Furusawa Keisuke's blog

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書評『現代文訳 正法眼蔵』

本ブログではこれまで、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの著作をさかんに取り上げてきた。

だが、その曹洞宗において聖典としてあがめられている道元禅師の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)については、まだ読んだことがなかった。

僕は高校生のころから古典の科目が一番のニガテで、読むとしたら現代語訳しかない。でも『正法眼蔵』の現代語訳なんて、はたしてあるのだろうか。

……と思っていたら、あった(w)。現代思潮新社の創業者として知られる石井恭二さん(1928-2011)による『現代文訳 正法眼蔵』なる本があるではないか! よし、読もう!

 ……ところがここで、心のなかにためらいが生じてしまうのである(;^ω^)

正法眼蔵』は、日本の古典のなかでも最も難解な内容だと聞く。果たして僕のような凡夫に、その深遠な内容が理解できるのだろうか。

とはいえ、そんなことを気にしていたら、いつまでたっても読むことなどできないだろう。大事なのは、ある種の決断主義的な態度ではないのか。 

 

というわけで、今回、『現代文訳 正法眼蔵河出書房新社全5巻を読んでみた次第である。

 

まずは第1巻から見ていこう。

最初の章「現成公案」は『正法眼蔵』のなかでも最も有名な箇所で、広く知られている道元禅師の言葉「自己をならふといふは、自己をわするるなり」もこの章に出てくる。次の「摩訶般若波羅蜜」は、明らかに『般若心経』を意識した章だ。『般若心経』が曹洞宗にとって重要な経典だということが、ここからも分かる。

……とまぁこんな感じで、各々の章をひとつずつじっくりと吟味できれば一番良いのであるが、いかんせん道元禅師の言うことは難しくて、我々凡夫にはよく分からない。

分からない箇所は、そのまま読み飛ばしても良いのだと思う。上述のとおり、日本の古典のなかでも指折りの難解な著作とされている本なのだ。一回読んだだけで全部分かるほうが、むしろおかしいのである。さぁ皆さん、安心して『正法眼蔵』を読み飛ばしていこう(←オイ)

第16章「行持」は長いので上下に分かれている。このうち上のほうで、道元禅師は以下のように書いている。

≪出家し学道する者が、どうして立派な建物に住むことがあろう。もし豊かな建物を手に入れる者があれば、その者たちで邪道に堕ちない者はなく、清浄な暮らしをする者は稀である。立派な建物がもとからなるなら別であるが、改めてそのようなものを営んではならないのだ。草庵や白木の家屋は、古来の聖人の住むものである、古来の聖人が愛するところである。≫(第1巻288頁)

アレ? 今の曹洞宗宗務庁って、都内の結構立派なビルじゃなかったっけ?(w

 

現代文訳 正法眼蔵 1 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵 1 (河出文庫)

 

 

続いて第2巻。

有名な「有時」の章は、本巻に収められている。「有時」は、ハイデガーベルグソンなど、近代の哲学者とよく比較される個所である。20世紀の実存主義の哲学者とも通じる言葉を、13世紀の日本の仏教僧が言っているのだから、考えてもみれば、すごい話だ。『正法眼蔵』は、日本仏教というよりかはむしろ、日本の“思想”にとっての最高峰といえるのかもしれない。

個人的には、 「礼拝得髄」の章も良いな、と思った。前近代の日本仏教では女性を穢れと見なす風潮が強かったのだが、道元禅師はこの章のなかで男女平等を説いているのだ。

どうやら禅師の思想は、実存主義だけでなくフェミニズムにも通じるようである。

 

現代文訳 正法眼蔵 2 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵 2 (河出文庫)

 

 

第3巻へ。

道元禅師の言葉はあいかわらず抽象的で難しいが、なかには具体的な記述もある。

「洗面」という章がそれで、まさしくタイトル通り、洗面の仕方について細かく指示した章である。

道元禅師の注文は実に細部にまでわたっており、たとえば顔を洗うだけでなく楊枝を使って歯も掃除しろ、とまぁとにかくうるさい(w

どうして楊枝を使うのか。これを使わないと口臭がひどくなるからだ。実際、楊枝を使う習慣のない中国人は口臭がキツかった、と禅師は書いている。

≪天下の出家人も在家人も、みなその口の息は非常に臭い。二三尺を隔ててものを云うときでも、口臭が押し寄せてくる。その臭いを嗅ぐ者にとっては耐えがたい。≫(第3巻265頁)

なにもそこまで言わなくても……と我々は思ってしまうが(;^ω^)、道元禅師はこのように結構キツいことも、ときには言っている。

この後の「洗浄」の章でも、禅師はトイレの使い方などを実に事細かに指示している。道元禅師の潔癖症的な性格がよく現れている箇所だ。

 

現代文訳 正法眼蔵 3 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵 3 (河出文庫)

 

 

まだまだ続くよ第4巻。

この箇所を執筆するころから、道元禅師は永平寺の建設に着手したらしい。本巻では、たとえば「発菩提心」の章などに、禅師の寺院建設に向けた心構えを見て取ることができる。 

なお、『正法眼蔵』の序文とされている「弁道話」は本巻に収められており、こちらのほうが本編よりやや分かりやすい。本編を一通り読んだら、この「弁道話」を読み、それから再度本編を読むと、理解が深まるかもしれない。

「弁道話」では、仏教の修行において座禅がいかに大事であるかが述べられている(まさに只管打坐!)

さて、本巻の巻末にある「七十五巻本 正法眼蔵への後記」というあとがきにて、訳者の石井さんは、江戸時代の曹洞宗僧侶・良寛(1758‐1831)の詩を取り上げている。とても興味深い。「一句一言、皆、珠玉たり」――つまり、『正法眼蔵』の一字一句が光って見えた、と良寛は書いている。そういえば、『ブッダとそのダンマ』のあとがきで佐々井秀嶺さんも同じようなことを言っていたっけ。

 

現代文訳 正法眼蔵 4 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵 4 (河出文庫)

 

 

ようやくラスト第5巻。

本巻に収められている箇所は、「12巻本」と呼ばれるものだ。

道元禅師は『正法眼蔵』を75章まで書いたのだが、その後さらに追加して書いたのが、この12章である。本来ならば25章まで書いて全100巻にしたかったらしいのだが、禅師が病没してしまったため、12章までで打ち止めとなってしまった。

この箇所は禅師の晩年に書かれたためか、自らの思想を明らかにしたものというよりかは、自らの死後残されることになる弟子や信者たちに宛てた禅師のメッセージ、という印象が強いように感じられる。

 

現代文訳 正法眼蔵 5 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵 5 (河出文庫)

 

 

さて、駆け足で全5巻を見てきたが、やっぱりよく分からないというのが僕の率直な感想である(;^_^A

「うーん、難しいなぁ。せめて現代語訳してくださいよ(※現代語訳です)」とグチを言いたくなるほどだが(w)、まぁ、最初のうちは分からなくてもいいのだろう。

僕は、イスラーム法学者・中田考さんの言葉を思い出す。紙幅の関係上、以前の書評では書けなかったのだが、社会学者・橋爪大三郎さんとの対談本『クルアーンを読む』のなかで、中田さんは「分かりやすさ」を過剰なまでに求める昨今の風潮を批判していた。

古典というのは、一読しただけではよく分からないもの。それでいいのだ。何回も何十回も読み返していくうちに、少しずつ分かってくる――それが本当の古典なのだ、と。

正法眼蔵』は、僕にとってはまさに、そうした意味での古典である。