Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『知性の構造』

今年1月、評論家の西部邁さん(1939-2018)が自殺した。

78歳。真冬の多摩川に入水自殺したのだ。

彼のあまりにも唐突な、しかも予期せぬ最期は、多くの人々を驚かせ、また悲しませた。

活字にて、あるいはネット上にて、彼を追悼する文章が世に溢れた。

その筆者たちはたいてい、評論家・西部邁の本質として「反米」を挙げていた。曰く、「今の保守論壇アメリカのポチばかりだ。西部先生の死で、気骨ある本物の保守がいなくなった……」、云々。

たしかに、西部さんは反米であった。その点は否定しない。だが、それを彼の思想の本質と見るのは、いささか表層的に過ぎる気がするのだ。

彼の本質は、「科学の人」だった、ということではないか。

 

この点、西部さんは日本の保守のなかでは傍流にあったと言えよう。これまで日本の保守を担ってきたのは、文学ないし文芸評論の人たちであったからだ。

福田恆存三島由紀夫江藤淳といった人たちが、それである。

文芸評論もまた広義の文学だとみなせば、彼ら全員が「文学の人」ということになる。

西部さんは、そうではなかった。経済学、社会学など、社会科学を広く修めていた彼は、間違いなく「科学の人」であった。

日本の保守で科学の人と言えるのは、西部さんのほかには、小室直樹さん、山本七平さんくらいのものだろうか。

 

本日取り上げる『知性の構造』角川春樹事務所)は、西部さんの科学の人としての性格が前面に出た本である。

保守の他の論客たちの著作に読みなれた読者ならば、驚くに違いない。

図表、図表、また図表と、とにかく図表のオンパレードなのだ(w

それらはどうやら心理学や社会学に基づいた図表のようなのだが、あいにく我々素人には、まるでピカソの抽象画のようで、なにがなんだかさっぱり分からない。

そう、これが、科学の人の記述スタイルなのだ。

 

本著は、したがって理解するのが容易でない。僕自身、全然理解できていないことを、ここに素直に白状しておく(;^ω^) 

とりあえず、三島さん、江藤さんといった文学の人たちとは異質だという点を押さえておけば、十分なのではないか。

もっとも、当の西部さんは、図表自体は大して重要ではないなどとおっしゃるものだから「いやいや、先生、勘弁してくださいよ」と文句のひとつも言いたくなってくる(;^_^A

≪実は、私がこれまで示したたくさんの図解は、それら自体としては、読者諸氏によってあっさり忘れ去られて構わないのである。私がそれらの図式で印象づけたかったのは、言葉を「仕分けすること」の重要性ということに尽きる。世に(政治腐敗とやらに絡んで)ケジメなる言葉が流通してからすでに久しいが、ケジメとは「仕分けすること」の謂である。自分なりのケジメを守って言葉を遣うことの必要をいわんがために、言葉の仕分け方について私なりの仮説を示してみただけのことだ。≫(99頁)

西部さんの文体の特徴のひとつに、やたらと外国語を使いたがるという点を挙げることができる。本著でもそれは健在。おかげで読んでいるだけで語学の勉強になるほどだ(w

西部さんはもちろん、学をひけらかしたいわけでも、ましてや読者に語学を教授したいわけでもなかろう。上の引用からも明らかなとおり、彼は言葉に、実にこだわった。だからこそ、原語、すなわち欧米の哲学者が用いていた元々の言葉に、半ば必要以上と思われるほどに、強いこだわりを見せたのである。

 

西部さんは、逆説をさかんに用いる。それがなんとも面白い。

たとえば、自由主義者は同時に保守主義者でもなければならない、との逆説。あるいは、ヨーロッパは日本よりも個人主義が顕著である一方、強い集団主義でもあるという逆説。とりわけ後者は、ドイツ人の禅僧・ネルケ無方さんの話を思い起こさせ、とても興味深い。

 

さぁ、どうだろう。皆さんもこれを機に、豊穣なる“西部ワールド”へと飛び込んでみないか。

そこでは西部さんが、あの特徴的なはにかみの表情を浮かべながら、きっとあなたを待っているはずだ。

 

知性の構造 (HARUKI BOOKS)

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