Furusawa Keisuke's blog

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書評『中村屋のボース』

皆さんは、新宿中村屋の「インドカリー」を食したことがあるだろうか。

僕は一度だけある。奮発して、1500円くらいするインドカリーを食べてみたのだ。貧乏人の僕には少なからず痛い出費だったが、そのぶん、やはりおいしかった。うん、たまには高いカネを払ってでも、新宿中村屋でインドカリーを食べるのも悪くないな、と思った。

 

さて、この新宿中村屋名物・インドカリー。その誕生の経緯には、意外にも、あるインド人革命家が関わっていた。

ラース・ビハリ・ボース(1886‐1945)である。

本日ご紹介する『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義白水社は、そんなボースの生涯に迫った評伝である。著者は、政治学者の中島岳志さん。本ブログではこれまでにも、中島さんの著作を何点か取り上げてきた。

 

ボースは、1886年、当時イギリスの植民地であったインドに生まれた。若くして政治に目覚めた彼は、インド独立を目指す革命家となり、テロ事件を起こしてイギリスの官憲から追われる身となった。そんな彼が亡命先に選んだのが、日露戦争に勝利して世界――とりわけアジアから熱い視線を注がれていた、日本であった。

なんとかしてイギリスの官憲の目をかいくぐり――このあたりはちょっとしたスパイ映画のようなスリル感がある――日本へとたどり着いたボースは、そこで中国革命の父孫文と出会う。孫文は当時、革命の動乱のただなかにあった中国から逃れ、日本に滞在していたのだ。

孫文と面会したボースは、孫文本人の口から「あなたに会いたかったのだ」と思いがけない言葉を聞くこととなる。日本に亡命したインドの若き革命家の名は、すでに孫文の知るところとなっていたのだ。

世界的に著名な革命家が自分の名を覚えてくれていた。そのうえ「会いたかった」とまで言ってくれた――ボースはきっと、天にも昇る気持ちだったに違いない。

 

そんなボースに、しかしながら試練が訪れた。

当時の日本は日英同盟を結んでおり、イギリスは最重要の同盟国であった。その同盟国・イギリスからの申し出により、日本政府は「テロリスト」ボースに国外退去命令を下したのである。

かくして最大のピンチに直面したボースに救いの手を差し伸べたのが、戦前日本を代表する右翼団体玄洋社であった。

玄洋社は、アジアを欧米列強から解放するという「アジア主義」の理念を掲げており、そのアジア主義の観点から、インド独立を志す革命家・ボースをかくまうことに決めたのである。

しかし、かくまうと言ったって、一体どこに?

玄洋社のメンバーたちはあれこれと思案した挙句、ウルトラCの決定を下した。

なんと、新宿にある中村屋というパン屋さんに、ボースをかくまってもらうことにしたのである。

中村屋は、玄洋社のメンバーが常連となっていたことから玄洋社とつながりがあり、店主はインテリで英語を話すことができた――当時、パン屋はハイカラな商売であり、庶民が簡単に開業できる業種ではなかったのだ。英語が話せるのであれば、インド人であるボースとのコミュニケーションも問題なかろう。それに、政府もまさかパン屋さん(!)がテロリストをかくまっているなどとは、思いもよらないことだろう。

……というわけで、ボースは中村屋にかくまわれることとなったのである。玄洋社の総帥・頭山満の邸宅にて催されたボースの「送別会」から、そのまま中村屋へと直行する場面は、さながらスパイ小説のような趣きである。

退去命令が撤回され、もはやかくまわれる必要もなくなったボースは、これまでの感謝とばかりにインドカリーを人々に振る舞った。革命家は、意外にも料理が得意だったようだ。かくして、今日まで続く新宿中村屋名物・インドカリーが誕生したのである。

※この記事を読んで「アレ?」と思った方もいらっしゃるかと思うが、インドカレーではない。インド「カリー」なのである。これは、イギリス経由の「カレー」ではない、本場インドの「カリー」を日本の人々に食べてもらいたい、というボースの願いによるのだという。

 

本著には、頭山満内田良平大川周明満川亀太郎安岡正篤、等々、戦前右翼の大物たちが綺羅星のごとく総出演する。まさにオールスターと言ってよい。ボースの日本での人脈の豊かさがうかがわれる。

ボースは、単に彼らによって受動的にかくまわれていただけではない。ボースのおかげで頭山と大川がつながりをもち、大川と満川がつながりをもつことができたのである。ボースは、実は日本の右翼の歴史に多大な影響を与えていたのだ。付け加えれば、ボースと大川はともに1886年生まれの同世代にあたる。

ボースは、しかしながら決して日本を盲目的に支持したわけではなかった。彼はまた、日本のなかにある帝国主義的な傾向を批判してもいたのだ。

たとえば、彼は1923年に日本に帰化する際、帰化人に法的差別があることを批判する内容の嘆願書を提出しているのである。こうした彼の態度を、中島さんはこう解説している。

≪R・B・ボースは、「一意忠誠を君国に致さんことを期」したにもかかわらず、日本政府が制度的に帰化人を差別することは、その「忠誠心」が大いに削がれることに繋がる、と嘆願書の中で訴えた。彼は、日本政府を真っ向から(頭ごなしに)批判するのではなく、「日本人」の懐にしっかりと入りつつ、内側から逆投射する形で日本のあり方を批判した。≫(147頁)

中島さんは、ボースの「内側から」の日本批判を取り上げるだけでなく、玄洋社が有していた侵略主義的な側面も指摘している。

玄洋社黒龍会のメンバーにとって「下からの抵抗」を担う日本「人民」は、日本的な忠義や礼節を重んじ、皇室に対して一定の敬意を有する人間であることが前提とされていた。「民衆」はそのような要件を満たしてこそ、「敬天愛人」の精神を欠いた日本政府の「官僚人種」を批判する「人民」として、「主権」や「権利」を主張することができると認識されていた。そのような一義的な「人民」観が、西洋列強の支配に抵抗しようとするアジアの人々に対しても投影されたため、そこからこぼれ落ちるアジア人は、批判の対象とされたのである。≫(127‐128頁)

アジアの欧米からの解放を訴えた玄洋社は、それゆえに今日では左派からも好意的に紹介されることが多くなったが、中島さんはその玄洋社のなかにも、ある種のアジア人蔑視があったことを指摘するのである。

中島さんはたまに保守派として紹介されることもあるが、玄洋社へも時に厳しい眼差しを向けることから、保守というよりかはむしろ、「保守のこともよく勉強しているリベラルの学者さん」とみるべきだろう。

 

当初は日本を批判することもあったボースだが、次第に彼の日本批判のトーンは和らいでいった。住み慣れた日本への配慮とも考えられるが、やはりインド独立のためには日本を味方につけたほうが得策という現実的判断が働いたのだろう。

やがて、アジア解放を大義名分に掲げた、その名もずばり大東亜戦争がはじまると、ボースの革命家としての闘志に、再び火がつけられた。

ボースはマレーへと渡り、インド国民軍を指揮したが、彼を日本の傀儡とみなす他のインド人たちと対立してしまい、そのせいかめっきり身体が衰えてしまった。

本著には、マレー時代の彼の写真も掲載されている。若い頃のボースはなかなかの巨漢の持ち主だったが、このころになるとすっかり痩せてしまい、まるで別人のようだ。

それでも彼は病身に鞭打つように力を振り絞り、「もうひとりのボース」スバス・チャンドラ・ボースとともに自由インド仮政府を指導したのであった。

しかしながら病には勝てず、彼は最終的に日本への帰国を余儀なくされた。そして、1945年1月21日、息を引き取ったのである。58歳であった。

インドが独立を達成したのは、彼の死から2年後のことであった。

 

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義