Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『<問い>の問答』

本ブログではこれまで、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの著作を多く取り上げてきた。

 

今回ご紹介するのは、南さんと、臨済宗の僧侶・玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんとの対談本『<問い>の問答』佼成出版社である。

曹洞宗臨済宗はともに、「禅宗」に分類されている。ゆえに、本著のサブタイトルは「同時代禅僧対談」と相成った。

本著には、あとがきがない。通常の意味での前書きもない。そのかわり、冒頭に「序にかえて」と題された、ふたりの往復書簡が載せられている。

玄侑さんの、いかにも「ご年配の小説家」といった感じの、言葉を選んで選んで選び抜いた、お茶でたとえるならば渋~い玉露のような文章が、読者に強い印象を残すことだろう。

そうそう、大事なことを言い忘れていた。

玄侑さんは僧侶としての仕事のかたわら、小説も執筆しており、2001年、『中陰の花』でみごと芥川賞を受賞した。れっきとした芥川賞作家さんなのである(あぁ、どおりで!)

 

……と紹介しておいてナンだが(w)、僕にはやっぱり、南さんの言葉が一番しっくりくる。ゴメンよ玄侑さん……

≪僕は、ある意味でひじょうに利己的な人間でして、ある教えが自分の体験のどこに刺さるのかがわからないと、人に向かって言えないのですよ。≫(62頁)

これは、僕も同じだ。ちゃんと自分のなかで骨肉化した「自分の言葉」でないと、なかなか表に出せない。無理に未消化の言葉を外に出そうとすると、とたんに嘘くさく感じられてしまう。おそらく本ブログの読者の皆さんも同じような経験がおありではないか。

以下の言葉も、僕には「あぁ、そうだよなぁ」と納得できた。

≪大学へ入ったあたりから『正法眼蔵』から離れられなくなった。しかし、読んでみてもわからない。それで、わかるための「道具」を見つけるために、哲学の本を読むようになったのです。仏教書を読むのに、哲学の言葉で考えるほうがよくわかりましたね。≫(92頁)

これは前にも書いた記憶があるが、前近代の人々よりも我々のほうが仏典を理解する上でアドバンテージがあるのだ。西洋近代の哲学や思想を、仏教を理解するための補助線として利用できるからである。

 

大乗仏教は、なにやらぐちゃぐちゃしていて、分かりにくい。その点、上座部仏教のほうが、スッキリしていて、分かりやすい。

だが、スッキリしていて分かりやすい、というのでは、駄目なのだ。

仏教はある意味ではとても「ドS」な宗教で(w)、「あぁ、やっと仏教が分かった!」とホッとしている人間にどんどん試練を課してくるのだ。

だからこそ、分かりにくい大乗仏教にあえてとどまった、という南さんの話は、とても腑に落ちた。

南さんは、こうも言っている。

≪とにかく言えることは、<仏教には何かを統一しようとする意志が恐ろしく欠けている>ということです。≫(160頁)

南さんの、以下の法華経の話も、実に興味深い。

≪『法華経』について書かれた本で、「これは」と思う本は、残念ながら見たことがないですね。あれは、安心しながら書いては駄目なんですよ。『法華経』を読んで安心し、「あ、そうか!」みたいになっていると駄目なんだと思いますよ。つまり、肯定されるということはたいへん嬉しいことじゃないですか。だから、「肯定されて嬉しいな」という気分で書いてしまいがちです。しかし、その<肯定の危険さ>というか、それが何を犠牲にして肯定しているかが見えないと、『法華経』論にならないと思うのです。≫(199頁)

このほか、『般若心経』がじつは空を説こうとしたものではないのでは、という南さんの指摘には、ドキリとさせられた(207頁)。気になる方はぜひ本著を読んでみてほしい。

 

ふたりの対談はどんどん深みを増していく。

本著の第5章「<近代>」と第6章「師」はとくに面白かった。

昨今の技術の進歩は目覚ましい。とりわけ、今後伸びると予測されているのは、「トランスヒューマン技術」と呼ばれる新技術である。ようするに、サイボーグのことだ。

人間と機械が、一体化する。

南さんも、このトランスヒューマン技術には注目しているようだ。

この技術のせいで、<人間>という概念が終わるかもしれないからである。

そのとき、仏教はどうなるだろうか。……いや、そういうときこそ、仏教の出番なのだろう。

南さんがある物理学者の言葉として引用しているように「それはやっていいことなのか悪いことなのか、どこまでやっていいのか悪いのかは、科学の理論や思考で導き出すことではない」からである。

 

<師匠>とは何か、という話も良かった。

本当の師は、「これが答えだ!」と押しつけてくる人のことではない。

答えなんか、人によってぜーんぜん、違う。自分にとっての答えを見つけられるよう、人々に試行錯誤させるための場を与えてあげることこそが、本当の師のつとめであり、それができる人こそが、本当の師なのである。

これは余談だが、僕にはこれまで、師と言える人がいないな、とずっと思ってきた。

が、本著を読んでいて、ふと思いあたった。

あ、もしかしたら、父親が僕にとっての師なのかもしれないゾ、と。

父もまた、「これが答えだ!」と押しつけてくるのではなく、僕にいろいろと試行錯誤させるための場を与えてくれる――そういうタイプの父性の人である。

 

 

さて、本著を通読しての感想。

うーん、やっぱり、仏教って、難しいっスねw(;^_^A

でも、難しいからこそ、仏教なのだろうな。

 

同時代禅僧対談 “問い”の問答

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