Furusawa Keisuke's blog

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書評『余は如何にしてナショナリストとなりし乎』

本ブログではこれまで、文芸評論家の福田和也さんの著作をいくつか取り上げてきた。

本日ご紹介する『余は如何にしてナショナリストとなりし乎』(光文社)もまた、福田さんによる著作だ。タイトルは言うまでもなく、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』をもじったもの。

 

そんなタイトルからもお分かりいただけるように、本著のテーマは、ナショナリズムである。

福田さんはまず、第1章にて「ナショナリズムとは何か」を説き、続く第2章では「似非ナショナリストたちを斬る」といういささかショッキングなタイトルのもと、右翼左翼双方を批判している。

ナショナリズムとは何か。福田さんの説明を僕なりにまとめるとするなら、それは「他者とのつながりを意識すること」となろうか。

≪私という人間が存在し、そして(お粗末きわまるものですが)このように形成されるまでには、さまざまな人々、家族から友人、先生方、そして直接に会うことはないけれども私が育ち、生活する環境を形成してきた人たちとのかかわりがあります。

 さらには私が読んできた、さまざまな本や文書、新聞、雑誌、聞いた音楽や観た芝居、テレビなどがあります。

 こうしたさまざまな事象の織り成す網目の中で、私という人間は形成され、そして今も形成され続けている。

 私にとってのナショナリズムの第一義は、こうした網目を認識するということにほかなりません。≫(71‐72頁)

僕はここ最近、仏教をテーマとする著作をやや集中的に読んでいる。上に挙げた福田さんのナショナリズム観は、僕には、すぐれて仏教的だな、と感じられる。

 

さて、本著のなかで個人的に一番面白いと感じられたのは、第4章「我がナショナリズムへの覚醒」だ。ここで、福田さんの半生が語られるからである。

福田さんの母方の祖父母は、満州に住んでいたのだという。さては福田さんの満州(≒大日本帝国に対するいささか奇妙なかたちの愛着は、それに由来するものだったのか。

福田さんは、<死>への関心が人一倍強い少年であった。

≪今「死」について考えている自分自身が、意識の存在それ自体が、「死」によって消滅してしまうということ。それ自体がきわめて得心のいかない、不本意かつ不合理なものに思えて、その思いを反芻しているうちに、ずるずると泥沼に入って、強い憂鬱に捉えられてしまう。

 憂鬱が昂進した時に私がした「治療」は自分を死人だと思うことでした。父が出入りの職人に作らせた木製の、大きめの玩具箱から、中身をすべて出して、それを柩に見立てて、入るのです。自分は死者だ、と思い込むことできわめて大きな安心を得たのです。≫(201頁)

福田さんとほぼ同世代の評論家である宮崎哲弥さんもまた、幼少時代から死をひどく恐れる少年だったという。また、本ブログでたびたび著作を取り上げている曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんもまた、喘息の持病ゆえ、幼少のころから死を強く意識して育ったという――余談ながら、南さんも福田さんとほぼ同世代である

僕が彼らの本に惹かれるのも、あるいはそれが理由なのかもしれない。……僕自身はそこまで死を意識したことはなかったけれど。

 

多感な少年時代を過ごした福田さんだったが、長じて、ついに自分とよく似た境遇の人物を知ることができた。

フランスのファシスト作家、ドリュ・ラ・ロッシェルである。

≪ドリュは、子供の頃から死に憑かれていました。ごく幼い時から、ベッドの下に横たわり、死人の真似をしていた、という回想の一節に、私は自分と同様の体験を見いだして、興奮しました。それはまさしく、自分がしていた事だからです。≫(222頁)

かくして福田さんは、ドリュを介してファシズムへの関心を育み、上述のような意味でのナショナリズムに目覚め、一風変わった保守の論客として、今日に至るのである。

 

福田さんは極めて多作の人として知られ、その著書数はすでに100を超えるはずである。おまけに彼の文体は、まるでカメレオンのように、著作ごとに目まぐるしく変化する。どれもこれも、異なる人物が書いた本のようだ。

これではまるで万華鏡だ。いったいどれが、本当の福田さんなのだろう。

「どれもこれも福田だよ」とご本人なら言うのかもしれないが、本著が人間・福田和也の核心にもっとも迫っているように、僕には感じられた。

福田さんの本を、もっと読みたくなった。

 

余は如何にしてナショナリストとなりし乎

余は如何にしてナショナリストとなりし乎