Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『語る禅僧』

本ブログではここ最近、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの著書をやや集中的に取り上げている。

今日ご紹介するのは、そんな南さんのデビュー作『語る禅僧』筑摩書房だ。本著刊行当時、南さんはまだ曹洞宗の総本山・永平寺の修行僧の身分であったという。

 

本著序盤ではまず、南さんのこれまでの半生が振り返られる。

少年のころから人一倍「死」への関心が強かったという南さん、「死」を間近で見てみたいがために、なんと猫を殺してしまったことすらあったという。

そのこと自体はもちろん非難に値しよう。だが、成人して以降に、こうして書籍という形で過去の悪行を公言するというのは、かなり勇気の要ることだと思う。

かつて生き物を殺めてしまった南さんは、したがってオウム真理教酒鬼薔薇聖斗に対しても、もちろん批判はしただろうが、「自分とはまったく無縁の存在」と斬って捨てることはできなかったのではないか。

 

さて、本著後半は前半とはうってかわって、南さんがアメリカで禅の普及に携わったときの体験談を面白おかしく綴っている。

アメリカは、当然ながら日本とは気候的、精神的風土がまったく異なる。座禅をやるにしても、日本の通りというわけにはいかない。

そもそもの問題として、ふだん椅子にしか座らないアメリカ人には、座禅が出来ない

無理もないだろう。日本人の僕だって、体が硬いせいでヒーヒー言いながら座禅の練習をしているくらいなのだから(w

アメリカの禅修行者たちは、したがって様々なやり方を試行錯誤することとなる。この箇所は面白いので、ぜひ皆さまも本著を手にとって読んでみてほしい。

※ここからは僕の勝手な想像だが、アメリカの禅道場は、アメリカ人特有の陽気な気質のせいで、きっと日本では想像もつかないくらいの、ノリノリの空間になっていたのではないだろうか。

“Oh! Japanese Zen! Buddha! Buddha! Dogen! Oh Yeaaaaaahhhh!!!!”みたいな感じで(w

 

南さん、とても頭脳明晰な方だが、あいにく語学のほうはニガテなようで、アメリカ滞在の際も英語には結構苦労したらしい。

だが言葉の壁など、案外なんとかなるものだ。

≪外国人とのコミュニケーションの最終的な秘訣は、相手を理解し、自分を理解してもらおうという、必死の熱意であろう。それに較べれば、語学の問題は仕様にすぎない。(中略)

とにもかくにも、一生懸命に聞き、一生懸命に話し、何が何でもお互いを理解し合いたいという熱意を示すこと――そうすれば、相手はまず、その気持ちを理解してくれる。この時点で既に、お互いのコミュニケーションの土台は出来上ってしまう。≫(290頁)

これは、本当にそうだ。

僕は以前、ある保守系の政治団体にコミットしていたことがあるが、その団体の代表も、かなりのブロークン・イングリッシュではあったが、ちゃんと海外の人々と意思疎通できていた。

語学の奥義は、文法でもなければ発音でもない。熱意なのである。

 

…さて、今回僕が読んだのは、ちくま文庫から出ている文庫版。

そこでは、南さん本人によるあとがきの後に、お茶の間でもおなじみ、評論家の宮崎哲弥さんが解説文を寄せてくれている。そこにはこうある。

≪南師に直に接するようになったが、あるとき彼が「仏教に出会っていなかったら、自殺していたと思います」と語ったことがある。間髪をいれず「ああ、私もそうです」と呼応したように記憶している。≫(367頁)

…ふたりとも、仏教に出会えて本当に、よかったですね(涙)。

合掌。

 

語る禅僧 (ちくま文庫)

語る禅僧 (ちくま文庫)