Furusawa Keisuke's blog

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書評『現代語訳大乗仏典 論書・他』

本ブログでは今月に入って、仏教学者・中村元さん(1912-1999)の『現代語訳大乗仏典』シリーズを取り上げてきた。これまでに般若経典『法華経』『維摩経』、『勝鬘経』浄土経典『華厳経』、『楞伽経』、そして密教経典を皆さんにご紹介した。

本日はいよいよ、感動(?)の最終回だ。

 

『現代語訳大乗仏典』シリーズのトリを飾るのは、この『現代語訳大乗仏典 論書・他』である。

論書とは何か。

まず取り上げられるのが、大乗仏教中観派(ちゅうがんは)聖典『中論』である。

評論家の宮崎哲弥さんは、この『中論』を自らの言論活動の指針としていることで知られている。実を言うと、本著の著者である中村さんの卒業論文も、この『中論』に関するものであったという。中村さんにとって、『中論』はまさしく専門分野、自宅の庭にも等しいというわけだ。

その『中論』には、さていったい何が書いてあるのか。

以前、曹洞宗僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの本の書評にて簡単に触れた記憶があるが、『中論』にて最初に論じられるのは「去る人は去らない」というテーマである。

「去る人は去らない……ハァ!? めっちゃ矛盾してんじゃん!!」

と皆さん憤りを覚えるに違いない(w)。正直、僕自身もいまだにこの言葉の意味がよく分からず頭をひねっているのだが(;^_^A、とにかく、こういう矛盾のようなテーマを延々と議論し続けるのが、『中論』であり、中観派なのである。

さぁ、皆さんも頭をひねって、「去る人は去らない」という言葉の意味について、よく考えてみてほしい。

……僕ですか? 考えても考えてもさっぱり意味が分からないのでもう考えるのをやめにします(;^ω^)

 

『中論』の次に紹介されるのが、唯識の思想だ。

唯識というのは、歴史的には中観派の次に登場した大乗仏教の潮流のひとつである。

かの三島由紀夫豊饒の海』は、この唯識の思想に基づいて書かれた小説である。あるいは、大河ドラマ『西郷どん』にて登場した尊王派の僧侶・月照も、もとはと言えばこの唯識について研究する「法相宗(ほっそうしゅう)と呼ばれる宗派の出身であった。

唯識では、現代の心理学でいうところの無意識に近い「阿頼耶識(あらやしき)なる概念が用いられる。このほか、種子――「しゅし」ではなく「しゅうじ」と読む――などの難解な用語も登場して我々素人にはチンプンカンプンなのだが(w)、この唯識の教えをおそろしく簡潔にまとめると、「この世は幻」ということに尽きる。

僕は、以前紹介した黒沢清監督の映画『ダゲレオタイプの女』を思い出す。この映画の終盤にて、主人公の青年が見ているヒロインの姿は実は亡霊であって、(観客をも含む)一般の人々には見えないということが示唆される。かくして観客は、自分が見ている光景は本当に現実なのか、自分も実は幻を見ているだけではないのか、と自問することとなる。

こういう発想こそ、まさに唯識なのだ。

 

仏教はしばしば厭世的であると誤解され、非難もされる。だが、それは誤りだ。この世は幻であり、夢のようなものであるからこそ、我々はまるで夢の中のように、やりたい放題、好き勝手にやることができるのである。

先程名前の挙がった月照にしても、彼は法相宗の僧侶であると当時に、尊王派の志士でもあった。彼もまた、この世は幻である“からこそ”維新へと強く駆り立てられたに相違ない。

 

本著では、『中論』、唯識のほか、『菩提行経』なる経典の漢訳書き下し文と、サンスクリット原文からの和訳が、並んで掲載されている。実のところ、これが本著の全ページ数の半分にも及んでいるのだ。

興味のある方は、この『菩提行経』も読んでみると面白いだろう。

 

さて、これで中村さんの『現代語訳大乗仏典』シリーズ全7巻をようやく紹介し終えることができた。

全編にわたって僕の印象に強く残ったのは、中村さんの文章の平易さである。

我々は、大学教授というのはおそろしく難解な文章を書く人種だと思っている。たしかに、彼らの書く文章の大半は(無駄に)難解なものが多い。

だが中村さんは、まったく違う。彼は、仏教研究の大家であり大変な碩学である“からこそ”、その文章はおそろしいまでに平易なのだ。

理解が深ければ深いほど、その人の書く文章は分かりやすいものになる、という趣旨のことを、評論家の吉本隆明さんが言っていたのを思い出す。中村さんの文章は、まさしく理解の深い人だけが書ける、分かりやすい文章である。

さぁ、皆さん。中村さんという導き手とともに、仏教という大海に漕ぎ出でてみないか?

 

論書・他 (現代語訳大乗仏典)

論書・他 (現代語訳大乗仏典)