Furusawa Keisuke's blog

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書評『保守主義とは何か』

今や、保守は大人気である。

どの政治家も、「我こそは保守なり!」と言い張って譲らない。安倍さんが言うのならまだ分かるとしても、野田聖子さんや立憲民主党の枝野さんまで保守を名乗るのには、失礼ながら笑ってしまう(w

しかし人気すぎるがゆえに、かえって保守(主義)とは何なのかが分かりにくくなってしまった、というのが昨今の日本の問題点ではないだろうか。

 

本日ご紹介する本は、タイトルもずばり『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』中央公論新社である。

著者は、政治学者の宇野重規さん。

 

タイトルのとおり、本著は「保守主義とは何か」を、近代の思想家たちをピックアップしつつ探究する本である。

トップバッターは、フランス革命期におけるイギリスの政治思想家エドマンド・バークだ。バークは、「保守主義の父」とも呼ばれている人物である。ところが本著は、彼には自由主義的な側面も多くあったことを明らかにしていくのである。

それでは、どうしてバークは保守主義の元祖として持ち上げられるに至ったのだろう。

彼はフランス革命を嫌ったからだ。彼は、当時のフランスの革命家たちのなかにあった「理性の力で社会をガンガン変革してやるぜ!」という態度に、人間の傲慢さを見てとったのである。「人間の理性って、そこまで信用できるものか?」と彼は疑念を抱いたに違いない。彼の、理性に対するこうした懐疑が、保守主義という思想の核となったのである。

 

バークの次に本著に登場するのは、G・K・チェスタトンフリードリヒ・ハイエクマイケル・オークショットといった、20世紀の米英の保守主義者たちである。

もっとも、彼らは保守主義だけでなく、自由主義にも近接していた思想家たちであった。たとえばオークショットは、保守主義者としても自由主義者としても、評価されている人物である――西部邁さんは彼を保守主義者として評価していたハイエクに至っては、自分は保守主義者ではなく自由主義者だと明言しているほどだ。

彼らの思想から分かるのは、保守と自由主義つまりリベラルとは実は矛盾しないということだ。以前にも書いたが、保守とリベラルを水と油のような関係として捉えるのは、誤りである。両者は意外にも相互補完関係にあり、ひとりの人間が保守であると同時にリベラルであることは、あり得るのである。

 

イギリスの次は、アメリカだ。宇野さんは本著中盤から、アメリカにおける保守主義の歴史を振り返っていく。

彼によれば、アメリカの保守主義には異なる三つの立場がある。伝統主義、リバタリアン、そしてネオ・コンサバティブネオコンの三つだ。

伝統主義というのは、簡単に言えば、「(合衆国のバックボーンである)キリスト教の教えをもっと大切にしましょう」という立場のことである。より具体的に言えば、「人工中絶反対! 学校で進化論を教えるな!」と主張する人たちがこれにあたる。

リバタリアンというのは、リバタリアニズム――日本語では「自由至上主義」とも訳される――を信奉する人たちのこと。彼らは、とにかく政府が口を出すのが許せない、という人たちであり、なんでもかんでも人々(民間)の自由に任せるべきだ、と考える。そのかわり、失敗したら自己責任。現代日本でいう「新自由主義」のイメージに近い人たちである。

最後のネオコンは、21世紀になって注目されるようになった人々であるが、その源流は1960年代のトロツキストにまでさかのぼる。そう、トロツキスト――ロシアの革命家・トロツキーの信奉者――というところがポイントだ。

彼らはもともとは左翼だったのだが、60年代のリベラルに失望し、右転向したのだという。しかし転向してもやはり基本は変わっておらず、彼らの発想は相変わらず世界革命である。「イラク民主化しよう」というネオコンの発想は、世界革命のひとつの表れであったのだ。

これら三者は、もともとは互いに独立した立場だったのだから、かならずしも意見が一致するとは限らない。

たとえば大麻解禁については、伝統主義は当然反発するだろうが、リバタリアンはもちろん賛成であろう。対外政策についても、伝統主義はモンロー主義――アメリカは世界のことにいちいち介入するな、という立場――だが、ネオコンは当然「がんがん世界に打って出ようぜ!」という立場である。ネオコンは、必ずしも政府による介入に反対しないため、リバタリアンとも意見が一致するとは限らない。

このように異なる三者が「反リベラル」というかたちで奇妙に“共闘”しているのが、現在のアメリカの保守なのだという。

ただし、本著が書かれたのは2016年の6月。まだトランプ大統領が当選する前のことである。トランプ時代の今日、アメリカの保守はどうなったのだろう。宇野さんの新著が待たれる。

 

終章にて、宇野さんはついに、わが日本の保守に着目する。

宇野さんが、わが国における保守の系譜として注目しているのが、伊藤博文から陸奥宗光、そしていわゆる「重臣リベラリスト」を経て、戦後の吉田茂に至るラインである。これこそが日本の保守だと彼は言うのだ――そういえば、先日取り上げた西部さんの本にも、やはり伊藤や吉田が登場したのを思い出す

なるほど、面白い見方だな、と僕は思った。とはいえ、実をいうと僕は宇野さんに、もうひとつ考察してほしい問題があるのである。

右翼の問題だ。

一般には保守と右翼はほとんど同義語だと思われているが、すくなくとも戦前の日本において、両者は明らかに異なっていた――というのは松本健一さんの受け売りであるw

保守が伊藤博文なら、右翼は頭山満である。伊藤と頭山は、ライバルの関係にあった。この「保守と右翼」の関係は、これだけで一冊の本が書けるほど重要で、かつ面白いテーマだ。宇野さんには、次の著作で是非、この問題について考察していただきたい、と思っている。

……って、さっきから注文してばっかだなw(;^_^A

 

読者の皆さん。保守が巷にあふれる今日だからこそ、本著を読んで「そもそも保守とは何か」について考えてみてはいかがだろう。