Furusawa Keisuke's blog

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書評『危機の経済政策』

経済学は、もちろん文系の学問なんだけれども、なんとなく理系のそれに似ている。

数式をバンバン駆使するところもそうだが、モノの考え方が、理系、もっと言えば工学に近い、と感じられるのだ。

 

本ブログではもはやおなじみ、経済学者・若田部昌澄さんの著作『危機の経済政策 なぜ起きたのか、何を学ぶのか』日本評論社は、まさにそんな“工学としての経済学”について考えさせられる本であった。

 

「危機の経済政策」というタイトルの通り、本著は、これまでに起こった経済危機、すなわち世界大恐慌や1970年代の大インフレ、そして日本の「失われた20年」について解説していく。

大切なのは、「へぇ―、昔は大変なことがあったんですねぇ~(おしまい」ではなく、これらの危機から我々は何を教訓とすべきか、ということだ。

失敗は、必ずしも悪いことではない。失敗を反省し、次に生かしていくことこそが大切なのだ。

これは、きわめて工学的な発想である。

 

若田部さんは、大恐慌などの過去の失敗から導きだされる教訓は、以下の三つだとしている。

1.マクロ経済学への教訓

まずは、マクロ経済学それ自体が孕んでいた問題。

驚くべきことに、大恐慌当時にはそもそもマクロ経済学自体がなかった! それから少しずつ、経済学は進歩していったのである。マクロ経済学自体、まだまだ発展途上にある学問なのだ。

したがって、それは誤った結論へと我々を導いてしまうおそれが、まだある。このことを踏まえ、しかしながらマクロ経済学を放棄するのではなく、さらに進歩させなければならない。現に、経済学は大恐慌時代と比べれば着実に進歩を重ねている、と若田部さんは強調している。

 

2.経済政策形成過程への教訓

政策は、まったくの無から生まれるものではない。ドロドロとした<政治>のなかから、それは生み出される。

政策形成について、本著のなかで若田部さんが指摘しているのが、特定の組織にみられる特定の知識との親和性である。

どういうことか。

たとえば、世界恐慌当時のイギリスでは、大蔵省が財政政策の無効性を主張していた。1970年代の大インフレの時期には、アメリカのFRB議長が、インフレを貨幣的要因によるものではないとしていた。そして今日のデフレ下の日本においては、財務省は経済成長よりも財政再建を優先しがちであり、日銀はデフレを、大インフレ時のFRB同様に、貨幣的要因によるものではないとしている。

これが「特定の組織にみられる特定の知識との親和性」なのだ。要するに、何かしらのバイアスがつねにかかる、ということなのだ。

大恐慌、デフレのような過ちを二度と繰り返さないと望むのであれば、我々はこの「政策形成にとって経済主体の知識・思想はきわめて大きな影響を及ぼし得る」という事実を直視しなければならない。

 

3.歴史を学ぶことへの教訓

やはり、歴史なのである。

もっとも、若田部さんによれば、歴史から学ぶことにはいくつか方法論的な難点が伴うという。

それは、先日取り上げた著書で岩田規久男さんも言及していた、経験に基づく一般化という帰納法に関わる問題点である。

≪一般化といってもあらゆる事例を網羅することは不可能なので、一般化には一定のバイアスがかかります≫(274頁)

若田部さんは、それゆえに歴史的経験は理論によって導かれ、かつ補われる必要があるとしている。

 

上述のとおり、本著で取り上げられるのは、世界大恐慌と70年代の大インフレ、そして日本の「失われた20年」の三つ。とりわけ最後の日本のデフレの話は、我々日本人の読者にとってはなんとも耳が痛い。

先の大戦に至るまでの過程を振り返る際にも、我々は、当時の日本の政府や軍部のあまりの無能ぶりに思わず目を覆いたくなるものだが、本著の読書体験はそれとよく似ている。

まさしく、戦前日本にとっての戦争と、戦後日本にとってのデフレは、同じなのである。

我々は、自らの残念な過去を直視し、過去の過ちから真摯に反省しなければならない。

……なんだかサヨクの人たちの物言いみたいだが(w)、いや本当にそうなのだ。でないと我々は、何度でも同じ過ちを繰り返してしまうことだろう。

 

危機の経済政策―なぜ起きたのか、何を学ぶのか

危機の経済政策―なぜ起きたのか、何を学ぶのか