Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

2018年8月のまとめ

気候

暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い

いやぁ~今月も、昨月に引き続き、猛暑に苦しめられた。中旬に入って少し涼しい日が続いたのでホッとしたが、それもつかの間(w)、また暑くなった。もう下旬だというのに東京ではあいかわらず猛暑日と熱帯夜が続いている。なんとかならないものか、マジで(;^ω^)

もうひとつ、これも猛暑と関連するのだろうが、ゲリラ豪雨にも悩まされた。中旬のある日、僕の住む東京はひどいゲリラ豪雨に見舞われた。このときはとにかく雷が凄くてまいった。僕の近所でこんなにも雷がひどかったのは、4年前の6月以来のことだ。

下旬に入っても同様にひどいゲリラ豪雨があり、なんと今日(31日)に至ってもなお、比較的小規模なゲリラ豪雨に見舞われたほどである。まったく、勘弁してもらいたいよ……。

すでに多くの人が感じていることと思うが、今日のゲリラ豪雨はもはやかつての夕立とはまったく異なる。そんな風流なものではもはやない。大雨、落雷など、ゲリラ豪雨は都市に住む人々の生活を麻痺させ、危害を及ぼしうる、極めて危険な自然災害である。

ゲリラ豪雨という言葉は雅じゃない。夕立と言いましょう」との意見をたまに目にするが、ゲリラ豪雨の降水量、被害規模などがかつての夕立とは比較にならない以上、ゲリラ豪雨は夕立と同義語ではない。安直に言い換えるのには僕は反対だ。

 

終戦記念日

僕の職場には、お盆休みという概念がない。したがって、世間一般でいうお盆の時期にも僕は普段どおり出勤していた。人からは「大変ですねぇ」とよく同情されるのだが、実のところ、僕は内心ではむしろありがたいとすら思っているのだ。

皆さんは8月15日の靖国神社に行ったことがあるだろうか。行ったことのある人ならよく分かると思うが、近年の8.15の靖国はもはや完全に“祝祭”の場と化してしまっている。旧日本軍のコスプレをした人々がどこからともなく現れ、あら、こちらはコミケ第二会場でしたか、と思わず冗談すら言いたくなるほどだ。

僕は、そういう騒がしい靖国神社には行きたくない。だからその日にあらかじめ仕事が入っているほうが、むしろありがたいのだ。

いやべつに、仕事が休みでも靖国神社に行かなければそれで済む話なのだが、僕のように日頃から保守っぽいことを書いていて、実際に保守系の知人、友人も多い人間はどうしても「8月15日に靖国に行かない」ことへのエクスキューズを求められる。その点、はじめから仕事ならば気がラクなのだ。

今年の8月15日も、靖国は例によって“盛り上がった”ようだが、僕はこの日もごく普通に、普段通り仕事をこなしていた。平和な日常だった。良かった。

 

訃報

アメリカのジョン・マケイン上院議員が死去した。81歳だった。

www.bbc.com

マケイン議員は共和党の重鎮であり、その思慮深く、紳士的な態度から、言うなれば「保守の良心」として、リベラル派からも広く尊敬を集めた。

それをものがたる逸話がある。ちょうど10年前の、大統領選挙でのことだ。当時、マケイン議員は共和党候補として、後に大統領となる民主党オバマ候補と争っていた。

ある選挙イベントでのこと。共和党支持者の女性が「オバマはアラブ人なので信用できない」と言うのに対し、マケイン議員は彼女を遮るように「それは違います。彼はまっとうな家庭人であり、市民です。彼とは基本的な問題でたまたま意見が異なるにすぎないのです」( “No ma’am. He’s a decent family man and citizen that I just happen to have disagreements with on fundamental issues, and that’s what this campaign’s about.”)と明言したのである(※)

このように対立候補すら称える彼の紳士的な態度が、党派の垣根を超えて多くの人々の心をつかんだのであろう。

 

※個人的には、「たまたま」(happen to)という言葉がすこし引っかかる。

我々は、自らの政治的態度を必然的なものと考えがちだ。だが、本当は偶然の産物ではないのか。たとえば現在「辺野古移設ハンターイ!」と叫んでいる人でも、もし戦前に生きていたら「御国の為に戦ってくれる兵隊さん、ありがとう!」と叫んでいたかもしれないし、終戦直後に生きていたら「マッカーサー元帥ありがとう!」と叫んでいたかもしれない。我々の政治的態度は、時代など環境の要因によって大きく影響される。

08年大統領選ではマケイン候補は「たまたま」共和党から出馬してオバマ候補と戦ったが、もし運命の歯車がちょっとでも狂っていれば、彼はあるいは民主党から出馬して共和党オバマ候補と戦っていたかもしれない。

彼の「たまたま」という言葉からは、そこまでの含蓄を感じる。

 

昨今、共和党の変質が叫ばれるようになって久しい。オルタナ右翼(米国版ネトウヨが影響力を強めており、党全体が「ネトウヨっぽい」雰囲気へと変わりつつあるのだ。

マケイン議員の死去は、共和党にとって、米国の保守にとって、ひとつの時代が終わったことを象徴づける出来事であった。

 

女装

なんと、女装者が痴漢されるという事件が発生した。

news.nifty.com

報道によると、犯人の男は女装者に無理やり抱きつき、胸を揉んだうえにキスまでしたという。事件当時、男はかなり泥酔しており、女装者の性別が分からなかったのだろう、と記事は伝えている――それはどうだろうか。昨今の女装者のレベルは極めて高く、酔っていなくても性別は分からなかったのでは、と僕はみている

そうか、ニュース的には女装は「女性の格好をしていた」というふうに表現するのか、とひとつ勉強になった(w

……という冗談はさておき、ネット上で被害者が女装者であることを笑いものにする声も散見されるのは感心しない。まさに上掲の記事も書いているように「被害者が男性であろうが女性であろうが、酔っ払いの中年男性に突然抱きつかれ、胸を揉まれキスなどされれば、心に大きな傷を負うことになるだろう。このような行為は人間の尊厳を踏みにじるもので、到底許されるものではない」からだ。

 

映画

今月も、例によって映画(DVD)を30本鑑賞した。

今月はわりといい映画が多かったが、そのなかでベストを挙げるとするなら、『アレクサンドリア』だ。古代エジプトの都市・アレクサンドリアを舞台に、女性哲学者・ヒュパティアの生涯を描く。キリスト教反知性主義、女性の人権とライフスタイル、惑星の軌道の謎とその探究、など複数のテーマを盛り込んだ、見応えのある作品だ。古代の地中海世界もCGを使ってリアルに再現されており、その点も感心させられた。

このほか、『LION/ライオン ~25年目のただいま』も良かった。子供時代に迷子となりそのまま海外へと養子にもらわれたインド系の青年が、なんとグーグルアースを使って生まれ故郷を割り出すという、いかにも現代的なお話である。青年はオーストラリアで育ち、経済的には何ひとつ不自由はなかった。それでも彼は満ち足りないものを感じ、故郷探しに乗り出した。近代人は物質的幸福だけでは飽き足らず、自らのルーツをも探し求める存在なのだ、とあらためて実感した。

ギリシャ映画界の巨匠・アンゲロプロス監督の『アレクサンダー大王』も良かった。本作で描かれる共産主義の暴力は、連合赤軍事件を経験した我々日本人にも「刺さる」はずだ。

『はじまりの旅』は、左翼活動家のお父さんによる子育てを描いた作品。僕はもちろん左翼活動家ではないけど、本作のお父さんの子育てのやり方を見て、「あ、こういう育て方、いいな」と不覚にも思ってしまった(w

『私たちの幸せな時間』は、心にトラウマを負った女性と死刑囚の男性との心の交流を描いた韓国映画。こういう作品はなかなか言葉ではうまくその良さを説明できないので、皆さんもこれを機にぜひ本作を見てみてほしい。

『エレファント・マン』は、19世紀イギリスに実在した奇怪な容貌の青年の話。デヴィッド・リンチ監督のおかげで、単なるヒューマンドラマ系の作品とは違う、なんとも形容しがたい禍々しさが本作に添えられた。もちろん良い意味で、である。

一方、今月の栄えある(?)ワーストは、『パッセンジャー』。事故により人工冬眠から目覚めてしまった男が、一目ぼれした美女をも勝手に人工冬眠から目覚めさせてしまう。真相を知った美女は当然激怒するが、なんだかんだで最後はくっついてしまう。要は男の身勝手さを描いた作品なのだが、そうした身勝手さに対する反省の視点が本作には見られない。終始、男の妄想を垂れ流しているだけの、実にキモい作品だ。

 

今月も本をたくさん読んだ。

今月読んだなかでのベストは、カトリック司祭・来住英俊さんの『キリスト教は役に立つのか』だ。僕はこれまで、キリスト教というのはもっと、神と人間との間にある断絶を強調する宗教だと思っていたのだが、来住さんによれば、まるで夫婦が付き合うような感覚でイエスキリスト者が付き合うのがキリスト教なのだという。あ、そうなのか、と少し意外に思った。もっともカトリックプロテスタントとでは、また考え方が異なるのかもしれない。

比較文学者・小谷野敦さんの『宗教に関心がなければいけないのか』も良かった。そもそも「宗教に関心がなければいけないのか」などと堂々とタイトルにして世に問えるところからしてカッコいい(w)。もちろん、宗教に関心などなくとも一向にかまわないのである。本当に宗教に関心のある人間というのは、関心を持つべきか否かなどと迷うまでもなく、まるで磁石が吸い寄せられるかのように、否応なく宗教へと吸い寄せられてしまうものなのだ。もし宗教に関心を持たずとも生きていけるというのであれば、それに越したことはないのである。