Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『禅が教える「大人」になるための8つの修行』

本日取り上げる本は、ネルケ無方さんの『禅が教える「大人」になるための8つの修行』祥伝社である。

ネルケ無方さんは、ドイツ人の曹洞宗僧侶。本ブログで以前取り上げた『僧侶が語る死の正体』の5人の著者のうちのひとりでもある。

 

本著において、ネルケさんはまず、曹洞宗聖典『正法眼蔵』の最終章「八大人覚」の話からはじめている。

「八大人覚」とは「大人」――「だいにん」と読むので注意。「おとな」ではない――が守るべき8つの徳目のことを指す。「足るを知る」「禅定を修める」などの教えがこれに含まれる。

本著はこの八大人覚と呼応するように8つの章に分かれており、ひとつの章につき八大人覚の徳目がひとつ解説される、という形式をとっている。

 

ネルケさんの文章は、とても論理的だ。さすがは、ドイツで道元をテーマに修士論文を書いたというインテリさんである。

彼はまた、非常に現実主義的な考えの持ち主でもあるようだ。彼は、実践のともなわない言葉は仏教で言うところの「戯論」だ、とバッサリ切って捨てる。例えば、反原発や反軍拡などの主張がそれだ。

≪「原子力発電反対」といっても、代わりのエネルギー源をどうやって確保するのか、コストの問題をどうクリアにするのか、「軍備拡大反対」といっても、どのていどまでが許容範囲なのか、軍備を縮小した代わりに何をしなくてはならないのか。そこまで考えなくてはいけないのです。そして、その考えも状況に応じて日々変わっていきます。≫(223頁)

どうだろう。ネルケさんのこの言葉を、皆さんは保守的だと思うだろうか。ネルケさんは、しかしながら同じ個所で、「原発を稼働しつづけるしかない。事故や核廃棄物のことはあとで考えよう」という原発肯定派のロジックもまた戯論だと批判している。

 

本著を通読して、身に染みて分かったことがひとつある。仏教は「自分をしっかりと持て」と言っているのだということだ。

今のように仏教書を読み漁る以前、僕は、仏教は「無我」を唱える宗教なのだから、てっきり「自分を消せ」と言っているのだとばかり思っていた。

だが、それは間違いだった。逆だったのだ。本著のなかで、ネルケさんはむしろ「自分を持て、自分を大切にしろ」――そう言っているのだ。

ネルケさんは、いかにもドイツ人らしく、サッカーの喩えを用いている。

サッカーというのは、集団でプレーするスポーツである。個々の選手たちが「俺が! 俺が!」と出しゃばってばかりいると、チームはまとまらず、試合に負けてしまう。かといって、「どうぞ、どうぞ」とお互いに遠慮しあっていると、これはこれでチームが成り立たず、試合に負けてしまう。選手ひとりひとりが主体性を発揮し、にもかかわらず同時に他の選手とのチームワークも保つことによって、はじめて良いチームが生まれるのである。

これはなにもサッカーに限った話ではなく、人間関係全般について言えることだとネルケさんは書いている。少しばかり長い引用で恐縮だが、ネルケ和尚の“法話”に耳を傾けるとしよう。

≪「自分で考える」「自分を中心にして考える」ということは、「自分のことを考える」ではありません。自分を中心にして世界を考えるから、自分が偉いというわけではありません。

 自分のことを考える。つづいて、そこにいる人たちやものごとについて考える。最後に、自分に深く関係のない人たちやものごとを考える。こうやって、自分の頭で、「全体」を考えられることを表しています。

 自我への執着を手放せない人というのは、ただ「自分のことを考える」だけの人にすぎません。

 その一方、自我を持てない人というのは、結局のところ、「自分で考える」ことを放棄してしまっているのでしょう。思考停止状態です。自分で考えたくないから、自分で考えるのがこわいから、自分の外部に考えさせているのだと思います。けっして謙虚で、奥ゆかしい人というわけではないでしょう。≫(143‐144頁)

僕はこれまで、どちらかというと、「自分で考える」ことを放棄するタイプの人間だった。そんな僕にとって、ネルケさんのこの言葉は、結構グサリと突き刺さってきた。はたして僕はこれまで、自分で考えてきただろうか。

 

そういえば、曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんは、著書のなかで、禅僧には個性的な人が多い、と書いていた。今回ネルケさんの本を読んでみて、その理由があらためてよく分かった。仏教は人々に「自分で考えろ」と命じるからだ。禅寺でこそ、人間は本当の意味での「個人」になれるのだ。

 願わくば僕も、そういう本当の意味での「個人」になりたいものだ。