Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『アジア主義』

僕はこれまで、アジア主義に関する良い教科書はないものか、と考えあぐねいてきた。

マンガであれば、小林よしのりさんの『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論』が良い入門書となるだろう。小林さんは毀誉褒貶の激しい人であるが、この『大東亜論』は、アジア主義の志士たちが実に躍動的に描かれており、入門書として最適である。

それでは活字の本のほうで、良い教科書はないものだろうか。

そこで本日ご紹介するのが、政治学者・中島岳志さんの『アジア主義 その先の近代へ』潮出版社だ。

本ブログではこれまで、中島さんの著作を複数取り上げてきた。いずれも興味深いものだったが、それらは評伝や対談集などであり、アジア主義という思想潮流をその起源から終わりまで描き切った著作ではなかった。

本著はまさに、そのような本だ。アジア主義とはどういう思想・運動だったのか知りたいという方には、まず本著を薦めたい。同様に、中島さんの本を初めて読むという方にも、まず本著から読むことをお薦めしたい。中島さんの思想が要領よくまとめられているからだ。

 

本著では、頭山満宮崎滔天岡倉天心など、アジア主義の思想家・活動家たちの生涯がコンパクトにまとめられている。まずは、頭山率いる右翼団体玄洋社の話から始めよう。

玄洋社は、自由民権運動のなかから現れた。「え、なんで自由を求める運動のなかから右翼団体が出てくるの?」と今日の我々は不思議に思ってしまう。中島さんは、もともと自由民権運動そのもののなかにナショナリズムの要素が潜んでいたからだ、と解説している。

自由民権運動ナショナリズム? どういうこと?」

ナショナリズムは、「国民みんなが同胞」という発想である。必然的に、これは身分制に抗う。前近代までは、王侯貴族がシンパシーを抱いてきたのは自国の庶民などではなく、他国の王侯貴族だった。ナショナリズムの時代になってようやく、身分に関係なく国民はみな同胞という発想が出てきたのである。

日本の場合、そうしたナショナリズムの核となったのが、天皇であった。フランス革命では国王が処刑されてしまったが、日本では逆に「一君万民」天皇を除く人々はみな平等)の思想のもと、かえって身分制打倒のシンボルとして天皇が注目されたのである。

玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」の三つであった。我々戦後生まれの日本人は「皇室を敬戴すべし」と「人民の権利を固守すべし」のふたつが矛盾しているように感じてしまうが、彼らにとってこれは矛盾ではなかった。天皇は三色旗や星条旗と同じように、革命(=維新)のシンボルに他ならなかったからだ。

 

頭山とはまた違ったかたちで、アジア主義の歴史にその名を残したのが、岡倉天心である。「Asia is one」をスローガンに掲げた岡倉は、西洋の近代文明とは異なるアジア独自の文明のありかたを模索しつづけた。

中島さんは、玄洋社などのアジア主義団体がいわば近代を「輸出」しようとしたのに対し、岡倉は近代を「超克」しようとした、とまとめている。なるほど、分かりやすいまとめだ、と思った。

玄洋社と岡倉は、しかしながら中島さんに言わせれば「すれ違って」しまった。そしてそのことが、後に不幸を生んでしまったと言う。どういうことか。

アジア主義は結局のところ、日本の帝国主義的膨張を支えてしまった。それは、玄洋社をはじめとするアジア主義の“活動家”たちに思想がなかったからである。一方、岡倉はアジア主義の活動家ではなく“思想家”であり、玄洋社の活動家たちとは接点を持たなかった。

もし彼らが接点をもち、アジア主義の活動家たちが高度に理論武装できていれば、単なる帝国主義の走狗にはならなかったのではないか、と中島さんは言うのだ。確かに、そうかもしれないな、と思った。

 

さて、中島さんの本を読んでいて面白いと感じるのは、彼は宗教的な関心が強いということだ。

本著冒頭ではまずイスラーム学者・井筒俊彦が引用され、本編のなかでも岡倉天心はじめ宗教的な色彩を帯びた思想が詳述される。

中島さん自身、親鸞の教えに関心があるのだという。僕も仏教には関心があるので、もっと彼の仏教論を聞いてみたいな、と思った。

 

この本は、僕にとっては大きな収穫であった。アジア主義の歩みがコンパクトにまとめられているおかげで頭のなかが整理できた、というのもある。だがもうひとつ、僕のなかにあった戦前右翼への関心と宗教全般への関心が、ひとつになったのである。

本ブログの読者の皆さまならお分かりかと思うが、僕の最近の関心は仏教と戦前の右翼思想に向けられており、それらに関連する著作を集中的に読みつづけてきた。読者の皆さまは、僕がなにか意図をもってそうした読書をしているのかと思われたかもしれないが、そうではない。興味のある分野の本を読みつづけていったら、たまたまそうなったというだけの話にすぎない。

今までは戦前右翼に関する関心と仏教への関心が単に併存しているだけで、くっついてはいなかったのだが、それがようやくひとつになった。

中島さんには感謝しなければならない。

 

と書いて本稿を綺麗に締めくくろうかとも思ったが、やはり最後に一点、気になることを書くとしよう。

それは、中国に対する中島さんの姿勢だ。誤解しないでほしい。アジア主義者たちが暗躍した20世紀前半の中国のことではない。この21世紀の、現在の中国のことである。

中島さんは本著のなかで、戦前の日本が帝国主義に傾いていったことを事あるごとに批判しているのだが、中国のチベットウイグル支配についての批判は、わずか3行程度にとどまっている。

だがこれは、重要な論点ではないのか。本著でも書かれているように、もともとウイグルチベットも、さらには満州すらも、本来、漢民族の土地ではなかった。だから孫文満州を日本に譲り渡してもいいとすら考えていたのである。

ところが中華民国が成立し、これが清の領土を引きつぐことになると、これらの土地もみな中国のもの、という発想が出てきた。

これこそ、帝国主義ではないのか。

 

アジア主義  ―その先の近代へ

アジア主義 ―その先の近代へ