Furusawa Keisuke's blog

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書評『文部省の研究』

不祥事続きで、現在揺れに揺れている、文部科学省

巷では「もはや解体せよ!」といった声まで出ている始末である。

ところで、その文部科学省って、そもそもはどんな役所だったのだろう。どのような遍歴を経て、今日に至っている組織なのだろう。

そうした疑問に答えてくれるのが、本著『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』文藝春秋である。

著者は、評論家の辻田真佐憲さん。本ブログでは昨秋にも、この辻田さんの著作を取り上げたことがある。

軍歌などの音楽をはじめ、戦前の日本社会全般に詳しいが、かといって右翼というわけでもない。むしろ、どちらかといえばリベラル派だろう。その点、評論家の片山杜秀さんを彷彿とさせるところがある。僕などは勝手ながら辻田さんを「二代目・片山杜秀」と呼ばせてもらっているほどだ(w)――なお、ふたりとも慶應義塾大学の出身である。

上述のとおり軍歌好きの辻田さん。例の「HINOMARU」騒動の際には、「愛国歌としての完成度が低い」といささかユニークな見解を述べていた。今注目の若手評論家のひとりと言っていいだろう。付け加えれば、辻田さんは1984年生まれ。先日著作を取り上げた社会学者の開沼博さんと同世代にあたる――あ、僕もです(w

 

さて、本著はサブタイトルのとおり、約150年前の明治時代にまでさかのぼって、文部省文部科学省の歴史を振り返っていく。

明治維新直後の文部省は、かなり開明的・西洋的な考えの役所であった。そこから次第に復古的・日本的になっていくのかというと、単純にそうでもなかった。揺り戻しが絶えずあったのである。

この時代、啓蒙主義(「自由教育令」)儒教主義(「教学聖旨」)国家主義(森文政)→国体主義(「教育勅語」)と、文部省の教育方針はまるで振り子のように揺れ続けた。あの有名な教育勅語は、実は保守派と改革派の折衷案としての性格が強かったことを、辻田さんは指摘している。しかも折衷案であるがゆえ、文中に曖昧な箇所も多く、解釈によってどうとでも意味を取れた、というのだ。そのため、教育勅語自体は変わらなくても、時代によってその解釈は変化していったという。さらには、教育勅語は絶対的なものではなく、西園寺公望などはよりリベラルな「第二の教育勅語」すら構想していた、というのだから驚いてしまう。

我々戦後生まれの人間は、戦前日本の軍国主義への傾斜が直線的なものだった、とつい考えてしまいがちだ。だが、そうではなかった。実際には何度も揺り戻しがあったのである。

とはいうものの、それでも最終的には国粋主義へと傾いてしまったことを忘れてはなるまい。

 

以上が本著の前半部分。普通、このテの本は戦前の話だけして終戦とともにオシマイ、というパターンが多いのだが、本著の良いところはまだ半分も残っているということである(w

後半では、戦後の文部省と日教組との戦いの歴史が描かれる。ここでの主役は、「内務省のエース」と呼ばれた元内務官僚・大達茂雄だ。彼は戦後、文部大臣に就任、日教組と戦いつづけた。そうして少しずつ彼らから教育現場での権限を奪い、かわりに文部省の権力を強大化していったのである。文部省は、道徳教育の制定、学力テストの実施など、日教組を相手に次々と勝利を収めていった。「戦後日本は日教組に支配されていた!」と叫ぶ保守派がたまにいるが、本著を読むとむしろ戦後とは文部省が日教組に勝利していく過程だということがよく分かる。

 

そうして話は21世紀の今日へと至るのである。

今日の日本の教育で求められているのは、グローバリズムナショナリズムのうまい折衷案だ、と辻田さんは書いている。彼はこれらを決して否定はしない。グローバリズムによる階層化は、ナショナリズムの同胞意識で掣肘できるかもしれず、ナショナリズムによる自国中心主義(今日的にいえば「ジャパン・ファースト」)は、グローバリズムの経済的合理性で抑制できるかもしれない≫(251頁)からだ。こうした教育を実施していくうえで、辻田さんは文科省の役割に期待しているようだ。

本著ではまた、森友学園の話も触れられる。疑惑としての「モリカケ」の話ではなく、あくまで森友学園の教育方針に関する話だ。園児たちに教育勅語を暗唱させ、「天皇陛下ありがとう~」と言わせる森友学園は、一見保守的に思えるが、辻田さんによれば、戦前では天皇教育勅語があれほど「カジュアルに」扱われたことはなかったという。森友学園は、意外にも戦前と断絶した学園であったのだ。

上述の「HINOMARU」批判もそうだが、こういうユニークな指摘ができるところに、僕は辻田さんの評論家としてのセンスの良さを感じる。

 

本著が刊行された2017年春の時点ではまだそれほどでもなかったが、2018年夏の今日、文科省はまさに不祥事のオンパレード、幹部の相次ぐ逮捕で大揺れである。

文科省は解体、その歴史は百五十年でピリオド、となってしまうのだろうか。実のところ僕はそれでもべつに構わない(!)と思っているのだが、さて、文科省よ、それでも本当にいいのか?

 

文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年 (文春新書)