Furusawa Keisuke's blog

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書評『環境保護運動はどこが間違っているのか?』

環境保護運動ってヤツは、言っちゃ悪いが、なんか胡散臭い。

 

たとえば、太陽光発電原発と違って「自然に優しい(=環境を破壊しない)、人にも優しい(=危険な事故を起こさない)」というので、3.11以降全国でソーラーパネル設置の動きが広まったが、さて実際のところはどうだったか。

ソーラーパネル設置のため山林が伐採される、そのせいで景観が破壊される、想定外の大雨のせいでパネルが流されてしまう(=想定外の災害に弱いという点では原発と同じ)、さらには流されたパネルのせいで近隣住民に感電のおそれがある、と散々なシロモノであった。

よくもまぁ、こんな厄介なものを「人にも自然にも優しい」などと喧伝できたものだ。

 

本日取り上げる本は、タイトルもずばり『環境保護運動はどこが間違っているのか?』(宝島社)である。著者は、物理学者の槌田敦さん。

本著は、槌田さんが今日の環境保護運動のかかえる諸々の矛盾を指摘していく、という内容の本である。

 

まずは、リサイクルの話から。槌田さんは、市場原理に基づかないボランティア活動が経済システムを破壊している、という話からはじめている。

一体どういうことだろう。

たとえば、廃油回収のボランティア。家庭で要らなくなった廃油をタダでリサイクル業者にあげるというボランティアだ。これのせいで、それまで廃油の回収を仕事としていた業者たちが廃業に追い込まれてしまったという。本著には、これまでリサイクル業者から廃油を回収してもらっていたコックさんが、ボランティアのおかげで廃油は十分あるからもうこれ以上はいらないと言われ、廃油回収を断られたという事例が紹介されている。

これを読んで僕が思い出したのが、社会学者・古市憲寿さんが以前、雑誌かなにかで対談していた話であった。

日本のサッカーのサポーターは試合終了後、ちゃんと会場のゴミを拾うというので世界から称賛されている。マスコミはこれを、例によって「日本SUGEEEEE!!!!!!」的文脈で紹介する。

古市さんは、それは違うんじゃないか、とその対談のなかで指摘していた。もしかしたら現地ではゴミを回収するビジネスが成立しているのかもしれない。だとしたら、日本人サポーターがゴミを自分たちで回収してしまうことで、そうしたビジネスが破壊されるおそれすら考えられる――そう彼は言っていた。なるほど、そういう見方もあるのか、と感心したのをよく覚えている。

槌田さんは、もちろんボランティア活動全般を批判しているのではない。あくまで、上述の廃油回収ボランティアのような、既存のビジネスを破壊しうるボランティア活動を批判しているのである。

 

本著での槌田さんの指摘はとても刺激的だが、すべてがすべて面白いというわけではない。

あまりにマユツバの話も多く、いわゆる「トンデモ本」すれすれと言えなくもないのだ。たとえば原発は火力と比べて効率が悪いからダメ、地球温暖化の原因はCO2じゃない、という話は正直どうかと思っている。

それでもやはり、面白い箇所は面白いのだ。たとえば、個人の倫理ばかりに立脚していてはダメ、という指摘がそれだ。

個人の倫理というのは、たとえば「一人ひとりが頑張れば、たとえば自動車に乗らないでできるだけ歩くなどの努力をすれば、いずれ実を結ぶはずだ」といった発想のことを指す。

槌田さんは、こうした個人の倫理ではなく、社会の倫理で環境問題を解決しようと提案している。つまり、「あれを制限しろ、これを禁止しろ」というルールを、個人ではなく国や自治で決めよう、というのだ。

たとえば、オゾンホールの問題。原因となるフロンガスをなるべく使わないようにしましょうね、と個々の消費者に呼びかけるのではなく、まず国が率先してフロンガスを規制してしまおう、というわけである。

このように、個人の頑張りに過度に依存しない道を、槌田さんは奨励している。個人の頑張りにはどうしても限界があるからだという。うむ、これには僕もまったく同意見だ。

 

人間は、地球なくしては生きていけない。そのため、環境保護運動はこれまで暗黙のうちに「神聖にして不可侵」と位置づけられてきたように思う。

だが、人間のやることなすことが「神聖にして不可侵」などというのは、本来あり得ないことなのだ。

環境保護運動とて、所詮は人のわざなのである。我々は、これらの運動にもっと懐疑の眼差しをむけるべきなのではないか。

 

環境保護運動はどこが間違っているのか? (宝島社新書)

環境保護運動はどこが間違っているのか? (宝島社新書)