生んだ文豪・ドストエフスキー

彼の文学は、驚くべきことにこの21世紀の現代になってもなお、色あせていない。

 

彼の長編小説のひとつ『悪霊』を読んだとき、僕はたいそう驚いた。

そこでは政治サークルの様子が描かれており、なにかと「女性は~女性は~」と繰り返すフェミニスト活動家、やたらと背伸びしたがる高校生、そして電波発言を繰り返すイタイおっさんなどが描かれていた。現代日本の政治サークルそのまんまだ。

1860年代のロシアのはずなのに、2010年代の日本が描かれている――そう感じた。

 

本日取り上げるのは、先日著作を紹介した評論家・渡辺京二さん(1930‐ )によるドストエフスキー論『ドストエフスキイの政治思想』洋泉社である。

ドストエフスキーは、左翼から右翼に転じた作家、とされる。

彼の晩年の著作『作家の日記』には、この文豪のかなりナショナリスティックな一面があらわれており、批判する論者も多い。だが渡辺さんは本著のなかで、この『作家の日記』を肯定的に読み解いていくのである。

 

渡辺さん曰く、ドストエフスキーは民衆の味方たらんとしている。

だがそれを言うなら、他の多くの左翼知識人だって同じだったのではないか。だが、渡辺さんによれば、ドストエフスキーの民衆像は他の左翼知識人たちのそれとは違っていたのである。

ドストエフスキーの民衆像――それは、「誰の目にも入らぬ生活をして誰の目にも入らぬように死んで行くもの」、「この地球上に誰ひとり覚えているものもなく、覚えている必要もないもの」であった。

そうして彼ら「歴史の淵に音もなく消えて行くこれら『小さきもの』たちへの感受性」が、ドストエフスキーの政治思想の中核だった。

渡辺さんは、そう言うのである。

 

この「小さきもの」たちは、しかしながらつねに平和を愛するものではない。露土戦争が始まるやいなや、彼らは熱狂的にロシアを支持したからである(まぁ、この点はどこの国の民衆も同じだろうけれど)

しかしそれを、偏狭なナショナリズムなどではなく、「全人類への利益と愛と奉仕」を目的とする自己犠牲の心からのものであり、それが民衆というものなのだ、と断じて支持するのが、ドストエフスキーなのだ(と渡辺さんは言う)

 

…正直、このあたりの記述はあまりに抽象的すぎて、頭のよろしくない僕にはイマイチよく分からない。

ナショナリズム、それも戦争を煽る類のそれを「全人類への利益と愛と奉仕」などと決めつけても良いものなのか、弊害はないのか、と当然ながら疑問が生じてしまう。

もちろん、渡辺さんも決して手放しでドストエフスキーを肯定しているわけではない。

渡辺さんは、ドストエフスキーの政治思想を、単なる反動思想あるいはボケた文豪の妄言などと斬って捨てるのではなく、そのなかから今日の我々にとって検討に値する問題提起を汲み取ろうとしているのだ。

それは、あまりに非合理的に見える神風連の言動から、彼らの「内在論理」を汲み取ろうとした『神風連とその時代』でのアプローチと、とてもよく似ている。

とりわけ本著の第八章は、本ブログ読者の皆さまにはぜひ一度、読んでもらいたいと思う。

 

本著巻末、「渡辺京二小論」と題された評論家・勢古浩爾さんによるあとがきも、また実によろしい。