Furusawa Keisuke's blog

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書評『ネット右翼亡国論』

本ブログでは先月、文芸評論家・山崎行太郎さんの『保守論壇亡国論』を取り上げた。

とても興味深い本だった。

本日ご紹介するのも、引き続いて山崎行太郎さんの著作である。

ネット右翼亡国論 桜井誠廣松渉佐藤優の接点』(春吉書房)だ。

はてさて、気になる感想は……

 

この本、看板に偽りあり(w)。本著はむしろ、部分的にであれ、ネット右翼を評価する本である。

「え!? ネット右翼を、ひょ、評価ァ? いったいどういうこと??」

と皆さん不思議に思われることだろう。

山崎さんは、安倍首相や麻生外相などの政治家や、櫻井よしこさん、八木秀次さんなどの保守派の論客たちもネット右翼の一種だとみなしている。彼らに対しては、山崎さんは批判的であり、舌鋒鋭く批判している。その意味では、たしかに『ネット右翼亡国論』というタイトルは間違ってはいない。

だが一方で、山崎さんは意外にも、桜井誠さんを擁護するのである。

 

桜井誠さんは、政治団体在日特権を許さない市民の会(通称:在特会の設立者であり、初代会長でもあった人物である。なぜか蝶ネクタイを着用しており、それが彼の一種のトレードマークともなっていた。

その排外主義的な言動ゆえ、率直に言って、不人気な人物である。保守派からも「えー、桜井誠(我々を)同列に扱うのはよしてよ」と煙たがれることが多い。

ところが山崎さんは、本著のなかでこの桜井さんのことを評価しているのだ。

それだけではない。山崎さんは、桜井さんはマルクス主義思想家の廣松渉(1933-1994)佐藤優さんとも似ている、とさえ言っている。

ますます、「ええええええ???」と皆さん驚かれることだろう(w

廣松は左翼なので桜井さんとは思想が真逆であるし、それに東大教授でもあった。同じく佐藤優さんとも、共通点があるようには見えないのだが……。

山崎さんによると、彼ら三人に共通するのは、存在論がしっかりしていることである。

存在論? はて、どういうことだろう。

 

山崎さんは、思想家が何を(what)言っているのかにはあまり興味がないようだ。それよりも彼は、その思想家がどう(how)生きているか、つまり生きざまを見るのである。

たとえば廣松にとって、マルクス主義はただの入れ替え可能な思想などではなかった。幼少期からマルクス主義に触れて育ってきた廣松にとって、マルクス主義とはもはや自分の人生そのものだったのだ。そういう人は、絶対に転向することはない。

山崎さんは、佐藤優さんにも入れ替え不能の思想を見出す。佐藤さんにとってそれはキリスト教神学とマルクス主義であり、さらには政治的同志としての鈴木宗男、すなわち「鈴木宗男という思想」もまた入れ替え不能な思想であったろう、と山崎さんは言う。

そして桜井誠さんにも、山崎さんは同様の思想を見出すのだ。

安田浩一さんのノンフィクション『ネットと愛国』によれば、桜井さんは福岡県の貧乏な母子家庭で育ったという。長じて大人となった彼は、在日韓国・朝鮮人が有しているとされる特権、すなわち“在日特権”を、強者による既得権益と考え、その打破を目指して政治活動をするようになった。

桜井さんは、裁判で賠償判決を受けた際には控訴したものの、その判決が覆ることなく結審すると、ちゃんと賠償額全額を支払ったという。山崎さんはここに、桜井さんの政治活動家としての本気を見るのである。

もちろん山崎さんとて、桜井さんの“在日特権”批判を必ずしも支持しているわけではあるまい。山崎さんは、桜井さんの思想が稚拙なものであることを率直に認めている。それでもなお、桜井さんの政治思想が彼にとって入れ替え不能なもの、すなわち彼の存在論であることを山崎さんは認め、その点をこそ評価しているのである。

 

山崎さんはもうひとつ、「ある思想が土着化しているか、すなわちちゃんと大衆と結びついているかどうか」にも着目する。どういうことか。

この国では残念ながら、思想はなかなか土着化しない。新しい思想が入ってきても、結局はインテリのあいだでファッションとして消費されるだけで、すぐに忘れ去られてしまうのだ。

たとえば80年代に輸入されたフランス現代思想がそうだ。フーコーラカンアルチュセールといった思想家たちが、言うなればファッションとして消費された。

思想をファッションとして消費するとは、どういうことか。

要するに「どうだ~、俺、フーコーなんて読んでるんだぜ、スゲーだろ~wwww」というふうに、思想が単なる自慢のタネとしてのみ利用され、それで終わってしまうということである。

80年代のフランス現代思想は、このようにファッションとして消費されて終わった。それが日本の大衆にまで根づくことはなかった。

同じことは、サンデル教授にも言えるのかもしれない。彼の『ハーバード白熱教室』は日本で一躍ブームとなり、『これからの「正義」の話をしよう』は飛ぶように売れたが、それでは日本人が大衆レベルで、彼のコミュニタリアニズム共同体主義の思想を骨肉化したかといえば、どうにも疑わしい。というか、サンデル教授がコミュニタリアンだということすら、知らない日本人が大半なのではあるまいか。

このように、ある思想が大衆に根づくというのは、なかなかに難しいことなのだ。きちんと大衆に根づいた思想は、それだけでも凄いと言える。

山崎さんは、意外にも桜井さんの思想は大衆と結びついたものだと見ているのだ。

 

……こう言うと驚かれるかもしれないが、実は僕も、最近、山崎さんと同じようなことを考えているのだ。

ネット右翼は、勝ったのか、負けたのか。

桜井さんは、東京都知事選に出馬したこともある。だが惨敗した。その点のみに着目すれば、ネット右翼は負けたと言えるのかもしれない。

だが僕は、それは違うと思っている。ある意味では、彼らは勝利したのだ。

たしかに、彼らは選挙においては敗北した。だが彼らの思想は、より希釈されたかたちで、日本社会を覆う「空気」(ニューマ)となったのだ。

 

皆さん、正直に答えてもらってかまわない。

韓国は、好きか、嫌いか。

もちろん、「朝鮮人を殺せ!」「朝鮮人ガス室にぶち込め!」といったヘイトスピーチには、皆さんは眉を顰めることだろう。だが、差別やヘイトクライムに反対する一方で、今の韓国政府の外交については、正直、「イヤだなぁ」「あの国とは、できればあまり関わりたくないなぁ……」と少なからぬ人が思っているのではあるまいか。

ネット右翼の特徴のひとつであった「嫌韓」は、こうしてよりマイルドなかたちで、日本人を包む「空気」となったのだ。

 

あるいは、マスコミに対する不信感も同様だろう。

ネット右翼は、韓国・中国と同じくらい、自国のマスコミも嫌った。いや、ある意味では中韓以上に日本のマスコミをこそ徹底的に嫌っていた、と言っていい。韓流ドラマの放送に反対するデモが、韓国大使館前ではなくフジテレビ前で行われたことを思い出してほしい。

マスコミへのこのような嫌悪ないし不信感は、今日ますます一般化したといえる。昨年のモリカケ騒動を経た今日、twitter上では朝日新聞はもはや嘲笑の的にすぎない。

この点でも、ネット右翼は大衆の一歩先を行っていたのである。

 

いや、大衆がネット右翼化したというよりも、もともと大衆のなかにあった漠然とした「思想」が、まずはネット右翼ないし在特会というきわめて先鋭化したかたちで世に表れ、つづいてより穏当な「大衆の思想」が世を覆っていった、と見るべきなのかもしれない。少なくとも、山崎さんはそう見ているのだろう。

山崎さんは、ネット右翼のなかに「大衆の思想」があることを認識せよ、と言う。単にネット右翼をマウンティングするだけでは良くない、ということだ。これは、極めて重要な視点だと僕には思える――つけくわえれば、原発に対する考えも、「脱原発」を掲げるリベラルより、原発再稼働を求める彼らネット右翼のほうが、今振り返れば正しかったとは言えないか

 

 

ネット右翼の話だけではない。本著ではこのほかにも、山崎さんと、ドストエフスキー研究家の清水正さん、昨年死去した塩見孝也・元赤軍派議長(1941‐2017)との対談もあり、とても充実している。

とくに清水さんとのドストエフスキー談義は、非常に興味深かった。これを機に、清水さんの本も読んでみたいと思った。

ドストエフスキーの思想と、先程のネット右翼ないし「大衆の思想」とは、実のところ繋がりがある。ドストエフスキーもまた、(左翼運動を経由しつつも)保守的、愛国的な作家として知られていたからだ。

本著を読んで、僕は渡辺京二さんの『ドストエフスキイの政治思想』を思い出した。

露土戦争の際、ロシアの民衆は自国・ロシアを支持した。そしてそれを、偏狭なナショナリズムではなく、「全人類への利益と愛と奉仕」を目的とする自己犠牲の心からのものであり、それが民衆というものなのだ、と断じて支持するのがドストエフスキーであった(と渡辺さんは書いていた)

同書を読んだ当初、僕にはその意味がいまいちよく分からなかったし、また戸惑いもした。けれども今ならば、彼(ら)が言わんとしたことの意味が、なんとなく、分かる気がするのである。

 

ネット右翼亡国論 桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点

ネット右翼亡国論 桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点