Furusawa Keisuke's blog

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書評『近代アジア精神史の試み』

本ブログではこれまで、評論家・松本健一さん(1946‐2014)の著作を複数取り上げてきた。

本日ご紹介する『近代アジア精神史の試み』中央公論社もまた、そんな松本さんによる著作のひとつである。

 

本著は、19世紀後半からアジア各国で活発化する、欧米列強への抵抗運動を概観した本である。

面白い、というか皮肉なのは、そのようにして盛り上がった民族的アイデンティティーは、しかしながら逆説的に、欧米列強による侵略“のおかげで”はじめて成立することができた、という点だ。

それ以前までは、彼らに明確な民族的アイデンティティーは、なかった。欧米列強が強大な侵略者として彼らの前に立ちはだかってはじめて、彼らは守るべき自らのアイデンティティーを“発見”したのである。

日本の場合、それは天皇を中心とする国の成り立ち、すなわち国体であった。インドの場合、それはガンディーによって提唱された、非暴力主義というかたちで現れた。

我々アジア人のアイデンティティーは、このように決してアプリオリなものではなかったのである。

 

さて、面白かった点、ふたつ目。

民族のアイデンティティーを発見できた。ハイ、そこまではいい。では、その次は、具体的に何をすればいいのか。どうすれば、民族のアイデンティティーを守れるというのか。

ここで松本さんは、幕末期の思想家・佐久間象山のアイデアに注目する。佐久間は、欧米に抗うためにあえて欧米化する、という逆説的な戦略を提唱したのだ。

欧米に抗わなくては自らのアイデンティティーを守れない。だがそのためには欧米の進んだテクノロジーを採り入れる(=欧米化する)必要がある。これが、佐久間の考えた戦略だ。

こういう、「○○に抗うためにあえて○○化する」という発想は、意外にも応用範囲が広い。こんなことにだって応用できてしまう。

脱オタである。

「ハァ!? なにを唐突な……」と皆さん驚かれることだろうが(w)、リア充を欧米列強に、彼らによって迫害されるオタクをアジア諸国になぞらえて考えればいいのである。

オタク(アジア)は、このままではリア充(欧米)によっていじめられてしまう。そこでオタクは、たとえばファッションをより洗練されたものにする、コミュニケーションスキルを磨く、などの必要に迫られる。これが脱オタ(近代化)である。

そんなメンドクサイのは嫌だ、と言ってオタクの世界に引きこもってしまうオタク(伝統に固執するアジア諸国は、リア充によっていじめ(植民地化)の対象となる。それが嫌なら、脱オタするしかない。

だがここで問題が生じる。脱オタ(近代化)に成功したら、オタク(アジア)はオタクでなくなってしまう、すなわちただのリア充(欧米のコピーとしてのアジア)になってしまうのではないか。オタクとしてのアイデンティティ(アジアの民族的アイデンティティー)が失われてしまうのではないか。

かくして我々が着目すべきなのが、明治期の思想家・岡倉天心のとった態度である。

岡倉は、英語ペラペラの国際人であったにもかかわらず、否、だからこそ、欧米の社交界では紋付き袴という和装で通した。しかし弟子たちが真似して和装しようとすると、彼はこう言ったという。

「私は近代とは何かを知っているから、こうして和装が許されるのだ。近代を知らぬおまえたちが和装したところで、そんなものはただの土人に過ぎない」

つまり、本当は欧米人としてふるまえるのにあえてアジア人としてふるまうというのがポイントなのだ。

さきほどの脱オタのたとえで言えば、脱オタ(近代化)しているから本当はリア充(欧米人)としてふるまうこともできるのだけど、あえてオタク(アジア人)としてふるまう――そんな感じなのだ。

お分かりいただけただろうか?(w

 

さて話は変わって(w)、本著終章、松本さんはシンガポールなど、必ずしも民主主義的とはいいがたいアジアの国が経済的に繁栄していることに触れ――本著刊行当時、中国の経済発展はまだ今日ほどではなかった――アジアにとって近代化というのはあくまで、国力を高めるための“手段”に過ぎなかったのであり、“目的”ではなかったのではないか、と書いている。

さて、どうだろう。

この問題に関しては、僕は松本さんよりもむしろ、彼のライバル的存在であった評論家の渡辺京二さんのほうに賛同したい。彼は、近代というものが欧米の歩んだ特殊な歴史から生まれた産物だと認めつつも、同時に人類の歴史において普遍的な価値を有すると訴えてもいた。

これからの世界に必要なのは――これは松本さんの考えとは対立するだろうが――意外にも、“ネオコン的な発想”ではないか、と僕はひそかに考えているのだが、これについてはまた後日、改めて語らせてもらうこととしよう。

 

近代アジア精神史の試み (中公叢書)

近代アジア精神史の試み (中公叢書)

 

 

ここから先は余談であるが……。

実を言うと、本著と並行してもう一冊、松本さんの著作を読んでみたのだ。『泥の文明』(新潮社)という本である。

……正直、なんだかなぁ、という印象を受けた。どうにも腑に落ちないのだ。

この本のなかで、松本さんはなんともスケールでかく、世界の諸文明は「石の文明」「砂の文明」、そして「泥の文明」の三つに分けられる、と言っている。

このうち、「泥の文明」の担い手である我々日本人は、古来より棚田作りなどに精を出してきたおかげで、今日、半導体などの精密部品をつくるのを得意としているのだ。あるいは、農耕民族である日本人は伝統的に土地への執着が強いため、バブル期に土地を買う動きが強まったのだ。

――こういった話が次から次へと出てくる。

……言っちゃ悪いが、大雑把な文明論、という印象をぬぐえない。

僕などは、あまりにクダラナイので、途中で読むのを止めてしまったほどである。

ま、松本さんには、そういう「ハズレ」もある、ということで(w