Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『僧侶が語る死の正体』

「ねぇ、死んだらどうなるの?」

子供の頃、僕はよく母にそう質問したものである。そういうとき、母の答えはきまって

「さぁ、死んでみなきゃわかりません♪」

というものだった。なんだかおちょくられたようで、子供心に少しムッとしたのをよく覚えている。

だが世の中には、絶対に答えが出ない問い、というものもあるのだ。たとえ頭のいいお坊さんであっても、絶対に答えが出せない問い――それこそ、この「死んだらどうなるの?」という問いに他ならない。

 

今回ご紹介する本は、『僧侶が語る死の正体 死と向き合い、不死の門を開く、五つの法話(サンガ)である。これまでに多くの著作を世に出してきた五人の僧侶の、死に関する論考をまとめて一冊の書籍としたものだ。

 

トップバッターは、曹洞宗僧侶・ネルケ無方さん。

「ネ、ネルケ!? 何その芸名みたいな名前? 本当にお坊さん? てか、日本人??」

と皆さん不思議に思われるかもしれない(w

ネルケ無方さんは、ドイツ人の禅僧である。牧師の家に生まれた彼は、キリスト教系の高校にて禅と出会い、大学時代には日本の道元について研究したという。今日では曹洞宗僧侶として、兵庫県の寺院の住職をつとめるかたわら、多くの著作も世に出している。

へぇー、こんな人材までいるのか。スゴイぞ、曹洞宗(w

そんなネルケさんは、道元『正法眼蔵』をたびたび引用しながら解説をしている。『正法眼蔵』といえば、ちょうど先日、現代語訳を読んだばかりだ(w)。「うんうん、そういえばありましたよね~(w)、そんな箇所」とうなずきながら、ネルケさんの“法話”に耳を傾けたのだった。楽しかった(w

 

お次は、プラユキ・ナラテボーさん。彼は、タイの仏教僧である。

「そうか、ドイツの次はタイの人なのかw」と思っていたら、違った(w)。プラユキさんは意外にも日本人であり、日本からタイへと移住、出家して上座部仏教の僧侶となったのであった。つまり先ほどのネルケさんとは逆で、海外→日本ではなく、日本→海外という流れなのだ。

プラユキさんは、自らの師であったタイの高僧の死について語っている。いかにも高僧らしい、自らの死期を完全に悟ったうえでの、実に穏やかな最期であったようだ。彼の死は我々に、人間にとって理想的な死に方とはどのようなものかを教えてくれる。

 

三番手は、本ブログではすっかりおなじみ(w)浄土真宗の僧侶・釈徹宗さんだ。

本著の論考のうち四つは、サブタイトルに「法話」とあるとおり、親しみやすい話し言葉で書かれている。ところがこの釈さんの論考だけは、硬質の文体で書かれている。意外だった。釈さんの文章の特徴といえば、あのトークライヴのように滑らかな、話し言葉の文体だというのに。

この論考で釈さんが強調しているのは、「死では終わらない物語」の重要性だ。人間は物語無しでは生きられない。しかも今求められているのは、ただの物語ではなく、「死では終わらない物語」だ。科学が発展し、情報があふれかえるこの現代社会において、物語は容易に相対化されてしまう。それでもなお、「死では終わらない物語」は求められているのだ――釈さんはそう書き綴っている。

 

四番バッターは……ハイ、待ってました!(w) 本ブログではこれまたおなじみ、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんだ。

南さんが語るのは、「死者の実存」の話。

「えっ、死者が……実存?」

我々は首を傾げざるをえない。南さんには、こういう引っかかる言葉づかいがとても多い。おそらくは、意図的にやっているのだろう。思えば、道元もまた独特の言葉の使い方をする人であった。南さんは、そんな道元を意識しながら文章を書いているのかもしれない。

南さんに言わせると、遺体が火葬されて墓に収められたときから、死者としての実存が開始されるのだという。遺体と死者は異なる。遺体はただのモノだが、死者は実存として、生きる人々に影響を及ぼすのである。

僕にはとても納得できる話だ。本ブログでたびたび書いてきたことだが、死人に口なし(=影響力がない)なんてウソだ。死者はときに生者以上に、生者の振る舞いを強く規定するのである。

 

本著のトリを飾るのは、アルボムッレ・スマナサーラさん。スリランカ上座部仏教のお坊さんだ。彼は、大乗仏教の国である日本に上座部仏教の教えを広めるべく、来日、今日に至るまで精力的に執筆活動を続けている。

そんなスマナサーラさんの言葉は、意外にも自然科学の喩えを用いたものが多い。

……はて、この記述のスタイル、どこかで見たことがあるなぁ、誰かに似てるなぁ、誰だろう、と頭をひねっていたら、分かった。認知科学者の苫米地英人さんの文章に似ているのだ。実際、このふたりは対談したこともあるらしい。

スマナサーラさんが説くのは、人間は細胞レベルで常に生き死にを繰り返しているということ。生きているとは、死んでいるということでもあるのだ。

それからもうひとつ、執着から離れること。スマナサーラさんは、かつて視力が2.0もあったらしい(うらやましい!)。ところが今ではすっかり視力が落ち、左目には乱視まで入ってしまったらしい――実をいうと僕も近視には悩まされており、なおかつ左目には乱視があるスマナサーラさんは、それでも視力に執着しないという。視力に限らず、執着から離れることによって、人間は安らかな最期を迎えることができる、と彼は言うのだ。

なるほど、それが仏道なのか、と思った。僕は執着がありまくりで、ダメだなぁ(w

 

さて、本著の五つの論考を並べて見ると、浄土真宗(釈さん)だけ異質だと感じる。本著を読む前は、浄土真宗曹洞宗は同じ大乗仏教だから近くて、上座部仏教はそれらとはやや離れている感じかな、と思っていた。

そしたら、違った。浄土真宗だけが異質で、曹洞宗上座部仏教のほうがむしろ近いと感じられた。やはり、浄土真宗は仏教というよりかはむしろ、キリスト教と言ったほうが良いのかもしれない。

その曹洞宗上座部仏教のお坊さんたちがたびたび言及するのが、道元の名だ。曹洞宗ネルケさん、南さんはまぁ当然だとしても、上座部仏教スマナサーラさんも道元について肯定的に言及しているのは、やや意外の感があった。

道元って、やっぱりすごい人だったんだなぁ、と再認識w(^▽^;)

 

 

……思えば、僕がこれまで読んできた仏教書は、大乗仏教サイドの人たちが書いたものばかりだった。今回、こうしてはじめて上座部仏教の人たちの文章に触れることができた。

上座部仏教について、もっと知りたいな、スマナサーラさんたちの本をもっと読んでみたいな。そう強く思っている。

 

僧侶が語る死の正体: 死と向き合い、不死の門を開く、五つの法話

僧侶が語る死の正体: 死と向き合い、不死の門を開く、五つの法話