Furusawa Keisuke's blog

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書評『禅僧が教える 心がラクになる生き方』

さぁ、本日ご紹介する本は、本ブログではもはやおなじみ(w)曹洞宗の僧侶・南直哉(みなみ・じきさい)さんの『禅僧が教える 心がラクになる生き方』アスコムだ。

 

本ブログではこれまで、たびたび南さんの著作を取り上げてきた。だが不思議なもので、南さんの話の面白さをうまく言葉で伝えられたという手ごたえが、なかなかないのだ。これはちょうど、「すごくいい映画だったんだけど、言葉ではその良さをうまく説明できない」というもどかしさとよく似ている。

そこで今回は、書評の書き方としてはいささか邪道ではあろうが、読んでいて面白いと思った箇所をもっぱら引用して皆さんにご紹介するとしよう。

皆さんも、僕のような一介のブロガーの話なんぞよりも、直哉和尚の“法話”のほうを聞きたいでしょう?(w

それでは

 

≪自分という存在は、一定の条件の中でしか成立していません。条件が変われば状況が変わり、その決断は通用しなくなります。

だから、すべてを自分で決めて、自分で変えられると思うのは大間違い。そう思っていればよいのです。≫(57頁)

我々が住むこの近代社会では、自己決定が称揚される。「すべてを自分で決めて、自分で変えられる」のが理想だと皆思っている。南さんは、しかしながらそれに疑問を投げかけているわけだ。「そもそも、自分なんて本当にあんの?」と。

 

≪今の自分と、夢との距離を見極めることができるなら、そこへ至るまでの手段を考えることができます。

 その夢を叶えることが、本当に可能かどうか。

 そのために、リスクと犠牲を払う覚悟があるのか。

 それが見えてきます。

 そこに至るまでの道筋を具体的にイメージできなければ、漠然と「〇〇になりたい」と夢見ていても先はありません。

 本気で夢を叶えたいのなら、むしろ「目標」に変えたほうがいいのです。≫(91‐92頁)

南さんは以前取り上げた書籍でも、世間一般では称揚されがちな「夢を追う人生」を批判していた。

「夢を追う」というのは長い階段を一気に駆け上がることと似ている。そんなの危険だ。まずは、階段を一歩一歩着実に歩んでいくこと、すなわち十分に現実的な小さな目標をひとつひとつ実現していくこと。それこそが大切なのだ。南さんの盟友でもある評論家の宮崎哲弥さんも、なにかの雑誌の連載にてまったく同じことを書いていたのを僕は記憶している。

 

≪私が考える不動心とは、揺れてもいいがこぼれない心のこと。ヤジロベエのようにゆらゆら動いたとしても、軸は一点に定まっている心のことです。

 ヤジロベエはどんなに大きく揺れても、決して台から落ちません。見事なものです。 不測の事態に動揺したり、理不尽な目に遭って怒りがこみ上げたりしても、しなやかに揺れて、またスッと元に戻る。

 言い換えればそれは、平均台の上をバランスをとりながら歩くような感覚に近いかもしれません。自分が決めた道から外れなければいいのですから、その間でなら、揺れてもまったくかまわないわけです。≫(123‐124頁)

人からは意外だとよく驚かれるのだが、実をいうと僕は、結構怒りっぽい性格だ。だから「感情をなくせ」なんて言われても、僕にとってはどだい無理な話である。

ところが南さんは、感情をなくせとは言っていない。人間である以上、感情はなくせないと彼は言う(当然だ)。だが、その振れ幅を一定にとどめバランスをとることならば、努力次第でできると言うのだ。

なるほど、これなら僕にもできそうかな、と思った。さっそく、実践してみたい。

 

≪嫉妬に呑み込まれているときには、そこに「勘違いした所有欲」があると気づく必要があります。そうしないと、嫉妬から解放されることはありません。

 誰かに嫉妬したときは、その状況が本当に不当なのかと考えてみてください。

 たいていの場合は、実力どおりのことが起きているだけです。

「そのポストには自分がふさわしい」と考えていたかもしれないが、人事課はそうではなかった。「彼女は自分を好きになるべきだ」と思っていたかもしれないが、彼女自身は別の相手のほうがよかった。

 本人は不当だと思っていても、冷静に見てみれば不当でもない。自分の認識事態に錯覚があっただけ。≫(149頁)

怒りっぽいのに加えて、僕は嫉妬深い人間でもある(我ながら実にメンドクサイ人間だな~w)。嫉妬をなくすには、さてどうすればいいだろう。

南さんは、嫉妬というのはたいていの場合当人の勘違い(!)にすぎず、実際には実力どおりのことが起きているにすぎない、と言っている。

なるほどたしかに。僕はつい「どうして〇〇なんかがチヤホヤされているんだ!」と嫉妬に駆られてしまうが、実はその〇〇さんには、僕が気づいていないだけで、ちゃんと実力があるのかもしれない。

そう考えれば、あるいは嫉妬をなくすことだって可能なのかもしれない。難しそうだけど(w

 

≪「理解」という言葉の意味を正確に言うと、「合意された誤解」です。

 もし、お互いに理解し合えたと思うのであれば、それは、「誤解で合意した」だけ。実のところは、それぞれ自分の都合で解釈し合っているにすぎません。≫(155‐156頁)

まったくその通りだと思う。僕は最近、「コミュニケーション」なんて実は成立不可能なんじゃないか、みんな成立していると勝手に思い込んでいるだけで、実は個々の人間は自らの解釈世界のなかに閉じ込められているだけにすぎないのでは、というふうに考えているのだ。

 

≪私が思うに、今の自分が残るなら、極楽は平和すぎて、そのうち飽きてしまうはずです。

 どこへ行っても蓮の花が咲いていて、天女が舞っているだけですから。

 地獄もすぐに慣れます。針山に寝かされようが、熱湯に沈められようが、もう二度と死なないとわかれば、そんなものの痛さはたちまち神経痛と変わらなくなるでしょう。≫(237頁)

他宗教批判になってしまって恐縮だが、パレスチナの青年たちは、死後、天国に行ってそこで美女たちと酒池肉林の毎日を過ごせる、とテロ組織に吹き込まれて、自爆テロを敢行するのだという。その話を聞いて、「あぁ、そんな天国、僕だったら三日で飽きるだろうな」と僕は思った。

人間は永遠には生きられない。「そうですね、肉体にはどうしても寿命がありますものね」と思われるかもしれないが、そういう意味ではない。かりに肉体から精神が離れて、純然たる精神だけの存在になったとしても、その精神はおそらく何万年も何億年も理性を保ち続けることはできない。途中で必ず発狂するはずだ。

天国で永遠の命を授かっても、それは人間にとって究極的には救済にならない。むしろ、ある時点で自分という存在が消えてしまうことのほうが、救済になるのではないか。言うまでもなく、仏教は自分を消すことを究極の目標に掲げる宗教である。

 

 

……いかがだったろうか。引用にとどめると言ったわりには、結構僕自身が喋ってしまったという印象だ(w

面白そうだなとすこしでも感じた方は、ぜひ本著を手に取って読んでみてほしい。

 

禅僧が教える 心がラクになる生き方

禅僧が教える 心がラクになる生き方