Furusawa Keisuke's blog

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書評『癒しとしての死の哲学』

本著冒頭、私たちの生活から、死体が隠されつつあることが指摘される。

阪神・淡路大震災でも、本著刊行後に発生した東日本大震災でも、当然、多数の死体が発生したはずである。それなのに、メディア上でそれらが現れることはない。

ところが著者によると、関東大震災当時は今とは逆に、死体の写真がどんどん報道され、あろうことかそれらが絵葉書(!)となって販売すらされていたというのだから、大正と平成との人々の感覚の違いにはただただ驚かされる。

 

そもそも、人の死とは、いったい何なのか。

紹介が遅れてやや唐突な印象の書き出しになってしまったが、本日取り上げる著作は『癒しとしての死の哲学』(王国社)である。著者は、評論家の小浜逸郎さん。

小浜さんはまず、第一章にて、刊行当時(2002年)大きなイシューとなっていた脳死問題を取り上げ、それについての議論を概観、死の定義を考察していく。

死というのは、単に心電図が止まった状態のことではない。死とはもっと、共同体的なものだ――そう小浜さんは考える。

死が共同体的なものならば、それを死にゆく当人が、そしてその家族が、どのように受け入れるかが問題となろう。

続く第二章では、今度はがん告知の問題を皮切りに、小浜さんは死の受け入れという問題について考察していく。

その後、安楽死について小浜さんが自らの考えを述べる「間章――そんな言葉があるのかw――を経て、第三章、第四章にて本格的な哲学の話へと入っていく。哲学が好きな読者の方は、一、二章をとばして、この三,四章から読みはじめたほうが良いかもしれない。

 

第三章「死はいかに哲学されてきたか」では、これまで哲学者たちが死をどのように扱ってきたのかが概観される。俎上に載せられるのは、プラトンエピクロスショーペンハウアー、そしてバタイユといった、そうそうたる顔ぶれだ。

このうち、僕が個人的に最も共感したのは、古代ギリシャの賢人・エピクロスだ。奇遇にも小浜さんも同じであるらしい(w

エピクロスが死について言っていることは、実は意外と簡単で、皆さんも一度くらいは考えたことがあるのでは、と思われる。

自分が死ぬとき、それを認識する「自分」はもういないのだから――だって「自分」の死なんだからw――人間は死を経験することなんてできないんだ、だから死を考えるなんてアホみたいなまねはさっさとやめて、もっと生について考えろよ、ということである。

僕も、エピクロスと似たことをよく考える。

普段は、死ぬのって怖いな、と思う。それは、我々人間のなかに理性が堅固として在るため、その理性が失われてしまうのを怖いと感じるからだ。ところが、その理性が揺らいでいるとき、たとえば酒を飲んでデロンデロンに酔っぱらっているときでは、「あぁ、なんか、このまま死んじゃっても、あんま怖くはないんだろうな」という気持ちになる。

理性が無くなれば、意識が曖昧になれば、意外にも、死というのはさほど怖くはなくなるものだ。

 

もうひとり、あ、面白いな、と思ったのが、20世紀フランスの哲学者・バタイユだ。

バタイユは、エロス(性の本能)タナトス(死の本能)について考察した思想家であって、その点、プラトンエピクロスとはやや趣きを異にする。

性と死とは、確かに近接している。思いっきり卑猥な例で恐縮であるが(w)、たとえば女がイクときに「あぁぁ~~~~ん!! 死ぬっ、死ぬ~~♡♡♡」とか言うのもその証だろう。セックスとは、これすなわち「小さな死」なのかもしれない。

もっとバタイユについて読んでみたいな、と思った。

 

続く第四章「死をどう哲学するか」では、いよいよ真打登場!とばかりに、20世紀最大の哲学者・ハイデガーが登場する。

ハイデガーの哲学は難解であるし、それを解説する小浜さんの語り口もまた難しくて僕のような貧相な頭脳ではとてもじゃないがついていけないが(w)、実はそんなに難しくもないのかもしれない。ハイデガーの言うことをごく簡単にまとめれば(たぶん)「死ぬからこそ、生が輝く」というものであって、考えてもみればごく当たり前のことだからだ。

思うに、ハイデガーの主著『存在と時間』は、非常に感動的な書物である。ヘーゲルの『精神現象論』も感動的であるが、なんというか、こう、感動の質が違うのだ。

たとえるなら、『精神現象論』が緻密につくられた中世のステンドグラスを見たときの感動だとすると、『存在と時間』は、末期がん患者が懸命に生きる姿に迫ったドキュメンタリー番組を見たときに私たちが感じる感動と似ている。

あるいは山本常朝『葉隠』とも通じるものがある。そう考えると、ハイデガーの思想は案外、我々日本人にはとくに、受け入れやすいのかもしれない。

 

死はなんとなく不安で怖いけれども、生と死の問題について考えるのはなんだか面白いし、もっと言えば、楽しい。

だからこうして、哲学や仏教に関する本を読み漁っているのかもしれない。

 

癒しとしての死の哲学

癒しとしての死の哲学