Furusawa Keisuke's blog

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書評『親鸞の教えと歎異抄』

最近、浄土真宗の開祖・親鸞に興味が向いている。

 

本ブログでは以前、評論家・小浜逸郎さんによる『歎異抄』現代語訳を取り上げたことがあった。だが率直に言って、親鸞という人が分かったとは、まだ到底いいがたい。

小浜さんの翻訳・解説が分かりづらかったというのでは決してない。そうではなくて、親鸞の教えそのものが、なんとも分かりづらいのだ。

一見矛盾するような言葉が、平気で混在している。

いったい、この親鸞という人の頭のなかは、どうなっていたのだろう?

 

本日ご紹介するのは、『図解でやさしくわかる 親鸞の教えと歎異抄(ナツメ社)。『歎異抄』が伝える親鸞の教えを、まさしくタイトルどおり、イラストを使って分かりやすく解説してくれる良著である。

著者は、宗教学者にして浄土真宗の僧侶でもある、釈徹宗さん。彼の分かりやすく親しみやすい語り口には定評がある。本ブログでもこれまで彼の著作を多数取り上げてきた。

これからは、親鸞の教えに初めて触れるという初学者の方には、まず本著をおすすめすることとしよう。

 

さて、さっそく『歎異抄』の話へ。

歎異抄』のなかで有名な言葉のひとつに、「わが心のよくて殺さぬにはあらず」というものがある――上述の小浜さんはこの言葉を座右の銘としているのだという。稚拙ながら僕なりに現代語訳してみると「私の心が善良だから人を殺さない、というのではない」といった意味になる。

どういうことか。実は最初にこの言葉に触れたときには、親鸞の言わんとしたことがいまいちピンとこなかった。だが今なら、分かる気がする。

彼は、人が善人になるか悪人になるかはその人を取り巻く環境次第であり、環境が変わってしまえば、それまで善人だった人がいとも簡単に悪人に変わりうる、と言いたかったのではなかろうか。

僕は、スタンフォード監獄実験を思い出す。一般人からなる被験者のうち、半数を看守役に、もう半数を囚人役に割り振り、実験監獄へと入れる。時間が経つにつれ、看守役はより看守らしく振る舞うようになり、囚人役もより囚人らしく振る舞うようになる。これだけならまだ笑い話だが、しだいに看守役が囚人役に暴力を振るうようになり、それがどんどんエスカレートしたため、最終的に実験は中止を余儀なくされたのである。

この実験からわかること。それは、「いい人」というのは環境次第でたやすく変化するということだ。人間は、自らや他人の人格を固定的なものだとつい考えてしまう。だが、そうではない。環境が変われば、いい人はたちまち悪い人へと様変わりする。

スタンフォード監獄実験が行われたのは20世紀だが、親鸞は13世紀の時点ですでに、その実験結果と同じことを見抜いていたのである。

 

歎異抄』における有名な言葉に、このほか、「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候」というものがある。「たとえ法然上人に騙されて、念仏を唱えたせいで地獄に堕ちたとしても、私は後悔しません」という意味だ。

一見、親鸞の断固とした決意が表明された、感動的な言葉に思える。だがこれは、少し言葉をもじって

「たとえ麻原尊師に騙されて、地下鉄にサリンをばらまいたせいで地獄に堕ちたとしても、私は後悔しません」

というのと、何が違うのか。

実際、1995年のオウム事件の際には、『歎異抄』の以上の言葉は議論を呼んだのだという。

釈さんは、親鸞には「内省の深さ」があった、と指摘している。逆に言えば、オウムの信者たちには、親鸞のような徹底した内省がなかった、というわけだ。

 

親鸞は、内省の人であった。彼は、ずっと自意識の問題に直面しつづけた人であった。

人は、思春期のころには、自意識のことで思い迷う。だが多くの人は大人になれば、そんなことはさっさと忘れて生きていくことができる。

親鸞は、それができなかった。彼は数え90歳という当時としては異例の長寿を全うするまで、ずっと思春期特有の心の煩悶に耐えつづけてきたのだ。

釈さんによると、彼は90になるまで「自分はニセモノなのではないか」との思いにとらわれつづけたのだという。

……正直、キツかっただろうな、と思う。

だがそんな90年にわたる苦しみに耐えたからこそ、親鸞は偉大な宗教者として歴史に名を残したのである。

 

そんな親鸞について、僕はひとつ、誤解をしていた。

親鸞は「半僧半俗」、つまりお坊さんと一般人の中間に自らを位置づけていたのだと思っていた。お坊さんでもあり、また一般人でもある、と。

だが、そうではなかった。彼は「非僧非俗」、つまりお坊さんでもなければ一般人でもない、と言っていたのだ。

自らを、「お坊さん」「一般人」という既存のカテゴリーのなかに位置づけない。ずっと、正体不明の存在でいつづける。生半可な覚悟ではない。

僕は、曹洞宗僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの話を思い出す。「人は死んだらどうなるか」という問いに、ブッダは無記、つまりノーコメントという態度で答えた。無記という宙ぶらりんの状態に耐えろ、と南さんは言っていた。

親鸞は、「非僧非俗」という宙ぶらりんの状態に、90年間、耐えつづけてきたのだ。

 

親鸞がニセモノだというのなら、僕だってニセモノである。

本ブログでは先日、エリザベス・キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』という本を取り上げた。同著では、余命いくばくもない患者はいろいろな段階を経て、最終的には「受容」と呼ばれる段階へと行きつくのだ、と説明されていた。

だが僕は、自分が同様の境遇に置かれたら、はたしてそんなに安らかに自らの死を受容できるだろうか、と思った。

さんざん暴れて悪態ついて、一休禅師のように「あぁ、死にとうない、死にとうない」と言いながら死んでいくのではなかろうか。

 

……親鸞に関する本を、もっと読んでみたいと思った。

 

図解でやさしくわかる 親鸞の教えと歎異抄

図解でやさしくわかる 親鸞の教えと歎異抄