Furusawa Keisuke's blog

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書評『勘定奉行荻原重秀の生涯』

今回は、江戸時代の日本にて天才的な活躍を見せながら、歴史のなかに埋もれてしまった感のある、ある経済官僚のお話である。

 

本日ご紹介する書籍、『勘定奉行荻原重秀の生涯』集英社は、まさしくタイトルのとおり、江戸時代の勘定奉行・荻原重秀(1658‐1713)の生涯に迫った著作である。

著者は、歴史教育を専門としている、村井淳志さん。

 

荻原重秀がその手腕をはじめて発揮したのは、延宝検地においてであった。

豊臣秀吉太閤検地から約80年後、近畿地方にて実施されたこの検地にて、若年ながら業務立案者に抜擢された荻原は、一計を案じた。

ある大名の領地の検地を、その大名にではなく、近隣の他の大名に行わせたのだ。

その土地の大名に任せると、石高(コメの生産量)を過小報告するおそれがある。石高が少ないほうが、年貢(税)も低くなるからだ。その点、隣の大名ならばそうしたことはせず、きっちりと正確に検地を行なってくれるだろう、と荻原は考えたのである。

彼のこのアイデアが功を奏し、延宝検地はみごと成功を収めた。荻原の名は、かくして人々の知るところとなったのである。

※この延宝検地のエピソードは、先日取り上げた若田部昌澄さんの著書『もうダマされないための経済学講義』のなかでも取り上げられている。

 

荻原の次なる活躍の場は、佐渡金山であった。佐渡奉行として佐渡国へと派遣された彼は、かの地でも金山の生産量回復や大規模検地などの活躍を見せた。

そうして意気揚々、中央・江戸へと舞い戻った彼が次に取り組んだのが、生涯の大事業、貨幣改鋳であった。

当時用いられていた貨幣とは、小判である。この小判、金色なので純金のようにも見えるが、実際には金に銀を混ぜた合金である。

彼は、小判に含まれる金の割合をあえて下げることで、小判の貨幣価値を落としたのである。貨幣価値が落ちるというのは、ようするにインフレということだ。荻原は、今風に言うならば、リフレーション(※)政策を実施したのである。

※人為的に引き起こされる緩やかなインフレのこと。現下のアベノミクスは、このリフレーションを狙った政策である。

この改鋳、インフレを招いたというので後世での評価はこれまで低いものだった。だが村井さんは、データを豊富に挙げながら、実際にはインフレ率は大したものではなく、改鋳直後に起こった米価の高騰は単に不作によるものだと説得的に論じている。

 

この改鋳から、荻原の画期的なアイデアを見てとることができる。

荻原は、改鋳前の小判と改鋳後の小判とを、1対1で交換するとした。つまり、実質価値は落ちているのに、同じ額面だとしたのだ。

これは、今日における不換紙幣に通じる発想である。

我々が喉から手が出るほど欲しい一万円札は、所詮はただの紙きれにすぎない。昔だったら紙幣と金とを交換することができたのだが――これを金本位制と呼ぶ――今日ではそれはできない。本当に、ただの紙きれなのだ。

にもかかわらず一万円札に一万円の価値があるのは、どうしてか。

それは、「ええいっ、とにかくこの紙きれには1万円分の価値があるのっ!」と政府が宣言しているからである。他に理由はない。

荻原の改鋳は、実はこれと同じ発想である。彼は、改鋳によって小判の実質価値が落ちたにもかかわらず、「ええいっ、とにかくこの小判には以前の小判と同じ価値があるのっ!」と宣言したわけだ。彼はさらに進んで、がれきでさえも小判として流通させることは可能だ、とまで述べている(「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」)。ここまでくると完全に、不換紙幣と同じ発想だとお分かりいただけるだろう。

この現代社会ですら、金本位制と完全におさらばしたのは、ブレトン・ウッズ体制が崩壊した1971年以降のことである。荻原は、実に300年近く時代を先取りしていたことになるのだ。

どうして彼は、こんなにも時代を先取りした政策をとることができたのだろう? 村井さんは、当時の日本は金銀を豊富に産出でき(=自国通貨を独自発行することができ)、なおかつ日本一国で経済が完結していた(=政府による名目貨幣の強制通用が十分可能だった)からだとしている。

 

さて、そんな天才経済官僚・荻原重秀の前に立ちはだかったのが、皆さん歴史の授業にて一度はその名を聞いたことがあるだろう、新井白石である。

本著によると、新井はとても神経質な性格で、なおかつ粘着気質だったという。実にメンドくさそうな男だ(w

彼は、「改鋳なんかやったせいで自然災害が多発した!」と、今日の我々からすれば難癖としかいいようのない(屁)理屈で荻原を攻撃、ついには彼を追い落とし実権を握ってしまうのである。

荻原は、それから間もなくして亡くなっている。一般には病死だとされているが、村井さんは本著にて、彼が毒殺された可能性を指摘している。

新井白石が実権を握って後、経済は停滞した。この停滞は「白石デフレ」とも呼ばれている。

こう書くと、「なんだ、新井白石とかいう野郎は、歴史教科書には必ず名前が出てくるくせに、とんだ無能野郎じゃないか!」と皆さん憤慨されるかもしれない。たしかに経済官僚としては荻原のほうが断然優秀だったろうが、果たして今日の我々に新井を批判する資格などあるだろうか。

稲葉振一郎さんが『経済学という教養』のなかで描き出してくれたように、この国の人文系インテリは圧倒的に、新井と同じ発想の思考をしている。そんな“識者”たちの見解を、多くの人々が無批判に受け入れてしまう。

この国には今日もなお、あまたの「プチ新井白石」が存在しているのである。

 

 

……ここから先は余談になってしまうが。

不倶戴天の宿敵のはずの、荻原重秀と新井白石。ふたりは、実は不思議な因縁で結ばれていた。

ほぼ同世代であり、幼少の頃は近所に住んでおり、堀田正俊という共通の上司にも仕えていた。もしかしたら面識もあったかもしれない。だが新井は、この時代の萩原のことについては、なにも言及していない。

これついて村井さんは、ふたりに本当に面識がなかったか、あるいはあったけれども新井が荻原を嫌っていたためあえて書かなかったのでは、としている。

ここから先は僕の勝手な推測になってしまうが、もしかしたら新井と荻原は、この当時はむしろ仲が良かったのではないか。そして何かがきっかけとなって、以来新井は荻原を徹底的に嫌悪するようになり、彼と親しかったという過去をいわゆる「黒歴史」扱いするようになった、とは考えられないか。

はじめから一貫して仲が悪いよりも、むしろ、昔は仲が良かったのに仲たがいしてしまったというケースのほうが、当事者間に強い憎悪を残すものである。

人文系インテリたちの間では、実によくある話だ。

 

勘定奉行荻原重秀の生涯―新井白石が嫉妬した天才経済官僚 (集英社新書)

勘定奉行荻原重秀の生涯―新井白石が嫉妬した天才経済官僚 (集英社新書)