Furusawa Keisuke's blog

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書評『親鸞』

本ブログでは以前、宗教学者釈徹宗さんによる親鸞入門書『親鸞の教えと歎異抄』を取り上げたことがある。

歴史上の人物について知るには、このように入門書を読むのが最も手っ取り早い。だが、もうひとつ、方法がある。

その人物を主人公にした文学作品を読むことだ。

 

本日ご紹介する本は、小説家・五木寛之さんによる歴史小説親鸞』シリーズである。

親鸞の青年期を描いた『親鸞』、佐渡での流刑生活、関東への布教の旅を描いた『親鸞 激動篇』、そして晩年を描いた『親鸞 完結篇』、それぞれ上下巻、全6巻で構成される長編作品である。今回は全部まとめてご紹介するw(;^ω^)

 

まずは一巻目から。

京都の下級貴族の家に生まれた、範宴少年――後の親鸞

彼が生まれた時代は、ちょうど平家から源氏へと覇権が移る時期に相当した。世には戦乱が絶えず、飢餓や災害もたびたび起こった。ようするに、乱世であったのだ。京都の鴨川は、いまでこそ平和な遊歩道となっているが、この当時は当たり前のように死体が浮かんでいた。

そんな環境で多感な少年時代を過ごした範宴が、世の無常を感じたのは当然の成り行きだったろう。彼は出家し、比叡山の僧となった。

やがて青年となった彼は、厳しい修行を続けるなか、なんと聖徳太子の幻影を見る。本著のクライマックスだ。そして彼はもうひとつ、運命的な出会いを果たすのである。人生の師・法然との出会いだ。

 

親鸞(上) (講談社文庫)

親鸞(上) (講談社文庫)

 

 

続いて下巻へ。実を言うと、全6巻のなかで個人的にはこの巻が一番のお気に入りなのだ(w

従来の比叡山での修行に限界を感じた範宴は、かくして比叡山から下り、法然のもとを訪れて、その弟子となる。この場面での法然と範宴の対話が、またなんとも良いのだ(w)。皆さんもぜひ、本著を手に取って読んでみてほしい。

法然は、とても包容力のある人物だ。それでいて、後述する彼の著書『選択本願念仏集』には、普段うかがうことのできない彼の厳しさがあらわれている。優しさと厳しさを兼ね備えた師。範宴はついに、生涯の師を得ることができたのだ。

範宴は、法然からあらたに綽空の名を与えられ、やがて法然門下のなかで師・法然から最も信頼された弟子となった。その証に、彼は法然から『選択本願念仏集』の筆写を命じられるのである。法然は、本当に信頼している弟子にしか、この本の筆写を許さなかった。綽空が本当の意味で師から認められた瞬間だ。この場面も実にイイから皆さんも是非読んでみてね(w

老若男女、貴賤を問わず多くの人々からの尊崇を集めた法然教団にも、しかしながら権力による弾圧が迫ろうとしていた。人生最大の危機に直面する綽空。『親鸞』上下巻はかくして激動のうちに幕を閉じる。

本著の末尾、綽空はようやく、親鸞を名乗る――それにしてもコロコロ名前が変わる人だ。出世魚かいな。また、このころ、後に妻となる恵信尼にも出会っている。

少しずつ、今日の私たちが知る「親鸞」の礎が、出来てきた。

 

親鸞(下) (講談社文庫)

親鸞(下) (講談社文庫)

 

 

権力からの弾圧により、親鸞は越後へと流されてしまう。本巻では、彼の越後での活躍が描かれる。

といっても、実際の親鸞の足跡は、史料があまりないため謎に包まれている、というのが実情である。

本巻の記述の大部分は、したがって小説家である五木さんがイマジネーションを膨らませながら書いた創作である。歴史“小説”としての性格が前面に出た巻、と言っていいだろう。

 

親鸞 激動篇(上) (講談社文庫)

親鸞 激動篇(上) (講談社文庫)

 

 

続いて下巻へ。

ようやく罪を赦された親鸞は、越後から関東へと移り、かの地にて念仏の布教に努めた。本巻では、親鸞の関東での布教の様子が描かれる。

最も印象に残った箇所をひとつ挙げよう。妻・恵信尼と口論になった親鸞は、ついカッとなって彼女をひっぱたいてしまう。ここも五木さんによる創作なのだろうが、たしかに実際の親鸞もそうだったのかもしれないな、と思った。

親鸞はその長い生涯にわたって、「自分はニセモノなのではないか」との思いにとらわれつづけたのだという。「自分は(僧侶として)ニセモノ」とは、例えばこういう部分を指していたのかもしれない。

 

親鸞 激動篇(下) (講談社文庫)

親鸞 激動篇(下) (講談社文庫)

 

 

さぁ、いよいよ『親鸞 完結篇』だ。

ここで描かれるのは、晩年の親鸞である。『歎異抄』の著者・唯円も登場するし、『歎異抄』でおなじみの名場面の数々もまた、小説家である五木さんの手によって臨場感あふれるシーンへと再構成され、描かれていく。

唯円に「往生を望んでいるはずなのに、浄土に行きたくない」と自らのアンビバレントな心境を打ち明ける親鸞。はるばる関東から来た信徒たちに「念仏以外に救われる手はない」ときっぱり答える親鸞。孤独にも見える彼の姿は、我々の心に静かな感動をもたらす。

もうひとり、本巻から本格的に登場するのが、親鸞の息子・善鸞である。後述のとおり、善鸞は後世での評価がどうにもよくない。ドラ息子だったのかな、と思っていたが、本巻を読むと、案外真面目そうである。いったいどうなるのだろう。

 

親鸞 完結篇(上) (講談社文庫)

親鸞 完結篇(上) (講談社文庫)

 

 

長かった『親鸞』シリーズもついに最終巻である。

本巻でも、親鸞唯円に「私から『人を殺せ』と命じられたらお前は人を殺せるのか」と迫る場面など、あいかわらず「歎異抄あるある」の場面が多い(w

さて、善鸞の話。彼は念仏の布教のため、関東へと派遣される。当初はそこそこ順調だったようだが、最終的には実父・親鸞から破門される結果となってしまう。

しかし善鸞とて、けっしてドラ息子というわけではなかったのだ。

彼が頭を悩ませたのは、旧来の神仏の信仰がいまだ根強い関東の地にて、いかにして念仏を普及させるか、という問題である。善鸞が採ったのは、ある程度、旧来の信仰と妥協する、というものであった。これは確かに、布教のやり方としては合理的なように思える。少なくとも、間違っていたと断言することはできないのではないか。

この物語のなかでも、善鸞は父の教えを十分には理解できていないものの、真面目な人物として描かれている。どうやら、ドラ息子というイメージは改めなければいけないようだ。

父の教えを理解できなかったのは、実のところ娘・覚信尼も同じであった。

ラスト、親鸞が入滅する場面にて、彼女は、父・親鸞観音菩薩の生まれ変わりであり、その入滅の際には必ずや奇跡が起こるだろうと固く信じていた。

彼女の言葉を聞いた親鸞がため息をつく場面がなんとも印象的。当然、奇跡は起こらなかった。本著は≪覚信が期待していたような奇瑞は、なにもおこらなかった。≫(345頁)と冷たく突き放すような文章で、この長い物語を締めくくっている。

 

親鸞 完結篇(下) (講談社文庫)

親鸞 完結篇(下) (講談社文庫)

 

※今回僕が読んだのは文庫版ではなくハードカバー版です。引用ページ数もそちらに準拠します。

 

上述のとおり、親鸞の生涯は未解明の部分が多いため、本著の多くの場面は五木さんの手によるフィクションである。また、『歎異抄』にも登場する有名なエピソードについても、五木さんが脚色を加え、より臨場感ある場面へと仕上げている。

「勝手にそんなことして、いいの?」と疑問に思う読者の方もいらっしゃるかもしれない。

だがそれをいうなら、今の大河ドラマ『西郷どん』だって、かならずしも西郷隆盛を史実通り描いているわけではない。フィクションの部分も織り交ぜつつ、それでも西郷の人間性を表現しようとしているのである。本作もそれと同じ、と考えれば良いのだ。

 

『親鸞の教えと歎異抄』を読んだ方は、続けて(ちと長いがw)本著を読むことをおすすめする。親鸞がどういう人だったか、だんだんと分かってくるはずだ。