Furusawa Keisuke's blog

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書評『自分をみつめる禅問答』

さて、先日に引き続いて、本日も曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの著作を取り上げるとしよう。

『自分をみつめる禅問答』角川学芸出版である。

南さんはこれまでに複数の対談本を世に出しているが、本著は言うなれば疑似的な対談本。ふたりの禅僧の対談、という形式を採っているが、実際には南さん個人の仏教解釈が明らかにされている本である。

 

相変わらず、南さんの言うことはなんとも難しい(w)。だが同時に面白いとも感じるから、不思議なものだ。

たとえば、科学に関するお話。

我々現代人は、科学が絶対だと思い込んでいる。だが、本当にそうか。南さんは、そう問いかける。

≪たとえば、ぼくが転んでケガをしたという事実は物理現象として数量化され、ぼくと地面の石などの物体同士の因果関係として、数学的に定式化して記述されるだろう。科学的な説明を目的とするなら、それで終わりだ。

 ところが、この説明は、なぜ他ならぬこのぼくが転んだかを説明しない。そこで、たとえば、僕が神社の鳥居を蹴飛ばしたので、山の神が起こってバチを当てたという説ならどうだろう?

(中略)

 合理的だというなら、「山の神」さえ信じるなら、「バチ」は完全に「合理的」だぜ。ということは、我々の多くが、まず科学が正しいと漠然と信じているから、その説明が「合理的」に聞こえるんだろう。

(中略)

理論の正しさは、現象を再現できるかという、実験の効果に担保される。ただし、一万回の実験で理論通りの結果が得られても、次の一回もそうなるかは、やってみなければわからない。とすれば、理論の正しさの正体は、一万回の実験の効果を認めて、「ここは皆で正しいと信じましょう」ということだろう。≫(196‐197頁)

よく仏教を褒める際に用いられる言い回しに、「仏教は科学的な宗教(あるいは、哲学)である」というものがある。

だが、そもそも科学って本当に万能なのか、とここで南さんは問うているのだ。

これは、下手するとオカルト肯定とも受け止められかねない、極めて危うい綱渡りなのだが、引用箇所をよく読めばお分かりいただけるように、南さんはオカルトを肯定しているわけでは決してない。彼のバランス感覚は、なんとも絶妙である。

 

本著を読んでみて、少しずつではあるが、分かってきたことがある。

大乗仏教中観派の僧・ナーガールジュナ――日本仏教では「龍樹菩薩」の名で知られる――の代表的著書『中論』では、「行く人は行かない」というパラドックスのような話がある。最初、南さんの著作を通じてこの話を聞いたときは、正直「はぁ???」とわけが分からなかったが、これが分かってきた気がするのだ。

たとえば、「古澤圭介が歩く」、「古澤圭介が食べる」、はたまた「古澤圭介がオナニーする」(!)と言うときに、我々はそれらの行為に共通して<古澤圭介>という実体があるのだと考える。

ところが、仏教はそうではないと言っているのだ。仏教は、<古澤圭介>という実体が存在するとは認めていない。あくまで「歩く」、「食べる」、「オナニーする」という個々の行為のなかでのみ、<古澤圭介>と周囲の世界とを区別できると考えるのだ。

南さんは、こう説明している。

≪歩いているという行為そのものが、その時の彼と地面、彼と天空、彼と周囲の世界のあり方を決めていく。我々は、行為において、この世界を現実化し、言葉によって定式化し、この世界に住まう。その住まうことにおいて我々は我々になる。まず関係が開かれ、関係の仕方が自己と世界の形式を決めるのだ。≫(133‐134頁)

どうですか、分かりますか?

……え、難しい? わけが分からない?

ええ、大丈夫です。こちらも、こんな拙い説明で分かっていただけるなんて端から思っていませんから(w

 

本著にはこのほかにも、面白い話が盛りだくさんだ。南さんの本には興味深い論点が全体的にまんべんなく散りばめられているためか、いざ感想を書く段取りになると、意外にもまとめづらくて毎回苦労してしまう(;^_^A

皆さんもぜひ、本著を手に取って読んでみてください。

 

自分をみつめる禅問答 (角川ソフィア文庫)

自分をみつめる禅問答 (角川ソフィア文庫)